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第1章 夢幻泡影の章
第9話 抗うほかなかろう
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広間に阿部大蔵らが集まって話をしている頃。随念院のいう『妙薬』こと、四歳の竹千代は父の見舞いに訪れていた。いや、連れて来られたまま残された、という方が正しいか。
「おお、竹千代ではないか。近う近う」
そう言って、我が子を手招く広忠の表情は松平の当主ではなく、一人の父親のソレであった。
竹千代は父に招かれるまま、側へ歩み寄っていく。そして、まだ乱世を知らぬ純真無垢な瞳でじっとやつれた父親の表情を見つめるのである。
まだ数えで二十歳であるというのに、そのことを知らない人間が見たならば三十幾つだと誤解してしまいそうな面持ち。何より、血色が悪く青白い顔色で、並みの子供ならば短く悲鳴を上げてしまうのではなかろうか。
「竹千代、その手に持っておるのは何か」
「ろんご」
「ほう、論語とな。伯母上……おばば様より教わっておるのか」
「はい」
まだ伯母上と言っても分かるまい。そう思って、竹千代の目線に立って分かりやすい言葉を用いる。ここにも、広忠の相手の目線に立って思いやれる優しい心が垣間見れる。
――それにしても、数えで四歳の子供に論語とはちと早すぎるのではないか。
そう思ってしまう広忠であったが、「いずれ、竹千代は松平の統領となるのです。幼き頃より論語を嗜ませておいて損はござりませぬ」などと於大の方なら言いそうだ。
広忠の脳裏に住みついたままの於大の方を思い出すと、広忠も自然に笑みがこぼれていた。離縁してなお、広忠にとっての正室は変わらないまま。
「ととさま、ないておられるのですか?」
竹千代に指摘されるまで、笑いながら泣いていたとは気づかない広忠であった。幼い我が子を前に昔を思い出して泣いてしまうとは情けない、そう思う広忠であったが、この時の涙は止まらなかった。
於大の方との離縁、先の安城攻めでの大敗。これまで堰き止めていたものが、決壊したように溢れだしたのだ。
「竹千代、わしも論語を読んでも良いか」
己の涙で袖をぐっしょり濡らした後、広忠はぽつりとそうつぶやいた。その間、一言も発することなく父の様子を眺めていた竹千代は、傍らの論語を父に献上する。
「すまぬなぁ、竹千代。そちも一緒に読むか?」
「はい」
父が論語を開くと、その左腕に抱き着く子。父は子の頭を優しく撫でながら、書かれている文言に視線を落とす。
中でも、広忠が目を引かれたのは二つ。一つは『性相い近し、習い相い遠し』、もう一つは『過ちて改めざるをこれ過ちという』であった。
ちなみに、『性相い近し、習い相い遠し』は人間、生まれつきの天性はたいして差がないが、後天的な習慣によって大きく違ってくるという意味である。
そして、もう一つは、過ちを犯しても改めないことこそが真の過ちだと説いている『過ちて改めざるをこれ過ちという』。
一つ目の言葉を見て、広忠は織田信秀を連想した。信秀と己では、これまで通ってきた修羅場の数を考慮すれば、今の己に太刀打ちできないのも仕方ない。だが、そこで諦めるのではなく、これからの行いで逆転を目指そうと奮起させてくれる。
二つ目の言葉も、二度と安城攻めのような失敗を繰り返さないと誓うだけでなく、どうすれば同じ失敗を繰り返さずに済むのか、冷静に見つめ直すキッカケになっていた。
その後も広忠は火灯し頃になるまで読書を継続。いつしか竹千代の寝息を聞きながらの読書となっていたが、かえって広忠は集中することができていた。
「広忠殿。妾より処方した妙薬は効果覿面でござりましたなぁ」
「おお、伯母上。うむ、竹千代に論語を持たせて残していった伯母上にしてやられました」
「ほほほ、何のことやら」
意図的に竹千代に論語を持たせたと推測している広忠と、それは偶然だと言葉を濁す随念院。両者は目を見あわせて笑い合った。
「広忠殿、御前や重臣どもも案じておられましたよ。ささ、皆様に元気なお姿を見せて差し上げてくださいな」
「うむ。そうしたいのはやまやまなのじゃが……」
広忠の視線はすぐ隣で、袴の裾を掴んで離さぬ我が子へと注がれている。何とも微笑ましい光景に、随念院も満面の笑みであった。
「では、妾はここで竹千代君を見ておきましょう」
「かたじけない。では、広間へ行って参ります」
先ほど訪れた時とは打って変わり、すっかり元気を取り戻した広忠に、随念院だけでなく、田原御前も重臣一同、ひどくほっとした様子であった。
「竹千代君、ご苦労様にございました」
「う~ん」
まだ眠いのか、随念院からの労いの言葉に応えるように寝返りを打つ竹千代。そんな彼は、己がしたことの大きさに気づいていない。
一人の大人を、実の父親を元気づけることに大いに貢献した。父が心に溜め込んでいた悲しみと虚しさを、見事に吐き出させたのであるから。
そうして、この天文十四年も終わりへと向かっていく。広忠にとっては田原御前を正室に迎え、安城攻めで重臣・本多平八郎忠豊を失った、忘れられない一年が。
――明けて、天文十五年。
依然として広忠に従わない勢力は健在。追放から三年が経つというのに、松平蔵人を屈服させることも討ち果たすことも叶っていない。
桜井松平監物や上野城の酒井将監忠尚、上和田城主・松平三左衛門忠倫は広忠に従う気配はなかった。昨年の安城攻めにおいて織田軍に大敗した広忠に従うなど、各々の所領を守る領主としては選びたくない選択肢ともいえる。
唯一、田原の戸田宗光とは同盟関係にあるが、広忠には敵が多すぎた。戸田氏と同盟を締結したことで、緒川水野氏と牛久保牧野氏との対立に終止符を打つことはできない。
そこへ、昨年激突した織田信秀の尾張織田氏、松平蔵人や酒井将監を筆頭とする反広忠の勢力が加わっているのだから、味方よりも敵の数が多く、さらには強大。このままでは滅亡すらもあり得る状況に、広忠は日々頭を悩ませていた。
「殿、またもや絵図と睨めっこにござりまするか」
「おお、大蔵か。うむ、そうじゃ。こうしてみると、東も西も敵だらけ、戸田が同盟相手であることがせめてもの救いじゃな」
「殿、もう一つ敵が増えることにお気づきか」
「もう一つの……敵?」
一体、阿部大蔵は何を言い出すのか。そう思い、広忠は阿部大蔵が絵図の上で指さす位置へ視線を移していく。そこは、駿府の今川氏を指していた。
「今川か。確か昨年、相模の北条氏康との戦いで勝利し、甲斐の武田晴信の仲立ちで和睦したのであったな」
「はい、河東の地を返還する条件で北条と今川は和睦。目下、今川は東に目を向ける必要がなくなっております」
「となれば、いよいよ三河に今川軍がやってきまするぞ……と、かように申したいわけじゃな」
「はい。今川義元とて二十八歳と若く、領土拡大の野心に満ちているはず。おそらく、北条や武田と争うよりも三河を切りとる方が易い、かように判断するかと思われまする」
阿部大蔵の言うことはもっともである。何より、田原の戸田と争く牛久保の牧野は今川より支援を受けている。
これまでは河東のこともあり、本格的に軍を向けてくることはなかっただけであり、昨年の北条との戦いの傷が癒えれば大軍を動員して三河に侵攻してくることは十二分にあり得る。
そうなれば、松平よりも先に今川軍は戸田を潰しにかかるであろう。そうなれば、広忠ら松平も戸田より援軍要請が入ることは必定。そして、今川義元の中で、戸田を滅ぼして東三河を支配下に置いたうえで、次はこの岡崎に向けて攻め込んでくる。
「大蔵、今川軍襲来の暁には当家はひと月と持つまい」
「何をおっしゃる――と言いたきところではござりまするが、恐らくはそうなりましょうな。また、我が叔父、大久保左衛門五郎殿がおっしゃるには、織田にも目を向けるべきである、と」
大久保左衛門五郎忠茂は御年七十一の老将。他でもない、大久保新八郎忠俊、大久保甚四郎忠員らの実父である。そして、彼の妻は阿部大蔵定吉の叔母にもあたる松平の重鎮なのである。
「して、織田にも目を向けねばならぬ、とは如何なる仕儀じゃ」
「殿、織田信秀の立場に立って考えてみてくださいませ。もし、戸田を滅した今川が岡崎までも落とす事態になれば、いかがでしょう」
「……しれたこと、矢矧川が織田と今川の最前線をなる」
「左様、それを避けたい織田弾正めは今川より早く岡崎を狙ってくる恐れがある、とかように申しておりました」
何をバカな、と言いたい広忠であったが、自分が織田信秀の立場であれば、岡崎に今川の勢力が及ぶことを恐れ、今川よりも先に岡崎を領有化してしまおうと思い至るに相違ない。
「いや、大久保左衛門五郎の言うことはもっともじゃ。あの信秀の性格を考えれば、この岡崎城を急ぎ攻め落とそうと目論むであろう」
「西からは織田と水野、松平蔵人らが攻め寄せ、東からは今川。十中八九、当家は持ちこたえられませぬ」
「じゃが、今さら戸田と同盟を破棄することはできぬ。こうなれば、抗える限りは抗わざるを得まい」
織田にも今川にも従いたい。されど、同盟相手の田原戸田を見捨てることもできない。非情な策略家なら、平然と戸田を見捨てるであろうが、心根の優しい広忠には到底できない所業である。
「おお、そうじゃ。そなたが今川と北条が和睦した話をした折に思い出したのじゃが、甲斐の武田は今川と北条の仲立ちをしたのであったな」
「左様にござりまする。されど、和睦の仲立ちが何か――」
「水野の動きを鈍らせる妙案じゃぞ。緒川の西にある知多郡大野城を本拠とする佐治氏、緒川南西にある同郡の阿古居城を本拠にしておる久松氏。この両氏の仲立ちを広忠が買って出るというのはどうじゃ」
「ほほう、岡崎を攻めようとした際、緒川を衝かせる手を打つこともできましょう。が、そう上手くいきましょうや?」
「無論、上手くいく保証はない。じゃが、悪い手ではあるまい」
阿部大蔵は和睦の仲立ちによって松平は助かるとは到底思えなかった。しかし、何もしないよりは良い、とは感じていた。
「確か阿古居城主の久松佐渡守俊勝は殿と同じ齢でしたな」
「そ、それは知らなんだ。わしが聞くところによれば、久松佐渡には男がおるそうではないか。これと佐治対馬守の娘を娶わせて和睦させようと思うのじゃが、大蔵はいかが思う?」
「某は良き一手かと存じます。水野への嫌がらせとしては、にござりまするが」
「ははは、大蔵の言う通りじゃ。うんと水野に嫌がらせをしてやろう。これに水野下野がどう動くか、見物じゃな」
こうして、松平広忠が仲介した佐治氏と久松氏の和睦。これは思いのほか上手く事が運び、両者渡りに船と言わんばかりに締結と相成った。
佐治氏からは佐治対馬守の娘が久松佐渡の子へと嫁ぐこととなったのである。この和睦を聞いた水野下野は焦るかに見えたが、そこは水野下野。嫌がらせには嫌がらせで返してくる。
ある日、於大の方は異母兄・水野下野守信元の元へ呼び出されていた。
「於大、息災であったか」
「息災も何も、見ての通りにござりまする」
「……まだ岡崎と離縁したことを怒っておるのか。もう二年前のことぞ」
呼び出しには応じた於大の方。しかし、笑顔一つ見せず、兄と目を合わせようともしない。
離縁した後は広忠と竹千代の無事を祈り、母を同じくする藤次郎と藤十郎、二人の弟と遊ぶことで暗く沈んだままの心を和ませていた。
「どうじゃな、於大。そろそろ男が恋しかろうと思うてな、この兄が良き夫を見繕って参ったぞ」
そんな兄の言葉に、於大の方の肩が跳ねた。何か嫌な予感がしたのである。嫌な予感の正体を探ろうと視線を兄へ向けると、冷めきった表情をした兄の姿が目に入った。いや、入ってしまった。
「兄上。そのようなこと、お願いした覚えはござりませぬ」
「ああ、頼まれてはおらぬ。頼まれたとしても素直に聞く兄ではないこと、分かっておろう」
「また、政略結婚にござりましょう。わたくしは、女子は政治の道具ではござりませぬ」
「たわけ、女子だけが道具なのではない。男女問わず、この地上に生まれ落ちた時点で乱世の駒、駒に意思など存在せぬわ」
於大の方の言葉を聞いた途端、水野下野の表情が変わった。声も先ほどとは別人のように低くなっている。
乱世を生きる中で良く言えばしたたかに、悪く言えば人の情をどこかへ切り捨ててきた、諦観の域に達した冷酷さが感じられる。
「そなた、年が明けたら久松佐渡が元へ再嫁せよ」
その冷え切った兄の言葉に、於大の方は否と申すことができなかった――
「おお、竹千代ではないか。近う近う」
そう言って、我が子を手招く広忠の表情は松平の当主ではなく、一人の父親のソレであった。
竹千代は父に招かれるまま、側へ歩み寄っていく。そして、まだ乱世を知らぬ純真無垢な瞳でじっとやつれた父親の表情を見つめるのである。
まだ数えで二十歳であるというのに、そのことを知らない人間が見たならば三十幾つだと誤解してしまいそうな面持ち。何より、血色が悪く青白い顔色で、並みの子供ならば短く悲鳴を上げてしまうのではなかろうか。
「竹千代、その手に持っておるのは何か」
「ろんご」
「ほう、論語とな。伯母上……おばば様より教わっておるのか」
「はい」
まだ伯母上と言っても分かるまい。そう思って、竹千代の目線に立って分かりやすい言葉を用いる。ここにも、広忠の相手の目線に立って思いやれる優しい心が垣間見れる。
――それにしても、数えで四歳の子供に論語とはちと早すぎるのではないか。
そう思ってしまう広忠であったが、「いずれ、竹千代は松平の統領となるのです。幼き頃より論語を嗜ませておいて損はござりませぬ」などと於大の方なら言いそうだ。
広忠の脳裏に住みついたままの於大の方を思い出すと、広忠も自然に笑みがこぼれていた。離縁してなお、広忠にとっての正室は変わらないまま。
「ととさま、ないておられるのですか?」
竹千代に指摘されるまで、笑いながら泣いていたとは気づかない広忠であった。幼い我が子を前に昔を思い出して泣いてしまうとは情けない、そう思う広忠であったが、この時の涙は止まらなかった。
於大の方との離縁、先の安城攻めでの大敗。これまで堰き止めていたものが、決壊したように溢れだしたのだ。
「竹千代、わしも論語を読んでも良いか」
己の涙で袖をぐっしょり濡らした後、広忠はぽつりとそうつぶやいた。その間、一言も発することなく父の様子を眺めていた竹千代は、傍らの論語を父に献上する。
「すまぬなぁ、竹千代。そちも一緒に読むか?」
「はい」
父が論語を開くと、その左腕に抱き着く子。父は子の頭を優しく撫でながら、書かれている文言に視線を落とす。
中でも、広忠が目を引かれたのは二つ。一つは『性相い近し、習い相い遠し』、もう一つは『過ちて改めざるをこれ過ちという』であった。
ちなみに、『性相い近し、習い相い遠し』は人間、生まれつきの天性はたいして差がないが、後天的な習慣によって大きく違ってくるという意味である。
そして、もう一つは、過ちを犯しても改めないことこそが真の過ちだと説いている『過ちて改めざるをこれ過ちという』。
一つ目の言葉を見て、広忠は織田信秀を連想した。信秀と己では、これまで通ってきた修羅場の数を考慮すれば、今の己に太刀打ちできないのも仕方ない。だが、そこで諦めるのではなく、これからの行いで逆転を目指そうと奮起させてくれる。
二つ目の言葉も、二度と安城攻めのような失敗を繰り返さないと誓うだけでなく、どうすれば同じ失敗を繰り返さずに済むのか、冷静に見つめ直すキッカケになっていた。
その後も広忠は火灯し頃になるまで読書を継続。いつしか竹千代の寝息を聞きながらの読書となっていたが、かえって広忠は集中することができていた。
「広忠殿。妾より処方した妙薬は効果覿面でござりましたなぁ」
「おお、伯母上。うむ、竹千代に論語を持たせて残していった伯母上にしてやられました」
「ほほほ、何のことやら」
意図的に竹千代に論語を持たせたと推測している広忠と、それは偶然だと言葉を濁す随念院。両者は目を見あわせて笑い合った。
「広忠殿、御前や重臣どもも案じておられましたよ。ささ、皆様に元気なお姿を見せて差し上げてくださいな」
「うむ。そうしたいのはやまやまなのじゃが……」
広忠の視線はすぐ隣で、袴の裾を掴んで離さぬ我が子へと注がれている。何とも微笑ましい光景に、随念院も満面の笑みであった。
「では、妾はここで竹千代君を見ておきましょう」
「かたじけない。では、広間へ行って参ります」
先ほど訪れた時とは打って変わり、すっかり元気を取り戻した広忠に、随念院だけでなく、田原御前も重臣一同、ひどくほっとした様子であった。
「竹千代君、ご苦労様にございました」
「う~ん」
まだ眠いのか、随念院からの労いの言葉に応えるように寝返りを打つ竹千代。そんな彼は、己がしたことの大きさに気づいていない。
一人の大人を、実の父親を元気づけることに大いに貢献した。父が心に溜め込んでいた悲しみと虚しさを、見事に吐き出させたのであるから。
そうして、この天文十四年も終わりへと向かっていく。広忠にとっては田原御前を正室に迎え、安城攻めで重臣・本多平八郎忠豊を失った、忘れられない一年が。
――明けて、天文十五年。
依然として広忠に従わない勢力は健在。追放から三年が経つというのに、松平蔵人を屈服させることも討ち果たすことも叶っていない。
桜井松平監物や上野城の酒井将監忠尚、上和田城主・松平三左衛門忠倫は広忠に従う気配はなかった。昨年の安城攻めにおいて織田軍に大敗した広忠に従うなど、各々の所領を守る領主としては選びたくない選択肢ともいえる。
唯一、田原の戸田宗光とは同盟関係にあるが、広忠には敵が多すぎた。戸田氏と同盟を締結したことで、緒川水野氏と牛久保牧野氏との対立に終止符を打つことはできない。
そこへ、昨年激突した織田信秀の尾張織田氏、松平蔵人や酒井将監を筆頭とする反広忠の勢力が加わっているのだから、味方よりも敵の数が多く、さらには強大。このままでは滅亡すらもあり得る状況に、広忠は日々頭を悩ませていた。
「殿、またもや絵図と睨めっこにござりまするか」
「おお、大蔵か。うむ、そうじゃ。こうしてみると、東も西も敵だらけ、戸田が同盟相手であることがせめてもの救いじゃな」
「殿、もう一つ敵が増えることにお気づきか」
「もう一つの……敵?」
一体、阿部大蔵は何を言い出すのか。そう思い、広忠は阿部大蔵が絵図の上で指さす位置へ視線を移していく。そこは、駿府の今川氏を指していた。
「今川か。確か昨年、相模の北条氏康との戦いで勝利し、甲斐の武田晴信の仲立ちで和睦したのであったな」
「はい、河東の地を返還する条件で北条と今川は和睦。目下、今川は東に目を向ける必要がなくなっております」
「となれば、いよいよ三河に今川軍がやってきまするぞ……と、かように申したいわけじゃな」
「はい。今川義元とて二十八歳と若く、領土拡大の野心に満ちているはず。おそらく、北条や武田と争うよりも三河を切りとる方が易い、かように判断するかと思われまする」
阿部大蔵の言うことはもっともである。何より、田原の戸田と争く牛久保の牧野は今川より支援を受けている。
これまでは河東のこともあり、本格的に軍を向けてくることはなかっただけであり、昨年の北条との戦いの傷が癒えれば大軍を動員して三河に侵攻してくることは十二分にあり得る。
そうなれば、松平よりも先に今川軍は戸田を潰しにかかるであろう。そうなれば、広忠ら松平も戸田より援軍要請が入ることは必定。そして、今川義元の中で、戸田を滅ぼして東三河を支配下に置いたうえで、次はこの岡崎に向けて攻め込んでくる。
「大蔵、今川軍襲来の暁には当家はひと月と持つまい」
「何をおっしゃる――と言いたきところではござりまするが、恐らくはそうなりましょうな。また、我が叔父、大久保左衛門五郎殿がおっしゃるには、織田にも目を向けるべきである、と」
大久保左衛門五郎忠茂は御年七十一の老将。他でもない、大久保新八郎忠俊、大久保甚四郎忠員らの実父である。そして、彼の妻は阿部大蔵定吉の叔母にもあたる松平の重鎮なのである。
「して、織田にも目を向けねばならぬ、とは如何なる仕儀じゃ」
「殿、織田信秀の立場に立って考えてみてくださいませ。もし、戸田を滅した今川が岡崎までも落とす事態になれば、いかがでしょう」
「……しれたこと、矢矧川が織田と今川の最前線をなる」
「左様、それを避けたい織田弾正めは今川より早く岡崎を狙ってくる恐れがある、とかように申しておりました」
何をバカな、と言いたい広忠であったが、自分が織田信秀の立場であれば、岡崎に今川の勢力が及ぶことを恐れ、今川よりも先に岡崎を領有化してしまおうと思い至るに相違ない。
「いや、大久保左衛門五郎の言うことはもっともじゃ。あの信秀の性格を考えれば、この岡崎城を急ぎ攻め落とそうと目論むであろう」
「西からは織田と水野、松平蔵人らが攻め寄せ、東からは今川。十中八九、当家は持ちこたえられませぬ」
「じゃが、今さら戸田と同盟を破棄することはできぬ。こうなれば、抗える限りは抗わざるを得まい」
織田にも今川にも従いたい。されど、同盟相手の田原戸田を見捨てることもできない。非情な策略家なら、平然と戸田を見捨てるであろうが、心根の優しい広忠には到底できない所業である。
「おお、そうじゃ。そなたが今川と北条が和睦した話をした折に思い出したのじゃが、甲斐の武田は今川と北条の仲立ちをしたのであったな」
「左様にござりまする。されど、和睦の仲立ちが何か――」
「水野の動きを鈍らせる妙案じゃぞ。緒川の西にある知多郡大野城を本拠とする佐治氏、緒川南西にある同郡の阿古居城を本拠にしておる久松氏。この両氏の仲立ちを広忠が買って出るというのはどうじゃ」
「ほほう、岡崎を攻めようとした際、緒川を衝かせる手を打つこともできましょう。が、そう上手くいきましょうや?」
「無論、上手くいく保証はない。じゃが、悪い手ではあるまい」
阿部大蔵は和睦の仲立ちによって松平は助かるとは到底思えなかった。しかし、何もしないよりは良い、とは感じていた。
「確か阿古居城主の久松佐渡守俊勝は殿と同じ齢でしたな」
「そ、それは知らなんだ。わしが聞くところによれば、久松佐渡には男がおるそうではないか。これと佐治対馬守の娘を娶わせて和睦させようと思うのじゃが、大蔵はいかが思う?」
「某は良き一手かと存じます。水野への嫌がらせとしては、にござりまするが」
「ははは、大蔵の言う通りじゃ。うんと水野に嫌がらせをしてやろう。これに水野下野がどう動くか、見物じゃな」
こうして、松平広忠が仲介した佐治氏と久松氏の和睦。これは思いのほか上手く事が運び、両者渡りに船と言わんばかりに締結と相成った。
佐治氏からは佐治対馬守の娘が久松佐渡の子へと嫁ぐこととなったのである。この和睦を聞いた水野下野は焦るかに見えたが、そこは水野下野。嫌がらせには嫌がらせで返してくる。
ある日、於大の方は異母兄・水野下野守信元の元へ呼び出されていた。
「於大、息災であったか」
「息災も何も、見ての通りにござりまする」
「……まだ岡崎と離縁したことを怒っておるのか。もう二年前のことぞ」
呼び出しには応じた於大の方。しかし、笑顔一つ見せず、兄と目を合わせようともしない。
離縁した後は広忠と竹千代の無事を祈り、母を同じくする藤次郎と藤十郎、二人の弟と遊ぶことで暗く沈んだままの心を和ませていた。
「どうじゃな、於大。そろそろ男が恋しかろうと思うてな、この兄が良き夫を見繕って参ったぞ」
そんな兄の言葉に、於大の方の肩が跳ねた。何か嫌な予感がしたのである。嫌な予感の正体を探ろうと視線を兄へ向けると、冷めきった表情をした兄の姿が目に入った。いや、入ってしまった。
「兄上。そのようなこと、お願いした覚えはござりませぬ」
「ああ、頼まれてはおらぬ。頼まれたとしても素直に聞く兄ではないこと、分かっておろう」
「また、政略結婚にござりましょう。わたくしは、女子は政治の道具ではござりませぬ」
「たわけ、女子だけが道具なのではない。男女問わず、この地上に生まれ落ちた時点で乱世の駒、駒に意思など存在せぬわ」
於大の方の言葉を聞いた途端、水野下野の表情が変わった。声も先ほどとは別人のように低くなっている。
乱世を生きる中で良く言えばしたたかに、悪く言えば人の情をどこかへ切り捨ててきた、諦観の域に達した冷酷さが感じられる。
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貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
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