不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第188話 兄弟は他人の始まり

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「殿、先日もお願いしたことで恐縮にございますが、某の母を側室としていただけませぬか」

 石川与七郎数正からのお願い。それは三河一向一揆鎮圧の目途すら立っていなかった頃に提起された事柄であった。

 一向一揆勃発前に死去した石川安芸守忠成の長男・石川右近大夫康正の正室であり、石川与七郎の生母にあたる女性を側室として迎えてほしい。その石川与七郎の母は能見松平家の第三代当主・松平二郎右衛門重吉の娘でもある。

 石川家と能見松平家、両家に所縁のある母を側室として迎えてもらいたいということであったが、家康はそれを一向一揆鎮圧をある種言い訳として先延ばしにしてきていた。今、その返答を迫られているのが現状なのである。

「やはりならぬでしょうか。見方によれば当家と能見松平家からの人質ともなりますし、寡婦となった母のためにも曲げてご承引いただきたく……!」

 家康から見れば、石川与七郎の生母は生母・於大の方よりも年上。それをさすがに正室・築山殿が認めるとは到底思えなかった。

「殿」

「瀬名か。そなたからもきっぱりと与七郎に申してはくれぬか」

「はい」

 石川与七郎から平に頼まれては断りづらい。そんな家康がどういった心持ちで築山殿に縋ったのか、己の立場を良く理解している築山殿は石川与七郎へと向き直る。

「与七郎」

「はっ、ははっ!」

「そなたの願いはよく分かりました。よろしいでしょう」

「はっ?」

「そなたの母を殿の側室とすること、妾が認めましょう」

 自分で申し出ておきながら素っ頓狂な声を上げる石川与七郎。何よりも、家康を始め、その場に居合わせる者たち皆が築山殿の言葉を聞き、聞き間違いではないかと目を丸める。

「瀬名、良いのか。与七郎の母となれば、齢四十を超えるであろう」

「構いませぬ。与七郎の申し出ですし、あとは当の本人が否と申すか否か」

「じゃが……」

「別に側室としたとはいえ、必ずお手をつかなければならぬわけではございませぬ。側に置く程度のことでよろしいのではございませぬか」

「まあ、そのくらいならば……」

 於葉に続き、石川与七郎の生母が側室となった。その情報量の多さに脳の処理が追いつかない家康であったが、正室が認めた以上、あとは石川与七郎の生母が首を縦に振るか、横に振るかの問題となる。

「では、殿。そして、御前様。このこと、立ち返って母へ告げて参りまする」

 そう言い残すと、石川与七郎はその日の勤めを辞して帰路につく。残された家康一行も夕陽を背に築山の屋敷を発ち、鵜殿藤助も所領へ帰っていく。

「そうじゃ、母上のもとへ挨拶して帰るとしようぞ」

 家康は阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛康景、鳥居彦右衛門尉元忠、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政といった近侍たちを引き連れ、岡崎城へ。築山へ行ったその足で城下に居を移した生母・於大の方のもとへと足を運ぶこととした。

 新しく築かれたばかりの土塀が目を引く久松家の屋敷。先行した榊原小平太が門番へ取次を申し入れると、門番は畏まった様子で対応していく。

 よもや松平宗家の主が側近を引き連れてやってくるとは思っていなかったのであろうが、対応そのものは実に迅速であり、瞬く間に目通りが叶った。

「兄上!」

 家康が門をくぐり、塀の中の屋敷へつま先を向けて歩き出すと、玄関から飛び出してくる一人の少年の姿があった。

「おお、源三郎ではないか」

 家康の胸に飛び込んできたのは今年で齢十三となる異父弟・松平源三郎康俊であった。家康にとっては母を同じくするかけがえのない弟の一人である。

「此度は一向一揆の鎮圧、お見事にございました!ご活躍は父母や苅谷の伯父より伺っております!」

「ははは、となれば伯父上もこちらへ参られたか」

「はい!されど、未だに徳政をめぐる相論を解決できておらず、苦心しておるとか申しておりました」

「やはりそうか。さりとて、伯父上でなければ事を丸く収められぬゆえ、伯父上に一任するよりほかないのじゃが……」

 そこまで言葉をこぼした家康であったが、胸元から見上げている松平源三郎のきょとんとした顔を見て言葉を止める。

 おそらく、源三郎も伯父・水野下野守信元が徳政をめぐる寺側と武士側の相論を解決しようとしていることは知っていても、詳しい事情は知らないのだろうと察したからだ。

「そうです!兄上は存じておられますか!」

「何をじゃ」

「我らに弟か妹が生まれるということにございます!」

「なにっ、母上が懐妊したと申すか!」

 そこまで松平源三郎の口から聞かされたのでは、家康は早足を超えて駆け足で座敷へ上がり、父母との対面を果たした。

「おお、殿。そのように慌てられて、いかがなされましたか」

「いや、源三郎から母上の懐妊を聞かされましたゆえ、居ても立ってもおられず」

「おや、そうでしたか」

 そこまで言うと、於大の方の視線は家康からその隣にいる松平源三郎へ移される。そんな於大の方の隣に座する久松佐渡守は慈父のように笑顔を絶やさない。

 そんな温かな雰囲気の空間へ入ってみれば、松平三郎太郎康元、多劫姫、松平長福丸ら異父弟妹が勢ぞろいであった。

「おお、皆揃っておったか。三郎太郎には上之郷城主としての勤めがあろうに……」

「申し訳ございませぬ。母の懐妊を知り、居ても立っても居られなかったのです」

「まあ良い。それはわしとて同じ事。何より、そなたも壮健そうで何よりじゃ」

 遡ること二年前。鵜殿藤太郎長照の居城であった上之郷城を攻略した後、城主に据えられたのがこの場にいる異父兄弟では最年長の松平三郎太郎なのである。松平源三郎と同じく齢十三となった彼は少しずつ大人に近づいていることが身に纏う雰囲気からにじみ出ている。

「どうじゃ、上之郷領の統治は上手くやれておるか」

「はい。こうして父上も補佐してくれておりますゆえ、滞りなく進められておりまする!」

「ならば良い。一向一揆を鎮めた今、本格的に東三河への侵攻を開始することとなる。上之郷は西三河と東三河を繋ぐ要衝ゆえ、しかと頼むぞ」

「はい!兄上より任された地にございますゆえ、しかと任を全ういたす所存!」

 二年前よりも格段に頼もしくなっている弟に笑いかけると、家康は松平三郎太郎の隣で畏まっている異父妹・多劫姫へと目を向ける。

「多劫、そなたも元気そうで何よりじゃ。今いくつになったか」

「十二にございます」

「そうか、もうそのような年か」

 ――そういえば三郎太郎と源三郎の一ツ下であった。

 そのことを思い出し、家康が一人頷いていると、継父・久松佐渡守が口を開く。

「蔵人佐殿は多劫もそろそろ嫁に出る頃合いかと考えておられたのではございませぬか」

 図星であった。あと二、三年もすれば嫁に出さなければならない年頃ともなる。今くらいの年齢であれば、婚約が成立している場合も珍しくないのだ。

「さすが継父上が慧眼であらせられる。某の考えておることが見透かされておるようじゃ」

「ははは、当てずっぽうにござれば。殿より十六年も長く生きておれば、勘も良く働くようになりまする」

「そういうものにございますか」

「いかにも。蔵人佐殿も某くらいの年頃になれば、すべてのことを見通せる良き眼をお持ちでしょう」

「継父上、それは買いかぶりすぎにございまする」

 まるで血の繋がった父と子のようなやり取りをかわす二人であるが、一切の血縁はない。だが、それを最も喜んでいるのは一番近くで見守る於大の方であった。

「して、殿。多劫の縁談にございますが、良き相手はおりませぬでしょうか?」

「某も思案しておるところにございます。されど、昨年も妹の婿に刃を向けられ、某は妹の婿を選ぶ目がないのではないかと自信を失ってもおりますゆえ」

 異母妹・市場姫の夫である荒川甲斐守義広に背かれた。そのことを引きずる家康に対し、生母・於大の方は優しく微笑みかける。

「殿はお優しい。過ちであったと悔いるのも大事にございます。されど、ご自分をお責めになってはなりませぬ。それがさらなる過ちを誘引することもありましょう」

「母上の申す通りか。その言葉、しかと胸に刻み付けておきまする」

 母というものはいくつになろうとも偉大である。子が迷った時、優しくそっと道を示してくれる。家康にとって、於大の方はまさしくそのような人であった。

「して兄上、次の御出陣はいつ頃になられますでしょうや」

「早ければ初夏には出陣となろう。じゃが、まだ支度が済んでおらぬゆえ、延期となるやもしれぬが」

「この源三郎も兄上のお供をいたしたく存じます!」

「ははは、戦場は源三郎にはまだ早かろう。今しばらく鍛錬を積み、来るべき時に備えておくがよい」

 異母兄・家康にたしなめられ、不服そうな松平源三郎は父に助け舟を求めるが、久松佐渡守も首を横に振るばかり。

 それを見た松平三郎太郎も声を上げて笑い出し、多劫姫もそれにつられるように口元を袖で隠して上品に笑う。ただ一人、末弟の松平長福丸だけは状況が飲み込めず、ぽかんと口を開けていた。

 そのような状況の中で、ただ一人、彼ら彼女らの産みの親である於大の方はほっと胸を撫でおろしていた。

 戦場の恐ろしさ、戦いが生み出す罪業の深さを身に染みて理解している於大の方にとって、家康に続き、源三郎までもが戦場に立つことがあっては、枕を高くして眠ることなど到底できそうもないと分かっているからだ。

「されど、兄上!源三郎も十三になりましてございます!いい加減、稽古ばかりでは退屈にございまする!」

「そうか。ならば尚の事、戦場には連れていけぬ」

「何故にございますか!」

「稽古を退屈だなどと侮っておるようでは、戦場で野垂れ死ぬことは明白。大切な弟を死なせると分かっていて戦場に連れていく兄はおらぬわ」

 思いがけず、ぴしゃりと兄に説教されてしまった松平源三郎は項垂れ、袴のうえでぎゅっと拳を握ってしまう。

「良いか、それは三郎太郎であろうと長福丸であろうと同じ事じゃ。極めてもおらぬうちに稽古を退屈だと思っておるようでは武士としては半人前。そのような半人前を弟として連れていってはわしの面目を潰すことにもなる。生半可な覚悟で戦場に行こうなどと二度と申すでないぞ。良いか、戦場は殺し合いをするところなのじゃ。子供のお遊びとはわけが違う」

 戦場では本当に人が死ぬのだ。自分があれほど敬愛していた今川義元公であっても、自分に忠義を尽くしてくれる家臣たちであっても、容赦なく死に晒されることになる。

 そのことをここにいる弟たちは理解できていない。稽古の延長線上だとばかり思っている。それが家康は恐ろしかった。弟可愛さに戦場へ連れていき、取り返しのつかない事態に陥ったとして、その時必ずしも救出することができるわけではない。

 家康は真剣な表情で三人の弟たちに語り掛けていく。その家康の言葉に、久松佐渡守も於大の方も目を閉じて静かに頷いている。実際に戦場へ出たことのある久松佐渡守、戦の凄惨さをいやというほど伝え聞いてきた於大の方にとっては、その通りだと同意できることばかりであった。

 しかし、それは血気に逸る若者たちにとっては鬱陶しい説教にしか取れなかった。源三郎などは心の内では兄が戦場へ連れていきたがらないのは嫌がらせではないのかと錯覚してしまうほどに。

「源三郎、わしの申したいことが分かったか」

「ちっとも分かりませぬ!兄上は某のことが嫌いなのです!それゆえに戦場へ連れていってくださらぬ!」

 家康の言葉を受け入れられず、松平源三郎は怒りに任せて離席。乱暴に障子を開け、外へと飛び出して行ってしまった。

「兄上。某は源三郎を連れ戻して参ります」

「捨て置け。あれはわがままを申しておるだけのこと。ここで甘やかしては、ますます付けあがる」

「されど、あのままでは源三郎が……」

「かまうなと申しておろうが。この場では兄と弟であるが、戦場へ出るならば主君と家臣。主の命に従えぬ家臣など、いても何の役にも立たぬ。そのことが理解できぬうちは戦場など天地がひっくり返っても連れていくつもりはない」

 珍しく強気な異母兄・家康の姿に、松平三郎太郎は面食らってしまう。しかし、温厚な彼にはその家康の言葉に反抗して同母弟・源三郎を追いかける勇気が出なかった。

「蔵人佐殿。愚息には某から伝えておきましょう」

「継父上が申してくださるならば安心じゃ。わしは今日のところはこれにて失礼いたす」

 家康は異母弟・源三郎のことを父に託すと、近侍らを引き連れて岡崎城への帰路につくのであった――
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