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第3章 流転輪廻の章
第64話 澪標-miwotukushi-
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春の足音が近づきつつある頃、尾張国品野城をめぐる戦いは終着点に達しようとしていた。
「くっ、逃げるでない!藤井松平ごときの夜襲に敗れたとあっては、面目が立たぬわ!」
裏崩れを起こした織田軍を立て直そうと試みる佐久間右衛門尉信盛。三十を超え、先代・織田信秀の頃から戦功のある彼でも、ここまで崩れた軍勢を立て直すことは不可能に近かった。
「申し上げます!」
「なんじゃ!」
「はっ、滝山伝三郎さまが城より打って出て参った高木長次郎広正なる将と一騎打ちに及び、討ち取られたる由!」
「なっ、滝山伝三郎が討たれたと……!」
味方の将が討たれたと味方に伝播すれば、もはや織田軍は支離滅裂となるは必定。となれば、佐久間右衛門尉の取る道は一つしかなかった。
「よし、撤退じゃ!」
「に、逃げられるのでございまするか!?」
「たわけ!逃げるのではない、退くだけじゃ!退き佐久間の本領発揮と参ろうぞ!者ども、撤退いたすぞ!」
ここに佐久間右衛門尉は退却戦に突入した。ここまで来て、織田方の大将を討ち漏らしてはと藤井松平勘四郎信一、高木長次郎、桜井松平監物らの軍勢が追いすがるも、これらの追撃を巧みにかわし、佐久間右衛門尉は無事に撤退を果たすのであった――
一方、その頃。
元康の駿府帰還を敵方に悟られないためにも、織田方へ攻撃を仕掛けるよう命を受けた松平勢が知多郡の石ヶ瀬へと攻め寄せつつあった。
「兄者、松平勢が石ヶ瀬川の渡河を始めましたぞ!」
「騒ぐな。まもなく織田の援軍を率いる藤二郎が、先鋒部隊が川を渡り終えたところで行軍中の敵側面をつく。その時こそ、藤十郎の出番じゃ。まぁ待て」
血気にはやる藤十郎忠重を諫める下野守信元。茂みに伏せながら、松平勢のさらなる接近をじっと待っていた。
そこへ、水野下野守が待ち望んだ鬨の声が巻き起こる。潜んでいた水野兵から矢を浴びせられ、そのまま斬りこんでくる水野兵と松平兵とで白兵戦が展開される。
「よし、藤十郎!我ら本隊も動くぞ!」
水野下野守が号令を下そうとした折、すでに藤十郎忠重の姿はなかった。
「おいっ、藤十郎はいずこぞ!」
「殿、藤十郎さまはあちらで敵とすでに交戦中にございます!」
「ちっ、まったく困ったやつよ。こうなれば、我らも前進するぞ!藤十郎に後れを取るでないぞ!かかれ!」
先走った異母弟の動きに呆れつつも、水野下野守は水野兵に突撃を命じた。水野藤二郎率いる織田勢と交戦している松平勢は、それ以上の数で側面に現れた水野勢に慌てふためく。
「阿部四郎五郎どの!お味方、崩れ立っておりまする!」
「やむを得まい。かくなるうえは、無理に戦うべきに非ず。川を渡り、対岸のお味方と合流するべきであろう」
元康よりも十年上の阿部四郎五郎忠政は若さを活かした迅速な判断でもって、撤退すべきと判断。それからは得意の弓で味方の撤退を援護しながら、味方に撤退を促してゆく。
それを遠目から確認し、舌打ちする男の姿があった。
「ちっ、松平の奴ら、撤退を始めよったか……!これでは初陣の初手柄を逃してしまうではないか!」
初陣であり、まだ満足のいく手柄を挙げられていない水野下野守信元が末弟・藤十郎忠重は槍を引っ提げて、逃げ腰の松平兵を一人、また一人と突き伏せていく。
「貴殿、水野藤十郎忠重殿とお見受けいたす!槍合わせ願おう!」
「おおっ、ようやく骨のある武士が出てきたか!いかにも、某が水野藤十郎忠重じゃ!いざ、尋常に勝負!」
藤十郎は繰り出される相手の槍を首を捻ってかわし、そのまま相手の槍を横へ払って右大腿部を貫いた。
「ははは、口ほどにもない奴」
「おう、藤十郎。兜首を挙げる好機ではないか」
「ああ、藤二郎兄者!このような雑魚武者の首などいらぬ!兄者が手柄となされるがよろしかろう」
「まぁ、お主がいらぬというなら、貰っていくとする。てやぁっ!」
水野藤二郎忠分は刀を構えてよろめく相手に近寄り、一振りにて首を討った。この藤十郎が兄に手柄を譲ったという話は美化されたうえで織田信長にまで伝わり、「自ら首を獲るよりも優れた行いである」と感心されることとなる。
それはともかく、この石ヶ瀬の戦いは伏兵を仕掛けた水野下野守に軍配が上がり、松平勢は撤退を余儀なくされることとなった。
そんな尾張・三河国境での小競り合いが続く頃、弘治四年二月二十六日には斎藤道三を討った息子の斎藤高政が将軍・足利義輝の推挙なく、三好長慶と親しい伊勢貞孝を通じて、朝廷から正式に治部大輔に補任されるという事態が発生。
本来、大名への栄典授与は将軍の権能であり、それが三好方に奪われつつあることは足利義輝にとって悩ましい事態であった。
何より、全国の諸大名が朝廷の官途に就く際、将軍からの推挙を経ない状況が恒常化する可能性すらあった。
それだけでも頭の痛い足利義輝であったが、その二日後にはさらなる変事が勃発する。
この日、朝廷は正親町天皇の即位のため、年号を永禄に改元したのである。この改元の何が問題かと言えば、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきた改元を、朝廷は近江国朽木にいる将軍・足利義輝に知らせなかった。
それだけでなく、畿内の実力者である三好長慶には清原枝賢を介して相談・連絡していたにもかかわらず、将軍には相談も連絡もなかったのであるから、足利義輝はメンツを潰された形になるわけである。
この弘治から永禄への改元を第三者から知らされた足利義輝は当然のことながら激怒し、この永禄改元を拒絶。弘治の年号を使い続けたのである。そして、翌三月の十三日に朽木で挙兵するに至るのである――
一方、新たに永禄となって迎えた四月。今川義元のお膝元・駿府は春の温かな日差しに包まれながら、皆が政に精を出していた。
「太守様、松平蔵人佐にございます」
四月二十六日。駿府へ帰還した元康は、隠居屋敷へと移り住んだ今川治部太輔義元の元を訪問した。用件は今川義元が過日の寺部城攻めの感状を認めていると耳にしたことに起因する。
「おお、蔵人佐。よくぞ参った。初陣から鮮やかな勝利、まこと見事であった」
「はっ!太守様ならびに御屋形様のご期待に沿う形となり、元康安堵いたしております」
「左様であったか」
元康は口上を述べると、視線をチラリと義元の文机へと移していく。その誘導しているかのような、あからさまな視線に気づいた義元は笑みを浮かべながら、感状の話題を展開していく。
「たった今、足立右馬助遠定宛の感状を認めたところよ。他の松平家臣への感状もじきに発給するゆえ、今しばし待つがよい」
「はっ、お手数おかけいたしまする。太守様より感状をいただいたとなれば、家臣らも感激することでしょう」
「そうであればよいがの。何分にも三河は尾張侵攻をするうえで欠かせぬ地。何としても足場を固めておかねばならぬゆえ、予も力が入りすぎておるやもしれぬ」
「やはり、尾張を攻められまするか」
尾張侵攻となれば、松平をはじめ、三河衆が先鋒となることは必定。そうなれば、犠牲は測り知れないことは誰よりも元康が感じ取っていることである。
「蔵人佐、そなたら松平にはもうひと踏ん張りしてもらわねばならぬ。じゃが、当家の領国に手出ししてくる織田を駆逐いたせば、三河衆が先鋒となって戦う機会は今よりも減ることとなる。そのこと、よくよく承知おいてくれよ」
「はっ、それは無論承知しております。しかし、某が危惧するは、今も織田と水野が当家の領国に攻め込んできていることにございます。であるのに、当主の某が駿府にて穏やかな日々を送っている。それが口惜しゅうてなりませぬ」
そう言って唇を噛む元康に、義元は歩み寄り、そっと悩める青年の右肩に左の手を置いた。
「よいか、蔵人佐。予はそなたの苦しみのすべてを分かってやることはできぬ。じゃが、その苦しみの根源たる尾張を併呑することで苦しみを除くことはできる。ゆえに、知恵を絞って策を練り、武を持って三河支配を盤石なものとしておる」
「はい。それはこの元康とて、重々承知しておりまする」
「うむ。そう長く時はかからぬ。いや、時をかけては織田上総介が勢力を盛り返す時を与えてしまうことにもなりかねぬ」
「太守様は織田が勢力を盛り返すと、かようにお考えで……?」
元康からの問いに、海道一の弓取りは静かに頷いてみせる。そのまなざしは、織田信長率いる織田弾正忠家のことを警戒しているかのようでもあった。
「よいか。予は今年で齢四十となった。近ごろはめっきり老いも感じてきてもおる。跡取りの五郎は二十一となったが、まだまだ若く内政面では半人前。じゃが、軍事に関しては赤子も同然であろう」
「はっ、御屋形様は初陣もまだにございますゆえ、それは致し方なきことかと」
「そうじゃ。予は子煩悩ゆえ、頼りない五郎が戦場に出て討たれるようなことがあってはと戦場から遠ざけてしもうた。今は予が軍事を担えば済むことゆえ、表向きは何事もなく家政は回っておる」
聞き手に回っていた元康にとって、自らを子煩悩と評したり、表向きは何事もなくという義元の言葉が妙に気にかかった。
「じゃが、尾張の織田上総介信長はどうじゃ。未だ尾張一統も成し得ぬが、着実に基盤を固め、勢力を拡大させておる。それで、二十五の年だというではないか」
一体、目の前にいる今川義元という父親が何を言いたいのか。元康にはもうわかるような心地がしていた。
「予の目が黒いうちはよい。織田の侵攻を食い止めることなどいかようにも対処できる。じゃが、予の死後、五郎の実力では抗し切れまい。それゆえに、予が生きているうちに尾張を平らげておきたい。さすれば、心残りなくあの世にいけようものぞ」
海道一の弓取りはすでに己の死後の今川家の行く末を案じている。この視点は、まだまだ若い元康には到底持ちえない視点であった。
「それゆえに、太守様は尾張侵攻を急がれておられたと……!」
「背後の武田とも北条とも婚姻同盟を締結しておる。太原崇孚の忘れ形見が生きておるうちに、西への勢力拡大を目指す。それしかないゆえな」
「では、太守様。この元康が御屋形様に代わって、戦場での軍配を預かりまする。必ずや、織田上総介をも超える大将となり、御屋形様の刀となり、楯となりまする!」
「その心意気や良し。お主の口からその言葉が聞けて、安堵したわ。じゃが、そう一人で背負い込むものではない。近いうちに、もう一人頼れる若者を元服させ、五郎を補佐させるつもりでおる」
今川義元に頼れると評される若者。それも未だ元服しておらぬ者――
元康の脳内でグルグルと候補となる人の影がいくつもちらつくが、義元の哄笑によって打ち消される。
「よい、近日中に元服の儀を執り行うゆえ、楽しみに待つがよい」
そのように言われ、待つこと数日。夏の影が迫りつつある中、元康は近侍らを伴って今川治部太輔義元の隠居屋敷を訪れた。
広間へと通されると、彼を手招く一人の壮年男性の姿があった。そう、元康の舅である関口刑部少輔氏純であった。
屈託のない笑みを浮かべながら手招きする舅に吸い寄せられるように、元康は彼の前へと向かっていく。
「おお、婿殿。これはよくぞ参られた。貴殿の席はこちらじゃ。ささっ、近う近う」
「これは舅殿。では、お隣失礼いたしまする」
設けられていたのは今川家親類衆の席。他の今川家臣よりも上位の席に招かれ、着座するのは良き心地であった。
上座には隠居屋敷の主である今川義元。そして、今川家現当主・今川五郎氏真が座していた。隠居、当主揃っての元服となれば、並みの元服の儀ではない。このことは、事態を詳しく知らぬ元康にもよくよく伝わってきた。
「舅殿、これより行われる元服の儀、一体どのお方の元服が執り行われるのでしょうか」
「なに、婿殿は知らずにこの席に参られたとか!?」
「はっ、太守様に伺っても来れば分かると言われるばかりで……」
「そうか。ならば、ここで明かすのは野暮やもしれぬ」
そう独り言ちて納得した様子の関口刑部少輔。ここまで来て、誰の元服かも明かされることなく、元康は元服の儀に立ち会うこととなった。
――一体誰の元服の儀が執り行われるというのか?
そんな疑問が頭に浮かんだ次の瞬間、広間にその日の主役とも呼べる人物が登場した。
入室してすぐに見えた横顔だけでは誰なのか判別がつかなかった元康だったが、チラリと目線をこちらへ向けた瞬間に、何者であるのかをようやく理解することができたのであった。
「くっ、逃げるでない!藤井松平ごときの夜襲に敗れたとあっては、面目が立たぬわ!」
裏崩れを起こした織田軍を立て直そうと試みる佐久間右衛門尉信盛。三十を超え、先代・織田信秀の頃から戦功のある彼でも、ここまで崩れた軍勢を立て直すことは不可能に近かった。
「申し上げます!」
「なんじゃ!」
「はっ、滝山伝三郎さまが城より打って出て参った高木長次郎広正なる将と一騎打ちに及び、討ち取られたる由!」
「なっ、滝山伝三郎が討たれたと……!」
味方の将が討たれたと味方に伝播すれば、もはや織田軍は支離滅裂となるは必定。となれば、佐久間右衛門尉の取る道は一つしかなかった。
「よし、撤退じゃ!」
「に、逃げられるのでございまするか!?」
「たわけ!逃げるのではない、退くだけじゃ!退き佐久間の本領発揮と参ろうぞ!者ども、撤退いたすぞ!」
ここに佐久間右衛門尉は退却戦に突入した。ここまで来て、織田方の大将を討ち漏らしてはと藤井松平勘四郎信一、高木長次郎、桜井松平監物らの軍勢が追いすがるも、これらの追撃を巧みにかわし、佐久間右衛門尉は無事に撤退を果たすのであった――
一方、その頃。
元康の駿府帰還を敵方に悟られないためにも、織田方へ攻撃を仕掛けるよう命を受けた松平勢が知多郡の石ヶ瀬へと攻め寄せつつあった。
「兄者、松平勢が石ヶ瀬川の渡河を始めましたぞ!」
「騒ぐな。まもなく織田の援軍を率いる藤二郎が、先鋒部隊が川を渡り終えたところで行軍中の敵側面をつく。その時こそ、藤十郎の出番じゃ。まぁ待て」
血気にはやる藤十郎忠重を諫める下野守信元。茂みに伏せながら、松平勢のさらなる接近をじっと待っていた。
そこへ、水野下野守が待ち望んだ鬨の声が巻き起こる。潜んでいた水野兵から矢を浴びせられ、そのまま斬りこんでくる水野兵と松平兵とで白兵戦が展開される。
「よし、藤十郎!我ら本隊も動くぞ!」
水野下野守が号令を下そうとした折、すでに藤十郎忠重の姿はなかった。
「おいっ、藤十郎はいずこぞ!」
「殿、藤十郎さまはあちらで敵とすでに交戦中にございます!」
「ちっ、まったく困ったやつよ。こうなれば、我らも前進するぞ!藤十郎に後れを取るでないぞ!かかれ!」
先走った異母弟の動きに呆れつつも、水野下野守は水野兵に突撃を命じた。水野藤二郎率いる織田勢と交戦している松平勢は、それ以上の数で側面に現れた水野勢に慌てふためく。
「阿部四郎五郎どの!お味方、崩れ立っておりまする!」
「やむを得まい。かくなるうえは、無理に戦うべきに非ず。川を渡り、対岸のお味方と合流するべきであろう」
元康よりも十年上の阿部四郎五郎忠政は若さを活かした迅速な判断でもって、撤退すべきと判断。それからは得意の弓で味方の撤退を援護しながら、味方に撤退を促してゆく。
それを遠目から確認し、舌打ちする男の姿があった。
「ちっ、松平の奴ら、撤退を始めよったか……!これでは初陣の初手柄を逃してしまうではないか!」
初陣であり、まだ満足のいく手柄を挙げられていない水野下野守信元が末弟・藤十郎忠重は槍を引っ提げて、逃げ腰の松平兵を一人、また一人と突き伏せていく。
「貴殿、水野藤十郎忠重殿とお見受けいたす!槍合わせ願おう!」
「おおっ、ようやく骨のある武士が出てきたか!いかにも、某が水野藤十郎忠重じゃ!いざ、尋常に勝負!」
藤十郎は繰り出される相手の槍を首を捻ってかわし、そのまま相手の槍を横へ払って右大腿部を貫いた。
「ははは、口ほどにもない奴」
「おう、藤十郎。兜首を挙げる好機ではないか」
「ああ、藤二郎兄者!このような雑魚武者の首などいらぬ!兄者が手柄となされるがよろしかろう」
「まぁ、お主がいらぬというなら、貰っていくとする。てやぁっ!」
水野藤二郎忠分は刀を構えてよろめく相手に近寄り、一振りにて首を討った。この藤十郎が兄に手柄を譲ったという話は美化されたうえで織田信長にまで伝わり、「自ら首を獲るよりも優れた行いである」と感心されることとなる。
それはともかく、この石ヶ瀬の戦いは伏兵を仕掛けた水野下野守に軍配が上がり、松平勢は撤退を余儀なくされることとなった。
そんな尾張・三河国境での小競り合いが続く頃、弘治四年二月二十六日には斎藤道三を討った息子の斎藤高政が将軍・足利義輝の推挙なく、三好長慶と親しい伊勢貞孝を通じて、朝廷から正式に治部大輔に補任されるという事態が発生。
本来、大名への栄典授与は将軍の権能であり、それが三好方に奪われつつあることは足利義輝にとって悩ましい事態であった。
何より、全国の諸大名が朝廷の官途に就く際、将軍からの推挙を経ない状況が恒常化する可能性すらあった。
それだけでも頭の痛い足利義輝であったが、その二日後にはさらなる変事が勃発する。
この日、朝廷は正親町天皇の即位のため、年号を永禄に改元したのである。この改元の何が問題かと言えば、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきた改元を、朝廷は近江国朽木にいる将軍・足利義輝に知らせなかった。
それだけでなく、畿内の実力者である三好長慶には清原枝賢を介して相談・連絡していたにもかかわらず、将軍には相談も連絡もなかったのであるから、足利義輝はメンツを潰された形になるわけである。
この弘治から永禄への改元を第三者から知らされた足利義輝は当然のことながら激怒し、この永禄改元を拒絶。弘治の年号を使い続けたのである。そして、翌三月の十三日に朽木で挙兵するに至るのである――
一方、新たに永禄となって迎えた四月。今川義元のお膝元・駿府は春の温かな日差しに包まれながら、皆が政に精を出していた。
「太守様、松平蔵人佐にございます」
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「おお、蔵人佐。よくぞ参った。初陣から鮮やかな勝利、まこと見事であった」
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「左様であったか」
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「たった今、足立右馬助遠定宛の感状を認めたところよ。他の松平家臣への感状もじきに発給するゆえ、今しばし待つがよい」
「はっ、お手数おかけいたしまする。太守様より感状をいただいたとなれば、家臣らも感激することでしょう」
「そうであればよいがの。何分にも三河は尾張侵攻をするうえで欠かせぬ地。何としても足場を固めておかねばならぬゆえ、予も力が入りすぎておるやもしれぬ」
「やはり、尾張を攻められまするか」
尾張侵攻となれば、松平をはじめ、三河衆が先鋒となることは必定。そうなれば、犠牲は測り知れないことは誰よりも元康が感じ取っていることである。
「蔵人佐、そなたら松平にはもうひと踏ん張りしてもらわねばならぬ。じゃが、当家の領国に手出ししてくる織田を駆逐いたせば、三河衆が先鋒となって戦う機会は今よりも減ることとなる。そのこと、よくよく承知おいてくれよ」
「はっ、それは無論承知しております。しかし、某が危惧するは、今も織田と水野が当家の領国に攻め込んできていることにございます。であるのに、当主の某が駿府にて穏やかな日々を送っている。それが口惜しゅうてなりませぬ」
そう言って唇を噛む元康に、義元は歩み寄り、そっと悩める青年の右肩に左の手を置いた。
「よいか、蔵人佐。予はそなたの苦しみのすべてを分かってやることはできぬ。じゃが、その苦しみの根源たる尾張を併呑することで苦しみを除くことはできる。ゆえに、知恵を絞って策を練り、武を持って三河支配を盤石なものとしておる」
「はい。それはこの元康とて、重々承知しておりまする」
「うむ。そう長く時はかからぬ。いや、時をかけては織田上総介が勢力を盛り返す時を与えてしまうことにもなりかねぬ」
「太守様は織田が勢力を盛り返すと、かようにお考えで……?」
元康からの問いに、海道一の弓取りは静かに頷いてみせる。そのまなざしは、織田信長率いる織田弾正忠家のことを警戒しているかのようでもあった。
「よいか。予は今年で齢四十となった。近ごろはめっきり老いも感じてきてもおる。跡取りの五郎は二十一となったが、まだまだ若く内政面では半人前。じゃが、軍事に関しては赤子も同然であろう」
「はっ、御屋形様は初陣もまだにございますゆえ、それは致し方なきことかと」
「そうじゃ。予は子煩悩ゆえ、頼りない五郎が戦場に出て討たれるようなことがあってはと戦場から遠ざけてしもうた。今は予が軍事を担えば済むことゆえ、表向きは何事もなく家政は回っておる」
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「じゃが、尾張の織田上総介信長はどうじゃ。未だ尾張一統も成し得ぬが、着実に基盤を固め、勢力を拡大させておる。それで、二十五の年だというではないか」
一体、目の前にいる今川義元という父親が何を言いたいのか。元康にはもうわかるような心地がしていた。
「予の目が黒いうちはよい。織田の侵攻を食い止めることなどいかようにも対処できる。じゃが、予の死後、五郎の実力では抗し切れまい。それゆえに、予が生きているうちに尾張を平らげておきたい。さすれば、心残りなくあの世にいけようものぞ」
海道一の弓取りはすでに己の死後の今川家の行く末を案じている。この視点は、まだまだ若い元康には到底持ちえない視点であった。
「それゆえに、太守様は尾張侵攻を急がれておられたと……!」
「背後の武田とも北条とも婚姻同盟を締結しておる。太原崇孚の忘れ形見が生きておるうちに、西への勢力拡大を目指す。それしかないゆえな」
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「よい、近日中に元服の儀を執り行うゆえ、楽しみに待つがよい」
そのように言われ、待つこと数日。夏の影が迫りつつある中、元康は近侍らを伴って今川治部太輔義元の隠居屋敷を訪れた。
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「おお、婿殿。これはよくぞ参られた。貴殿の席はこちらじゃ。ささっ、近う近う」
「これは舅殿。では、お隣失礼いたしまする」
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「舅殿、これより行われる元服の儀、一体どのお方の元服が執り行われるのでしょうか」
「なに、婿殿は知らずにこの席に参られたとか!?」
「はっ、太守様に伺っても来れば分かると言われるばかりで……」
「そうか。ならば、ここで明かすのは野暮やもしれぬ」
そう独り言ちて納得した様子の関口刑部少輔。ここまで来て、誰の元服かも明かされることなく、元康は元服の儀に立ち会うこととなった。
――一体誰の元服の儀が執り行われるというのか?
そんな疑問が頭に浮かんだ次の瞬間、広間にその日の主役とも呼べる人物が登場した。
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HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
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対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
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