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第4章 苦海の章
第180話 小川安政の戦い
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松平方の総大将・松平蔵人佐家康と一向一揆方の実質的な総大将・空誓が直に干戈を交えることになったのは野寺本證寺北東に位置する小川の地。
ここはかつて、織田軍との戦いで石川安芸守忠成の次男・石川伝太郎一政が戦死した地でもある。
そんな因縁の地で家康は一向一揆との戦いに決着をつけるべく、決戦に臨んでいた。
「殿、あれなるは桜井円光寺の住持の順正。あちらが野寺本證寺の住持である空誓にございます」
「小平太、あの二人が怪力との風説は耳にしたことがあるか」
「はい。されど、真偽のほどは分かりかねまする」
「そうか。偽りであるならば、ただちに白兵戦へ持ち込むところであるが、偽りと断じられぬならば真であると想定し、対処するほかないか」
小姓の榊原小平太からの返答を聞き、空誓と順正の怪力は真であると仮定した家康はただちに騎馬隊と鉄砲隊へ指示を飛ばす。
家康よりの指示を受けた酒井や本多、石川、近藤、今村、安藤など騎射に優れた松平軍の精鋭たちが弓を片手に騎乗し、足軽らは冷たく銃口を僧兵らへと向ける。
「よいか!彼らは世間に聞こえる怪力じゃ!駆け寄っての打ち物での勝負は無益!よって、ただただ囲んで弓鉄砲を射掛けて討ち取ってしまえ!」
怪力の持ち主へ無策に近寄っては屍を重ねるだけ。ならば、飛び道具を駆使して仕留めよ。それこそが家康から下された号令であった。
その主君からの号令に応えるように、鉄砲隊から鉛玉が轟音とともに発射され、容赦なく僧兵や門徒武士を撃ち倒していく。
そして、騎射に優れた松平の精鋭たちは流鏑馬でもしているかのように矢を射かけて横を通り抜けたり、走らせた馬の上から放つ弓の妙技を見せつけ、競い合うかのような戦いぶりを見せる。
「殿、皆はしゃいでおりまするな」
「ははは、わしの前じゃからの。日ごろの鍛錬が成果、見せるは今と心に決めておるのであろう。可愛い奴らではないか」
騎馬で突撃しながらの弓矢での攻撃と絶妙な頃合いで放たれる鉄砲での攻撃に、野寺本證寺の一揆勢は完全に翻弄されてしまっていた。そして、戦う中で最も恐ろしいことは、目の前の敵にばかり気を取られてしまうことである。
「上人!水野と藤井松平の旗がどこにも見当たりませぬぞ!」
「なっ、どこへ消え失せたか……!」
見えていたはずのものが見えなくなる。それと同じくらい、人の心をかき乱すのはその見失ったものが思いも寄らぬところから出現した時であろう。
「頃は良し!一揆勢は正面ばかり見ておる!我ら水野勢は今より敵側面を衝く!後れを取るでないぞ!かかれっ!」
いつの間にか側面へと回り込んでいた水野下野守信元率いる水野勢が一揆勢の隙だらけの横っ腹へ突撃を敢行。これに後れまいと反対方向から松平勘四郎信一率いる藤井松平勢が突撃を開始する。
「我らも後れを取ってはならぬ!我に続け――」
松平勘四郎自ら槍を手に取り前進し始めた刹那、一発の銃声がその号令を遮った。次の瞬間、左股が尋常でない熱を帯びていることに気づいた松平勘四郎は撃たれたことを悟った。
「見よ!藤井城の松平勘四郎を撃ち倒したぞ!」
鉄砲を放った門徒武士が嬉々として味方に自慢をし始める。しかし、次の瞬間には松平勘四郎は起き上がり、再び前へと一歩を踏み出していた。
「撃ったのは貴様か!今そこまで行って八つ裂きにしてやるで、待っておれ!」
鬼の形相で自分を狙撃した門徒武士を睨む松平勘四郎の気迫たるや凄まじく、一揆勢はそれだけで引き退いていく。
それから松平勘四郎率いる藤井松平勢の攻勢は一層強まり、反対側から攻勢を仕掛ける水野勢と阿吽の呼吸で一揆勢を追い詰めてゆく。無論、その頃には家康の号令で松平勢も弓鉄砲での戦いを捨て、槍や刀を揃えて突撃を開始し、眼前の一揆勢を屠り始めていた。
「上人、これはいかん!味方は壊走しだしましたぞ!」
「くそっ、これでは針崎、土呂、佐々木に続き、我らも同じ苦杯を嘗めさせられることになってしまうではないか!」
「上人、お気を静めてくださいませ!さっ、ここは本證寺へ戻りましょうぞ」
平静を装う仮面が外れた空誓を逃がそうとする順正であったが、すでに体の至る所を負傷し、到底追撃を振り切ることなどできなかった。
「上人、拙僧はこれまでのようです」
「な、何を申されるか。ここは共に落ち延びようぞ」
「上人はここで死んではならぬ御方!この順正がここで敵を防ぎ止めますゆえ、上人は先をお急ぎくださいませ……!」
自分がいては自分ばかりか、まだ若い空誓までも道連れにしてしまうと考えた順正は近くの僧兵らに頼んで空誓を強引に本證寺へと連れていかせる。
「上人。後のこと、何卒お頼み申し上げます……!」
空誓に背を向けた順正の視線が捉えたのは、桜井古墳群を構成する古墳の一つとされる加美古墳であった。
順正は円墳へ登ると仁王立ちとなり、本證寺を目指す松平・水野連合軍へと吼えた。
「野寺本證寺の空誓とは我がことなり!今ここにこの腹かっさばいて浄土へ往生せん!この有様、末代まで語り継ぐがよいわ!」
空誓の身代わりとなることを決めた桜井円光寺の住持・順正は壮絶な切腹を見せつけ、加美古墳の丘の上から真っ逆さまに飛び降りたのである。
「殿!今、空誓と名乗る僧侶が腹を切って加美古墳より飛び降りたと!」
「馬鹿な!空誓が自害したと!?」
家臣らが口々に申す切腹して飛び降りた僧侶がまこと空誓であるのか。そこに疑問は残るが、本当に空誓であったのなら、住持を失った野寺本證寺を攻めることは家康としても気が引ける思いであった。
「よし、空誓が亡くなったとすれば、野寺本證寺まで攻め入る必要はなかろう。まもなく日暮れともなるゆえ、逃げる敵を追い討ちして岡崎城へ凱旋することといたす!」
家康は空誓が死んだと仮定して戦いは追い討ちのみに留めるよう指示を出した。そのことを藤井松平勢と水野勢にも伝達し、小川安政の戦いと呼ばれる合戦は終幕へと向かっていく。
「では、蔵人佐殿。我らは藤井城へ引き揚げまする」
「此度の合力、まことかたじけない。ひとまずは左股の傷を療養することに専念くだされ」
「お気遣いかたじけのうございます。然らば、傷の療養に努めまする」
当主・松平勘四郎が家康の気遣いに感謝し一礼すると、丸に酢漿草の旗を掲げた藤井松平勢が来た道を取って返し、藤井城への帰路につく。
同時に、追撃を終えた水野下野守率いる水野勢も家康のもとへ合流してきたのである。
「蔵人佐殿、ただいま戻り申した」
「首尾はいかがでござったか。当家は六十を超える首級を挙げてございますが」
「ははは、聞いて驚くないぞ。重臣の上田近正が一揆首魁の一人である鈴木弥兵衛を討ち取ったのじゃ」
「ほう、それはお手柄にございましたな。して、上田近正殿と申せば、岩崎城の一色丹羽家の出身ではござらぬか」
「よく存じておるな。丹羽右近大夫氏識殿の次男で上田近尹の養子となっておる者じゃ。今では当家の重臣として働いてくれておる」
桶狭間合戦直後からの加茂郡での戦いにおいて幾度か接触した岩崎城の一色丹羽家に連なる者の活躍をこの合戦で聞くことになる。思えば、あの折の敵が味方となり、味方が敵となっているとはなんとも皮肉な展開ではある。
「さて、伯父上。此度の戦はここまでにいたしたく。一揆勢もおとなしくなりましょうが、依然として某に楯突く者は多くございます。また援軍を要請させていただくことがあるやもしれませぬが、その時はよろしくお頼みいたします」
「うむ。承知した。何か不測の事態あらば、すぐにも苅谷へ早馬を飛ばして来るがよい。すぐにも駆け付けようぞ」
苅谷の頼もしい伯父の一言に安心した家康はそれから四半刻ほど立ち話をしたのち、それぞれ居城へ凱旋するべく、東西に分かれた。
かくして小川安政の戦いもまた、家康の勝利に終わった。ここしばらく家康が連戦連勝であることは、他の四ヶ寺の一揆勢や家康に対して挙兵した勢力へ知らせられ、反家康の気運は一気に衰退していくことになる。
そんな二月も半ばに差し掛かろうかという頃。
岡崎城と菅生満性寺の間に位置する唐澤の浄土宗寺院・光西寺に針崎勝鬘寺に立て籠もる一揆勢の首魁の一人・蜂屋半之丞貞次の姿があった。
同席しているのは蜂屋半之丞の義兄でもある隻眼の大久保七郎左衛門忠勝、現在大久保党を束ねている大久保七郎右衛門忠世の実弟・治右衛門忠佐の両名である。
「お二方、この度は某からの要請に応じていただき、ありがとう存じまする」
「構わぬ。そなたはすでに一度、我らが勝鬘寺を攻めんとした折に危機を報せてくれた。その借りを返す良い機会じゃと思い、こうして治右衛門とともにこの場を設けたのじゃ」
思いがけない大久保七郎左衛門の優しい語調に、彼の片目の視力を自分たちが戦を仕掛けて事で奪ってしまったことへの罪悪感に蜂屋半之丞は押しつぶされそうであった。
「ふふふ、半之丞。某がそなたらと戦うて片目を失いし事、気に病んでおろう」
「はっ、はい」
「気にするでない。片目を失ったのは何もお主らのせいではない。片目を失う隙があった己の不覚であったと某が反省せねばならぬことじゃ」
大久保七郎左衛門の言葉についに蜂屋半之丞ほどの大の男がむせび泣く。その光景を側でじっと瞑目して聞き入っていた大久保治右衛門がついに口を開いた。
「半之丞殿、此度我らを呼び出したのは和睦を仲介してほしかったからであろう。持参した和議の条項を披露してはもらえぬか」
「然らば、披露させていただく。一つ、一向宗寺院は元のままとし、寺内の不入権を認めること。一つ、一揆参加の人々を身分を問わず赦免すること。一つ、先の二つの条項を認めるならば、一揆は蔵人佐家康殿の味方となり、上野城主酒井将監忠尚を騙し討ちにする用意があること。以上三カ条にござる」
蜂屋半之丞が持参した一揆方からの和議の条項。大久保七郎左衛門・治右衛門の両名が最も難航すると感じたのは、二つ目の一揆参加者の罷免であった。だが、そこさえ何とか家康を納得させられれば、和睦は一気に進展するだろう。
それが両名の見立てであり、そのことを蜂屋半之丞に申し伝えたうえで、明日にも大久保党の長老である常源より家康へ伝えることを約束し、その日は別れたのであった。
そうして迎えた翌日。真冬よりも寒さが和らぎ、春の到来を予感させる快晴の中で、常源こと大久保新八郎忠俊が家康へ一向一揆との和睦を勧めるべく岡崎城へ登城したのである。
「殿、常源にございまする」
「おお、よくぞ参った。話は先に七郎左衛門より聞いてもおる。なんでも、わしに申したきことがあるとか」
「はっ!先日、娘婿の蜂屋半之丞より降伏を願う文が某のもとへ届きました。加えて、一揆方も条件次第では和睦に応じる姿勢であるとのことゆえ、その条件をお伝えに上がった次第」
常源は懐より一揆方より提示された和議の条項を書き写した一枚の和紙を家康へ献じた。家康はそれを小姓の手を介して受け取ると、記された条項へと目を通す。
「一揆に加わった者共を助けよとは、坊主どもも偉そうなことを。わしが歯向かった不届き者を許すとでも思っておるのか。常源、この条項では和議に応じることは断じてない。一揆方の生殺与奪の権があるのはこちら側。わしはこのまま一揆方を攻め続ければ勝利は揺るがぬというに、これまで通り寺へ不入権を認め、一揆に加担した者共まで助ける義理はない。わしに背いた時点で情けをかけるつもりなど毛頭ないわ」
「されど、殿。一揆が蜂起してより数カ月。敵味方ともに疲弊している今、もし今川や武田が攻め込んで参ったならば、ひとたまりもありませぬ。これ以上、無益な争いで血を流すことだけは、どうかなさらないでいただきたく」
「分かった。これまでの合戦で一番の功績を挙げた大久保党の長老からそうまで言われては応じるよりほかない」
「では!」
「じゃが、重ねて申すが、今の条項では和議に応じることなどできぬ。今一度、条件を練り直すよう寺側へ伝えよ。話はそれからじゃ」
――敵は一向一揆だけではない。
それを指摘されたこともあり、家康は一揆方との和睦交渉の席に着いた。このことは常源老人の功績であり、大久保党を仲介として家康と一揆方の間で条件の擦り合わせが行われていく。
結果、『一揆に参加した諸侍の助命』、『寺や僧たちは元のままにする事』、『一向一揆の解体』といった条件で和議は締結されていくのであった。
ここはかつて、織田軍との戦いで石川安芸守忠成の次男・石川伝太郎一政が戦死した地でもある。
そんな因縁の地で家康は一向一揆との戦いに決着をつけるべく、決戦に臨んでいた。
「殿、あれなるは桜井円光寺の住持の順正。あちらが野寺本證寺の住持である空誓にございます」
「小平太、あの二人が怪力との風説は耳にしたことがあるか」
「はい。されど、真偽のほどは分かりかねまする」
「そうか。偽りであるならば、ただちに白兵戦へ持ち込むところであるが、偽りと断じられぬならば真であると想定し、対処するほかないか」
小姓の榊原小平太からの返答を聞き、空誓と順正の怪力は真であると仮定した家康はただちに騎馬隊と鉄砲隊へ指示を飛ばす。
家康よりの指示を受けた酒井や本多、石川、近藤、今村、安藤など騎射に優れた松平軍の精鋭たちが弓を片手に騎乗し、足軽らは冷たく銃口を僧兵らへと向ける。
「よいか!彼らは世間に聞こえる怪力じゃ!駆け寄っての打ち物での勝負は無益!よって、ただただ囲んで弓鉄砲を射掛けて討ち取ってしまえ!」
怪力の持ち主へ無策に近寄っては屍を重ねるだけ。ならば、飛び道具を駆使して仕留めよ。それこそが家康から下された号令であった。
その主君からの号令に応えるように、鉄砲隊から鉛玉が轟音とともに発射され、容赦なく僧兵や門徒武士を撃ち倒していく。
そして、騎射に優れた松平の精鋭たちは流鏑馬でもしているかのように矢を射かけて横を通り抜けたり、走らせた馬の上から放つ弓の妙技を見せつけ、競い合うかのような戦いぶりを見せる。
「殿、皆はしゃいでおりまするな」
「ははは、わしの前じゃからの。日ごろの鍛錬が成果、見せるは今と心に決めておるのであろう。可愛い奴らではないか」
騎馬で突撃しながらの弓矢での攻撃と絶妙な頃合いで放たれる鉄砲での攻撃に、野寺本證寺の一揆勢は完全に翻弄されてしまっていた。そして、戦う中で最も恐ろしいことは、目の前の敵にばかり気を取られてしまうことである。
「上人!水野と藤井松平の旗がどこにも見当たりませぬぞ!」
「なっ、どこへ消え失せたか……!」
見えていたはずのものが見えなくなる。それと同じくらい、人の心をかき乱すのはその見失ったものが思いも寄らぬところから出現した時であろう。
「頃は良し!一揆勢は正面ばかり見ておる!我ら水野勢は今より敵側面を衝く!後れを取るでないぞ!かかれっ!」
いつの間にか側面へと回り込んでいた水野下野守信元率いる水野勢が一揆勢の隙だらけの横っ腹へ突撃を敢行。これに後れまいと反対方向から松平勘四郎信一率いる藤井松平勢が突撃を開始する。
「我らも後れを取ってはならぬ!我に続け――」
松平勘四郎自ら槍を手に取り前進し始めた刹那、一発の銃声がその号令を遮った。次の瞬間、左股が尋常でない熱を帯びていることに気づいた松平勘四郎は撃たれたことを悟った。
「見よ!藤井城の松平勘四郎を撃ち倒したぞ!」
鉄砲を放った門徒武士が嬉々として味方に自慢をし始める。しかし、次の瞬間には松平勘四郎は起き上がり、再び前へと一歩を踏み出していた。
「撃ったのは貴様か!今そこまで行って八つ裂きにしてやるで、待っておれ!」
鬼の形相で自分を狙撃した門徒武士を睨む松平勘四郎の気迫たるや凄まじく、一揆勢はそれだけで引き退いていく。
それから松平勘四郎率いる藤井松平勢の攻勢は一層強まり、反対側から攻勢を仕掛ける水野勢と阿吽の呼吸で一揆勢を追い詰めてゆく。無論、その頃には家康の号令で松平勢も弓鉄砲での戦いを捨て、槍や刀を揃えて突撃を開始し、眼前の一揆勢を屠り始めていた。
「上人、これはいかん!味方は壊走しだしましたぞ!」
「くそっ、これでは針崎、土呂、佐々木に続き、我らも同じ苦杯を嘗めさせられることになってしまうではないか!」
「上人、お気を静めてくださいませ!さっ、ここは本證寺へ戻りましょうぞ」
平静を装う仮面が外れた空誓を逃がそうとする順正であったが、すでに体の至る所を負傷し、到底追撃を振り切ることなどできなかった。
「上人、拙僧はこれまでのようです」
「な、何を申されるか。ここは共に落ち延びようぞ」
「上人はここで死んではならぬ御方!この順正がここで敵を防ぎ止めますゆえ、上人は先をお急ぎくださいませ……!」
自分がいては自分ばかりか、まだ若い空誓までも道連れにしてしまうと考えた順正は近くの僧兵らに頼んで空誓を強引に本證寺へと連れていかせる。
「上人。後のこと、何卒お頼み申し上げます……!」
空誓に背を向けた順正の視線が捉えたのは、桜井古墳群を構成する古墳の一つとされる加美古墳であった。
順正は円墳へ登ると仁王立ちとなり、本證寺を目指す松平・水野連合軍へと吼えた。
「野寺本證寺の空誓とは我がことなり!今ここにこの腹かっさばいて浄土へ往生せん!この有様、末代まで語り継ぐがよいわ!」
空誓の身代わりとなることを決めた桜井円光寺の住持・順正は壮絶な切腹を見せつけ、加美古墳の丘の上から真っ逆さまに飛び降りたのである。
「殿!今、空誓と名乗る僧侶が腹を切って加美古墳より飛び降りたと!」
「馬鹿な!空誓が自害したと!?」
家臣らが口々に申す切腹して飛び降りた僧侶がまこと空誓であるのか。そこに疑問は残るが、本当に空誓であったのなら、住持を失った野寺本證寺を攻めることは家康としても気が引ける思いであった。
「よし、空誓が亡くなったとすれば、野寺本證寺まで攻め入る必要はなかろう。まもなく日暮れともなるゆえ、逃げる敵を追い討ちして岡崎城へ凱旋することといたす!」
家康は空誓が死んだと仮定して戦いは追い討ちのみに留めるよう指示を出した。そのことを藤井松平勢と水野勢にも伝達し、小川安政の戦いと呼ばれる合戦は終幕へと向かっていく。
「では、蔵人佐殿。我らは藤井城へ引き揚げまする」
「此度の合力、まことかたじけない。ひとまずは左股の傷を療養することに専念くだされ」
「お気遣いかたじけのうございます。然らば、傷の療養に努めまする」
当主・松平勘四郎が家康の気遣いに感謝し一礼すると、丸に酢漿草の旗を掲げた藤井松平勢が来た道を取って返し、藤井城への帰路につく。
同時に、追撃を終えた水野下野守率いる水野勢も家康のもとへ合流してきたのである。
「蔵人佐殿、ただいま戻り申した」
「首尾はいかがでござったか。当家は六十を超える首級を挙げてございますが」
「ははは、聞いて驚くないぞ。重臣の上田近正が一揆首魁の一人である鈴木弥兵衛を討ち取ったのじゃ」
「ほう、それはお手柄にございましたな。して、上田近正殿と申せば、岩崎城の一色丹羽家の出身ではござらぬか」
「よく存じておるな。丹羽右近大夫氏識殿の次男で上田近尹の養子となっておる者じゃ。今では当家の重臣として働いてくれておる」
桶狭間合戦直後からの加茂郡での戦いにおいて幾度か接触した岩崎城の一色丹羽家に連なる者の活躍をこの合戦で聞くことになる。思えば、あの折の敵が味方となり、味方が敵となっているとはなんとも皮肉な展開ではある。
「さて、伯父上。此度の戦はここまでにいたしたく。一揆勢もおとなしくなりましょうが、依然として某に楯突く者は多くございます。また援軍を要請させていただくことがあるやもしれませぬが、その時はよろしくお頼みいたします」
「うむ。承知した。何か不測の事態あらば、すぐにも苅谷へ早馬を飛ばして来るがよい。すぐにも駆け付けようぞ」
苅谷の頼もしい伯父の一言に安心した家康はそれから四半刻ほど立ち話をしたのち、それぞれ居城へ凱旋するべく、東西に分かれた。
かくして小川安政の戦いもまた、家康の勝利に終わった。ここしばらく家康が連戦連勝であることは、他の四ヶ寺の一揆勢や家康に対して挙兵した勢力へ知らせられ、反家康の気運は一気に衰退していくことになる。
そんな二月も半ばに差し掛かろうかという頃。
岡崎城と菅生満性寺の間に位置する唐澤の浄土宗寺院・光西寺に針崎勝鬘寺に立て籠もる一揆勢の首魁の一人・蜂屋半之丞貞次の姿があった。
同席しているのは蜂屋半之丞の義兄でもある隻眼の大久保七郎左衛門忠勝、現在大久保党を束ねている大久保七郎右衛門忠世の実弟・治右衛門忠佐の両名である。
「お二方、この度は某からの要請に応じていただき、ありがとう存じまする」
「構わぬ。そなたはすでに一度、我らが勝鬘寺を攻めんとした折に危機を報せてくれた。その借りを返す良い機会じゃと思い、こうして治右衛門とともにこの場を設けたのじゃ」
思いがけない大久保七郎左衛門の優しい語調に、彼の片目の視力を自分たちが戦を仕掛けて事で奪ってしまったことへの罪悪感に蜂屋半之丞は押しつぶされそうであった。
「ふふふ、半之丞。某がそなたらと戦うて片目を失いし事、気に病んでおろう」
「はっ、はい」
「気にするでない。片目を失ったのは何もお主らのせいではない。片目を失う隙があった己の不覚であったと某が反省せねばならぬことじゃ」
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「半之丞殿、此度我らを呼び出したのは和睦を仲介してほしかったからであろう。持参した和議の条項を披露してはもらえぬか」
「然らば、披露させていただく。一つ、一向宗寺院は元のままとし、寺内の不入権を認めること。一つ、一揆参加の人々を身分を問わず赦免すること。一つ、先の二つの条項を認めるならば、一揆は蔵人佐家康殿の味方となり、上野城主酒井将監忠尚を騙し討ちにする用意があること。以上三カ条にござる」
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それが両名の見立てであり、そのことを蜂屋半之丞に申し伝えたうえで、明日にも大久保党の長老である常源より家康へ伝えることを約束し、その日は別れたのであった。
そうして迎えた翌日。真冬よりも寒さが和らぎ、春の到来を予感させる快晴の中で、常源こと大久保新八郎忠俊が家康へ一向一揆との和睦を勧めるべく岡崎城へ登城したのである。
「殿、常源にございまする」
「おお、よくぞ参った。話は先に七郎左衛門より聞いてもおる。なんでも、わしに申したきことがあるとか」
「はっ!先日、娘婿の蜂屋半之丞より降伏を願う文が某のもとへ届きました。加えて、一揆方も条件次第では和睦に応じる姿勢であるとのことゆえ、その条件をお伝えに上がった次第」
常源は懐より一揆方より提示された和議の条項を書き写した一枚の和紙を家康へ献じた。家康はそれを小姓の手を介して受け取ると、記された条項へと目を通す。
「一揆に加わった者共を助けよとは、坊主どもも偉そうなことを。わしが歯向かった不届き者を許すとでも思っておるのか。常源、この条項では和議に応じることは断じてない。一揆方の生殺与奪の権があるのはこちら側。わしはこのまま一揆方を攻め続ければ勝利は揺るがぬというに、これまで通り寺へ不入権を認め、一揆に加担した者共まで助ける義理はない。わしに背いた時点で情けをかけるつもりなど毛頭ないわ」
「されど、殿。一揆が蜂起してより数カ月。敵味方ともに疲弊している今、もし今川や武田が攻め込んで参ったならば、ひとたまりもありませぬ。これ以上、無益な争いで血を流すことだけは、どうかなさらないでいただきたく」
「分かった。これまでの合戦で一番の功績を挙げた大久保党の長老からそうまで言われては応じるよりほかない」
「では!」
「じゃが、重ねて申すが、今の条項では和議に応じることなどできぬ。今一度、条件を練り直すよう寺側へ伝えよ。話はそれからじゃ」
――敵は一向一揆だけではない。
それを指摘されたこともあり、家康は一揆方との和睦交渉の席に着いた。このことは常源老人の功績であり、大久保党を仲介として家康と一揆方の間で条件の擦り合わせが行われていく。
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【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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