不屈の葵

ヌマサン

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第5章 飛竜乗雲の章

第212話 徳川三河守家康

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 牛久保牧野家の遺領相続に介入し、牧野新次郎に家督と遺領を無事に継承させた家康。三河国主となってより、初めての年末へ突入しようとしていた。

 永禄九年一月より三河守に任官されるべく、岡崎出身の京都誓願寺の僧・泰翁慶岳と協議のうえ、足利将軍家の姻戚にあたる摂関家の近衛前久を通じて朝廷に働きかけていたが、事態は一時頓挫しかけていた。

 それはなぜか。朝廷の先例において、松平なる家名の人物が三河守に任官された事例が存在しなかったためである。このことに正親町天皇が難色を示したことで、頓挫しかけるまでの事態に至ったのである。

 だが、実際には頓挫するには至らなかった。吉田兼右が万里小路家の旧記を調査したところ、先例の存在が確認されたのである。このことは、吉田兼右から近衛前久へとただちに伝達され、事態は好転。

 その先例とは、得川は源家であるが二流の惣領の血筋があり、そのどちらかが藤原姓であったというもの。すなわち、家康はこれまで名乗っていた源姓から藤原姓へ変更せざるを得なくなったのであった。

 この系図を吉田兼右が書写し、それを受け取った近衛前久が浄書のうえ、朱引きまで行った系図に仕立て上げたのである。なんとも強引なやり方ではあるが、近衛前久や吉田兼右といった公家たちの奔走により、家康の三河守叙任の話は前向きに検討されていく。

 そして、松平の先祖から三河守に任官された先例のある人物として、世良田(得川)弥四郎頼氏が見いだされ、彼と家康の家系が結びつけられたことから、家康はあわせて家名の変更も申請する運びとなった。

 その世良田氏は清和源氏の新田義重の庶流にあたり、その子に有氏と教氏が出たとされ、後者の教氏の子孫が家康とされたため、家康は名字を松平から『徳川』へ変更することとなったのである。

 かくして家康は本姓を源から藤原へ、名字を松平から徳川へ改める形になったものの、三河国主に相応しい三河守の受領名を得ることに成功したのである。

 そして、永禄九年十二月二十九日。家康が待ち望んでいた瞬間が訪れた。

 その日、岡崎城の大広間へ詰めるのは家老の酒井左衛門尉忠次、石川与七郎数正、石川彦五郎家成、植村出羽守家政。

 加えて側近の阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛康景、平岩七之助親吉、鳥居彦右衛門尉元忠、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政、渡辺半蔵守綱、本多作左衛門重次、高力与左衛門清長、大久保七郎右衛門忠世、大久保新八郎忠勝、服部半蔵正成、内藤金一郎家長、内藤三左衛門信成が緊張を帯びた面持ちで控え、老臣の石川安芸守忠成、酒井雅楽助政家、鳥居伊賀守忠吉や隠居の身となった大久保常源、吉良家当主・吉良上野介義安といった面々も年相応の貫禄を示して居並ぶ。

 また、正室の築山殿が嫡男・竹千代と長女・亀姫を伴い同席。側室の於葉の方、家康生母・於大の方、継父・久松佐渡守、継母・田原御前、出戻りの異母妹・市場姫、異父弟妹の松平三郎太郎康元、松平源三郎康俊、多劫姫、松平長福丸、松姫、母方の叔父・水野藤十郎忠重といった一門も一堂に会していた。

「皆の者、此度はよくぞ集まってくれた。実は今年の正月より摂関家の近衛前久公を通じて三河守への任官を願い出ておったのじゃが、その結果が京より届けられた」

 家康は京の泰翁慶岳を通じて届けられた朝廷からの任官内定状を懐から取り出すと、これ見よがしに披露する。これを家老の酒井左衛門尉が受け取り、広間中に響く声で代読する。

 ――藤原朝臣徳川家康を従五位下に叙し、三河守に任ずる。

 記された内容はこれに尽きるわけである。十二月二十九日付での従五位下三河守への叙位任官。まさしく三河国主に相応しい官職を家康は手にしたのである。それは同時に、家康が三河国主の立場を朝廷からも認められたことを示してもいた。

 三河一統を実現させた祖父・松平清康ですら成せなかった従五位下三河守への叙位任官を今、家康は成し遂げ、名実ともに祖父の偉業を超えた瞬間であった。

「殿!従五位下三河守への叙位任官、祝着至極に存じまする!」

 真っ先に口を開いたのは代読した酒井左衛門尉。今にも泣きだしそうな、震える声音を皮切りに、先代・広忠の頃より老臣として仕える年寄らがおいおいと肩を震わせて泣き出す。

 それは広間中に伝播していき、ついに主君は従五位下の位階を得て、三河守に任官されたのだと家老や側近らも涙した。

 無論、正室の築山殿をはじめとする一門も涙を流して喜び、中でも母・於大の方の感動は群を抜いていた。

「母上!家康は朝廷より従五位下の位階と三河守の受領名を得ましたぞ」

「ええ、それはもう……」

 嬉しさのあまり、二の句が継げぬ母を家康もまた目に涙を貯めながら感動を分け合っていた。

 二十二年前、亡き夫・松平広忠と離縁となり、岡崎城へ残していった折にはあれだけ幼かった最愛の子・竹千代が、今では偉丈夫となり朝廷より従五位下三河守へ叙位任官され、誰しもが認める三河国主となっている。

 松平家の苦難の道のりを誰よりも理解しているからこそ、家康の前で涙腺を崩壊させる於大の方の感動は並大抵のことではなかった。

「殿」

「瀬名か」

 生母・於大の方がまだ当分の間は話せる状態にないと見た正室・築山殿は嫡男・竹千代と長女・亀姫の手を引き、家康のもとへと進み出る。

「此度の従五位下三河守への叙位任官、おめでとうございまする」

 偉業を成し遂げた愛する人を優しく見つめる築山殿の脳裏に想い出されるのは幼き日に駿府で初めて対面した竹千代の姿であった。

 あれから十数年の月日が過ぎ、その間に様々なことがあった。まさかあの時出会った年下の少年と結婚し、一男一女をもうけているとは。

 しかも、その夫が今川家より独立し、三河国主の座を勝ち取り、朝廷からもその地位を認められて従五位下三河守へ叙位任官される日が来ようとは想像すらできなかった。それだけに、築山殿の胸中に抱く感情もまた、於大の方と同じく感動の類であった。

「父上、祝着至極に存じます!」

「ははは、八ツになった我が子からも叙位任官を祝われようとは!じゃが、これほど嬉しいことはないぞ!」

 家康は年が明ければ九歳ともなる嫡男・竹千代の脇下に手を入れ、自分の頭よりも高所へと持ち上げる。普段は見上げている大人たちを睥睨できる高さへ至り、当の竹千代は満面の笑みではしゃぎだす。

「竹千代、尾張の織田殿から便りがあったのじゃが、何だと思うか」

「分かりませぬ」

「来年のうちにも竹千代へ二の姫を輿入れさせたいとの申し出であった」

「五徳と申す姫君が嫁いで参られるのでございますか」

 家康は竹千代の理解が正しいことを首を縦に振ることによって肯定する。同い年の姫が織田家からいずれは輿入れしてくるのだと、周囲から何べんも聞かされているのだから、覚えているのは当然のことと言えた。

「尾張国主の姫君と三河国主の嫡男の婚姻じゃ。この父の顔に泥を塗ってくれるなよ、竹千代」

「はいっ!粗相のないよう、しかと努めまする!」

「よろしい。数年もすれば、そなたも元服となる。それまで与七郎や七之助から多くのことを学ぶのじゃ。父との約束じゃ、良いな?」

 父から切り出された約束。それを竹千代はあっさり了承する。もとより、今も石川与七郎や平岩七之助からは多くのことを叩き込まれているのだから、現状維持するのだと思えば約束の内容を達成するのは造作もないことではあった。

「父上!」

「於亀。そなたも大きくなったのぅ。もう七ツか」

 桶狭間合戦の翌月に生まれた長女・亀姫。愛娘も歳月の経過とともに大きくなり、今では七歳となっていた。家康は亀姫を見るたびに、桶狭間合戦から幾歳になるのかと、思い出してしまう。

「殿、またもや亡き太守様のことを思い出されておいででしょうか」

「うむ。さすがは瀬名じゃ。わしの考えることはお見通しか。太守様がお討ち死にあそばしてより六年、崇孚和尚が亡くなられてから十一年の月日が経ったのかと思うておったまでのことよ」

 何事においても師と敬っていた太原崇孚の死から十一年。生きておれば齢七十一ともなる。桶狭間合戦で織田信長に討たれていなければ今川義元とて齢四十八。

 何事においても自分に目をかけてくれていた自分が今川家と戦っていることには承服しないだろうが、それでも松平から徳川名字へと改姓し、従五位下三河守の叙位・任官が朝廷からも認められたことは声を震わして喜んでくれそうだと思えてならなかった。

「殿、それを申すならば我が父も今ごろ黄泉にて喜んでおりましょう。父が最も目をかけていたのは殿にございますゆえ」

「そうか、舅殿も喜んでくれるであろうな。舅殿は某が今川家を離反したことで肩身が狭くなったと聞く。恨みこそあれ、喜ぶなどということは……」

「いいえ、父はきっと喜んでおります。あなた様が決断なされたことに対して目くじら立てるような人ではないこと、殿もご存じのはず」

 瞼を閉じて脳裏に浮かぶ舅・関口伊豆守氏純の姿はまさしく築山殿の言う通りであった。やはり父の心を知るのは娘といったところであろうか。

「瀬名の申す通りじゃ。舅殿も泣いて喜んでくれようぞ。そして何より、そなたが息災で、外孫にあたる竹千代と亀姫が立派に成長しておることを」

「ええ、父ならばそうでございましょう。たしかに父は肩身の狭い想いをしたのやもしれませぬが、決して殿を恨み、立身出世を憎む人ではありませぬ。ですから殿は相済まぬなどと思われず、堂々と、胸を張れば良いのです」

 その言葉はまさしく正妻の一言であった。その場にいる誰もが、瀬名の言葉を聞き、首がもげるのではないかというほどに縦に振り、賛同の意を示していた。

「瀬名、よくぞ申してくれた。そなたのおかげでわしも目が覚めた心地がする」

「殿。改めまして、従五位下三河守への叙位任官まことおめでとうございます」

「うむ。じゃが、わしはここで止まるつもりは毛頭ない!まだまだ今川家との戦の日々は続くであろう。戦を終わらせるためにも遠江へと出兵することとなる!加えて、今は越前へと移座なされた足利義秋様も必ずや上洛なされる日が来る。その折には尖兵となり、京までの道を切り拓かねばならぬ!皆には苦労をかけることとなるが、わしに力を貸してほしい!」

 これからの遠江侵攻と足利義秋の上洛支援。東にも西にも向かわねばならない忙しい日々が待ち受けている。しかし、東へ向かうのは領国維持と領国平和のため、西へ進むのは大義のため。これを断る謂れなど、数多の苦難を乗り越えてきた今の徳川家中ではあり得なかった。

「殿!この左衛門尉も東三河衆を束ね、お力となりましょうぞ!」

「彦五郎も西三河衆を束ね、某も殿の御為、犬馬の労も惜しまぬ所存にございます!」

 東三河衆の旗頭・酒井左衛門尉、西三河衆の旗頭・石川彦五郎。彼らの発言に続けとばかりに家臣たちは奉公し、一門の者たちもまた力強い眼光で家康支持を表明する。

 先々代・松平清康、先代・松平広忠から続く苦難の連続。老若男女問わず、この乱世の荒波を乗り越え、家康の代へと至った。

 家康が当主となってからも今川家に従属する国衆としての日々、桶狭間合戦以後の織田家・水野家との戦。両家と和睦して以降の強大な今川家との一進一退の攻防。その最中に勃発した三河一向一揆。

 多くの家臣を失いながら領国を守り、味方を増やし、ついには弱小国衆に過ぎなかった松平家は三河一統を成し遂げ、三河中の国衆を従属させる将軍家からも朝廷からも認められる戦国大名へと至った。

 まさしく、家康の徳川改姓と従五位下三河守への叙位任官は、これまでの苦しみが報われるような心地のするものであった。

「それにしても殿、徳川の名字を名乗るのは結果としては良いことやもしれませぬ」

「さすがは母上じゃ。そこに気づかれたか。長らく松平家は宗家の座を巡って争って参ったが、宗家の当主となるもののみが徳川名字を名乗ることとすれば、そのようなくだらぬことで血で血を洗う戦をせずとも良くなる。松平が何十年に渡って抱えてきた問題もこれにて解決となる」

 松平宗家の座をめぐって同族同士で争ってきたことを知る生母・於大の方だからこそ、家康の徳川改姓は何やら心に沁みるものがあった。

 かくして、今ここに従五位下の位階を賜った徳川三河守家康が三河国岡崎の地に爆誕したのである――
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