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第5章 飛竜乗雲の章
第189話 松井忠次の継室と関口刑部少輔家のこと
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吉田城攻めをひかえた五月。家康のもとへ、東条松平家の当主・松平亀千代とその伯父である松井左近忠次が伺候してきていた。
両名は春の温かな日差しを背に受けながら、岡崎城主・松平蔵人佐家康との対面を果たしていた。
「蔵人佐殿。吉良義昭に代わり、東条城主となりました亀千代にございます」
「亀千代、よくぞ参った」
「ははっ!」
松平宗家の当主である家康へ東条松平家の当主である齢九ツの松平亀千代が挨拶の言葉を述べる。ただそれだけなのだが、その家康の応対が明らかにこれまでと違うことを、亀千代に近侍する松井左近はひしひしと感じていた。
これまでの家康であれば、亀千代と呼び捨てにすることなどまずなかった。無論、書状の宛名には殿がつくことに変わりはなく、対面でのやり取りに限られるのだが、それでも呼び方が変わるというのは、明確な違いが生まれている。
東条松平家をはじめ、松平の分家筋として遇されていた立場にあった松平一族は、三河一向一揆平定を経て悉く従属したことを受けて、明確に家康に従う立場となった。それを踏まえて、家康は家臣を呼ぶように他の松平一族も呼び捨てるようにしているのだ。
――昔はどうであれ、今はわしの方が立場は上なのだぞ。
直接口に出さないまでも、それは言語態度に如実に表れている。だが、人格が豹変したのではなく、これまでの松平蔵人佐家康という人物の延長線上にあることは松井左近とて十二分に理解していた。
「此度は当家の松井左近へ五百貫文を加増していただけたこと、この場を借りて御礼申し上げまする」
「九ツとは思えぬ明瞭な受け答え。やはり側に左近がおるからこそ、こうして立派な武士へと成長しつつあるのであろう。うむ、左近はそなたの伯父であり、犬馬の労も惜しまぬ忠勇の士。今後も何事も左近と図り、判断することといたせ」
「ははっ、そういたしまする!」
幼くして当主の座についた松平亀千代に、家康も幼少期の自分の姿を当てはめる。自分が九歳の頃であれば、ちょうど駿府へ人質に出された頃。その頃の自分はこのような受け答えができたであろうかと思い返す契機ともなっていた。
「恐れながら、蔵人佐様。某からも知行を加増していただけましたことへの御礼を述べさせていただきたく」
「うむ。此度の一揆鎮定において、東条松平家はよう働いてくれた。その褒美ゆえ、遠慮することはない。加えて、松井左近には今一つ、取らせたい褒美がある」
「なんと、それは有り難きこと。して、その褒美とは一体何でございましょうか?」
「うむ。入って参れ」
家康は松井左近に褒美があると言うなり、今この空間にはいない誰かへ入室を許可する。そうして松平亀千代と松井左近の前へ姿を現したのは松井左近とそう年齢の変わらぬ落ち着いた雰囲気の女性と年端もいかぬ五人の少女たちであった。
「蔵人佐様。こちらの方々は……」
「うむ。わしの隣におる女子は側室での」
「おお、左様にございましたか」
「当家の家老を務める石川与七郎数正の生母で、能見の松平二郎右衛門重吉が娘じゃ」
そこまで聞くと、情報量の多さに松井左近は一瞬思考が停止してしまう。しかし、そこへさらなる混乱をもたらす情報が叩き込まれる。
「この女子を松井左近、そなたの継室として迎えてもらいたいのじゃ」
「なっ、なんと!?」
「聞けばそなたの正室はすでに亡く、寂しい思いをしておるそうではないか。ゆえに、年の近いわしの側室を遣わす」
主君の主君にあたる立場の家康の側室を自分の妻として迎える。そのことの重大さをひしひしと感じながら、ちらりと甥であり主君でもある松平亀千代を見やるも、子どもの頭では到底理解できていない様子であった。それは無理もないことではあったが。
「さ、されど、石川与七郎殿のご生母と申せば、昨年亡くなられた石川右近大夫殿のご正室でもあられた御方!ましてや、松平家の出の方を某のような陪臣の身分で貰い受けるわけには参りませぬ!」
「左近、そなたは何か誤解しておるようじゃが、これは打診ではない。わしからの命令じゃ。宗家と東条松平家の交わりをより強固なものとするためにも、この縁組を成立させる必要があるのじゃ」
この褒美について、もはや松井左近に辞退するという選択肢は最初から存在していなかった。となれば、松井左近が今成すべきことはただ一つ、褒美を受け取ることであった。
「然らば、蔵人佐様よりの褒美、ありがたく頂戴いたしまする!」
「よし!加えて、ここにおる五人の少女たちは連れ子じゃ。これも養女として、然るべきところに嫁がせてやってくれ」
「はっ、ははっ!しかと承りましてございます!」
平伏する松井左近は家康の命令で新たに六人、家族が増えることとなった。前妻が亡くなって以来、娘との二人暮らしであった齢四十四の松井左近にとって青天の霹靂ともいえる出来事であった。
「伯父上、何はともあれおめでとうございます」
「う、うむ。よもやこの年で妻を娶り、娘が五人も増えることになろうとは思いも寄らなんだ」
素直に喜べばよいのか、困り切った顔をすればよいのか。どのように反応すればよいのかすら戸惑ってしまう状況となったが、松井左近は六人の女子を新たに伴い、松平亀千代とともに東条城への帰路につくのであった。
「殿、母は左近殿のもとへ嫁ぐことになるのですな」
「おお、与七郎。聞いておったのか」
東条松平家の面々が帰ってまもなく、廊下より姿を現したのは家老・石川与七郎数正であった。
「はい。これにより母や妹たちも少しは落ち着くことができましょう。左近殿ならば母や妹らを悪しく扱うこともないでしょうから」
「いかにもじゃ。じゃが、これでそなたは左近を父と呼ばねばならなくなったの」
「ははは、いかにもに。殿にとっての佐渡守殿のような人にございますからな」
そう、石川与七郎の母を娶ったことで松井左近は継父にあたる人物となったのである。すなわち、石川与七郎にとって、自分より十二歳年長の父が誕生したことを意味する。
「されど、某の母を東条城に送り込むことで、松井左近を取り込もうという殿の狙いは察知されていたようにも思えまするが」
「構わぬ。もとより左近ほどの古強者ならば容易に察知するであろうことは分かり切っておった。じゃが、左近がおらずば、東条松平家の家政は立ち行かぬ。しかも、娘が一人しかおらぬとあっては、左近が死すれば亀千代を補佐する縁者が居なくなってもしまう。そなたの母が左近との間に嫡男を上げれば、それも解決するのじゃが……」
「母も何分老境に差し掛かってもおります。子が生まれるのは難しゅうございましょう。となれば、花とか申す一人娘と誰ぞを娶わせ、婿養子を取るというのが現実的な選択となろうかと」
「うむ、わしも同意見じゃ。齢はそなたの息子らと近いゆえ、次男か三男あたりを出してもらうことになるやもしれぬ」
「なるほど。前妻の娘に後妻の孫を娶らせるわけですな」
「そうなるか。わしとしても石川家から出てくれれば心強いのじゃが、ある程度の東条松平家中からの反発は覚悟せねばならぬか」
齢四十を過ぎてなお、後継者が不在の松井左近。彼が不在となれば、まだ幼い亀千代を誰が補佐していくのか。そのことを見据えて、家康は石川与七郎と議論を重ねていくが、あくまでも妄想の域を出ない。
「そうです、殿。先日、見付端城の堀越氏延が遠江衆や東三河の大原肥前守らの軍勢に攻められ、自刃したとの知らせが入ってございます」
「なんと、遠江今川氏は滅亡したと申すか!」
「はい。他の国衆家での内訌も鎮まりつつあり、もはや遠江にて反今川を掲げるは飯尾豊前守殿だけとなっておりまする」
「そうであったか……」
石川与七郎からもたらされた情報に、嘆息する家康。遠州忩劇が鎮定されつつある今、先月対面を果たした飯尾豊前守連龍も降伏を願い出る可能性が濃厚となった。ともすれば、今川氏真は再び東三河へと援軍を増派してくる恐れもある。
「殿、これは吉田城攻めを早める必要がございますな」
「うむ。来月には攻撃を始めることといたそう。加えて、田原城も一挙に陥落せしめ、東三河の経略を遂げるつもりで支度を進めねばならぬ」
東三河において抵抗する勢力は牛久保城の牧野民部丞成定、吉田城の大原肥前守資良、田原城の朝比奈肥後守元智に限られていた。ここさえ制圧できれば、家康の悲願ともいえる三河一統を成し遂げられるのだ。
その支度について話し合おうとしていた矢先、築山の屋敷にいるはずの平岩七之助親吉が血相変えて飛び込んできたのである。
「いかがした、七之助!」
温厚で慌てた素振りなどほとんど見かけない平岩七之助の狼狽えように家康は嫌な予感がした。さしずめ竹千代の身に何かあったのであろうと、父としての直感が家康の神経を尖らせる。
「はっ!まずはこの書状を……」
「これは瀬名に宛てた書状ではないか」
平岩七之助が懐より取り出した一通の書状。その宛先は家康の正室・築山殿と書かれている。
「はい。こちら、関口伊豆守様のご夫人よりの一書にございます」
「関口伊豆守じゃと?」
「殿の舅であります、関口刑部少輔様が官途名を改められたのでございます。そのうえで書状をご覧くださいますよう」
官途名を改めていたとは初耳であったが、家康はそのことには触れず、目の前に差し出された一書を右から左へと読み進めていく。関口夫人が記した達筆な文字に感嘆する余力があったのは、冒頭部分までであった。
「なにっ、舅殿が失脚!?」
「はい。加えて、書状にもありますように、竹千代様を当家に引き渡した責任を負って所領の一部を今川家に返上しておった様子にございます」
「それは知らなんだが、よもや舅殿がそのような苦しい立場に置かれておろうとは想像を超えておった。さらには、養嗣子としていた北条助五郎殿も北条家へ返したとあるではないか」
「はい。どうやら関口伊豆守殿が処罰されたことを受けて、北条家から返還を求められたとのこと。そこへ、北条助五郎殿へ嫁いでいた姫君、すなわち御前様の妹君が亡くなられたため、養子縁組は解消となり、北条助五郎殿は小田原へ帰還したとのこと」
「となれば、関口家は後継者不在となり、舅殿が亡くなれば無嗣断絶となるわけか」
そもそもが自分が今川家を離反したことが発端ともなっていることもあり、罪悪感に苛まれてしまうのは無理もなかった。しかし、関口家の立場が危うくなることは家康も築山殿も承知のうえで行動し、今があるのだ。もとより、今さらどうこうできる問題ではなくなっている。
「わしと瀬名にもう一人子がおれば、関口家の名跡を継がせることもできるのじゃが、それも難しい。せめて血筋が残っただけでも良しとするよりほかはなかろうか」
「某もそのように思いまする。何より、御前様は妹君が知らぬ間に亡くなっておったことを気に病んでおられました」
「そうであったか。では、折を見てわしも今一度築山の屋敷を訪ねてみることとしよう。では、七之助。そなたは引き続き築山にて竹千代のことを頼む」
「承知いたしました!では、某はこれにて失礼いたしまする!」
自分と同じく齢二十三となった平岩七之助はもとの温厚な雰囲気を取り戻し、温和な顔つきで退出していく。それを見届けると、家康は一つ息を漏らした。
「殿、関口家がこと、今さら気にしてはなりませぬ。それよりも今は――」
「分かっておる。東三河経略であろう。わしも気持ちを切り替えねばと思い、胸の内に溜めておった空気を吐き出したまで。今さら舅殿らがどうなろうと、わしの心に迷いはない。案ずるなよ、与七郎」
念押しするかのような一言に本性が表れていることに石川与七郎も気づいてはいたが、あえてそこには触れないように何食わぬ顔で東三河経略についての談合へ加わっていく。
「殿が吉田城と田原城を狙われるとあれば、牛久保城はいかがなされまするか。吉田城までの道中ともなりますゆえ、放置するわけには参りませぬ」
「牛久保城には付城を築かせ、包囲を厳重なものとすればよい。吉田城と田原城の今川譜代衆を放逐すれば、自然に降伏してくるであろうし、無駄に三河衆同士で血を流す必要などどこにもない」
「では、付城構築に必要な人夫と材木そのほかの調達はお任せくださいませ。殿は吉田城攻めと田原城攻めのことを」
「うむ。頼むぞ与七郎」
家康からの命を受け、石川与七郎は牛久保城へ築く付城構築の準備を。当の家康は吉田城・田原城の攻略に向けての仕上げに取りかかっていくのであった。
両名は春の温かな日差しを背に受けながら、岡崎城主・松平蔵人佐家康との対面を果たしていた。
「蔵人佐殿。吉良義昭に代わり、東条城主となりました亀千代にございます」
「亀千代、よくぞ参った」
「ははっ!」
松平宗家の当主である家康へ東条松平家の当主である齢九ツの松平亀千代が挨拶の言葉を述べる。ただそれだけなのだが、その家康の応対が明らかにこれまでと違うことを、亀千代に近侍する松井左近はひしひしと感じていた。
これまでの家康であれば、亀千代と呼び捨てにすることなどまずなかった。無論、書状の宛名には殿がつくことに変わりはなく、対面でのやり取りに限られるのだが、それでも呼び方が変わるというのは、明確な違いが生まれている。
東条松平家をはじめ、松平の分家筋として遇されていた立場にあった松平一族は、三河一向一揆平定を経て悉く従属したことを受けて、明確に家康に従う立場となった。それを踏まえて、家康は家臣を呼ぶように他の松平一族も呼び捨てるようにしているのだ。
――昔はどうであれ、今はわしの方が立場は上なのだぞ。
直接口に出さないまでも、それは言語態度に如実に表れている。だが、人格が豹変したのではなく、これまでの松平蔵人佐家康という人物の延長線上にあることは松井左近とて十二分に理解していた。
「此度は当家の松井左近へ五百貫文を加増していただけたこと、この場を借りて御礼申し上げまする」
「九ツとは思えぬ明瞭な受け答え。やはり側に左近がおるからこそ、こうして立派な武士へと成長しつつあるのであろう。うむ、左近はそなたの伯父であり、犬馬の労も惜しまぬ忠勇の士。今後も何事も左近と図り、判断することといたせ」
「ははっ、そういたしまする!」
幼くして当主の座についた松平亀千代に、家康も幼少期の自分の姿を当てはめる。自分が九歳の頃であれば、ちょうど駿府へ人質に出された頃。その頃の自分はこのような受け答えができたであろうかと思い返す契機ともなっていた。
「恐れながら、蔵人佐様。某からも知行を加増していただけましたことへの御礼を述べさせていただきたく」
「うむ。此度の一揆鎮定において、東条松平家はよう働いてくれた。その褒美ゆえ、遠慮することはない。加えて、松井左近には今一つ、取らせたい褒美がある」
「なんと、それは有り難きこと。して、その褒美とは一体何でございましょうか?」
「うむ。入って参れ」
家康は松井左近に褒美があると言うなり、今この空間にはいない誰かへ入室を許可する。そうして松平亀千代と松井左近の前へ姿を現したのは松井左近とそう年齢の変わらぬ落ち着いた雰囲気の女性と年端もいかぬ五人の少女たちであった。
「蔵人佐様。こちらの方々は……」
「うむ。わしの隣におる女子は側室での」
「おお、左様にございましたか」
「当家の家老を務める石川与七郎数正の生母で、能見の松平二郎右衛門重吉が娘じゃ」
そこまで聞くと、情報量の多さに松井左近は一瞬思考が停止してしまう。しかし、そこへさらなる混乱をもたらす情報が叩き込まれる。
「この女子を松井左近、そなたの継室として迎えてもらいたいのじゃ」
「なっ、なんと!?」
「聞けばそなたの正室はすでに亡く、寂しい思いをしておるそうではないか。ゆえに、年の近いわしの側室を遣わす」
主君の主君にあたる立場の家康の側室を自分の妻として迎える。そのことの重大さをひしひしと感じながら、ちらりと甥であり主君でもある松平亀千代を見やるも、子どもの頭では到底理解できていない様子であった。それは無理もないことではあったが。
「さ、されど、石川与七郎殿のご生母と申せば、昨年亡くなられた石川右近大夫殿のご正室でもあられた御方!ましてや、松平家の出の方を某のような陪臣の身分で貰い受けるわけには参りませぬ!」
「左近、そなたは何か誤解しておるようじゃが、これは打診ではない。わしからの命令じゃ。宗家と東条松平家の交わりをより強固なものとするためにも、この縁組を成立させる必要があるのじゃ」
この褒美について、もはや松井左近に辞退するという選択肢は最初から存在していなかった。となれば、松井左近が今成すべきことはただ一つ、褒美を受け取ることであった。
「然らば、蔵人佐様よりの褒美、ありがたく頂戴いたしまする!」
「よし!加えて、ここにおる五人の少女たちは連れ子じゃ。これも養女として、然るべきところに嫁がせてやってくれ」
「はっ、ははっ!しかと承りましてございます!」
平伏する松井左近は家康の命令で新たに六人、家族が増えることとなった。前妻が亡くなって以来、娘との二人暮らしであった齢四十四の松井左近にとって青天の霹靂ともいえる出来事であった。
「伯父上、何はともあれおめでとうございます」
「う、うむ。よもやこの年で妻を娶り、娘が五人も増えることになろうとは思いも寄らなんだ」
素直に喜べばよいのか、困り切った顔をすればよいのか。どのように反応すればよいのかすら戸惑ってしまう状況となったが、松井左近は六人の女子を新たに伴い、松平亀千代とともに東条城への帰路につくのであった。
「殿、母は左近殿のもとへ嫁ぐことになるのですな」
「おお、与七郎。聞いておったのか」
東条松平家の面々が帰ってまもなく、廊下より姿を現したのは家老・石川与七郎数正であった。
「はい。これにより母や妹たちも少しは落ち着くことができましょう。左近殿ならば母や妹らを悪しく扱うこともないでしょうから」
「いかにもじゃ。じゃが、これでそなたは左近を父と呼ばねばならなくなったの」
「ははは、いかにもに。殿にとっての佐渡守殿のような人にございますからな」
そう、石川与七郎の母を娶ったことで松井左近は継父にあたる人物となったのである。すなわち、石川与七郎にとって、自分より十二歳年長の父が誕生したことを意味する。
「されど、某の母を東条城に送り込むことで、松井左近を取り込もうという殿の狙いは察知されていたようにも思えまするが」
「構わぬ。もとより左近ほどの古強者ならば容易に察知するであろうことは分かり切っておった。じゃが、左近がおらずば、東条松平家の家政は立ち行かぬ。しかも、娘が一人しかおらぬとあっては、左近が死すれば亀千代を補佐する縁者が居なくなってもしまう。そなたの母が左近との間に嫡男を上げれば、それも解決するのじゃが……」
「母も何分老境に差し掛かってもおります。子が生まれるのは難しゅうございましょう。となれば、花とか申す一人娘と誰ぞを娶わせ、婿養子を取るというのが現実的な選択となろうかと」
「うむ、わしも同意見じゃ。齢はそなたの息子らと近いゆえ、次男か三男あたりを出してもらうことになるやもしれぬ」
「なるほど。前妻の娘に後妻の孫を娶らせるわけですな」
「そうなるか。わしとしても石川家から出てくれれば心強いのじゃが、ある程度の東条松平家中からの反発は覚悟せねばならぬか」
齢四十を過ぎてなお、後継者が不在の松井左近。彼が不在となれば、まだ幼い亀千代を誰が補佐していくのか。そのことを見据えて、家康は石川与七郎と議論を重ねていくが、あくまでも妄想の域を出ない。
「そうです、殿。先日、見付端城の堀越氏延が遠江衆や東三河の大原肥前守らの軍勢に攻められ、自刃したとの知らせが入ってございます」
「なんと、遠江今川氏は滅亡したと申すか!」
「はい。他の国衆家での内訌も鎮まりつつあり、もはや遠江にて反今川を掲げるは飯尾豊前守殿だけとなっておりまする」
「そうであったか……」
石川与七郎からもたらされた情報に、嘆息する家康。遠州忩劇が鎮定されつつある今、先月対面を果たした飯尾豊前守連龍も降伏を願い出る可能性が濃厚となった。ともすれば、今川氏真は再び東三河へと援軍を増派してくる恐れもある。
「殿、これは吉田城攻めを早める必要がございますな」
「うむ。来月には攻撃を始めることといたそう。加えて、田原城も一挙に陥落せしめ、東三河の経略を遂げるつもりで支度を進めねばならぬ」
東三河において抵抗する勢力は牛久保城の牧野民部丞成定、吉田城の大原肥前守資良、田原城の朝比奈肥後守元智に限られていた。ここさえ制圧できれば、家康の悲願ともいえる三河一統を成し遂げられるのだ。
その支度について話し合おうとしていた矢先、築山の屋敷にいるはずの平岩七之助親吉が血相変えて飛び込んできたのである。
「いかがした、七之助!」
温厚で慌てた素振りなどほとんど見かけない平岩七之助の狼狽えように家康は嫌な予感がした。さしずめ竹千代の身に何かあったのであろうと、父としての直感が家康の神経を尖らせる。
「はっ!まずはこの書状を……」
「これは瀬名に宛てた書状ではないか」
平岩七之助が懐より取り出した一通の書状。その宛先は家康の正室・築山殿と書かれている。
「はい。こちら、関口伊豆守様のご夫人よりの一書にございます」
「関口伊豆守じゃと?」
「殿の舅であります、関口刑部少輔様が官途名を改められたのでございます。そのうえで書状をご覧くださいますよう」
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「なにっ、舅殿が失脚!?」
「はい。加えて、書状にもありますように、竹千代様を当家に引き渡した責任を負って所領の一部を今川家に返上しておった様子にございます」
「それは知らなんだが、よもや舅殿がそのような苦しい立場に置かれておろうとは想像を超えておった。さらには、養嗣子としていた北条助五郎殿も北条家へ返したとあるではないか」
「はい。どうやら関口伊豆守殿が処罰されたことを受けて、北条家から返還を求められたとのこと。そこへ、北条助五郎殿へ嫁いでいた姫君、すなわち御前様の妹君が亡くなられたため、養子縁組は解消となり、北条助五郎殿は小田原へ帰還したとのこと」
「となれば、関口家は後継者不在となり、舅殿が亡くなれば無嗣断絶となるわけか」
そもそもが自分が今川家を離反したことが発端ともなっていることもあり、罪悪感に苛まれてしまうのは無理もなかった。しかし、関口家の立場が危うくなることは家康も築山殿も承知のうえで行動し、今があるのだ。もとより、今さらどうこうできる問題ではなくなっている。
「わしと瀬名にもう一人子がおれば、関口家の名跡を継がせることもできるのじゃが、それも難しい。せめて血筋が残っただけでも良しとするよりほかはなかろうか」
「某もそのように思いまする。何より、御前様は妹君が知らぬ間に亡くなっておったことを気に病んでおられました」
「そうであったか。では、折を見てわしも今一度築山の屋敷を訪ねてみることとしよう。では、七之助。そなたは引き続き築山にて竹千代のことを頼む」
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「殿、関口家がこと、今さら気にしてはなりませぬ。それよりも今は――」
「分かっておる。東三河経略であろう。わしも気持ちを切り替えねばと思い、胸の内に溜めておった空気を吐き出したまで。今さら舅殿らがどうなろうと、わしの心に迷いはない。案ずるなよ、与七郎」
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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