十年越しの恋心、叶えたのは毒でした。

碓氷雅

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願うは易く、叶うは難し

#7

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 翌日、朝九時ちょうどに藤波は顔を出した。取調室で待たせている楠木のところへ案内する。

「調子はどうですか、楠木さん」
「…」

 眠れていないのか目の下には濃い隈ができており、楠木は見るからに憔悴していた。

「まずはこの薬を飲んでください。いつもの安定剤です。…刑事さん、お水をもらえますか」

 言われた通り準備すると、楠木は言われるがまま薬を喉に流した。

「お話しできますか。…眠れていないようですね、どうすればお話しできるかわかりますか」

 ぼそぼそと楠木が言った言葉は高橋には聞こえなかったが、耳を傾け聞く藤波はうんうんと少々大袈裟気味に頷く。やがて「分かりました」と席を立った。

「刑事さん。彼を私の診療室に連れてこれませんか」
「…先生の診療室なら話すと?」
「ええ。本人がそう言ってます。今日でなくても…いえ、今日でない方がいいでしょう。ここで診療することはできたので睡眠薬を処方します。今夜はそれを飲ませて寝かせてください。明日は体調も少しは良くなりましょう。…連れてきていただけますか」
「…快諾はしかねますので、おって連絡します」
「ええ、わかりました。薬は処方箋と一緒に看護師に届けさせますので。それでは。楠木さん、また明日」

 申し訳程度に頭を下げた楠木はしかし、何も言わず藤波を送った。一言も口にしなかった楠木がぼそりとでも言葉を発しただけでも一歩前進かと高橋は思う。けれど何かが引っかかる。何かを間違ったのか、はたまた無責任な不安か。心の隅にこびりついた何かはどうやら取れそうにない。

 出入り口まで藤波を案内し、その背を送る。

「…藤波先生」車に乗りかかった藤波を止めた。
「なんでしょう」
「薬の件ですが、うちの若いのに取りに行かせますので」
「いやいや、お忙しいのに…」
「それを言うなら看護師さんもではないですか。うちには手の空いてるやつもいますので。…昨日、一緒に伺った男です。夕方取りに行かせます」
「…お気遣いどうも。では昨日の方に渡せばいいのですね」

 わかりましたと頭を下げ、藤波は車に乗った。駐車場から出て行くのを見送って、しわくちゃな紙に書かれた番号に電話を掛けた。

「…すまない。少し、頼まれてくれないか」


 昨夜は何も手を付けなかったご飯を楠木が少しづつ食べていると聞き、胸をそっとなでおろしていると携帯が鳴った。ショートメールには簡潔に、『駐車場まで』と書かれていた。

 用事で出てくると同僚に告げ、階段を下りた。駐車場の隅に停められた入間の車の助手席に乗り込む。

「はい、これは科捜研の方に渡した方がいいね」開口一番、処方箋と薬の入った袋を渡しながら入間が言う。
「科捜研?」
「きっと、これは正規ルートの物じゃないだろうからね」
「ああ…それで処方箋が入ってるのか」
「若手だと思って侮ったんだろうね」

 処方箋は本来、医者から渡されそれの通りに薬剤師が薬を正しく提供するための、いわばオーダー表のようなものだ。薬と引き換えに処方箋は薬剤師が管理し、一定期間が過ぎれば廃棄される。袋の中に薬と処方箋が入っているということは、この薬は薬剤師を通していないのだろう。その処方箋には睡眠導入剤と書かれている。

「分かった。ありがとう」
「どういたしまして。…ところで今夜も空いていないかい」
「…仕事がある」
「そっか。…偉いね。頑張って」

 入間はさも当然かのように頭を撫でる。深呼吸をしながら高橋は甘んじて受けた。

「…またな」

 わざわざ車を降りて助手席のドアを開けようとした入間を制止して見送った。そうでもしなければ自制が効かなくなりかねない。

 両頬を叩き、気持ちを切り替えて科捜研の鳴宮に薬を投げた。

「…なにこれ」
「成分の分析をお願いします。できれば今日中に」
「部下は上司に似るのね。えっと…高橋くん? 今何時か、わかるかしら?」

 目を三日月にして笑う鳴宮は年季の入った隈が目立つ。寝不足が続いているのだろうが、それにしては肌荒れがない。そのアンバランスさが不気味にすら思えた。

「え…17時、半すぎですね」
「そう、で? いつまでにって?」
「今日中…に、」

 深くなった笑みに背筋が凍るような気がした。

「そこまでにしてやれ」開きっぱなしの戸を叩いて入ってきた警部は時間がない、と鳴宮に言った。
「はあ?」
「高橋、捜査会議だ。早く行け」
「はい!」

 警部の助けに感謝し、その場を駆けて離れた。


 プロジェクターが用意された薄暗い部屋には、むさくるしいほどの男たちが集まっていた。音をたてないように一番後ろの席に座り、手帳を出す。

「捜査会議を始める。まずは一班、報告を」

 現場の聞き込みと楠木の周辺人物の捜査結果が次々に上がっていく。並べられたいくつもの情報はすべて、楠木がどれだけ孤独な環境にあったかを物語っていた。故郷は遠く離れた地方で、両親はそこに住みすぐに会いに行けるような距離ではない。かといって、こちらに見知った人間がいるわけでもない。当然薬の提供者は限られ、正規の薬品か疑わしいものを寄こす医者が容疑者としてあがった。

「どれも状況証拠だ。これでは逮捕状はおりない。決定的な証拠を見つけてこい!」

 はい! と野太い男どもの声が地を揺らす。

「それと、楠木の高校時代の話だが…」

 同じ高校に通っていたとはいえ、高橋は噂でしか楠木を知らなかった。Subドロップこそなかったものの、その寸前まで追い込まれ自殺を図ったこと数知れず。高校生であったこともあり児童相談所にはなかったが、警察には数回にわたり記録されていた。さらにこのことを地方の両親は知らなかったという。

 刑事責任の観点から楠木の弁護士は両親に連絡した。その電話口からは「慧人に限って…」と半信半疑な言葉が返ってきたらしい。親子関係はいたって良好で、毎月の仕送りを欠かさず手紙もまめに書き、その内容はどれも親として安心できるものだった、と。

「当時の教師、担当のカウンセラーからいじめの証言はとれてる。聞く限り、決して容認できるようなものではない。…時効はない。本件の被害者の捜査を並行して行う。それぞれ手分けして証拠集めに行け! どっちもけりをつけるぞ」

 またも、はい! と部屋は震える。正義感にあふれる警部らしい。10年も前の行き過ぎたいじめを過去のものとせず立件するつもりだろう。書類送検が関の山だろうが、それを分かってしているのだから、その決定には感服する。「解散」と言われ、部屋を出て行く人の流れに身を任せ、高橋も帰路についた。
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