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第5章 飛竜乗雲の章
第210話 尾濃無事
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家康が三河国主となった永禄九年五月より一月半が過ぎた七月のことである。尾張の織田尾張守信長にとって一大事とも呼べる出来事があった。
「殿、美濃一色氏との和睦が成就したとのこと、祝着至極に存じます」
「おう、三郎五郎兄者か。越後の上杉弾正少弼殿とも義秋様支援を通じて通交も叶い、さらには東美濃をめぐって一触即発となった甲斐の信玄殿とも我らが姪を諏訪四郎勝頼殿へ嫁がせることで甲尾同盟も成っておる。そこへ、尾濃無事も成就したことゆえ、義秋様の上洛支援も現実味を帯びて参ったわ」
「さすがは殿。たしか、和田伊賀守殿や細川与一郎殿へは来る八月二十二日、義秋様が滞在されておられる江州矢島へ尾張、美濃、伊勢、三河の四ヶ国より動員した軍勢を率いて出陣し、上洛供奉をなされると返答されたのでしたな」
「で、ある。三州からも戦が一区切りしたゆえ、同道仕らんとの書状を受けてもおる」
「三州とは岡崎の蔵人佐殿がことにございますか」
異母兄・三郎五郎信広の言葉に、信長は大きく頷く。三河平定を成し遂げ、三河国主となった家康。彼のことを三州と国名で称すことこそが国主の地位を表現する。それゆえに、信長は家康のことを『三州』と呼んだのである。
「当家だけでなく、三河の松平勢、美濃の一色勢が動き、江州では浅井勢や六角勢が加わると聞けば、今ごろ三好三人衆どもは震え上がっておりましょうな」
「ははは、あれしきの逆賊どもなど恐れるに足らず。今年のうちには義輝公の墓前へ首を懸け並べることも叶おうぞ」
「そうなれば、殿は管領代ともいえる立場に補任されましょう」
「かの大内義興公が任じられたとかいう役職がことか。そのような幕府の役職などに興味はない」
「殿らしいお考えにございますな。ともあれ、上洛が叶えば義秋様から恩賞もいただけましょうゆえ、何を願い出られるか、今から考えておいても良いのではございませぬか」
「で、あるか。さすれば三郎五郎兄者の申す通り、恩賞について一度考えてみることとしようぞ」
織田家では早くも来月の上洛後を夢見ていたのだが、翌八月の三日、足利義秋のいる矢島御所へ危機が迫る――
「義秋様!一大事にございます!」
「いかがした、伊賀守!そのように声を荒げて、何事か!」
常より取り乱すことのない和田伊賀守惟政が血相を変えて自分のもとへ駆け込んできた。それだけで、足利義秋は嫌な予感がしていた。
「はっ、三好日向守長逸の軍勢およそ三千余騎がこれへと攻め寄せて参るとのこと!」
「なっ……!」
「重ねてご報告したきことがございます」
仰天し目を見開く足利義秋へ、和田伊賀守が耳打ちする。その内容に、足利義秋は戦慄することとなる。
「この御所に三好三人衆へ内通する者がおると……!」
「はい。でなくば、三好日向守がこのように焦って御所へ進軍して参るような者ではないこと、義秋様の方が存じておりましょう」
「むっ、ならば織田殿が今月中にも大軍勢を率いて上洛するという話が内通者から漏れ、それゆえ焦って攻め寄せて参るということか」
「そうであるならば、此度の事態に合点が行くのでございます」
和田伊賀守の申すことが真であるならば、織田信長の上洛が現実味を帯びてきたことを受けて、三好三人衆が先制攻撃を仕掛けてきたというのが真相であろうか。
「して、三千もの三好勢を防ぎきれるか」
「ご案じなさいますな。この御所へ踏み込ませるようなことはいたしませぬ。敵は御所しか見ておりませぬゆえ、我ら奉公衆が坂本へ進み出て撃退いたしまする」
「策はあるのか」
「ございませぬ。遮二無二敵兵を斬り倒すのみ」
――危うい賭けだ。
その言葉が義秋の脳裏に浮かんだ。しかし、そうでなければそれこそ矢島御所が戦場ともなってしまう。それならば、奉公衆を坂本まで押し出して迎え撃つのが最善の策とも言えた。
かくして和田伊賀守の進言を聞き入れた足利義秋の命を受け、奉公衆らは坂本にて三好勢と激突。奉公衆の奮戦により、からくも撃退することができたのである。
この矢島御所で起きた危機は数日のうちに小牧山城の信長のもとへと報じられた。
「ちっ、三好三人衆どもが御所を襲撃せんと謀ったか」
矢島御所から届けられた衝撃の一報に焦燥感を募らせる信長。そんな夫を側から見守る一人の正妻の姿があった。そう、斎藤道三の娘・濃姫である。
「あなた様、どうか落ち着かれませ。あなた様が上洛されると聞き、三好の者らも焦っておるのでしょう。ここは予定通り、二十二日にご出陣遊ばされ、万全を期して逆賊を征討するべきです」
「で、ある。さすがはお濃、よくぞおれの焦りを払拭してくれた!されど、悠長に構えてはおれぬ。このままでは義秋様の御身が危うい」
「存じております。されど、近江には六角承禎様やあなた様の妹婿となられた浅井備前守長政殿がおるのです。万が一の折には彼らが援兵を派遣いたしましょう」
気持ちが遠く矢島御所にある夫の手綱をどう操るべきか、それを濃姫はよくよく心得ていた。そうして出陣予定日の八月二十二日を迎えた。
信長はただちに出陣し、尾張・伊勢から招集した軍勢を率いて美濃との国境を目指して進軍を開始したのである。しかし、桶狭間合戦の時とは異なり、天候は信長の味方とはならなかった。
降りしきる雨によって予期せぬ出水に遭遇し、濃尾平野のあちこちを流れる川を渡河するのにも難儀し、濃尾国境を越える頃には七日が経過し、八月二十九日となっていた。
「殿、ひとまず木曽川を渡り、河野島へ入りましょうぞ」
「ちっ、あと少しで中山道へ入れるものを……!やむを得ぬ、ひとまず河野島に入り、水が引くのを待つことといたす!者ども、続け!」
信長はおよそ五里先に見える稲葉山城を睨みつけながら、やっとの思いで木曾川を渡河。河野島へ入ったのである。上洛に向けての進軍が初手からつまずいていることに焦る信長は、その稲葉山から嘲笑する甥の次なる行動を察知することができなかった。
河野島へ布陣し、沛然と鎧兜を叩く雨音が落ち着くのをじっと待つ信長のもとへ、予想だにしない事態を告げる伝令が駆け込む。
「申し上げます!」
「何事か!」
「はっ!対岸の神置に撫子の旗を確認!数千もの美濃一色勢が着陣した模様!」
「たわけめ、渡河に苦心する我らを支援するべく迎えに参ったものであろう」
「いいえ!対岸に木楯を並べ、渡河する構えを見せておりますれば……!」
対岸に木楯を並べる。間違いなく、戦をする気である。誰と?対岸の信長と、である。
信じられぬといった様子で対岸を確認できる場所へと繰り出した信長は報せが誤りではなかったと悟った。
「謀られたか」
美濃のことなど歯牙にもかけていなかったことが、今ここで裏目に出た。はなから甥の一色右兵衛大夫龍興には織田と和議を結ぶつもりなどなかったのである。
「殿、いかがなされますか!」
「戦支度じゃ!川沿いに布陣し、一色勢との戦に備えよ!」
ただちに美濃一色勢との戦支度を整えるべく布陣するよう信長は下知した。しかし、天運というものはここへ来て信長へ味方した。大雨によって木曾川が洪水となり、翌三十日から九日間、両者ともに身動きが取れなくなったのである。
しかし、信長が美濃一色氏の裏切りに遭い、河野島へ釘付けとなるのと同じ八月二十九日。長らく足利義秋を庇護していた六角氏が叛意を見せたのである。
父・承禎と違い、当初から足利義秋を庇護することを快く思っていなかった当主・六角右衛門督義治が三好三人衆から管領職を条件に勧誘されたことが背景にあった。
ともあれ、身の危険をいち早く察知した足利義秋はわずか四、五名の供を従えて近江を脱出。妹婿で若狭守護を務める武田義統を頼り、隣国・若狭へ移ったのである。
同じ日に六角氏と美濃一色氏が足利義秋を裏切っていた事実は洪水が収まりかけていた八月上旬に信長の耳に入った。
「おのれ、六角までもが義秋様を裏切っておったか……!」
――どいつもこいつも義秋様を裏切り、三好三人衆に与しおって。
報せに接した信長から発されるのはかつてないほどに凄まじい殺気であった。溢れ出す殺気に周囲の家臣らがたじろぐと、次の瞬間には殺気は消失していた。
「者共、おそらく雨はもうまもなく止もう。となれば、明朝には水も引くと思われる。水が引いたとなれば、ただちに本国尾張へ退却することといたす!」
美濃だけならば近江の六角家や浅井家に協力を要請すれば挟撃することも視野に入れていた信長であったが、六角家も同日に足利義秋を見限ったとなれば、話は別であった。
美濃も南近江も敵方である足利義親陣営へ転じたのであれば、上洛することは不可能。何より、肝心の将軍候補が隣国の若狭へ移ったとあっては上洛は断念せざるを得なかった。
「三郎五郎兄者、たしか若狭は越前の朝倉勢の協力を得て重臣の叛乱を鎮圧せねばならぬほど弱っておったな」
「いかにも。加えて、当主の武田義統殿に反発する被官らが嫡男の孫犬丸を担ぎ出して反抗しておる由」
「ならば若狭武田氏も義秋様の上洛を支援できる情勢ではないか。妹婿と甥が争っておる若狭へ向かうとは、義秋様の身に大事がなければよいが……」
若狭へ落ちたという足利義秋の身を案じる信長であったが、今は悠長に人の身を案じている場合ではなかった。
信長の見立て通り、翌八日の未明に水が引いたことを受けて織田軍は尾張へと撤退を開始した。しかし、それでも渡河するには水量が多く、織田軍は数多の溺死者を出してしまう。
それでも何とか対岸へ渡った織田軍であったが、そこへ逃がすまいと追いすがる美濃一色勢が猛攻を仕掛け、織田兵を討ち取っていく。
「ちっ、かくなるうえは武器を捨ててでも尾張へ退け!命あっての物種ぞ!」
信長決死の采配により、織田軍は犠牲を抑えつつ美濃からの退却に成功した。しかし、敗れた信長の軍勢は前代未聞の敗戦ぶりであったといい、美濃一色勢から嘲笑を受けるほどであったという。
「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった織田信長は名誉回復のため、そして足利義秋の上洛実現のためにも美濃一色氏を完膚なきまで叩きのめし、美濃制圧を成し遂げる必要に迫られたのである。
ともあれ、信長自身は一つの手傷を負うことなく、居城・小牧山城へ帰還。本丸にて留守を守っていた正室・濃姫と長男・奇妙丸、次女・五徳がそんな信長を出迎えた。
「あなた様、よくぞご無事で……!」
「お濃よ、やはり龍興めは曲者であった。このおれを欺き、かような罠にかけるとは許しておけぬ」
「罠にございましたか……。我が甥ながら、なんと卑劣な……」
「お濃よ、そなたが責めを負うことではない。あのような小者を信じたおれの過ち。ゆえに、ただちに美濃へ出兵し、稲葉山城を攻め取ることとする」
織田軍が美濃から撤退してくると聞いて濃姫が想像していた夫と、今目の前にいる夫の表情はまるで違った。濃姫はいい意味で予想を裏切られることとなった。
「奇妙丸!」
「はいっ!なんでしょうか、父上!」
「よくぞ留守を守ってくれた!これより父は再び美濃へ取って返し、織田領として参る!引き続き、留守居を頼むぞ!」
「承知いたしました!お母上さまとともに立派に留守居を務めてご覧にいれまする!」
十歳になる嫡男・奇妙丸の懸命さが伝わる発言に強く頷くと、信長はにっと口角を上げてみせる。そして、傍らで父と兄のやり取りを聞いていた八歳の五徳へと信長の視線が移される。
「おごとく、そなたは来年には三河へ輿入れさせる。背後を固めておかねばならぬこと、賢いそなたならば分かるであろう」
「はい、お父様」
「先ほどそなたの夫ともなる竹千代の父へ上洛に向けた出兵は見合わせると使者を派遣した。されど、次こそは上洛戦に参じて貰わねばならぬゆえ、おれと松平の同盟を婚姻同盟へと昇華させねばならぬ。その鍵となるのがそなたじゃ。今のうちから心積もりをしておくように」
まだまだ五徳には分からぬ言葉が数多く飛び出したが、父が自分に期待していることだけは五徳にも理解できた。それゆえに、正直に首を縦に振ったのである。
「さあ、まずは中濃の制圧じゃ!今ごろ藤吉郎が得意の弁舌でもって調略にかかっておるであろうから、それでこじ開けた中濃を一挙に制圧することとしようぞ……!」
自分に屈辱を味わわせた甥・一色右兵衛大夫龍興許すまじ、と顔に書いてある信長はじっと北西を見据え、美濃制圧へと舵を切るのであった――
「殿、美濃一色氏との和睦が成就したとのこと、祝着至極に存じます」
「おう、三郎五郎兄者か。越後の上杉弾正少弼殿とも義秋様支援を通じて通交も叶い、さらには東美濃をめぐって一触即発となった甲斐の信玄殿とも我らが姪を諏訪四郎勝頼殿へ嫁がせることで甲尾同盟も成っておる。そこへ、尾濃無事も成就したことゆえ、義秋様の上洛支援も現実味を帯びて参ったわ」
「さすがは殿。たしか、和田伊賀守殿や細川与一郎殿へは来る八月二十二日、義秋様が滞在されておられる江州矢島へ尾張、美濃、伊勢、三河の四ヶ国より動員した軍勢を率いて出陣し、上洛供奉をなされると返答されたのでしたな」
「で、ある。三州からも戦が一区切りしたゆえ、同道仕らんとの書状を受けてもおる」
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異母兄・三郎五郎信広の言葉に、信長は大きく頷く。三河平定を成し遂げ、三河国主となった家康。彼のことを三州と国名で称すことこそが国主の地位を表現する。それゆえに、信長は家康のことを『三州』と呼んだのである。
「当家だけでなく、三河の松平勢、美濃の一色勢が動き、江州では浅井勢や六角勢が加わると聞けば、今ごろ三好三人衆どもは震え上がっておりましょうな」
「ははは、あれしきの逆賊どもなど恐れるに足らず。今年のうちには義輝公の墓前へ首を懸け並べることも叶おうぞ」
「そうなれば、殿は管領代ともいえる立場に補任されましょう」
「かの大内義興公が任じられたとかいう役職がことか。そのような幕府の役職などに興味はない」
「殿らしいお考えにございますな。ともあれ、上洛が叶えば義秋様から恩賞もいただけましょうゆえ、何を願い出られるか、今から考えておいても良いのではございませぬか」
「で、あるか。さすれば三郎五郎兄者の申す通り、恩賞について一度考えてみることとしようぞ」
織田家では早くも来月の上洛後を夢見ていたのだが、翌八月の三日、足利義秋のいる矢島御所へ危機が迫る――
「義秋様!一大事にございます!」
「いかがした、伊賀守!そのように声を荒げて、何事か!」
常より取り乱すことのない和田伊賀守惟政が血相を変えて自分のもとへ駆け込んできた。それだけで、足利義秋は嫌な予感がしていた。
「はっ、三好日向守長逸の軍勢およそ三千余騎がこれへと攻め寄せて参るとのこと!」
「なっ……!」
「重ねてご報告したきことがございます」
仰天し目を見開く足利義秋へ、和田伊賀守が耳打ちする。その内容に、足利義秋は戦慄することとなる。
「この御所に三好三人衆へ内通する者がおると……!」
「はい。でなくば、三好日向守がこのように焦って御所へ進軍して参るような者ではないこと、義秋様の方が存じておりましょう」
「むっ、ならば織田殿が今月中にも大軍勢を率いて上洛するという話が内通者から漏れ、それゆえ焦って攻め寄せて参るということか」
「そうであるならば、此度の事態に合点が行くのでございます」
和田伊賀守の申すことが真であるならば、織田信長の上洛が現実味を帯びてきたことを受けて、三好三人衆が先制攻撃を仕掛けてきたというのが真相であろうか。
「して、三千もの三好勢を防ぎきれるか」
「ご案じなさいますな。この御所へ踏み込ませるようなことはいたしませぬ。敵は御所しか見ておりませぬゆえ、我ら奉公衆が坂本へ進み出て撃退いたしまする」
「策はあるのか」
「ございませぬ。遮二無二敵兵を斬り倒すのみ」
――危うい賭けだ。
その言葉が義秋の脳裏に浮かんだ。しかし、そうでなければそれこそ矢島御所が戦場ともなってしまう。それならば、奉公衆を坂本まで押し出して迎え撃つのが最善の策とも言えた。
かくして和田伊賀守の進言を聞き入れた足利義秋の命を受け、奉公衆らは坂本にて三好勢と激突。奉公衆の奮戦により、からくも撃退することができたのである。
この矢島御所で起きた危機は数日のうちに小牧山城の信長のもとへと報じられた。
「ちっ、三好三人衆どもが御所を襲撃せんと謀ったか」
矢島御所から届けられた衝撃の一報に焦燥感を募らせる信長。そんな夫を側から見守る一人の正妻の姿があった。そう、斎藤道三の娘・濃姫である。
「あなた様、どうか落ち着かれませ。あなた様が上洛されると聞き、三好の者らも焦っておるのでしょう。ここは予定通り、二十二日にご出陣遊ばされ、万全を期して逆賊を征討するべきです」
「で、ある。さすがはお濃、よくぞおれの焦りを払拭してくれた!されど、悠長に構えてはおれぬ。このままでは義秋様の御身が危うい」
「存じております。されど、近江には六角承禎様やあなた様の妹婿となられた浅井備前守長政殿がおるのです。万が一の折には彼らが援兵を派遣いたしましょう」
気持ちが遠く矢島御所にある夫の手綱をどう操るべきか、それを濃姫はよくよく心得ていた。そうして出陣予定日の八月二十二日を迎えた。
信長はただちに出陣し、尾張・伊勢から招集した軍勢を率いて美濃との国境を目指して進軍を開始したのである。しかし、桶狭間合戦の時とは異なり、天候は信長の味方とはならなかった。
降りしきる雨によって予期せぬ出水に遭遇し、濃尾平野のあちこちを流れる川を渡河するのにも難儀し、濃尾国境を越える頃には七日が経過し、八月二十九日となっていた。
「殿、ひとまず木曽川を渡り、河野島へ入りましょうぞ」
「ちっ、あと少しで中山道へ入れるものを……!やむを得ぬ、ひとまず河野島に入り、水が引くのを待つことといたす!者ども、続け!」
信長はおよそ五里先に見える稲葉山城を睨みつけながら、やっとの思いで木曾川を渡河。河野島へ入ったのである。上洛に向けての進軍が初手からつまずいていることに焦る信長は、その稲葉山から嘲笑する甥の次なる行動を察知することができなかった。
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「申し上げます!」
「何事か!」
「はっ!対岸の神置に撫子の旗を確認!数千もの美濃一色勢が着陣した模様!」
「たわけめ、渡河に苦心する我らを支援するべく迎えに参ったものであろう」
「いいえ!対岸に木楯を並べ、渡河する構えを見せておりますれば……!」
対岸に木楯を並べる。間違いなく、戦をする気である。誰と?対岸の信長と、である。
信じられぬといった様子で対岸を確認できる場所へと繰り出した信長は報せが誤りではなかったと悟った。
「謀られたか」
美濃のことなど歯牙にもかけていなかったことが、今ここで裏目に出た。はなから甥の一色右兵衛大夫龍興には織田と和議を結ぶつもりなどなかったのである。
「殿、いかがなされますか!」
「戦支度じゃ!川沿いに布陣し、一色勢との戦に備えよ!」
ただちに美濃一色勢との戦支度を整えるべく布陣するよう信長は下知した。しかし、天運というものはここへ来て信長へ味方した。大雨によって木曾川が洪水となり、翌三十日から九日間、両者ともに身動きが取れなくなったのである。
しかし、信長が美濃一色氏の裏切りに遭い、河野島へ釘付けとなるのと同じ八月二十九日。長らく足利義秋を庇護していた六角氏が叛意を見せたのである。
父・承禎と違い、当初から足利義秋を庇護することを快く思っていなかった当主・六角右衛門督義治が三好三人衆から管領職を条件に勧誘されたことが背景にあった。
ともあれ、身の危険をいち早く察知した足利義秋はわずか四、五名の供を従えて近江を脱出。妹婿で若狭守護を務める武田義統を頼り、隣国・若狭へ移ったのである。
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「おのれ、六角までもが義秋様を裏切っておったか……!」
――どいつもこいつも義秋様を裏切り、三好三人衆に与しおって。
報せに接した信長から発されるのはかつてないほどに凄まじい殺気であった。溢れ出す殺気に周囲の家臣らがたじろぐと、次の瞬間には殺気は消失していた。
「者共、おそらく雨はもうまもなく止もう。となれば、明朝には水も引くと思われる。水が引いたとなれば、ただちに本国尾張へ退却することといたす!」
美濃だけならば近江の六角家や浅井家に協力を要請すれば挟撃することも視野に入れていた信長であったが、六角家も同日に足利義秋を見限ったとなれば、話は別であった。
美濃も南近江も敵方である足利義親陣営へ転じたのであれば、上洛することは不可能。何より、肝心の将軍候補が隣国の若狭へ移ったとあっては上洛は断念せざるを得なかった。
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「いかにも。加えて、当主の武田義統殿に反発する被官らが嫡男の孫犬丸を担ぎ出して反抗しておる由」
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信長の見立て通り、翌八日の未明に水が引いたことを受けて織田軍は尾張へと撤退を開始した。しかし、それでも渡河するには水量が多く、織田軍は数多の溺死者を出してしまう。
それでも何とか対岸へ渡った織田軍であったが、そこへ逃がすまいと追いすがる美濃一色勢が猛攻を仕掛け、織田兵を討ち取っていく。
「ちっ、かくなるうえは武器を捨ててでも尾張へ退け!命あっての物種ぞ!」
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「あなた様、よくぞご無事で……!」
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「罠にございましたか……。我が甥ながら、なんと卑劣な……」
「お濃よ、そなたが責めを負うことではない。あのような小者を信じたおれの過ち。ゆえに、ただちに美濃へ出兵し、稲葉山城を攻め取ることとする」
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「奇妙丸!」
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「おごとく、そなたは来年には三河へ輿入れさせる。背後を固めておかねばならぬこと、賢いそなたならば分かるであろう」
「はい、お父様」
「先ほどそなたの夫ともなる竹千代の父へ上洛に向けた出兵は見合わせると使者を派遣した。されど、次こそは上洛戦に参じて貰わねばならぬゆえ、おれと松平の同盟を婚姻同盟へと昇華させねばならぬ。その鍵となるのがそなたじゃ。今のうちから心積もりをしておくように」
まだまだ五徳には分からぬ言葉が数多く飛び出したが、父が自分に期待していることだけは五徳にも理解できた。それゆえに、正直に首を縦に振ったのである。
「さあ、まずは中濃の制圧じゃ!今ごろ藤吉郎が得意の弁舌でもって調略にかかっておるであろうから、それでこじ開けた中濃を一挙に制圧することとしようぞ……!」
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歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
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