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第4章 苦海の章
第184話 曳馬城での対面
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桜井城の松平監物家次、幡豆郡寺部城主・小笠原左衛門佐広重、八ツ面城主・荒川甲斐守義広を屈服させた家康。
新たに降伏を願い出てきた東条城の吉良義昭への処罰をいかにするか、実兄である吉良上野介義安へ意見を求める傍ら、四月七日のうちには岡崎城に結集させた兵馬を率いて出陣したのである。
「殿!此度の出陣は大草松平を攻めんがためにございますか!」
「平八郎、案ずるでない。大草松平など、もはや敵に非ず。道中を通過するゆえ、捻り潰してから東へ進む」
「桜井松平は赦免なさったにもかかわらず、大草松平をお許しにならぬわけをお聞かせ願いとう存じます」
「地勢じゃ。桜井松平は矢矧川を東西に行き来する折の重要な渡河地点で、手懐けておけば何かと都合が良い。対して、大草松平は岡崎に近く、いつまた寝返るかも分からぬ者に与えておくことは危うい。この際、禍根を残さぬことこそ肝要」
「合点がいきました。然らば、この本多平八郎忠勝が先陣を承り、松平昌久が首級を挙げて参りまする!」
頼もしい荒小姓・本多平八郎の言葉を聞いて馬上で高らかに笑う家康。そんな彼のもとへ、先行していた平岩七之助親吉が慌てた様子で馬を駆けさせてきたのである。
「殿!一大事にございまする!」
「いかがしたか!」
「はっ、領民らが申すには大草城はもぬけの殻とのことで、斥候を放って確かめさせましたが、まことにございました」
「なにっ、松平昌久は逃げ落ちた後であったか!」
「はい!数日前より、岡崎城へ数千もの軍勢が集まっていることは領内で噂になっており、そのような数で攻められては到底抗えぬと判断し、逃げ落ちたのではなかろうかと!城内には松平昌久が曽孫の善四郎が残されており、これを保護しておりまする」
家康は平岩七之助よりの報告を受けて、曾孫を残して逃亡するとは松平昌久もとんだ耄碌爺だと思った。松平善四郎はまだ齢十の少年。それを見捨てて逃げるとは、どういう思考回路をしているのか、家康には到底理解できなかった。
されど、無駄に大草領で血を流さずに済んだという一点だけは、大変喜ばしい出来事ではあった。
「ならば、ただちに大草城を接収せよ。城は破却とし、召し上げた所領は此度の争乱で手柄のあった者たちへ分配することといたす」
「しかと承りました!では、ただちに大草城へ向かいまする」
「取り押さえた松平善四郎の身柄も岡崎へ移しておくように」
「はっ!」
平岩七之助が再び馬を走らせていくと、家康は大草城方面へは向かわず、そのまま東海道へ入る。それからは長沢城を経由し、東三河経略を進める酒井左衛門尉忠次らの拠点・岩略寺城へ入城した。
「殿!よくぞお越しくださいました!一向一揆勃発に際して駆けつけられなかったこと、深くお詫び申し上げまする」
「左衛門尉、そなたが謝ることではない。そなたがこうして今日まで東の防衛を担っておったからこそ、わしは今川方からの攻撃を恐れることなく一向一揆鎮圧に当たれたのじゃ。賞することはあれど、罰することなど何一つないわ」
「ありがとう存じまする!して、此度の御出陣は牛久保城攻めにございまするか!」
「否」
「然らば、吉田城攻めにございまするか!」
「それも違う」
「では、何処を攻められるおつもりでしょうや。この左衛門尉には皆目見当もつきませぬ」
「目指すは遠州曳馬城じゃ」
家康が示した答えは酒井左衛門尉の思惑など軽く超えてくるものであった。東三河の今川方の拠点である牛久保城も吉田城も田原城も意に介さず、浜名湖東岸の曳馬城まで向かうなど不可能と決めつけていたがためである。
「牛久保城や吉田城を通過せねば、東海道は使えぬ。されど、本坂峠を越えてより南進し、浜名湖西岸を蹂躙していけば白須賀や新居へと抜けられよう。そこから堂々と東海道を使い、曳馬城へ至る」
「確かにその行軍路であれば、殿の軍勢が遠州曳馬へ赴き、どこを攻められるのでしょうや」
「攻めぬ。城主の飯尾豊前守と直談判しに参るまでのこと。一向一揆は鎮めたゆえ、じきに東三河を制圧して援軍を派遣する。それまで耐え抜いてもらいたいと伝えねばならぬ」
「それは書状でもよろしいかと!このような無茶な行軍をしては、殿のお命にかかわりまする!左衛門尉は反対にございまする!」
「こればかりはそなたの願いは聞き入れられぬ。わしが行かねばならぬのじゃ。書状では飯尾豊前守を繋ぎ止めること叶わぬ」
家康の意志は固かった。それを語調から感じ取った酒井左衛門尉は説得するのではなく、支援することで援護しようと思い至る。
「然らば、我ら東三河衆は牛久保城や吉田城を攻める素振りをいたしまする。陽動であると気付かれぬ限り、殿の背後を狙うようなことはできますまい」
「それは助かる。もとよりそれを頼むため、ここへ立ち寄ったのじゃ。さりとて、牧野民部丞も大原肥前守もわしが遠州へ向かったなどと夢にも思うまい」
「それはそうでしょうな。敵の総大将が自らの背後に少数の兵で回り込んでいるなど、考えもしませぬ」
「じゃが、確実なことだと判明すれば、わしの退路を塞ぎにかかることは明白。ゆえに、その日のうちに曳馬城を発ち、三河へ帰還するつもりでおる」
「承知いたしました。然らば、殿がお戻りになられるまでの間、東三河衆で今川方を釘付けにしておきまする」
察しが良い有能な重臣であり、叔父でもある酒井左衛門尉とも動きを打ち合わせることのできた家康は間髪入れず岩略寺城を出立。野田菅沼氏、西郷氏の協力を得ながら東三河を今川方に気づかれることなく突っ切り、遠州入りを果たしていく。
「よし、本坂峠を越えたことゆえ、南へ転じる!宇津山城の朝比奈真次は我らに内通してもおるゆえ案ずるに及ばず!目指すは遠州曳馬城ぞ!進めっ!」
家康率いる軍勢は浜名湖西岸を南進し、東海道を目指して突き進む。そして、遠州の今川方を動揺させるべく、ある行動に出る。
「行き掛けの駄賃じゃ!鷲津本興寺を攻めよ!」
宇津山城を通り過ぎた後、進軍する方角を東へ転じた家康は鷲津本興寺を攻撃。しかし、ただ攻撃しただけであり、攻め落とすことはせず、あくまでも威嚇射撃程度に留めて南へと転進していく。
「さすがは蔵人佐殿じゃ!」
「ははは、越中守殿の案内あってこそじゃ。これは遠江と東三河の今川方の動揺を誘うには有効であろう。何せ、鷲津本興寺の者らはわしの馬印をその眼で見ておることゆえな」
「いかにも。蔵人佐殿自らが遠州へ軍勢を率いて攻め込んできたとあっては、遠州での忩劇も一層激しくなりましょう」
この家康自らが鷲津本興寺を攻撃したことは今川方の国衆を動揺させ、反今川を掲げる者らを大いに勇気づけることにもなる。それは遠州忩劇を長期化させ、その間に体制を整えたい家康にとっては願ってもない効果となる。
それを分かっているがゆえに、同行する設楽越中守貞通は駿府館で苦虫を嚙み潰したような顔で報告を受ける今川氏真の顔を思い浮かべて笑いが止まらなかった。
「おお、あれが東海道にございますぞ!」
「見えたか!一挙に白須賀から舞坂へと押し渡り、曳馬城へ入るのじゃ!」
駆けに駆けた家康らはついに東海道を使って飯尾豊前守連龍が守る曳馬城へと入城した。鉸具に雁金の旗が翩翻と翻る城へ、家康の『厭離穢土欣求浄土』の旗と丸に三つ葉葵の旗が並ぶ壮観な眺めが完成する。
あらかじめ書状にて家康自らが曳馬城へやって来ることを知っていたとはいえ、城主・飯尾豊前守にとっても本当に家康自身が来ると思っていなかっただけに、仰天している様子であった。
家康が飯尾家臣・江馬加賀守時成の案内を受けて広間へ導かれると、少し遅れて城主・飯尾豊前守が実父・飯尾乗連を伴って到着。
「蔵人佐殿、こうして直にお会いするのも久しぶりとなりましょう。飯尾豊前守乗連にございまする」
「これは豊前守殿、ご丁寧な挨拶痛み入りまする」
「ご活躍はこちらまで届いております。東三河経略を進められる様、まことお見事にございます。加えて、西三河での一向一揆とも和議を結んだことも祝着の極み」
「ははは、誉れ高き豊前守殿にそのように申されますと照れまするな。豊前守殿こそ、幾度となく今川方の軍勢を退けられたと耳にしておりまする」
「なんのなんの。小競り合いで勝利を収めておるだけのこと。されど、今は多方で叛乱が起きてもおりますゆえ、こちらへ攻め込んでくることも少なくなっておりますれば」
遠州忩劇の火付け役と言っても過言ではない飯尾豊前守。彼が反旗を翻し、奮闘したからこそ、他の国衆の家でも反今川派が蜂起し、親今川派とで抗争を繰り広げる事態となっているのである。
家康が飯尾豊前守と互いの武勇を褒め称え合っていると、一人の老将が口を挟んだ。
「蔵人佐殿、某のことを覚えておられますでしょうや」
「無論のこと。岡崎城代でもあらせられた方の顔を忘れるほど、薄情な人間ではございませぬ」
「ほほほ、そうであった。あれから四年の歳月が流れようとしておるとは、まこと早いものよ。わしが岡崎城を去った時、よもやこのような形で蔵人佐殿とお会いしていようとは思いませなんだ」
「某も同じ気持ちにございませぬ。共に今川家に逆心していようなど考えてもおりませんでした」
今川義元が桶狭間合戦にて戦死し、それによって今川領国中が動揺していた頃のこと。あの日々から今年の五月十九日で四年が経過するのだ。そう思えば、なんとも言えない心地がしてくるものである。
「して、蔵人佐殿。一向一揆蜂起の他にも、叛乱を起こした者らが相次いだと聞いておりまするが、そちらの方はよろしいのでしょうや」
「問題ござらぬ。過半は降伏を願い出てきておりますれば、直に終息ともなりましょう。こうして某が遠く遠州まで遠征できておることが何よりの証にござろう」
「いかにも。蔵人佐殿が東三河を制圧すれば、我ら今川家に反旗を翻した遠江国衆も一層奮起いたしましょう」
「そのためにも某は東三河の制圧を進めまするゆえ、それまで豊前守殿らには何として持ちこたえていただきたい。無論いつでも援軍は送らせていただきますゆえ……」
「なるほど。その念押しのため、長躯曳馬城まで足を運んでくださったとか。よろしい、我らももうひと踏ん張りいたしましょうぞ。されど、兵糧や銭の都合上、援軍なしで抵抗を続けられるのは半年が限度にございまする。その旨、あらかじめご承知おきくだされ」
持ちこたえられてあと半年。家康も城へ踏み入った折の城兵の様子や城までの道のりで感じた合戦によって疲弊した領民たちの顔を見れば、飯尾豊前守が提示した期限は妥当であることは家康にも理解できた。
ともすれば、家康が成すべきことはただ一つ。半年のうちに西三河での叛乱を収束させ、東三河制圧を成し遂げて遠州へ援軍を派遣できるようにすること。これに尽きる。
「承知いたした。領主として、領民や城兵が苦しんでおるのは見過ごせませぬからな。某も半年のうちに遠州へ援軍を派遣できるよう尽力いたします」
「お頼み申しますぞ、蔵人佐殿」
「お二方がこと、家康も頼りにしておりますれば、お二人を援けられるよう奔走いたしまする。その旨、一筆記しておきましょう」
「否とよ、某は蔵人佐殿の人品を良く存じておる。起請文の類は不要じゃ」
「左様でござるか。然らば、我らも本国三河へ急ぎ戻らねばなりませぬゆえ、本日のところはこれにて失礼いたしまする」
家康が決然と立ち上がると、飯尾父子もそれに続き、城の大手門まで見送ると申してついて来る。その間も喫緊の課題ともいえる今川方との戦のことをはじめ、他愛ない近況を報告し合うなど、穏便な形で対面は叶った。
そうして家康は遠江国曳馬城に別れを告げると、一陣の風となって東海道経由浜名湖西岸へと移動していく。
「蔵人佐殿、飯尾豊前守殿との対面が上首尾に参ったようで安堵いたしました」
「いや、わしも内心では緊張しておった。飯尾父子との対面も桶狭間合戦ぶりということもあるゆえな」
「左様にございましたか。某にはそのようには見えませなんだが」
「そう見えぬよう振舞っておっただけのこと。まだまだ飯尾父子から見れば、わしなど与しやすい若造という認識であろう。此度の対面で遠江国衆らが奮起する火種となればよいが――」
来た道を戻る家康は周囲の警戒と同時並行で、今回の対面で飯尾父子がどう感じたか、約束した事柄をいかにすれば達せられるかを考えながら、三遠の国境を越えるのであった――
新たに降伏を願い出てきた東条城の吉良義昭への処罰をいかにするか、実兄である吉良上野介義安へ意見を求める傍ら、四月七日のうちには岡崎城に結集させた兵馬を率いて出陣したのである。
「殿!此度の出陣は大草松平を攻めんがためにございますか!」
「平八郎、案ずるでない。大草松平など、もはや敵に非ず。道中を通過するゆえ、捻り潰してから東へ進む」
「桜井松平は赦免なさったにもかかわらず、大草松平をお許しにならぬわけをお聞かせ願いとう存じます」
「地勢じゃ。桜井松平は矢矧川を東西に行き来する折の重要な渡河地点で、手懐けておけば何かと都合が良い。対して、大草松平は岡崎に近く、いつまた寝返るかも分からぬ者に与えておくことは危うい。この際、禍根を残さぬことこそ肝要」
「合点がいきました。然らば、この本多平八郎忠勝が先陣を承り、松平昌久が首級を挙げて参りまする!」
頼もしい荒小姓・本多平八郎の言葉を聞いて馬上で高らかに笑う家康。そんな彼のもとへ、先行していた平岩七之助親吉が慌てた様子で馬を駆けさせてきたのである。
「殿!一大事にございまする!」
「いかがしたか!」
「はっ、領民らが申すには大草城はもぬけの殻とのことで、斥候を放って確かめさせましたが、まことにございました」
「なにっ、松平昌久は逃げ落ちた後であったか!」
「はい!数日前より、岡崎城へ数千もの軍勢が集まっていることは領内で噂になっており、そのような数で攻められては到底抗えぬと判断し、逃げ落ちたのではなかろうかと!城内には松平昌久が曽孫の善四郎が残されており、これを保護しておりまする」
家康は平岩七之助よりの報告を受けて、曾孫を残して逃亡するとは松平昌久もとんだ耄碌爺だと思った。松平善四郎はまだ齢十の少年。それを見捨てて逃げるとは、どういう思考回路をしているのか、家康には到底理解できなかった。
されど、無駄に大草領で血を流さずに済んだという一点だけは、大変喜ばしい出来事ではあった。
「ならば、ただちに大草城を接収せよ。城は破却とし、召し上げた所領は此度の争乱で手柄のあった者たちへ分配することといたす」
「しかと承りました!では、ただちに大草城へ向かいまする」
「取り押さえた松平善四郎の身柄も岡崎へ移しておくように」
「はっ!」
平岩七之助が再び馬を走らせていくと、家康は大草城方面へは向かわず、そのまま東海道へ入る。それからは長沢城を経由し、東三河経略を進める酒井左衛門尉忠次らの拠点・岩略寺城へ入城した。
「殿!よくぞお越しくださいました!一向一揆勃発に際して駆けつけられなかったこと、深くお詫び申し上げまする」
「左衛門尉、そなたが謝ることではない。そなたがこうして今日まで東の防衛を担っておったからこそ、わしは今川方からの攻撃を恐れることなく一向一揆鎮圧に当たれたのじゃ。賞することはあれど、罰することなど何一つないわ」
「ありがとう存じまする!して、此度の御出陣は牛久保城攻めにございまするか!」
「否」
「然らば、吉田城攻めにございまするか!」
「それも違う」
「では、何処を攻められるおつもりでしょうや。この左衛門尉には皆目見当もつきませぬ」
「目指すは遠州曳馬城じゃ」
家康が示した答えは酒井左衛門尉の思惑など軽く超えてくるものであった。東三河の今川方の拠点である牛久保城も吉田城も田原城も意に介さず、浜名湖東岸の曳馬城まで向かうなど不可能と決めつけていたがためである。
「牛久保城や吉田城を通過せねば、東海道は使えぬ。されど、本坂峠を越えてより南進し、浜名湖西岸を蹂躙していけば白須賀や新居へと抜けられよう。そこから堂々と東海道を使い、曳馬城へ至る」
「確かにその行軍路であれば、殿の軍勢が遠州曳馬へ赴き、どこを攻められるのでしょうや」
「攻めぬ。城主の飯尾豊前守と直談判しに参るまでのこと。一向一揆は鎮めたゆえ、じきに東三河を制圧して援軍を派遣する。それまで耐え抜いてもらいたいと伝えねばならぬ」
「それは書状でもよろしいかと!このような無茶な行軍をしては、殿のお命にかかわりまする!左衛門尉は反対にございまする!」
「こればかりはそなたの願いは聞き入れられぬ。わしが行かねばならぬのじゃ。書状では飯尾豊前守を繋ぎ止めること叶わぬ」
家康の意志は固かった。それを語調から感じ取った酒井左衛門尉は説得するのではなく、支援することで援護しようと思い至る。
「然らば、我ら東三河衆は牛久保城や吉田城を攻める素振りをいたしまする。陽動であると気付かれぬ限り、殿の背後を狙うようなことはできますまい」
「それは助かる。もとよりそれを頼むため、ここへ立ち寄ったのじゃ。さりとて、牧野民部丞も大原肥前守もわしが遠州へ向かったなどと夢にも思うまい」
「それはそうでしょうな。敵の総大将が自らの背後に少数の兵で回り込んでいるなど、考えもしませぬ」
「じゃが、確実なことだと判明すれば、わしの退路を塞ぎにかかることは明白。ゆえに、その日のうちに曳馬城を発ち、三河へ帰還するつもりでおる」
「承知いたしました。然らば、殿がお戻りになられるまでの間、東三河衆で今川方を釘付けにしておきまする」
察しが良い有能な重臣であり、叔父でもある酒井左衛門尉とも動きを打ち合わせることのできた家康は間髪入れず岩略寺城を出立。野田菅沼氏、西郷氏の協力を得ながら東三河を今川方に気づかれることなく突っ切り、遠州入りを果たしていく。
「よし、本坂峠を越えたことゆえ、南へ転じる!宇津山城の朝比奈真次は我らに内通してもおるゆえ案ずるに及ばず!目指すは遠州曳馬城ぞ!進めっ!」
家康率いる軍勢は浜名湖西岸を南進し、東海道を目指して突き進む。そして、遠州の今川方を動揺させるべく、ある行動に出る。
「行き掛けの駄賃じゃ!鷲津本興寺を攻めよ!」
宇津山城を通り過ぎた後、進軍する方角を東へ転じた家康は鷲津本興寺を攻撃。しかし、ただ攻撃しただけであり、攻め落とすことはせず、あくまでも威嚇射撃程度に留めて南へと転進していく。
「さすがは蔵人佐殿じゃ!」
「ははは、越中守殿の案内あってこそじゃ。これは遠江と東三河の今川方の動揺を誘うには有効であろう。何せ、鷲津本興寺の者らはわしの馬印をその眼で見ておることゆえな」
「いかにも。蔵人佐殿自らが遠州へ軍勢を率いて攻め込んできたとあっては、遠州での忩劇も一層激しくなりましょう」
この家康自らが鷲津本興寺を攻撃したことは今川方の国衆を動揺させ、反今川を掲げる者らを大いに勇気づけることにもなる。それは遠州忩劇を長期化させ、その間に体制を整えたい家康にとっては願ってもない効果となる。
それを分かっているがゆえに、同行する設楽越中守貞通は駿府館で苦虫を嚙み潰したような顔で報告を受ける今川氏真の顔を思い浮かべて笑いが止まらなかった。
「おお、あれが東海道にございますぞ!」
「見えたか!一挙に白須賀から舞坂へと押し渡り、曳馬城へ入るのじゃ!」
駆けに駆けた家康らはついに東海道を使って飯尾豊前守連龍が守る曳馬城へと入城した。鉸具に雁金の旗が翩翻と翻る城へ、家康の『厭離穢土欣求浄土』の旗と丸に三つ葉葵の旗が並ぶ壮観な眺めが完成する。
あらかじめ書状にて家康自らが曳馬城へやって来ることを知っていたとはいえ、城主・飯尾豊前守にとっても本当に家康自身が来ると思っていなかっただけに、仰天している様子であった。
家康が飯尾家臣・江馬加賀守時成の案内を受けて広間へ導かれると、少し遅れて城主・飯尾豊前守が実父・飯尾乗連を伴って到着。
「蔵人佐殿、こうして直にお会いするのも久しぶりとなりましょう。飯尾豊前守乗連にございまする」
「これは豊前守殿、ご丁寧な挨拶痛み入りまする」
「ご活躍はこちらまで届いております。東三河経略を進められる様、まことお見事にございます。加えて、西三河での一向一揆とも和議を結んだことも祝着の極み」
「ははは、誉れ高き豊前守殿にそのように申されますと照れまするな。豊前守殿こそ、幾度となく今川方の軍勢を退けられたと耳にしておりまする」
「なんのなんの。小競り合いで勝利を収めておるだけのこと。されど、今は多方で叛乱が起きてもおりますゆえ、こちらへ攻め込んでくることも少なくなっておりますれば」
遠州忩劇の火付け役と言っても過言ではない飯尾豊前守。彼が反旗を翻し、奮闘したからこそ、他の国衆の家でも反今川派が蜂起し、親今川派とで抗争を繰り広げる事態となっているのである。
家康が飯尾豊前守と互いの武勇を褒め称え合っていると、一人の老将が口を挟んだ。
「蔵人佐殿、某のことを覚えておられますでしょうや」
「無論のこと。岡崎城代でもあらせられた方の顔を忘れるほど、薄情な人間ではございませぬ」
「ほほほ、そうであった。あれから四年の歳月が流れようとしておるとは、まこと早いものよ。わしが岡崎城を去った時、よもやこのような形で蔵人佐殿とお会いしていようとは思いませなんだ」
「某も同じ気持ちにございませぬ。共に今川家に逆心していようなど考えてもおりませんでした」
今川義元が桶狭間合戦にて戦死し、それによって今川領国中が動揺していた頃のこと。あの日々から今年の五月十九日で四年が経過するのだ。そう思えば、なんとも言えない心地がしてくるものである。
「して、蔵人佐殿。一向一揆蜂起の他にも、叛乱を起こした者らが相次いだと聞いておりまするが、そちらの方はよろしいのでしょうや」
「問題ござらぬ。過半は降伏を願い出てきておりますれば、直に終息ともなりましょう。こうして某が遠く遠州まで遠征できておることが何よりの証にござろう」
「いかにも。蔵人佐殿が東三河を制圧すれば、我ら今川家に反旗を翻した遠江国衆も一層奮起いたしましょう」
「そのためにも某は東三河の制圧を進めまするゆえ、それまで豊前守殿らには何として持ちこたえていただきたい。無論いつでも援軍は送らせていただきますゆえ……」
「なるほど。その念押しのため、長躯曳馬城まで足を運んでくださったとか。よろしい、我らももうひと踏ん張りいたしましょうぞ。されど、兵糧や銭の都合上、援軍なしで抵抗を続けられるのは半年が限度にございまする。その旨、あらかじめご承知おきくだされ」
持ちこたえられてあと半年。家康も城へ踏み入った折の城兵の様子や城までの道のりで感じた合戦によって疲弊した領民たちの顔を見れば、飯尾豊前守が提示した期限は妥当であることは家康にも理解できた。
ともすれば、家康が成すべきことはただ一つ。半年のうちに西三河での叛乱を収束させ、東三河制圧を成し遂げて遠州へ援軍を派遣できるようにすること。これに尽きる。
「承知いたした。領主として、領民や城兵が苦しんでおるのは見過ごせませぬからな。某も半年のうちに遠州へ援軍を派遣できるよう尽力いたします」
「お頼み申しますぞ、蔵人佐殿」
「お二方がこと、家康も頼りにしておりますれば、お二人を援けられるよう奔走いたしまする。その旨、一筆記しておきましょう」
「否とよ、某は蔵人佐殿の人品を良く存じておる。起請文の類は不要じゃ」
「左様でござるか。然らば、我らも本国三河へ急ぎ戻らねばなりませぬゆえ、本日のところはこれにて失礼いたしまする」
家康が決然と立ち上がると、飯尾父子もそれに続き、城の大手門まで見送ると申してついて来る。その間も喫緊の課題ともいえる今川方との戦のことをはじめ、他愛ない近況を報告し合うなど、穏便な形で対面は叶った。
そうして家康は遠江国曳馬城に別れを告げると、一陣の風となって東海道経由浜名湖西岸へと移動していく。
「蔵人佐殿、飯尾豊前守殿との対面が上首尾に参ったようで安堵いたしました」
「いや、わしも内心では緊張しておった。飯尾父子との対面も桶狭間合戦ぶりということもあるゆえな」
「左様にございましたか。某にはそのようには見えませなんだが」
「そう見えぬよう振舞っておっただけのこと。まだまだ飯尾父子から見れば、わしなど与しやすい若造という認識であろう。此度の対面で遠江国衆らが奮起する火種となればよいが――」
来た道を戻る家康は周囲の警戒と同時並行で、今回の対面で飯尾父子がどう感じたか、約束した事柄をいかにすれば達せられるかを考えながら、三遠の国境を越えるのであった――
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そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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