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第2章 水沫泡焔の章
第18話 当主不在という危機
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――松平広忠死す。
早すぎる死に田原御前や随念院などの親族は無論のこと、重臣一同は悲しみに袖を濡らした。いよいよ松平を一つに束ねられる日も近い。そんな折に、重臣の誰よりも若い当主その人が亡くなってしまった。
中でも、広忠を幼少の頃から今日まで守り抜いてきた阿部大蔵の悲しみは底知れず、それこそ我が子を亡くしたかのような、案ずる声もかけられない空気を身に纏っている。
しかし、重臣たちは泣いてばかりもいられなかった。当主・広忠の死によって、岡崎の松平家は当主が不在という危機に直面しているのだ。
本来、跡を継ぐべき竹千代は依然として織田に奪われたままであり、ほかに男子もいなかった。女子ならば平原勘之丞正次の娘との間に、矢田姫と市場姫という姫がいるのみ。
後継者不在という未曾有の危機に動揺は松平氏をはじめ、三河の国衆らにも伝播していった。ここで、織田が竹千代を松平宗家の主として押し立ててきた場合、松平はどうなってしまうのか、岡崎城に詰める者たちは気が気でない。
ましてや、未だに矢矧川を隔てた安城城と周辺領域は織田の支配下のままであり、安城城には織田信秀の諸長子・織田三郎五郎信広が守りについている。
松平宗家としては、安城領の織田勢力や未だに宗家に従わない勢力を屈服させること、いかにして竹千代を織田より取り戻すのかが喫緊の課題となっていた。
岡崎城では連日連夜評定が開かれ、白髪交じりの宿老・石川安芸守忠成、五十一歳となり老境に差し掛かった大久保新八郎忠俊と三十九歳となった大久保甚四郎忠員の兄弟。大久保新八郎よりもさらに七つも年を重ねている鳥居伊賀守忠吉などの老臣。
他にも、三十歳になり程よく熟してきた植村新六郎氏明、植村新六郎の一つ年下にあたる酒井雅楽助政家、広忠と同じ二十四歳の本多平八郎忠高、碧海郡土井郷の領主で二十二歳の本多豊後守広孝などの若者まで、大勢が一堂に会していた。
「阿部大蔵殿は傷心中で、政務への復帰は今しばらくかかろう。こうなれば、残された我らで対応にあたるほかない」
「うむ、ここはひとまず鳥居伊賀殿に仕切っていただくとしようかの」
最も年を重ねて宿老らしい風格のある鳥居伊賀守の下、重臣たちは今後のお家のことについて談合し始める。焦眉の急は織田の勢力を駆逐することと竹千代を奪還することであるのは、皆も同意するところ。
ただ、議論が白熱したのは今川を頼るべきか否か、という点であった。やはり本多平八郎ら若者は血気盛ん、自分たちの手で竹千代を奪い返すと息まき、石川安芸ら老臣らは今川義元の軍事力を頼みとするほかないと主張。
熟練して理詰めで説き伏せにかかる老臣らと、松平宗家の問題は松平のみで処理するべきであると感情的に述べる若者たち。そんな岡崎評定だが、最終的にはまとめ役である鳥居老人の意見で決することとなった。
「伊賀殿、貴殿はどう思われるか」
「わしは今川の力を頼りにするべきじゃと思う」
「そ、そは何故に!?」
鳥居伊賀の言葉に過剰反応を示したのは本多平八郎。ここでまた今川の力を借りているようでは、松平は今川なしには何も出来ぬ弱小国衆だと見られてしまう。それが耐えられないのだと彼は頑なに主張した。
「じゃが、竹千代君を取り戻せねば、元も子もないのじゃ。それは平八郎とて分かっておろう」
「ああ!されど、今川の力をアテにするなど、承服いたしかねる!我らが君は我らの手でお救い致すべき」
「無論、我らも全力は尽くさねばならぬ。元より当家の存亡にかかわる事態ゆえな。そこへ、今川の助成を受けて万全を期して挑むべきじゃというのが、この鳥居伊賀の意見である。お分かりいただけるであろうかの?」
鳥居伊賀の威圧しているようで、どこか温かみの残る説得に、徐々に本多平八郎の発言も刺々しさが喪失していく。そして、時間はかかったものの、今川義元に助力を請うことで評定は一決した。
「皆々様、長きに渡る評定で、さぞかしお疲れでしょう」
「おお、御前様。疲れなど、当家の危機を目の当たりにして疲れるような輩はこの場にはおりませぬ。みな、忠義者ばかりですゆえ」
そういって、鳥居伊賀に辺りを見回されると、皆一様に疲労の色一つ見せない表情なのである。いかなる状況においても忠義を尽くす、三河武士ならではの光景であった。
「左様にございますか。そうじゃ、妾の身の振り方はいかがなりましょう」
「御前様は岡崎にお残りいただく形となりまする。すでに田原は今川に攻められ、いつ滅亡させられてもおかしくはござりませぬ。ゆえ、戦禍の真っただ中である田原より岡崎の方が安全にござりましょう」
「……そうですか。では、妾も岡崎へ留まるとしましょう」
「そうしていただければ有り難い。竹千代君が帰ってきても、御前様がおられねば寂しがられましょうから」
実家である田原が滅亡寸前であると鳥居伊賀の口から伝えられ、表情が曇った田原御前。鳥居伊賀はそれを見逃さず、彼女が我が子の如く目をかけていた竹千代の話題を切り出すことで顔色を明るい方へと転じさせた。実に巧みな話術である。
ともあれ、広忠死後の方策を取りまとめた重臣らは、さっそく今川家へ助けを求め、その知らせは駿府の今川治部大輔義元の下へもたらされた。
「ほう、松平宗家の当主が亡くなったとな。予よりも七つほど年下であったというに先に逝ってしまうとはの」
「天命と申すは人智の及ばぬもの。人の力ではどうにもできませぬゆえ、致し方なきことかと」
嘆息する今川義元に天命を口にしたのは関口刑部少輔氏純。今川家の重臣であり、室町幕府の奉公衆でもある。そして、今川一門の瀬名氏出身であることから、一門に準ずる立場でもある人物。
「刑部よ、お主は松平がこと、いかにすべきであると考える?忌憚なく申してみよ」
「然らば。私めはただちに三河へ派兵すべきであると考えます」
松平重臣らからの要請に応じ、即時派兵。さすれば今川家は頼れる勢力であると誇示でき、未だ今川に従わぬ国衆らを従属させるのにも一役買うだろう。それを見越しての関口刑部の意見であった。
「ほほう、当主不在の岡崎城を織田よりも先に接収してしまおうという腹であろう」
「さすがは太守様。私が考えることは見通されておられるようで」
「そう持ち上げるでない。うむ、そちも派兵すべきと申すならば、予も迷いがなくなった。岡崎城接収の任には朝比奈備中守に当たらせ、三河の国衆らが血迷って織田に付こうなどと思わぬよう、太原崇孚率いる大軍を送り込むこととしようぞ」
「名案にございます。昨年、小豆坂の地にて織田信秀を撃滅した両名が軍勢を引き連れて乗り込めば、織田方の勢力もおとなしくなりましょう」
今川義元の対応は実に迅速であった。朝比奈備中守に命じて無主となった岡崎城を接収。さらには、太原崇孚率いる今川軍の派遣が決定し、広忠が死去した三月中には三河入りを果たしたのである。
西三河に入った今川軍の数は日に日に増していき、松平勢も加えれば一万にまで膨れ上がっている。
この迅速な対応、そして今川軍の他を圧倒する兵数に松平宗家の家中はホッと安堵の息を漏らした。やはり西三河は今川にとって重要な地。そう認識されているうちは松平は大丈夫なのだ。そう思うことができた。
「太原崇孚殿、朝比奈備中守殿。此度は当家への助力、心底より御礼申し上げる」
「おお、阿部殿。いつぞやお会いした時以来にございますな」
「ははっ、竹千代君が奪われる前のことゆえ、二年前のこととなりましょう」
「そうでしたな。そして、その竹千代君を取り戻すが、此度の戦の大義となります。松平の皆々様にも存分に働いていただくことになりましょう」
三河での合戦なのだから、三河の国衆が先陣を切るのは当時の通例である。ゆえに松平家中の者で反発する者はいなかった。
むしろ、竹千代を今川家の軍勢に奪い返されては面目が潰れる、と内心で思っている者も多い。そうなれば、先鋒を引き受けて安堵したほどなのである。
「さしあたって、安城城へは松平勢に先遣隊として向かっていただく」
太原崇孚に代わって発言したのは朝比奈備中守。日に焼けた老将からの発言は重みが違った。反論の余地を与えない、どこか威圧感を帯びた声色なのである。
「松平勢が安城へ向かっている間、当家の軍勢は主命により西条城の攻略にあたることといたす。それまで、松平勢のみでの城攻めはご遠慮願いたい」
そう、今川家が三河入りしたのは何も竹千代を織田信秀から奪い返すためだけではなかったのだ。今川家の本家筋にあたりながら織田方につき、敵対の姿勢を示してきた西条吉良義安を降す。これが今川家にとって第一目標なのであった。
その後は太原崇孚が道中で練り上げた策が披露される。まるで芝居の筋書きのように完成された作戦内容に、誰しもが感服していた。
「然らば、方々。ぬかりなく策を遂行してくだされ」
「おう!」
「ハハッ!」
かくして、今川・松平勢はただちに行動を開始。今川家の主力は太原崇孚が率い、西条城の吉良義安攻略へ。松平勢と今川勢の一部が安城城への先遣隊を務めるべく出陣。
長らく松平広忠に従うことなく、反抗し続けた上野城主・酒井将監忠尚も、かつて松平蔵人信孝が拠点としていた山崎城の攻略にあたることとなった。
今川方の動きによって、筧兄弟に暗殺された松平三左衛門忠倫の後を継いだ弟の忠就も尾張国内の知行を放棄して今川へ臣従する姿勢を示し、続々と織田方勢力を今川方が駆逐していく。
朝比奈備中守泰能と岡部五郎兵衛元綱らも別動隊を率いて安城城へ織田や水野の援軍が入らないよう進路を遮断するなど、着々と安城城を孤立させていった。
そんな勢いに乗る今川軍に恐れをなし、攻撃を受けた西条城の吉良義安も降伏を表明。第一目標を攻略した今川軍主力も安城城へ殺到し、広忠没後より十三日後の三月十九日。
ついに織田三郎五郎信広が籠城する安城城攻めが開始された。ついに、安城城は駿河・遠江・三河の三カ国の大軍に攻められる事態となったのである。
「城攻めが開始された模様!あれほどの大軍、この城ではそう長くは持ちこたえられぬかと!」
「前島伝次郎!口を動かしている暇があるならば、手を動かせ!弓も石も今日で使い切るつもりで放て!敵がかけた梯子は敵の頭が城壁より上に出た頃を見計らって突き倒せ!よいか、父上は必ず援軍に来てくださる!それまでの辛抱じゃ!」
ここまで来ると織田三郎五郎信広も必死であった。それもそのはず。こう蟻一匹這い出る隙間もなく囲まれたのでは、城からの脱出は不可能。もはや援軍が来ることに望みを託し、防戦に努めるほかなかった。
寄せ手の先鋒は松平勢。従軍するのは大久保新八郎忠俊をはじめ、本多平八郎忠高、大久保改め阿部四郎五郎忠政、米津藤蔵常春らであった。いずれも、竹千代を取り戻さんと目を血走らせている。
城の櫓にて弓を放つ織田兵を阿部四郎五郎がたちどころに射殺し、本多平八郎と米津藤蔵らが槍を振り回しながら先頭きって勇戦。
今川に侮られまい、何に替えても竹千代を取り戻す。そんな覚悟を内に宿した三河の強兵たちに攻められ、三の丸、二の丸と立て続けに陥落。本丸へと迫っていくが、焦るあまり、三河衆は深入りしすぎてしまう。
「平八郎殿!あまり先を急ぐな!すでに後続の部隊がついてきておらぬ」
「藤蔵、この程度の速度に遅れるなど気合が足らぬ腑抜けじゃ!構うものか!」
本多平八郎よりも二つ年上の米津藤蔵の制止を振り切り、猪突猛進してゆく本多平八郎忠高。
「織田の者ども!我こそは本多平八郎忠豊が子、忠高であるぞ!織田三郎五郎が首、貰い受けに参った!」
そうおめき叫びながら敵中へ果敢に飛び込んでいく姿は、さながら鬼神のようであった。群がる敵を槍でたたき伏せ、太刀を抜いて斬りかかってくる敵兵と取っ組み合う。
接近戦では槍の名手と自負する米津藤蔵も目を丸くするほどの奮戦ぶり。されど、鬼神の如き戦いぶりを見せる三河武士を遠くから狙う影が一つ。
キリキリと弓を引き絞り、次の瞬間に射手を離れた矢は空をきり、本多平八郎が眉間を穿つ。射たのは先ほど織田三郎五郎に叱咤された前島伝次郎という弓の名手であった。
――本多平八郎忠高、討ち死に。
この知らせに松平勢は大いに動揺した。本多平八郎忠高の亡骸は味方の手で回収されたため、首を挙げられることはなかったが、士気の低下は免れなかった――
早すぎる死に田原御前や随念院などの親族は無論のこと、重臣一同は悲しみに袖を濡らした。いよいよ松平を一つに束ねられる日も近い。そんな折に、重臣の誰よりも若い当主その人が亡くなってしまった。
中でも、広忠を幼少の頃から今日まで守り抜いてきた阿部大蔵の悲しみは底知れず、それこそ我が子を亡くしたかのような、案ずる声もかけられない空気を身に纏っている。
しかし、重臣たちは泣いてばかりもいられなかった。当主・広忠の死によって、岡崎の松平家は当主が不在という危機に直面しているのだ。
本来、跡を継ぐべき竹千代は依然として織田に奪われたままであり、ほかに男子もいなかった。女子ならば平原勘之丞正次の娘との間に、矢田姫と市場姫という姫がいるのみ。
後継者不在という未曾有の危機に動揺は松平氏をはじめ、三河の国衆らにも伝播していった。ここで、織田が竹千代を松平宗家の主として押し立ててきた場合、松平はどうなってしまうのか、岡崎城に詰める者たちは気が気でない。
ましてや、未だに矢矧川を隔てた安城城と周辺領域は織田の支配下のままであり、安城城には織田信秀の諸長子・織田三郎五郎信広が守りについている。
松平宗家としては、安城領の織田勢力や未だに宗家に従わない勢力を屈服させること、いかにして竹千代を織田より取り戻すのかが喫緊の課題となっていた。
岡崎城では連日連夜評定が開かれ、白髪交じりの宿老・石川安芸守忠成、五十一歳となり老境に差し掛かった大久保新八郎忠俊と三十九歳となった大久保甚四郎忠員の兄弟。大久保新八郎よりもさらに七つも年を重ねている鳥居伊賀守忠吉などの老臣。
他にも、三十歳になり程よく熟してきた植村新六郎氏明、植村新六郎の一つ年下にあたる酒井雅楽助政家、広忠と同じ二十四歳の本多平八郎忠高、碧海郡土井郷の領主で二十二歳の本多豊後守広孝などの若者まで、大勢が一堂に会していた。
「阿部大蔵殿は傷心中で、政務への復帰は今しばらくかかろう。こうなれば、残された我らで対応にあたるほかない」
「うむ、ここはひとまず鳥居伊賀殿に仕切っていただくとしようかの」
最も年を重ねて宿老らしい風格のある鳥居伊賀守の下、重臣たちは今後のお家のことについて談合し始める。焦眉の急は織田の勢力を駆逐することと竹千代を奪還することであるのは、皆も同意するところ。
ただ、議論が白熱したのは今川を頼るべきか否か、という点であった。やはり本多平八郎ら若者は血気盛ん、自分たちの手で竹千代を奪い返すと息まき、石川安芸ら老臣らは今川義元の軍事力を頼みとするほかないと主張。
熟練して理詰めで説き伏せにかかる老臣らと、松平宗家の問題は松平のみで処理するべきであると感情的に述べる若者たち。そんな岡崎評定だが、最終的にはまとめ役である鳥居老人の意見で決することとなった。
「伊賀殿、貴殿はどう思われるか」
「わしは今川の力を頼りにするべきじゃと思う」
「そ、そは何故に!?」
鳥居伊賀の言葉に過剰反応を示したのは本多平八郎。ここでまた今川の力を借りているようでは、松平は今川なしには何も出来ぬ弱小国衆だと見られてしまう。それが耐えられないのだと彼は頑なに主張した。
「じゃが、竹千代君を取り戻せねば、元も子もないのじゃ。それは平八郎とて分かっておろう」
「ああ!されど、今川の力をアテにするなど、承服いたしかねる!我らが君は我らの手でお救い致すべき」
「無論、我らも全力は尽くさねばならぬ。元より当家の存亡にかかわる事態ゆえな。そこへ、今川の助成を受けて万全を期して挑むべきじゃというのが、この鳥居伊賀の意見である。お分かりいただけるであろうかの?」
鳥居伊賀の威圧しているようで、どこか温かみの残る説得に、徐々に本多平八郎の発言も刺々しさが喪失していく。そして、時間はかかったものの、今川義元に助力を請うことで評定は一決した。
「皆々様、長きに渡る評定で、さぞかしお疲れでしょう」
「おお、御前様。疲れなど、当家の危機を目の当たりにして疲れるような輩はこの場にはおりませぬ。みな、忠義者ばかりですゆえ」
そういって、鳥居伊賀に辺りを見回されると、皆一様に疲労の色一つ見せない表情なのである。いかなる状況においても忠義を尽くす、三河武士ならではの光景であった。
「左様にございますか。そうじゃ、妾の身の振り方はいかがなりましょう」
「御前様は岡崎にお残りいただく形となりまする。すでに田原は今川に攻められ、いつ滅亡させられてもおかしくはござりませぬ。ゆえ、戦禍の真っただ中である田原より岡崎の方が安全にござりましょう」
「……そうですか。では、妾も岡崎へ留まるとしましょう」
「そうしていただければ有り難い。竹千代君が帰ってきても、御前様がおられねば寂しがられましょうから」
実家である田原が滅亡寸前であると鳥居伊賀の口から伝えられ、表情が曇った田原御前。鳥居伊賀はそれを見逃さず、彼女が我が子の如く目をかけていた竹千代の話題を切り出すことで顔色を明るい方へと転じさせた。実に巧みな話術である。
ともあれ、広忠死後の方策を取りまとめた重臣らは、さっそく今川家へ助けを求め、その知らせは駿府の今川治部大輔義元の下へもたらされた。
「ほう、松平宗家の当主が亡くなったとな。予よりも七つほど年下であったというに先に逝ってしまうとはの」
「天命と申すは人智の及ばぬもの。人の力ではどうにもできませぬゆえ、致し方なきことかと」
嘆息する今川義元に天命を口にしたのは関口刑部少輔氏純。今川家の重臣であり、室町幕府の奉公衆でもある。そして、今川一門の瀬名氏出身であることから、一門に準ずる立場でもある人物。
「刑部よ、お主は松平がこと、いかにすべきであると考える?忌憚なく申してみよ」
「然らば。私めはただちに三河へ派兵すべきであると考えます」
松平重臣らからの要請に応じ、即時派兵。さすれば今川家は頼れる勢力であると誇示でき、未だ今川に従わぬ国衆らを従属させるのにも一役買うだろう。それを見越しての関口刑部の意見であった。
「ほほう、当主不在の岡崎城を織田よりも先に接収してしまおうという腹であろう」
「さすがは太守様。私が考えることは見通されておられるようで」
「そう持ち上げるでない。うむ、そちも派兵すべきと申すならば、予も迷いがなくなった。岡崎城接収の任には朝比奈備中守に当たらせ、三河の国衆らが血迷って織田に付こうなどと思わぬよう、太原崇孚率いる大軍を送り込むこととしようぞ」
「名案にございます。昨年、小豆坂の地にて織田信秀を撃滅した両名が軍勢を引き連れて乗り込めば、織田方の勢力もおとなしくなりましょう」
今川義元の対応は実に迅速であった。朝比奈備中守に命じて無主となった岡崎城を接収。さらには、太原崇孚率いる今川軍の派遣が決定し、広忠が死去した三月中には三河入りを果たしたのである。
西三河に入った今川軍の数は日に日に増していき、松平勢も加えれば一万にまで膨れ上がっている。
この迅速な対応、そして今川軍の他を圧倒する兵数に松平宗家の家中はホッと安堵の息を漏らした。やはり西三河は今川にとって重要な地。そう認識されているうちは松平は大丈夫なのだ。そう思うことができた。
「太原崇孚殿、朝比奈備中守殿。此度は当家への助力、心底より御礼申し上げる」
「おお、阿部殿。いつぞやお会いした時以来にございますな」
「ははっ、竹千代君が奪われる前のことゆえ、二年前のこととなりましょう」
「そうでしたな。そして、その竹千代君を取り戻すが、此度の戦の大義となります。松平の皆々様にも存分に働いていただくことになりましょう」
三河での合戦なのだから、三河の国衆が先陣を切るのは当時の通例である。ゆえに松平家中の者で反発する者はいなかった。
むしろ、竹千代を今川家の軍勢に奪い返されては面目が潰れる、と内心で思っている者も多い。そうなれば、先鋒を引き受けて安堵したほどなのである。
「さしあたって、安城城へは松平勢に先遣隊として向かっていただく」
太原崇孚に代わって発言したのは朝比奈備中守。日に焼けた老将からの発言は重みが違った。反論の余地を与えない、どこか威圧感を帯びた声色なのである。
「松平勢が安城へ向かっている間、当家の軍勢は主命により西条城の攻略にあたることといたす。それまで、松平勢のみでの城攻めはご遠慮願いたい」
そう、今川家が三河入りしたのは何も竹千代を織田信秀から奪い返すためだけではなかったのだ。今川家の本家筋にあたりながら織田方につき、敵対の姿勢を示してきた西条吉良義安を降す。これが今川家にとって第一目標なのであった。
その後は太原崇孚が道中で練り上げた策が披露される。まるで芝居の筋書きのように完成された作戦内容に、誰しもが感服していた。
「然らば、方々。ぬかりなく策を遂行してくだされ」
「おう!」
「ハハッ!」
かくして、今川・松平勢はただちに行動を開始。今川家の主力は太原崇孚が率い、西条城の吉良義安攻略へ。松平勢と今川勢の一部が安城城への先遣隊を務めるべく出陣。
長らく松平広忠に従うことなく、反抗し続けた上野城主・酒井将監忠尚も、かつて松平蔵人信孝が拠点としていた山崎城の攻略にあたることとなった。
今川方の動きによって、筧兄弟に暗殺された松平三左衛門忠倫の後を継いだ弟の忠就も尾張国内の知行を放棄して今川へ臣従する姿勢を示し、続々と織田方勢力を今川方が駆逐していく。
朝比奈備中守泰能と岡部五郎兵衛元綱らも別動隊を率いて安城城へ織田や水野の援軍が入らないよう進路を遮断するなど、着々と安城城を孤立させていった。
そんな勢いに乗る今川軍に恐れをなし、攻撃を受けた西条城の吉良義安も降伏を表明。第一目標を攻略した今川軍主力も安城城へ殺到し、広忠没後より十三日後の三月十九日。
ついに織田三郎五郎信広が籠城する安城城攻めが開始された。ついに、安城城は駿河・遠江・三河の三カ国の大軍に攻められる事態となったのである。
「城攻めが開始された模様!あれほどの大軍、この城ではそう長くは持ちこたえられぬかと!」
「前島伝次郎!口を動かしている暇があるならば、手を動かせ!弓も石も今日で使い切るつもりで放て!敵がかけた梯子は敵の頭が城壁より上に出た頃を見計らって突き倒せ!よいか、父上は必ず援軍に来てくださる!それまでの辛抱じゃ!」
ここまで来ると織田三郎五郎信広も必死であった。それもそのはず。こう蟻一匹這い出る隙間もなく囲まれたのでは、城からの脱出は不可能。もはや援軍が来ることに望みを託し、防戦に努めるほかなかった。
寄せ手の先鋒は松平勢。従軍するのは大久保新八郎忠俊をはじめ、本多平八郎忠高、大久保改め阿部四郎五郎忠政、米津藤蔵常春らであった。いずれも、竹千代を取り戻さんと目を血走らせている。
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「平八郎殿!あまり先を急ぐな!すでに後続の部隊がついてきておらぬ」
「藤蔵、この程度の速度に遅れるなど気合が足らぬ腑抜けじゃ!構うものか!」
本多平八郎よりも二つ年上の米津藤蔵の制止を振り切り、猪突猛進してゆく本多平八郎忠高。
「織田の者ども!我こそは本多平八郎忠豊が子、忠高であるぞ!織田三郎五郎が首、貰い受けに参った!」
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キリキリと弓を引き絞り、次の瞬間に射手を離れた矢は空をきり、本多平八郎が眉間を穿つ。射たのは先ほど織田三郎五郎に叱咤された前島伝次郎という弓の名手であった。
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
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