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第2章 水沫泡焔の章
第29話 相響く
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「殿、植村新六郎氏明が今月八日に尾張国愛知郡沓掛にて戦死したる由」
「植村新六郎、祖父よりの功臣がまた一人逝ってしまったか」
ほとんど接することがなく、竹千代の眼から涙が流れることはなかった。しかし、植村新六郎氏明の武名は存じているがゆえに、その死を惜しんでいることだけは嘆息からも伝わってくる。
それだけに、植村新六郎の死を取り次いだ酒井左衛門尉忠次は竹千代の分も泣き出しそうな表情をしていた。
そんな早すぎる死を惜しまれる植村新六郎氏明は、竹千代の祖父・松平清康が阿部大蔵定吉の子・正豊《まさとよ》に斬り殺された際、その場で阿部正豊を討ち取った忠義の者である。
そんな彼の妹・小夜が本多平八郎忠高に嫁ぎ、二人の間に生まれたのが後の本多平八郎忠勝なのである。つまり、本多忠勝から見ても、植村新六郎は伯父にあたるのだ。
それはさておき、植村新六郎が戦死した時、三十三歳。まだまだ働き盛り、経験と体の若さが絶妙に噛み合う三十代での死は早すぎると松平家臣は誰もが感じていた。
「して、植村新六郎の跡目は誰に継がせることとなっておるか」
「十二歳となる植村新六郎の嫡子が継承するのが筋というものでしょう」
「うむ、それでよかろう。確か、この駿府に随行してきておったはずじゃ。今は父の死で傷心中であろうで、落ち着いた頃合いを見計らって会うてみるとする」
「それがよろしいかと」
さすがに父を失ったばかりの子を召し出して家督相続云々の話をするのは気が引けた。ただそれだけの処置なのだが、酒井左衛門尉の眼には家臣想いの良き君主として映っていた。
「殿は御存じでしょうや。尾張でのことは」
「尾張でのこと……?」
さすがに最新の尾張情勢は竹千代も知らなかった。だが、酒井左衛門尉は知っているのであろう、言葉の節々からそれが感じられる。
「さては、何ぞ国元より便りがあったのだな」
「御推察の通りにございます。ゆえに、殿へご報告を」
「うむ、申してくれ」
竹千代に促され、酒井左衛門尉は植村新六郎氏明の戦死から十二日後に勃発した萱津の戦いの仔細を報告し始める。
尾張下四郡を支配する守護代。それが清洲の織田大和守家であり、織田信友として知られる清洲城主・織田彦五郎勝秀は宿老・坂井大膳らによる補佐のもと、有力庶家にあった織田弾正忠家の当主・信長に対して敵対の意を示したのである。
この萱津の戦いでは織田信勝を支持する柴田勝家が中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取った。そして、織田信長の小姓・前田犬千代も初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てている。
こうして信長と信勝が連合した織田弾正忠家が清洲の織田大和守家に萱津の戦いで勝利。以後も清洲方との戦いが続くこととなる。
「ふむ、織田弾正忠家一丸となり、清洲方を打ち破ったということか」
「はっ、そうなりまする!」
「うむ、尾張は隣国。隣国の情勢は判明次第、竹千代にも報告してくれよ」
「無論にございます!」
酒井左衛門尉の真っ直ぐな目にニコリを微笑み返した竹千代は西の方角へと目を向ける。
――あと数刻もすれば陽が沈んでいく方角ではそのようなことが起こっていたのか。
そのようなことを考えている風である。そんな幼い主君をじっと酒井左衛門尉は見つめ続けるのであった。
ちなみに、この萱津の戦いにて初陣した織田信長の小姓・前田犬千代こそ、後に竹千代と同じく五大老となり、加賀百万石の礎を築いた前田又左衞門利家なのである。
そんな犬千代は合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長より「肝に毛が生えておるわ」と賞賛されたという。
萱津の戦いが行われた八月が過ぎ、暑さよりも寒さが身に染みるようになった翌九月。一時的な和睦がなされた織田・今川両氏の関係にも変化が見られた。
水面下では織田方、今川方に分かれて争っていたのだが、ついに今川義元は再び軍勢を派遣。尾張国八事にまで侵攻したのである。
織田弾正忠家は上総介信長と勘十郎信勝の兄弟で政治運営が担われていたが、一枚岩ではない。されど、そんな両名が協力して先月には萱津の戦いにて清洲方の軍勢を撃破した。
このまま一枚岩となって活動するのであれば、織田弾正忠家が息を吹き返す恐れもある。三河からの報せを受けた今川義元はこのタイミングで、織田への攻勢を強めることを決断したのであった。
織田信秀の死後、鳴海の山口左馬助は織田方の尾張国大高城を調略を駆使して攻略するなど、水面下で活躍。海からも近い大高城を抑えたことの戦略的意義は今川義元も重々承知していた。
それゆえに喜びようも並大抵ではなかったが、それを足掛かりに再び尾張への攻勢を強めだしたのである。
駿河の今川家からの攻勢が強まりつつあることに誰よりも危機感を抱いていたのは織田上総介信長であった。
「で、あるか。今川治部太輔義元は当家の和睦を解消するような動きを見せたか」
「はい。まったくもって油断ならぬ相手にございますな」
「まこと厄介な奴らよ。当家との境目に位置する鳴海が当家から離反したのだ。由々しき事態といえよう」
傅役の平手中務と今川についての言葉をかわす信長。鳴海が今川に転じ、笠寺には岡部丹波守元綱や飯尾連龍をはじめ、今川の軍勢が駐屯していることが何よりも厄介であった。
「されど、今川の三河支配は未だ不安定な情勢にございます。大給松平に足助鱸、広瀬三宅といった諸勢力は反今川の旗幟を鮮明にしておりますれば」
「うむ、爺が申した勢力を利用して今川の三河支配を揺るがす。さすれば、尾張へ目を向ける余裕がなくなろう。その間に親父殿の死で湧きだした膿を除去すればよい。誰が敵であるのか、親父殿が死んだおかげで鮮明になったわ」
「これ、その発言は不謹慎極まりませんぞ。どこで誰が聞いておるか分かりませぬゆえ」
「ははは、聞かれても問題はない。すでに葬儀の日に仏前で抹香を投げつけておるでな」
笑い事ではないと諭したい平手中務であったが、信長にどう言葉をかけるべきか。その言葉を見つけられずにいた。
こうして織田信長率いる織田弾正忠家が今川家の攻勢に対する決定打に欠く頃、竹千代は隣人トラブルに巻き込まれていたのであった……
「殿、またもや孕石元泰殿より苦情の申し立てが」
鳥居彦右衛門尉から取り次がれたのは屋敷が隣り合わせの孕石主水佑元泰からの苦情。竹千代としては面倒な隣人の小言など見たくもないのだが、見ざるを得なかった。
「はぁ……。先日の鷹狩りにおいて放った鷹が間違って孕石邸へ入り込んだこと、そのたびに家の裏の林に入って拾ったこと、獲物や糞を屋敷に落としたこと。うむ、いつも通りの内容じゃな」
「また屋敷の前で怒鳴りつけられましょうな」
「ははは、その時は堂々としておればよい。すでに詫びておることを蒸し返す輩などまともに取り合っていては我らが消耗するだけであろう」
「左様にございますな。言いたい奴には言わせておくのが一番にございましょう」
竹千代の中で、卑しい笑みを浮かべながら説教をしてくる孕石主水佑の姿が思い出される。中でも、「三河の子せがれはもううんざりだ」と繰り返し口にすることに、竹千代も怒りを禁じえなかった。
「彦右衛門尉、またもや孕石邸からの苦情か」
「これは雅楽助さま。そうなのです、殿が詫びておるのに何度も何度も……」
「誰だって屋敷に獲物や糞を落とされれば不愉快には感じるでしょうな。されど、意図的にしたことではないうえに、十一の童がしたことにございます。寛大な心で許せる大人になりたいものですな」
三十を超えた酒井雅楽助の言葉は竹千代にとっても、また鳥居彦右衛門尉にとっても味わい深い言葉であった。ある意味、孕石主水佑の苦情は反面教師とするには適しているのかもしれない。
「うむ。雅楽助の言葉、しかと心に刻んでおくとしようぞ」
「殿、人付き合いもまた当主としての務めと思し召しめされませ。そう割り切れば、お心も軽うなりましょう」
「そうするとしよう。孕石主水佑殿も今年の九月七日に父御の遺領を相続したばかり。いささか心の余裕がないのであろう」
父親を亡くして心の余裕がない中、鷹が屋敷に獲物や糞を落としていったとすれば、これほどの苦情を申し立てるのも仕方ないかもしれない。
竹千代は改めて相手の事情などを鑑みたうえで状況を俯瞰してみると、不思議と孕石主水佑への怒りが消え失せていくのを感じた。こうして、隣人トラブルからも一つ学びを得た竹千代なのであった――
こうして、尾張・三河の情勢に変化の見られた長月も過ぎていく。
この年の八月には室町幕府将軍・足利義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切り、山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久を八ヶ国守護に任じたことで幕府内に動揺が生じていた。
そんな動揺が走った幕府のある畿内では十月に足利義藤と決別した後に丹波各地を巡って味方を集めて再起を図った細川晴元が三好勢を丹波で撃破。勢いに乗った乗り、細川晴元が京の近郊まで出撃し、三好方と小競り合いをするように。
さらに、十一月には、将軍・足利義藤は京の郊外、清水寺近くの霊山に、新たな山城である東山霊山城を築城。
これは足利義藤が身の危険を感じたからとされ、細川晴元の兵が京の郊外に出没したと聞くと、足利義藤は洛中の今出川御所を出てこの城に入り、生母をはじめとする女性を清水寺に入れ、将軍の近臣らもまた清水寺近くに陣を構えていたという。
まさしく混乱のただ中にある畿内をしり目に、文化の都・駿府ではある縁組で持ち切りであった。
天文二十一年十一月二十二日。竹千代の前で貞観政要を諳んじて教養の豊かさを感じさせた今川治部太輔義元の次女・松姫が同盟・婚姻関係を保持する目的で武田晴信の嫡子・義信の正室として嫁ぐべく、駿府を発って甲斐へ。
一昨年、義元の正室である武田晴信の姉・定恵院の死去により消失した婚姻同盟が今、復活しようとしていた。
「龍王丸様、落ち着かれてはいかがでしょう」
「否とよ、竹千代。妹のお松が武田へ嫁ぐのだ。憂き目に遭っておらぬか、気がかりでならぬ」
松姫が駿府を発って数日後。竹千代は松姫の同母兄・龍王丸の屋敷を訪れていた。兄としては妹の輿入れが心配でならないらしく、どうにも落ち着かない様子。
それを静かに見やる竹千代のほかに、この場には龍王丸と松姫にとって祖父にあたる無人斎道有も同席していた。
「龍王丸よ、お松が甲斐へ行くのがそうまで気にかかるか」
「はい。此度、妹が嫁ぐは武田義信殿。予の従兄弟にあたる者ではあれど、その父・晴信殿はおじい様を追放して甲斐国主となった者。信用できませぬ」
「ははは、太郎はああ見えて身内に甘い。姪にあたるお松をぞんざいに扱うことなどあるまい」
「さ、左様でしょうか……?」
祖父の言葉を信じ切れず……否。祖父の語る叔父・晴信のことを油断がならぬと頑なに信じ込んでいるため、龍王丸は武田晴信という男を信じられずにいるといった方が正しかろう。
「竹千代は武田晴信という男、どう見るか」
「よく知りませぬゆえ、見ようがございませぬ」
「ははは、正直なやつめ。じゃが、上手く儂からの問いをかわしおった」
竹千代はただ知らないから知らないと答えただけなのであるが、無人斎道有には上手くあしらわれたと認識されてしまっていた。そして、無人斎道有からの問いは龍王丸へと移されていく。
「よいか、龍王丸」
「はい」
「儂は龍王丸よりも、武田晴信という男をよう知っておる。あの男は今川家と争う気など微塵もあるまい。それよりも、あやつは北の信濃へ目を向けねばならぬと考えておろうで、此度の縁組を了承したのじゃ」
「なるほど、今は南の当家とも北条とも争いたくはない、と」
答えへ至った龍王丸の言葉に静かにうなずく無人斎道有。そして、彼が付け足した言葉。それは疑念を持てば相手からも疑念を持たれること。相手を先に信じれば、相手も信頼されるという趣旨の言葉でもあった。
かつて甲斐の国主という立場にあった老人の重みのある言葉に、龍王丸も竹千代もまだ幼い瞳を輝かせ、すっかり聞き入ってしまっている。
そんなこんなで輿入れとなった松姫は十一月二十七日に武田義信と結婚し、躑躅ヶ崎館に新築された若夫婦のための建物に移った。
そして、それは甲相駿三国同盟と呼ばれる武田・北条・今川三氏の同盟の一角が成立した瞬間でもあったのである――
「植村新六郎、祖父よりの功臣がまた一人逝ってしまったか」
ほとんど接することがなく、竹千代の眼から涙が流れることはなかった。しかし、植村新六郎氏明の武名は存じているがゆえに、その死を惜しんでいることだけは嘆息からも伝わってくる。
それだけに、植村新六郎の死を取り次いだ酒井左衛門尉忠次は竹千代の分も泣き出しそうな表情をしていた。
そんな早すぎる死を惜しまれる植村新六郎氏明は、竹千代の祖父・松平清康が阿部大蔵定吉の子・正豊《まさとよ》に斬り殺された際、その場で阿部正豊を討ち取った忠義の者である。
そんな彼の妹・小夜が本多平八郎忠高に嫁ぎ、二人の間に生まれたのが後の本多平八郎忠勝なのである。つまり、本多忠勝から見ても、植村新六郎は伯父にあたるのだ。
それはさておき、植村新六郎が戦死した時、三十三歳。まだまだ働き盛り、経験と体の若さが絶妙に噛み合う三十代での死は早すぎると松平家臣は誰もが感じていた。
「して、植村新六郎の跡目は誰に継がせることとなっておるか」
「十二歳となる植村新六郎の嫡子が継承するのが筋というものでしょう」
「うむ、それでよかろう。確か、この駿府に随行してきておったはずじゃ。今は父の死で傷心中であろうで、落ち着いた頃合いを見計らって会うてみるとする」
「それがよろしいかと」
さすがに父を失ったばかりの子を召し出して家督相続云々の話をするのは気が引けた。ただそれだけの処置なのだが、酒井左衛門尉の眼には家臣想いの良き君主として映っていた。
「殿は御存じでしょうや。尾張でのことは」
「尾張でのこと……?」
さすがに最新の尾張情勢は竹千代も知らなかった。だが、酒井左衛門尉は知っているのであろう、言葉の節々からそれが感じられる。
「さては、何ぞ国元より便りがあったのだな」
「御推察の通りにございます。ゆえに、殿へご報告を」
「うむ、申してくれ」
竹千代に促され、酒井左衛門尉は植村新六郎氏明の戦死から十二日後に勃発した萱津の戦いの仔細を報告し始める。
尾張下四郡を支配する守護代。それが清洲の織田大和守家であり、織田信友として知られる清洲城主・織田彦五郎勝秀は宿老・坂井大膳らによる補佐のもと、有力庶家にあった織田弾正忠家の当主・信長に対して敵対の意を示したのである。
この萱津の戦いでは織田信勝を支持する柴田勝家が中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取った。そして、織田信長の小姓・前田犬千代も初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てている。
こうして信長と信勝が連合した織田弾正忠家が清洲の織田大和守家に萱津の戦いで勝利。以後も清洲方との戦いが続くこととなる。
「ふむ、織田弾正忠家一丸となり、清洲方を打ち破ったということか」
「はっ、そうなりまする!」
「うむ、尾張は隣国。隣国の情勢は判明次第、竹千代にも報告してくれよ」
「無論にございます!」
酒井左衛門尉の真っ直ぐな目にニコリを微笑み返した竹千代は西の方角へと目を向ける。
――あと数刻もすれば陽が沈んでいく方角ではそのようなことが起こっていたのか。
そのようなことを考えている風である。そんな幼い主君をじっと酒井左衛門尉は見つめ続けるのであった。
ちなみに、この萱津の戦いにて初陣した織田信長の小姓・前田犬千代こそ、後に竹千代と同じく五大老となり、加賀百万石の礎を築いた前田又左衞門利家なのである。
そんな犬千代は合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長より「肝に毛が生えておるわ」と賞賛されたという。
萱津の戦いが行われた八月が過ぎ、暑さよりも寒さが身に染みるようになった翌九月。一時的な和睦がなされた織田・今川両氏の関係にも変化が見られた。
水面下では織田方、今川方に分かれて争っていたのだが、ついに今川義元は再び軍勢を派遣。尾張国八事にまで侵攻したのである。
織田弾正忠家は上総介信長と勘十郎信勝の兄弟で政治運営が担われていたが、一枚岩ではない。されど、そんな両名が協力して先月には萱津の戦いにて清洲方の軍勢を撃破した。
このまま一枚岩となって活動するのであれば、織田弾正忠家が息を吹き返す恐れもある。三河からの報せを受けた今川義元はこのタイミングで、織田への攻勢を強めることを決断したのであった。
織田信秀の死後、鳴海の山口左馬助は織田方の尾張国大高城を調略を駆使して攻略するなど、水面下で活躍。海からも近い大高城を抑えたことの戦略的意義は今川義元も重々承知していた。
それゆえに喜びようも並大抵ではなかったが、それを足掛かりに再び尾張への攻勢を強めだしたのである。
駿河の今川家からの攻勢が強まりつつあることに誰よりも危機感を抱いていたのは織田上総介信長であった。
「で、あるか。今川治部太輔義元は当家の和睦を解消するような動きを見せたか」
「はい。まったくもって油断ならぬ相手にございますな」
「まこと厄介な奴らよ。当家との境目に位置する鳴海が当家から離反したのだ。由々しき事態といえよう」
傅役の平手中務と今川についての言葉をかわす信長。鳴海が今川に転じ、笠寺には岡部丹波守元綱や飯尾連龍をはじめ、今川の軍勢が駐屯していることが何よりも厄介であった。
「されど、今川の三河支配は未だ不安定な情勢にございます。大給松平に足助鱸、広瀬三宅といった諸勢力は反今川の旗幟を鮮明にしておりますれば」
「うむ、爺が申した勢力を利用して今川の三河支配を揺るがす。さすれば、尾張へ目を向ける余裕がなくなろう。その間に親父殿の死で湧きだした膿を除去すればよい。誰が敵であるのか、親父殿が死んだおかげで鮮明になったわ」
「これ、その発言は不謹慎極まりませんぞ。どこで誰が聞いておるか分かりませぬゆえ」
「ははは、聞かれても問題はない。すでに葬儀の日に仏前で抹香を投げつけておるでな」
笑い事ではないと諭したい平手中務であったが、信長にどう言葉をかけるべきか。その言葉を見つけられずにいた。
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「殿、またもや孕石元泰殿より苦情の申し立てが」
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「はぁ……。先日の鷹狩りにおいて放った鷹が間違って孕石邸へ入り込んだこと、そのたびに家の裏の林に入って拾ったこと、獲物や糞を屋敷に落としたこと。うむ、いつも通りの内容じゃな」
「また屋敷の前で怒鳴りつけられましょうな」
「ははは、その時は堂々としておればよい。すでに詫びておることを蒸し返す輩などまともに取り合っていては我らが消耗するだけであろう」
「左様にございますな。言いたい奴には言わせておくのが一番にございましょう」
竹千代の中で、卑しい笑みを浮かべながら説教をしてくる孕石主水佑の姿が思い出される。中でも、「三河の子せがれはもううんざりだ」と繰り返し口にすることに、竹千代も怒りを禁じえなかった。
「彦右衛門尉、またもや孕石邸からの苦情か」
「これは雅楽助さま。そうなのです、殿が詫びておるのに何度も何度も……」
「誰だって屋敷に獲物や糞を落とされれば不愉快には感じるでしょうな。されど、意図的にしたことではないうえに、十一の童がしたことにございます。寛大な心で許せる大人になりたいものですな」
三十を超えた酒井雅楽助の言葉は竹千代にとっても、また鳥居彦右衛門尉にとっても味わい深い言葉であった。ある意味、孕石主水佑の苦情は反面教師とするには適しているのかもしれない。
「うむ。雅楽助の言葉、しかと心に刻んでおくとしようぞ」
「殿、人付き合いもまた当主としての務めと思し召しめされませ。そう割り切れば、お心も軽うなりましょう」
「そうするとしよう。孕石主水佑殿も今年の九月七日に父御の遺領を相続したばかり。いささか心の余裕がないのであろう」
父親を亡くして心の余裕がない中、鷹が屋敷に獲物や糞を落としていったとすれば、これほどの苦情を申し立てるのも仕方ないかもしれない。
竹千代は改めて相手の事情などを鑑みたうえで状況を俯瞰してみると、不思議と孕石主水佑への怒りが消え失せていくのを感じた。こうして、隣人トラブルからも一つ学びを得た竹千代なのであった――
こうして、尾張・三河の情勢に変化の見られた長月も過ぎていく。
この年の八月には室町幕府将軍・足利義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切り、山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久を八ヶ国守護に任じたことで幕府内に動揺が生じていた。
そんな動揺が走った幕府のある畿内では十月に足利義藤と決別した後に丹波各地を巡って味方を集めて再起を図った細川晴元が三好勢を丹波で撃破。勢いに乗った乗り、細川晴元が京の近郊まで出撃し、三好方と小競り合いをするように。
さらに、十一月には、将軍・足利義藤は京の郊外、清水寺近くの霊山に、新たな山城である東山霊山城を築城。
これは足利義藤が身の危険を感じたからとされ、細川晴元の兵が京の郊外に出没したと聞くと、足利義藤は洛中の今出川御所を出てこの城に入り、生母をはじめとする女性を清水寺に入れ、将軍の近臣らもまた清水寺近くに陣を構えていたという。
まさしく混乱のただ中にある畿内をしり目に、文化の都・駿府ではある縁組で持ち切りであった。
天文二十一年十一月二十二日。竹千代の前で貞観政要を諳んじて教養の豊かさを感じさせた今川治部太輔義元の次女・松姫が同盟・婚姻関係を保持する目的で武田晴信の嫡子・義信の正室として嫁ぐべく、駿府を発って甲斐へ。
一昨年、義元の正室である武田晴信の姉・定恵院の死去により消失した婚姻同盟が今、復活しようとしていた。
「龍王丸様、落ち着かれてはいかがでしょう」
「否とよ、竹千代。妹のお松が武田へ嫁ぐのだ。憂き目に遭っておらぬか、気がかりでならぬ」
松姫が駿府を発って数日後。竹千代は松姫の同母兄・龍王丸の屋敷を訪れていた。兄としては妹の輿入れが心配でならないらしく、どうにも落ち着かない様子。
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「はい。此度、妹が嫁ぐは武田義信殿。予の従兄弟にあたる者ではあれど、その父・晴信殿はおじい様を追放して甲斐国主となった者。信用できませぬ」
「ははは、太郎はああ見えて身内に甘い。姪にあたるお松をぞんざいに扱うことなどあるまい」
「さ、左様でしょうか……?」
祖父の言葉を信じ切れず……否。祖父の語る叔父・晴信のことを油断がならぬと頑なに信じ込んでいるため、龍王丸は武田晴信という男を信じられずにいるといった方が正しかろう。
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「よく知りませぬゆえ、見ようがございませぬ」
「ははは、正直なやつめ。じゃが、上手く儂からの問いをかわしおった」
竹千代はただ知らないから知らないと答えただけなのであるが、無人斎道有には上手くあしらわれたと認識されてしまっていた。そして、無人斎道有からの問いは龍王丸へと移されていく。
「よいか、龍王丸」
「はい」
「儂は龍王丸よりも、武田晴信という男をよう知っておる。あの男は今川家と争う気など微塵もあるまい。それよりも、あやつは北の信濃へ目を向けねばならぬと考えておろうで、此度の縁組を了承したのじゃ」
「なるほど、今は南の当家とも北条とも争いたくはない、と」
答えへ至った龍王丸の言葉に静かにうなずく無人斎道有。そして、彼が付け足した言葉。それは疑念を持てば相手からも疑念を持たれること。相手を先に信じれば、相手も信頼されるという趣旨の言葉でもあった。
かつて甲斐の国主という立場にあった老人の重みのある言葉に、龍王丸も竹千代もまだ幼い瞳を輝かせ、すっかり聞き入ってしまっている。
そんなこんなで輿入れとなった松姫は十一月二十七日に武田義信と結婚し、躑躅ヶ崎館に新築された若夫婦のための建物に移った。
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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