不屈の葵

ヌマサン

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第6章 竜吟虎嘯の章

第225話 足利義栄の将軍宣下と寿桂尼の死

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 永禄十一年二月も下旬に差しかかろうとしている頃。降りやんだ雪が再び降ろうとしている曇天模様の下、安養寺の書院にて一通の書状を握りしめ、憤激する壮年の姿があった。

「与一郎!これはいかなる仕儀じゃ!」

「これ、と申されますと?」

「義親めが将軍宣下を受けた事じゃ!」

 足利義秋の言う『義親』は足利義親のことであり、昨年の正月五日に諱を義栄と改めてもいた。三年前の永禄の変で将軍・足利義輝が亡くなって以来、次の征夷大将軍候補と目されていたのは義輝の弟である義秋と義輝の従弟にあたる義栄の二人であった。

 一足先に朝廷から従五位下・左馬頭に叙任され、次期将軍と目されていた足利義秋であったが、八ヵ月遅れる形で足利義栄も従五位下・左馬頭に叙任されており、現在では官職のうえでは対等となっていた。

 その足利義栄が摂津国普門寺にて二月八日付で朝廷から征夷大将軍に任じられ、室町幕府の第十四代将軍に就任したというのである。それを補佐した篠原長房や三好三人衆らはこれを大いに喜んでいるといった求めてもいない内容まで書状に記されていた。

 血筋的には問題ないとしても、朝廷への根回しも人望も自分より劣っていると見ていた足利義栄が自分より早く征夷大将軍に任じられたことは足利義秋にとって驚愕の事態であると同時に憤激する出来事であった。

「義秋様……」

「何故じゃ!血筋のうえでも、幕府の実務を行う奉行衆の大半を掌握している予ではなく、何故義親めが征夷大将軍に……!」

 足利義秋は悔し涙をこぼしながら己を痛めつけるように拳を床に振り下ろす。それを細川与一郎藤孝はこぼれそうになる涙を抑えながら、ただ黙って見ているしかなかった。

 しかし、細川与一郎には朝廷が足利義栄が将軍宣下を受けられたのはなぜか、分かっていた。

 目下、義秋は永禄の変から二年九カ月が経過した現在でも上洛できずにいる一方で、義栄を擁する三好三人衆は京を掌握済みであり、義栄自身も先代義輝によって取り潰された元政所執事の伊勢氏の再興を約束するなど、朝廷や京に残る幕臣らへ工作を欠かさなかったことが明暗を分けたのだ、と。

「義秋様。かくなるうえは一刻も早く上洛する必要がございます。義秋様の名のもと、幕府再興軍を編成し、三好一派が擁する似非将軍を天下より放逐するのでございます」

「うむ、予が成すべきことは変わらぬか。まずは予を庇護してくれておる左衛門督殿を動かすほかあるまい」

「いかにも。越前の朝倉勢が出陣ともなれば一万を超える兵が集まりましょう。それほどの大軍が動けば三好三人衆も恐れおののきましょう」

「されど、三好三人衆や讃岐と阿波の篠原長房の軍勢が合わされば二万は優に超える大軍勢となろう。ましてや南近江の六角も敵となった今では三万を超える」

「はい。されど、三好三人衆らは大和の松永弾正久秀や三好左京大夫義継とも戦っておる状況。そこへ、義秋様を擁する越前朝倉勢、北近江の浅井勢、そして尾張と美濃、北伊勢を支配下に置く織田勢が攻め寄せればひとたまりもありますまい」

「北近江の浅井備前守長政はどのくらいの兵を集められるであろうか」

「よく集めて五千ほどかと」

「ならば朝倉勢と合わせて一万五千か」

 朝倉・浅井両氏だけでは三好三人衆と篠原長房の三好家、南近江の六角家の半分にも満たない。しかし、まだ義秋が期待する勢力が残されていた。

「織田尾張守殿ならばどの程度の軍勢を招集できるであろうか」

「そうですな、尾張や美濃の石高を考えるに一万五千は下りますまい。下手をすれば織田勢だけで二万を超えるやもしれませぬ」

「そ、それほど集まるか!」

「はい。もはや三好や六角など相手にもなりますまい。それゆえ、一刻も早く上洛軍を起こすよう、左衛門督殿へ働きかけるべきにございます」

「よし、すぐにも働きかけようぞ!されど、左衛門督殿は雪解けまでは動かぬと申しておったゆえ、早く動けても三月となろう。これでは何もできぬではないか」

「いえ、義秋様にはまだできることがございます。某が聞くところによれば、左衛門督殿は大変な親孝行者であるとか。当人を動かすことも大切にございますが、ここは孝心をくすぐる方が効果を出すのではありますまいか」

 足利義秋は細川与一郎の献策に一つ膝を打った。まさしく名案、とばかりにである。

「たしか左衛門督殿の母堂は予の妹が嫁いでおる若狭武田家の出身であったな。然らば、左衛門督殿の母堂へ従二位に叙するよう予から朝廷へ上奏するとしようぞ」

「さすれば左衛門督殿の母君は二位の尼ともなりまする。これは左衛門督殿を喜ばせるだけでなく、若狭武田家にも一族から二位の尼を輩出したという名誉を与えるに等しき事。皆が義秋様に感服いたしましょうぞ」

「うむ。何より、昨年より手厚く予を庇護してくれてもおるゆえ、その恩返しにもなろう。よし、決めたぞ。ただちに文をしたためるゆえ、朝廷へ使者を立てるとしようぞ」

 こうと決めた足利義秋の行動は疾風迅雷。ただちに行動へ移し、朝廷に朝倉左衛門督義景の生母・広徳院を従二位に叙すよう働きかけたのであった。そして翌三月八日、早くも朝廷工作が結実することとなる。

「義秋様。此度我が母が二位の尼に叙せられたのは義秋様のご周旋あってのことだとか!心より御礼申し上げまする」

「左衛門督殿、面を上げてくだされ。これは予の寸志じゃ。昨年より手厚く保護してくれておる朝倉家への恩返しでもある。今後とも予の上洛のため、働いてくだされよ」

「はっ!お任せくださいませ!必ずや本年中に義秋様の宿願を成就させてご覧にいれまする!」

 朝倉氏の本拠・一乗谷は歓喜に満ちていた。それもそのはず、領主の母が朝廷より正式に従二位の位階を賜ったのだから。

 そして、そのことを祝う酒宴は終日終夜に及んで行われ、朝倉家中は呑めや歌えやの大騒ぎであったという。

「義秋様、首尾よく参りましたな」

「うむ。この分であれば、左衛門督殿も早々に上洛の支度を進めてくれよう。そうなれば、予が入京する日も近い」

「まことに」

 朝倉左衛門督義景をはじめ、朝倉一門や譜代家臣が祝宴で大騒ぎするのをよそに、足利義秋と細川与一郎は上首尾に運んだものだとほくそ笑んでいた。

 そうして弥生も瞬く間に過ぎ去り、まもなく卯月に入ろうかという三月二十九日。家康と長きにわたって敵対している今川氏の駿府館にて、今川家の柱石がまた一人、この世を去ろうとしていた。

「おばあ様!」

 春の気配が漂う駿府館の一室。春の空気を吸いたいという老婆の願いにより開け放たれていた障子から血相を変えて飛び込んできたのは齢三十一となった今川家当主・今川上総介氏真であった。

 氏真が寝たきりの祖母へ視線を移すと、その傍には先月甲斐より相模を経由して帰国した同母妹・松姫改め貞春尼、そして氏真正室・春姫の姿があった。

「五郎……」

「はっ!」

 久しく呼ばれることのなかった名を呼ばれ、氏真は涙を袖で拭いながら膝を進める。幼かりし頃、幾度その名で呼ばれ、折檻されたことか。おそらく、今日も叱られるのであろうと思い、膝の上でこぶしを握り、祖母の説教を待つ。

「そなた、当主となって幾年が経ったか」

「はっ、今年の正月にて満十一年となりましてございます」

「父や重臣らの補佐があったとはいえ、よくぞこれまで御家を守ってきました」

「はっ?」

 てっきり今川家の当主としてもっとしっかりせねばならぬとか、説教されるものだとばかり思っていた氏真は素っ頓狂な声を上げる。しかし、祖母・寿桂尼よりかけられたのは労いの言葉であった。

「されど、父上が亡くなられて今日に至るまでに尾張、三河の所領すべてを失いもうした。それを御家を守ったと言えましょうか」

「言えます。元より当家は我が良人の代より駿河と遠江の守護職を補任されて参りました。それを我が子の代に三河全域と尾張へ領土を拡大したに過ぎませぬ」

「つまり、元の今川家の所領に戻っただけであると、左様に申されたいのですか」

 齢八十中ごろに差しかかった祖母は優しく口角を上げて頷く。その孫を見る目は説教をする際の鬼と見紛うばかりの鋭さからかけ離れたものであった。

「良いですか、駿遠両国の守護大名としてこの二つの国を堅守できればそれで良いのです。まだまだこれから盛り返すこともできましょう」

「しかし、当家は西から三河を統一した松平から攻められてもおります。その背後には父を討った織田もおりまする」

「存じておりますとも。よもや、あの竹千代が三河国主となり、五郎と戦う日が来ようとは妾も十年前は考えてもみませんでした」

 ――よもやあの竹千代が。

 寿桂尼が言ったことは氏真も同意見であった。まさか、幼少の頃に駿府で共に育った竹千代が自分のもとを離れて戦を挑んでこようとは考えたこともなかった。

 人の一生とは何が起こるか分からない。それを氏真も肌で感じている最中であったのだ。

「五郎。これは大切な教訓なのです」

「教訓と?蔵人佐が離反したことが、にございますか?」

「そうです。あれほど、そなたと親しくしていた者でも裏切る。それを七十を過ぎた妾でも見抜くことができないほど、予想もつかぬことが人生では起こり得るということ。まさに今、五郎は西に敵を抱え、北の武田家とも戦の火種を残している苦しい状況」

「いかにも。それゆえ、東の北条家に仲介していただき、武田家との関係改善に取り組んでいるところにございます」

 氏真は今にも息を引き取りそうな祖母に嘘をついた。その罪悪感に居たたまれなくなるが、祖母の話は終わっていないのだと自分に言い聞かせて背筋を伸ばし、正座し続ける。

「信玄殿は齢四十八になられ、小田原の相模守殿は齢五十四。この老婆ほどではないにせよ、皆老いました。そなたの父ですら生きておれば齢五十ともなっておるのですから、当然のことでしょう」

「はい。されど、それが予想もつかぬことが人生では起こり得るとのお話にどう繋がるのでございますか?」

「明日にも武田や北条にて代替わりが起こるやもしれませぬ。何が起こるのか、人の一生では分かりませぬぞ」

 繋がった。人生とは何が起こるかは分からない。それは決して悪いことばかりでなく、良い意味でも人生が一変してしまうようなことも起こり得ると、寿桂尼は言っているのであった。

 そんな氏真を補佐し続けた今川家の柱石ともいえる祖母・寿桂尼はその日のうちに、永禄十一年三月二十九日に死去。

 今わの際に立ち会った貞春尼、春姫の両名は泣き崩れ、氏真も二人には気づかれないようその場は取り繕っていたが、寝所に戻ってからむせび泣いたのであった。

 ――死しても今川氏を守護せん。

 寿桂尼の遺命により、駿府館から見て鬼門となる東北の方角にある自らが開基した龍雲寺に埋葬されたのである。

「おばあ様、必ずやこの五郎が今川を護って参りまするゆえ、どうか安らかにお眠りくださいますよう」

 線香の香りが立ち込める中、寿桂尼の墓前にて手を合わせる氏真は誓いを立て、駿府館へと踵を返したのである。

「備中守、次郎左衛門はおるか!」

「はっ、これに!」

「これにおりまする!」

「越後との交渉を急ぎ進める!予が今川を武田より守らねばならぬ!」

 誓いを新たに政務へ意欲的に取り組む姿勢を見た朝比奈備中守泰朝と三浦次郎左衛門氏満の両重臣は「心得て候」とばかりに支度を進める。

 越後の上杉弾正少弼輝虎との駿越交渉の取次担当は直江大和守景綱、柿崎和泉守景家の重臣二名となっており、その両名に宛てて書状をしたためていく。

 こうして今川氏真と上杉輝虎、武田家を共通の敵とする両者の駿越交渉は寿桂尼が死去した翌月、四月より本格的に始動していくのであった。

 ――しかし、今川氏の柱石である寿桂尼が死去したことは三月二十九日のうちに武田氏へ報じられていた。

「ほう、沓屋に隠居していた寿桂尼が死去したと」

「あなた様、その書状は?」

「ああ、甲斐国境にて今川方の動向を探っておった栗原伊豆守信重からの書状よ。なんでも内通する者共から今川家を支え続けた寿桂尼が死去したと報せを受け取ったそうな。父上もこのことはご存じゆえ、駿河侵攻が早まるやもしれぬ」

「まあ……。では、あなた様もご出陣を?」

「おそらくはそうなるであろうな。その時には城の留守居をしかと頼むぞ」

 遠く信濃国高遠城に在する諏訪四郎勝頼は正室・遠山夫人に書状を見せると、遠く南東の空を見上げる。戦の接近を肌で感じながら――
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