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第5章 飛竜乗雲の章
第208話 続・曳馬城をめぐる駆け引き
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三河一向一揆との本格的な合戦が連日のように行われていた永禄七年一月から丸二年が経過したことを意味する永禄九年一月も瞬く間に過ぎ去っていき、睦月より如月へと移り変わった。
二月十日、家康は先月曳馬城へ派遣した渡辺庄右衛門勢からの報告を受けて以後も江馬兄弟と帰属条件についての交渉を幾度も行っていた。そして、家康はようやく江馬兄弟の納得する条件を引き出すことに成功し、ついに曳馬城は松平方へ帰属することが合意に達した。
その喜びを胸に家康は文机に向かい、起請文と二通の知行宛行状をしたためていた。
「殿、そちらが江馬兄弟へ宛てた起請文にございまするか」
「おお、与七郎。良いところに来た。読んでみるがよい」
「然らばお預かりいたしまする」
書院を訪れた石川与七郎数正へ家康は起請文を手渡す。内容に不都合がないか、しっかり者である石川与七郎にも確認させておくに越したことはないと考えてのことであった。
そんな起請文に記されていたのは要点をまとめると五カ条。
一つ目、昨年末に石川与七郎が酒井左衛門尉忠次と連署で記した起請文にもあった加勢は間違いなく派遣すること。
二つ目、ここまで交渉に尽力した江馬安芸守泰顕・加賀守時茂の兄弟が曳馬城代となることを認めること。
三つ目、浜松庄の知行と、善六郎こと飯尾為清や松下一類の跡職などの支配を承認すること。
四つ目、美園郷を安堵すること。
五つ目、川東に出陣し忠節を尽くしたならば、新たに五千貫文を与える用意があること。
「なるほど、加勢と知行安堵については当初から変わらず、といったところにございましょうか」
「うむ。これはかねてより江馬兄弟が要望しておった条項じゃ。加えて、あやつらが城代となることも認めておいた。こうしておけば空き船の船頭も定まり、籠城衆も動きやすくなるというものであろう」
「それは一理ありまする。して、川東とは天竜川のことに?」
「そうじゃ」
「なるほど、天竜川を渡河して出陣したならば新たに五千貫文を与えるとは、ずいぶん大きく出られましたな。こればかりはちと破格すぎるのではないかと、与七郎は考えまする」
「そうであろうか。じゃが、今の飯尾遺臣どもに川東まで出兵する余力がないことを見越して誓約したことゆえ、空約束ともいえようか」
曳馬城に籠城する飯尾遺臣らは自領防衛だけで手一杯であることくらい、家康にも分かっていた。そもそも、それだけの力があれば家康へ支援要請をしてくることもないからだ。
そうしたことを踏まえたうえで五千貫文を約束するのは、籠城衆に希望を持たせる撒き餌と捉えられる。
「さりとて、天竜川東まで飯尾遺臣らが攻め込んでくれれば当家としても好都合。ゆえに、某も異議はございませぬ」
「では、起請文の内容は与七郎も異議がないとのことゆえ、このまま曳馬城へ届けさせようぞ」
家康は江馬兄弟宛の起請文は完成したとして加筆する必要のない書状を脇へ置き、もう二通の書状を石川与七郎へ手渡す。
「殿、これは江馬安芸守泰顕と江馬加賀守時茂の両名に宛てた知行宛行状にございますか」
「そうじゃ」
「江馬加賀守へ入野郷をはじめとする十二ヶ郷にて計千二百二十貫文を与えるとは、破格にございますな」
「それしきのこと、百も承知よ。じゃが、そこまでしてわしが江馬兄弟を繋ぎ止めておきたいと願っておること、両名にも通じるであろう」
「はっ、これならば殿のお考えも伝わるでしょうが、足元を見られることにもなりかねませぬ」
破格の条件を出してでも味方にしたい。それを知行宛行状に記すことの裏には、石川与七郎も指摘したように足元を見られる恐れも孕んでいる。家康としても石川与七郎の言い分は理解しつつも、江馬兄弟が今川方へ転じられることの方が恐ろしいと考えての布石であった。
結局、石川与七郎がそれ以上江馬兄弟宛の知行宛行状について意見を述べることはなかったため、家康は先ほどの起請文とともに曳馬城の江馬兄弟へ届けさせたのである。
家康が江馬兄弟へ破格の条件を提示して味方へ引き入れようと交渉を続ける最中の二月十七日。矢島御所にて足利義輝の弟・一乗院覚慶が還俗し、足利義秋を名乗った。
これにより足利義秋が室町幕府第十四代将軍となる意思を鮮明にしたことを意味し、彼を庇護し、上洛を手助けせんとする者たちの士気を大いに底上げすることとなったのである。
そうして迎えた永禄九年四月。義信事件以後、武田家への不信感が増大しつつあった今川家においても、一つの動きが見られた。
「御屋形様」
「おお、右衛門大夫か。何事か」
「はっ、富士大宮の六斎市を楽市とする旨を富士信忠殿へお命じになられたとか」
「うむ、命じた。不服か」
「滅相もございませぬ。此度併せてお命じになられた徳政の実施や役の免除につきましても、従来のような政策では行き詰っておったところ。此度の楽市のことは領国再編にも大きな意味を持ちましょう」
三河が実質的に家康により支配されたことで駿河・遠江の二ヵ国へと領国を縮小させる結果となった。このことは氏真としても強い危機感を抱いており、支配体制の再編に迫られていた。
従来の今川家は国人的土豪層を基盤とする守護大名的ともいえる形で領国の秩序を保ってきた。しかし、それも行き詰まりを見せ始めていたため、そこに目を付けた氏真は年貢負担者、すなわち本百姓を基盤とする戦国大名的秩序への脱皮を図った。
その一手として、日ノ本中のどの戦国大名よりも早く楽市の政策を実施することで衰退に歯止めをかけようとしたのである。しかし、原因がそれだけでなく、特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題にもあったのだが、そのことに氏真は意識が向いていなかった。
「御屋形様、富士信忠殿の所領は甲斐の武田領にも近うございます。武田との戦に向けて、軍事的にも支援する体制を整えておくべきかと存じまする」
「そのことは予も承知しておる。されど、未だ甲斐へ潜らせた草の者からは太郎殿が廃嫡されたとの報せが入っておらぬゆえ、まこと敵対する意志があるのか、測りかねておる」
「なるほど、御屋形様は太郎殿の幽閉が一時的なものでいずれは嫡男として復帰するとのお考えに」
「そうじゃ。廃嫡ともなれば、我が妹も離縁となろうが、そのことについても何の便りもない。とあらば、武田と無理に事を荒立てる必要もないというのが予の考えである」
氏真の考えは奇しくも叔父・徳栄軒信玄の思惑と概ね一致していたのである。しかし、それを聞いた三浦右衛門大夫真明は甘い、と断ぜざるを得なかった。さりとて、己の考えを断言した氏真に対して意見するほど、三浦右衛門大夫は人の心の機微が読めない人間ではなかった。
「なるほど、さすがは御屋形様にございます。然らば、今のうちに西の憂いを取り除いておくのはいかがでございましょう」
「西の憂いと申すは飯尾遺臣どもが籠もる曳馬城のことか」
「いかにも。堀江城の大澤左衛門佐殿からの便りでは三河方面からひっきりなしに怪しげな者が出入りしておると記してございました。おそらく蔵人佐めが曳馬城の奪取に躍起になっているのでしょう」
「左様か。まこと蔵人佐も抜け目のない男よ……。然らば、こちらからも働きかけることとしようぞ。江馬兄弟へ判物を与え、山崎郷をはじめ五ヶ郷で一千貫文を安堵する旨を保障することとしようぞ」
「なんと!飯尾遺臣風情に兄弟併せて一千貫文とは破格の待遇ではございませぬか!?」
「構わぬ。ここで出し渋り、曳馬城を松平に抑えられてはならぬ。そのための一千貫文ならば惜しくはない」
こうして曳馬城の江馬兄弟に目を付けた今川氏真もまた、彼ら飯尾遺臣を味方に引き入れるべく、調略を開始。曳馬城をめぐる駆け引きは一層激しさを増すかに思われた。
冬を乗り越えたことを祝福するかのように春の暖気に満ちる曳馬城では、籠城衆を束ねる江馬兄弟が松平と今川、どちらに帰属するべきか、家康・氏真の両者から届けられた書状を見比べながら膝づめで談義していた。
「兄上、某は松平へ味方すべきであると考えまする」
「そちも同意見であったか」
「はい。蔵人佐殿はいかに支援するかまで、具体的に示してきておりますが、今川方からは所領は安堵するゆえ投降せよとの一点張り」
「いかにも。駿府からは我ら兄弟併せて一千貫文を保証するなどと偉そうに申してきておるが、蔵人佐殿は我ら兄弟それぞれに千二百貫文を与えると約して参られた。度量の大きさがまるで違う」
家康の知行宛行状と氏真の判物を見比べた江馬兄弟の意見は一致した。どこまでも江馬兄弟に寄り添う意思を見せる家康か、高飛車に投降を促してくる氏真か。このどちらに降るかなど、江馬兄弟でなくとも迷う余地はなかった。
そんな家康への帰属を決断した江馬兄弟はその返答を携えた使者を岡崎へ急派し、まずは今川方の侵攻に備えるべく援軍を派遣してほしいと願い出たのである。
「おお、ご両名とも我らに従属されると……!」
「はっ!つきましては、起請文にもありましたように加勢を派遣していただきたく!」
「よかろう!そのつもりで当家も支度を整えておる」
家康は使者へ援軍派遣を即答すると、厳めしい面で広間の隅に座す家臣・本多百助信俊を差し招いた。
「松平様、こちらの御仁は……?」
「うむ。この者は当家随一の豪傑、本多百助と申す者。かつて今川氏真自らが東三河へ侵攻した折、一宮砦を堅守しておった者じゃ」
「おお、本多百助殿と申せば、遠江で知らぬ者はおらぬ豪傑にございまする!そのような方が援軍として参られると聞けば、城内の者も奮起いたしましょう!」
主君からも使者からも豪傑ともてはやされた本多百助は照れくさそうに頬をかく。それを見た家康は可愛い奴だと思いながらも、表情を使者の前で崩すようなことはなく、あくまでも威厳を保ったまま、援軍として曳馬城へ入るよう本多百助へ命じていく。
「百助、先日支度するよう申し渡した手勢を引き連れて遠州曳馬城へ入り、城代の江馬兄弟と連携を密にし、今川方の攻撃から城を死守せよ」
「ははっ!お任せくださいませ!たとえ今川氏真自ら遠征して参ろうとも、蹴散らしてご覧にいれまする!」
「頼むぞ、百助」
家康から曳馬城のことを念押しされた本多百助は久方ぶりの戦に血が騒いでいる様子であった。そんな豪傑が加勢として城に入ると家康本人の口から聞けたことに満足した使者はただちに遠州へ引き返さんと立ち上がる。
「使者殿、もう行ってしまわれるか」
「はっ!このことを城に籠もる同士たちへ一刻も早う知らせてやりたく思います……!」
「そうか。して、使者殿。貴殿の名は」
「はっ、江馬加賀守が家臣、小野田彦右衛門と申しまする!」
「小野田彦右衛門殿か。その名、しかと記憶しておく。道中、気をつけて戻られよ」
「お気遣いかたじけのうございます。ではこれにて失礼いたしまする!」
江馬兄弟の弟・加賀守時茂の家臣と名乗った小野田彦右衛門は礼儀正しく一礼すると、足早に広間を退出し、曳馬城への帰路についたのであった。
「殿、然らば某もただちに兵を引き連れて遠州へ出立いたしまする。今川方へこのことが伝われば、すぐにも攻撃が始まりましょうゆえ」
「そうであろうな。では、百助。しかと曳馬城のことを頼む。何か変事あらば、すぐにわしへ知らせるように」
「委細承知!では、行って参りまする!」
松平家中が誇る豪傑・本多百助信俊は家康より与えられた曳馬城への援兵という責任重大な使命を帯び、鍛え上げた精鋭を率いて岡崎城を出立していく。
「殿、無事に曳馬城を味方に引き入れられたこと、心よりお祝い申し上げまする」
「与七郎か。じゃが、まだまだ戦はこれからじゃ。三河を奪取したとはいえ、今川家は未だ駿州と遠州を領する大敵。油断できる相手ではないゆえな」
「いかにも。この曳馬城が当家に帰属したことを受けて、遠江衆をどれだけ取り込めるか、その調略にかかっていると申しても過言ではございませぬ」
曳馬城を味方に引き入れたことで西遠江への道は拓かれた。さりとて、遠州で家康帰属を表明しているのは一城のみ。石川与七郎の言う通り、ここからどこまで味方に増やせるか、それにすべてがかかっていると言っても良い状況であった。
「案ずるでない。手始めに三河と遠江の国境付近の国衆らから調略を開始しておるところじゃ。その儀については左衛門尉からもいずれ便りがあろう」
三河に隣接する西遠江から調略を開始する段取りで動きつつある主君・家康を頼もしく思う石川与七郎なのであった――
二月十日、家康は先月曳馬城へ派遣した渡辺庄右衛門勢からの報告を受けて以後も江馬兄弟と帰属条件についての交渉を幾度も行っていた。そして、家康はようやく江馬兄弟の納得する条件を引き出すことに成功し、ついに曳馬城は松平方へ帰属することが合意に達した。
その喜びを胸に家康は文机に向かい、起請文と二通の知行宛行状をしたためていた。
「殿、そちらが江馬兄弟へ宛てた起請文にございまするか」
「おお、与七郎。良いところに来た。読んでみるがよい」
「然らばお預かりいたしまする」
書院を訪れた石川与七郎数正へ家康は起請文を手渡す。内容に不都合がないか、しっかり者である石川与七郎にも確認させておくに越したことはないと考えてのことであった。
そんな起請文に記されていたのは要点をまとめると五カ条。
一つ目、昨年末に石川与七郎が酒井左衛門尉忠次と連署で記した起請文にもあった加勢は間違いなく派遣すること。
二つ目、ここまで交渉に尽力した江馬安芸守泰顕・加賀守時茂の兄弟が曳馬城代となることを認めること。
三つ目、浜松庄の知行と、善六郎こと飯尾為清や松下一類の跡職などの支配を承認すること。
四つ目、美園郷を安堵すること。
五つ目、川東に出陣し忠節を尽くしたならば、新たに五千貫文を与える用意があること。
「なるほど、加勢と知行安堵については当初から変わらず、といったところにございましょうか」
「うむ。これはかねてより江馬兄弟が要望しておった条項じゃ。加えて、あやつらが城代となることも認めておいた。こうしておけば空き船の船頭も定まり、籠城衆も動きやすくなるというものであろう」
「それは一理ありまする。して、川東とは天竜川のことに?」
「そうじゃ」
「なるほど、天竜川を渡河して出陣したならば新たに五千貫文を与えるとは、ずいぶん大きく出られましたな。こればかりはちと破格すぎるのではないかと、与七郎は考えまする」
「そうであろうか。じゃが、今の飯尾遺臣どもに川東まで出兵する余力がないことを見越して誓約したことゆえ、空約束ともいえようか」
曳馬城に籠城する飯尾遺臣らは自領防衛だけで手一杯であることくらい、家康にも分かっていた。そもそも、それだけの力があれば家康へ支援要請をしてくることもないからだ。
そうしたことを踏まえたうえで五千貫文を約束するのは、籠城衆に希望を持たせる撒き餌と捉えられる。
「さりとて、天竜川東まで飯尾遺臣らが攻め込んでくれれば当家としても好都合。ゆえに、某も異議はございませぬ」
「では、起請文の内容は与七郎も異議がないとのことゆえ、このまま曳馬城へ届けさせようぞ」
家康は江馬兄弟宛の起請文は完成したとして加筆する必要のない書状を脇へ置き、もう二通の書状を石川与七郎へ手渡す。
「殿、これは江馬安芸守泰顕と江馬加賀守時茂の両名に宛てた知行宛行状にございますか」
「そうじゃ」
「江馬加賀守へ入野郷をはじめとする十二ヶ郷にて計千二百二十貫文を与えるとは、破格にございますな」
「それしきのこと、百も承知よ。じゃが、そこまでしてわしが江馬兄弟を繋ぎ止めておきたいと願っておること、両名にも通じるであろう」
「はっ、これならば殿のお考えも伝わるでしょうが、足元を見られることにもなりかねませぬ」
破格の条件を出してでも味方にしたい。それを知行宛行状に記すことの裏には、石川与七郎も指摘したように足元を見られる恐れも孕んでいる。家康としても石川与七郎の言い分は理解しつつも、江馬兄弟が今川方へ転じられることの方が恐ろしいと考えての布石であった。
結局、石川与七郎がそれ以上江馬兄弟宛の知行宛行状について意見を述べることはなかったため、家康は先ほどの起請文とともに曳馬城の江馬兄弟へ届けさせたのである。
家康が江馬兄弟へ破格の条件を提示して味方へ引き入れようと交渉を続ける最中の二月十七日。矢島御所にて足利義輝の弟・一乗院覚慶が還俗し、足利義秋を名乗った。
これにより足利義秋が室町幕府第十四代将軍となる意思を鮮明にしたことを意味し、彼を庇護し、上洛を手助けせんとする者たちの士気を大いに底上げすることとなったのである。
そうして迎えた永禄九年四月。義信事件以後、武田家への不信感が増大しつつあった今川家においても、一つの動きが見られた。
「御屋形様」
「おお、右衛門大夫か。何事か」
「はっ、富士大宮の六斎市を楽市とする旨を富士信忠殿へお命じになられたとか」
「うむ、命じた。不服か」
「滅相もございませぬ。此度併せてお命じになられた徳政の実施や役の免除につきましても、従来のような政策では行き詰っておったところ。此度の楽市のことは領国再編にも大きな意味を持ちましょう」
三河が実質的に家康により支配されたことで駿河・遠江の二ヵ国へと領国を縮小させる結果となった。このことは氏真としても強い危機感を抱いており、支配体制の再編に迫られていた。
従来の今川家は国人的土豪層を基盤とする守護大名的ともいえる形で領国の秩序を保ってきた。しかし、それも行き詰まりを見せ始めていたため、そこに目を付けた氏真は年貢負担者、すなわち本百姓を基盤とする戦国大名的秩序への脱皮を図った。
その一手として、日ノ本中のどの戦国大名よりも早く楽市の政策を実施することで衰退に歯止めをかけようとしたのである。しかし、原因がそれだけでなく、特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題にもあったのだが、そのことに氏真は意識が向いていなかった。
「御屋形様、富士信忠殿の所領は甲斐の武田領にも近うございます。武田との戦に向けて、軍事的にも支援する体制を整えておくべきかと存じまする」
「そのことは予も承知しておる。されど、未だ甲斐へ潜らせた草の者からは太郎殿が廃嫡されたとの報せが入っておらぬゆえ、まこと敵対する意志があるのか、測りかねておる」
「なるほど、御屋形様は太郎殿の幽閉が一時的なものでいずれは嫡男として復帰するとのお考えに」
「そうじゃ。廃嫡ともなれば、我が妹も離縁となろうが、そのことについても何の便りもない。とあらば、武田と無理に事を荒立てる必要もないというのが予の考えである」
氏真の考えは奇しくも叔父・徳栄軒信玄の思惑と概ね一致していたのである。しかし、それを聞いた三浦右衛門大夫真明は甘い、と断ぜざるを得なかった。さりとて、己の考えを断言した氏真に対して意見するほど、三浦右衛門大夫は人の心の機微が読めない人間ではなかった。
「なるほど、さすがは御屋形様にございます。然らば、今のうちに西の憂いを取り除いておくのはいかがでございましょう」
「西の憂いと申すは飯尾遺臣どもが籠もる曳馬城のことか」
「いかにも。堀江城の大澤左衛門佐殿からの便りでは三河方面からひっきりなしに怪しげな者が出入りしておると記してございました。おそらく蔵人佐めが曳馬城の奪取に躍起になっているのでしょう」
「左様か。まこと蔵人佐も抜け目のない男よ……。然らば、こちらからも働きかけることとしようぞ。江馬兄弟へ判物を与え、山崎郷をはじめ五ヶ郷で一千貫文を安堵する旨を保障することとしようぞ」
「なんと!飯尾遺臣風情に兄弟併せて一千貫文とは破格の待遇ではございませぬか!?」
「構わぬ。ここで出し渋り、曳馬城を松平に抑えられてはならぬ。そのための一千貫文ならば惜しくはない」
こうして曳馬城の江馬兄弟に目を付けた今川氏真もまた、彼ら飯尾遺臣を味方に引き入れるべく、調略を開始。曳馬城をめぐる駆け引きは一層激しさを増すかに思われた。
冬を乗り越えたことを祝福するかのように春の暖気に満ちる曳馬城では、籠城衆を束ねる江馬兄弟が松平と今川、どちらに帰属するべきか、家康・氏真の両者から届けられた書状を見比べながら膝づめで談義していた。
「兄上、某は松平へ味方すべきであると考えまする」
「そちも同意見であったか」
「はい。蔵人佐殿はいかに支援するかまで、具体的に示してきておりますが、今川方からは所領は安堵するゆえ投降せよとの一点張り」
「いかにも。駿府からは我ら兄弟併せて一千貫文を保証するなどと偉そうに申してきておるが、蔵人佐殿は我ら兄弟それぞれに千二百貫文を与えると約して参られた。度量の大きさがまるで違う」
家康の知行宛行状と氏真の判物を見比べた江馬兄弟の意見は一致した。どこまでも江馬兄弟に寄り添う意思を見せる家康か、高飛車に投降を促してくる氏真か。このどちらに降るかなど、江馬兄弟でなくとも迷う余地はなかった。
そんな家康への帰属を決断した江馬兄弟はその返答を携えた使者を岡崎へ急派し、まずは今川方の侵攻に備えるべく援軍を派遣してほしいと願い出たのである。
「おお、ご両名とも我らに従属されると……!」
「はっ!つきましては、起請文にもありましたように加勢を派遣していただきたく!」
「よかろう!そのつもりで当家も支度を整えておる」
家康は使者へ援軍派遣を即答すると、厳めしい面で広間の隅に座す家臣・本多百助信俊を差し招いた。
「松平様、こちらの御仁は……?」
「うむ。この者は当家随一の豪傑、本多百助と申す者。かつて今川氏真自らが東三河へ侵攻した折、一宮砦を堅守しておった者じゃ」
「おお、本多百助殿と申せば、遠江で知らぬ者はおらぬ豪傑にございまする!そのような方が援軍として参られると聞けば、城内の者も奮起いたしましょう!」
主君からも使者からも豪傑ともてはやされた本多百助は照れくさそうに頬をかく。それを見た家康は可愛い奴だと思いながらも、表情を使者の前で崩すようなことはなく、あくまでも威厳を保ったまま、援軍として曳馬城へ入るよう本多百助へ命じていく。
「百助、先日支度するよう申し渡した手勢を引き連れて遠州曳馬城へ入り、城代の江馬兄弟と連携を密にし、今川方の攻撃から城を死守せよ」
「ははっ!お任せくださいませ!たとえ今川氏真自ら遠征して参ろうとも、蹴散らしてご覧にいれまする!」
「頼むぞ、百助」
家康から曳馬城のことを念押しされた本多百助は久方ぶりの戦に血が騒いでいる様子であった。そんな豪傑が加勢として城に入ると家康本人の口から聞けたことに満足した使者はただちに遠州へ引き返さんと立ち上がる。
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「お気遣いかたじけのうございます。ではこれにて失礼いたしまする!」
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「そうであろうな。では、百助。しかと曳馬城のことを頼む。何か変事あらば、すぐにわしへ知らせるように」
「委細承知!では、行って参りまする!」
松平家中が誇る豪傑・本多百助信俊は家康より与えられた曳馬城への援兵という責任重大な使命を帯び、鍛え上げた精鋭を率いて岡崎城を出立していく。
「殿、無事に曳馬城を味方に引き入れられたこと、心よりお祝い申し上げまする」
「与七郎か。じゃが、まだまだ戦はこれからじゃ。三河を奪取したとはいえ、今川家は未だ駿州と遠州を領する大敵。油断できる相手ではないゆえな」
「いかにも。この曳馬城が当家に帰属したことを受けて、遠江衆をどれだけ取り込めるか、その調略にかかっていると申しても過言ではございませぬ」
曳馬城を味方に引き入れたことで西遠江への道は拓かれた。さりとて、遠州で家康帰属を表明しているのは一城のみ。石川与七郎の言う通り、ここからどこまで味方に増やせるか、それにすべてがかかっていると言っても良い状況であった。
「案ずるでない。手始めに三河と遠江の国境付近の国衆らから調略を開始しておるところじゃ。その儀については左衛門尉からもいずれ便りがあろう」
三河に隣接する西遠江から調略を開始する段取りで動きつつある主君・家康を頼もしく思う石川与七郎なのであった――
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やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
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