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第3章 流転輪廻の章
第65話 未来を紡ぐ時
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元康は今から元服を迎えようとしている少年の顔を見て驚愕した。今川家の前当主と現当主が同席している状況に、これまで尋ねた人々の発言が連鎖的に結びついていく。
「婿殿。これより執り行われる元服の儀は誰のものであるか、お分かりなされましたか」
「はい。よもや、北条助五郎殿とは思いも寄りませなんだ。助五郎殿であらば、太守様の甥であり、御屋形様の従弟にもあたりまする。何より――」
「この関口刑部少輔が婿。蔵人佐殿と同じく、のぅ」
「よもや相婿の元服の儀であったとは、これまた太守様に度肝を抜かれました」
何度も顔を合わせたことのある北条助五郎。彼は元康の正室・駿河御前の妹を妻に迎えることで、関口家を継承する手はずとなっている人物。
先日の義元の発言からして、元康一人に氏真の補佐を任せるのではなく、今川一門と呼べる北条助五郎とともに支えていってほしい。そんな想いを抱いているのではなかろうかと、元康は推し量った。
北条助五郎の元服は粛々と進められ、元康の頃と同じように理髪の役、泔杯の役、打乱箱の役、鏡台并鏡の役などの人々が登場し、三年前の元康元服の光景が瞼を閉じれば鮮明に思い出される。
そうして、いよいよ北条助五郎の頭上へ烏帽子が載せられる。
「北条助五郎」
「はい!」
「そなたには北条家の通字である『氏』、当家の通字の『範』と読みを同じゅうする『規』の一字を併せ、今日より北条助五郎氏規と名乗るがよい」
「はっ!諱の通り、北条家と今川家の橋渡し役となれますよう、誠心誠意つとめまする!」
新たに元服を迎えた北条助五郎氏規。この時、元康より三ツ年下の十四歳であった。
その後は酒が振る舞われ、宴の席へと移行していく。
いつから列席していたのか、北条助五郎氏規の祖母・寿桂尼は涙を流しながら、助五郎の元服を喜んでいる。そこへ、当主である氏真も改めて祝いの言葉をかけ、楽し気なやり取りが繰り広げられていた。
「舅殿、二人目の婿の元服を終えて、いかがにございまするか」
「感慨無量の境地と言うほかなかろう。婿の元服でこれほどな幸福を味わえるのじゃ、実の息子の元服に立ち会う父の喜びとはかようなものであろうか」
子宝に恵まれ、玉のような女子二人を授かった関口刑部少輔氏純。三十七となった彼は男子には恵まれなかったが、娘婿には恵まれたといっても良かった。
そんな恵まれた二人目の婿は寿桂尼の元を辞すると、子供らしさの残る足取りで舅である関口刑部少輔、相婿の元康の元へとやってきた。
「舅殿、北条助五郎氏規にございます」
「うむ、うむ……!まこと、良き名をいただきましたなぁ」
「はいっ!これよりは頂いた名に恥じぬ働きをして参る所存にございます!」
真っ直ぐな北条助五郎氏規の言葉に、自然涙をこぼす舅。それに気づいた隠居の義元が茶化して、万座笑いが満ちる。どっと笑う周囲の人々につられて、元康からもまた笑みがこぼれる。
「これ、婿殿。笑うでない……!」
「ははは、これはしたり。元康も舅殿が涙をこぼされておらなんだら、かように笑うことなどございませぬ……!」
関口刑部少輔に軽く左肩を叩かれてなお、からからと笑い続ける元康。一人の笑いが別の誰かに伝播し、その誰かからまた別の誰かへと伝播していく。
このようにして、広間中に幸福が満ちていく。この場にいる誰もが幸せだと思える空間が出来上がっていた。
……まぁ、酒でできあがっていたのは大人たちも同じなのだが。
何はともあれ、北条氏康の四男で、今川義元の甥でもある北条助五郎氏規の元服の儀はつつがなく済み、その日は解散。酔っ払った大人たちは供の者に支えられながら、各々の屋敷へ帰っていくのであった。
それは元康や関口刑部少輔とて同じこと。
「太守様は一足早くお休みになられ、御屋形様も悪酔いなさっておられたゆえ、先に帰られましたな」
「うむ。じゃが、お二人があれほど酒に酔うとは珍しきこと」
「それほど助五郎殿の元服が喜ばしかったのでしょう」
「そうであろうなぁ」
そう言う関口刑部少輔とて、元康に支えられなくては真っ直ぐに歩行することも叶わないほど酒に酔っていた。逆に元康は周りに遠慮して、酒をそこまで口にしなかったため、あまり酒に酔っている感覚はなかった。
「舅殿。先ほど某の近侍、阿部善九郎を当家の屋敷へ走らせ、瀬名に舅殿のお屋敷へ参るよう使いさせました。今頃は出発のため慌ただしくしておりましょうほどに」
「おお、娘を我が屋敷にとな。それはかたじけない」
「いえいえ、こうした機会でもなければ、夫婦揃って舅殿にお目にかかることもかなわぬ不孝、お許しいただきたく」
「何を申す。機会があれば、こうして会いに来てくれることこそ喜ばしいものはない」
酔っている関口刑部少輔は、表情筋が溶けたのではないかと思うほどに緩ませながら近くにいる家臣を呼び寄せ、自らの屋敷へと急派した。
「さぁ、婿殿。そうと決まれば、一刻も早う我が屋敷へ参りましょうぞ!」
「はっ、はい!」
関口刑部少輔が急に歩く速度を上げたこともあり、一瞬前へよろけた元康であったが、そこは巧みに体勢を立て直して舅と歩調を合わせていく。
「今日の元服の儀でも思うたが、この関口刑部少輔は娘婿に恵まれておる!今川家中一じゃ!わはははは……!」
「ははは。舅殿、何をおっしゃいます。麗しい姫君二人に、良妻賢母にも恵まれておられるではございませぬか」
「おお、婿殿もなかなか世辞が上手くなったの」
「いえ、世辞ではなく、本心からにございます」
「本心からとな。そこまで言われると照れくさいのぅ」
酔っ払いとの問答を上手く返しながら歩き続ける元康。それを近侍の天野三郎兵衛景能や鳥居彦右衛門尉、平岩七之助親吉、植村新六郎栄政などは未だ緊張を帯びた面持ちで静かに見守っている。
そうしている間に、目的地たる関口刑部少輔家の屋敷へ到着。そこまで来ると、関口刑部少輔は元康の元を離れ、慣れた足取りで屋敷内へ帰っていく。
表玄関まで覚束ない足取りでたどり着いた関口刑部少輔を関口夫人が駆け寄って支え、家臣たちに奥の間にて休ませるよう命じていた。
「これは蔵人佐殿。ここまで夫を介抱してくださったこと、感謝申し上げます」
「なんのこれしき、日ごろより目をかけてくださる大恩を思えば、別段大したことではございませぬ。そうです、瀬名はもうこちらへ参っておりますか」
「ええ、今しがた広間へ。石川与七郎どの、阿部善九郎どの、高力与左衛門どのが同伴して参られました」
「そうでしたか。では、某もお屋敷へ上がらせていただきたく存じますが……」
「ええ、このような場所でお引止めしてしまい、すみませぬ。ささっ、ご家来衆の皆々様もお上がりになってくださいまし」
「では、お言葉に甘えさせていただきまする」
関口夫人に一礼し、元康主従は関口刑部少輔屋敷へ上がった。広く長い廊下を抜け、広間へと辿り着くと、そこには石川与七郎数正、阿部善九郎正勝、高力与左衛門清長らと談笑する駿河御前の姿があった。
「おおっ、殿!」
「与七郎、突然関口刑部少輔屋敷へ御前を連れて参るよう伝えられ、さぞかし慌てたのではないか」
「ははは、これしきのことで動転いたしては戦場での奉公など到底かないませぬ」
「これは頼もしいことを申す」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」
軽口を叩いたかと思えば、突然堅苦しい主従の会話に変貌する。そんなやり取りをした元康と石川与七郎は、石川与七郎が顔を上げた瞬間から自然と声をあげて笑っていた。
「善九郎も当家の屋敷までの使い走りからこれまで、ご苦労であった」
「なんの。これしき、労われるほどのことではございませぬ」
幼少の頃より元康の側に近侍する阿部善九郎として、その言葉は真なるものであった。そして、高力与左衛門はここまでの元康の様子を見てニコニコと笑みを浮かべながらも、駿河御前の方へ何度も目くばせしていた。
その高力与左衛門の視線の移動に気づいた元康は、何事もなかったかのように振る舞いつつ、正室・駿河御前の方へと話題を振ってゆく。
「そうじゃ、御前。本日執り行われた元服の儀、北条助五郎殿のものであった」
「何と!?ですが、それで合点が参りました」
「合点が参ったとは?」
「父が気分よく酔って帰られたことにございます。父はあなた様と助五郎殿には格別目をかけておりますゆえ、よほど助五郎殿の元服が嬉しかったのでございましょう」
――さすがは娘。父のことをよく観て、理解している。
落ち着いた様子の駿河御前を見て、元康が感じたことはそういったことである。読書にしか関心がないかと思えば、しっかり周囲の事を見ている。その意外性が彼女の魅力ではあった。
「そうじゃ、助五郎殿は北条家の通字である『氏』と今川家の通字の『範』に通じる『規』の字を併せ、『氏規』と名乗ることとなった」
「北条助五郎氏規殿……!これまた立派な名前、それが妹の旦那となるのです。姉である私まで誇らしく思えて参りました」
「左様か。助五郎殿も古今無双の若武者といった風貌となっておったゆえ、先が楽しみな武士じゃ」
「ふふふ、殿も負けてはおれませぬ。でなくては、義理の兄としての威厳を保てませぬ」
からかうような駿河御前の言葉に、元康はただ笑うことしかできなかった。三ツ下とはいえ、才能の片鱗を見せる北条助五郎氏規と競おうなど、思案の外。ともに主君である氏真を支えるにあたり、頼もしき武士と思うに留めたかった。
そうして元康と駿河御前とで今日の元服の儀をはじめ、近ごろあったことについて色々と話し合っていると、その間に一休みして酔いも醒めた関口刑部少輔氏純が夫人を伴って広間へと姿を現した。
「これは婿殿、先ほどは失礼いたした」
「いえ、すっかり酔いも醒められたようで、安堵いたしました」
関口刑部少輔は完全に酔いが醒めたわけではなく、それが元康にも駿河御前にも分かるような足取りで二人の近くへと歩み寄る。
「瀬名もつつがなく過ごしておるようで、安堵したぞ」
「はい、父上。では、父上も母上も揃いましたゆえ、この場にて報告したきことがございます」
ニコリと両親と向き合っていた駿河御前の表情が真剣なものへと変化する。その真剣な表情に、元康も、関口刑部少輔も、関口夫人も、皆が背筋を伸ばし、駿河御前へと向き直った。
しかし、真剣な表情とは裏腹に、深呼吸を終えた駿河御前は柔らかな口調で語りだす。
「み、身ごもりましてございます」
唐突に身ごもったとだけ発言した駿河御前。それに、元康と関口刑部少輔の反応が遅れ、真っ先に反応したのは実母・関口夫人であった。
「おお、それはまことか……!?」
「は、はい。先月、先々月と来たるべきものは来ましたが、今月はまだ……」
「なるほどのぅ。これ、あなた様。私たちの初孫にございますぞ!」
駿河御前から事情を聴いた関口夫人は喝を入れるように夫の背中を力強く叩く。それで正気に戻ったのか、関口刑部少輔は常の彼らしくもない慌てようを見せた。
「瀬名、この元康もまこと嬉しく思う。神仏にも報告申し上げて、安産の祈願をせねばならぬな」
「はい、その儀につきましてはよろしくお願いいたします」
「それは言われるまでもないこと。任せておくがよい」
数年前までは元服も済んでおらぬ子どもであった自分が、父親になろうとしている。男女の区別は生まれてみねば分からぬものの、男であれば正室が産んだ立派な松平宗家の嫡男となる。
戦が絶えず、ひょんなことから命を落とす乱世。そこに、また新たな命が誕生しようとしている。このお腹の児も乱世の荒波に翻弄されて、生を弄ばれていくのであろうか。
そんな悪い妄想が元康の中で膨らんでくる。しかし、そのような不吉なことを考えてはならぬと思考の外へと追い払う。
すると、目の前では涙を流しながら懐妊した娘の手を取り喜ぶ関口刑部少輔の姿があった。
「瀬名、体をいたわれよ。お腹の児に障るようなことがあってはならぬゆえ」
「はい、父上」
「瀬名、出産は女子にとっての大戦。気張るのですよ」
「は、はいっ!母上の言葉、心のうちにしかと留めおきまする」
両親からの圧に気おされている風の駿河御前であったが、元康としてはこれからも母子ともに健康であることを願うばかりであった。
「瀬名、お腹の児を産むことも大切じゃが、何よりも己の体を大事にせよ。己の身を労わることこそ、最大の親孝行となるゆえな」
元康の妻を気遣う言葉をかけた時、外からは穏やかな夜風が吹き込み、屋敷の庭に咲く花々が月明かりの下で優しく揺れていた。
「婿殿。これより執り行われる元服の儀は誰のものであるか、お分かりなされましたか」
「はい。よもや、北条助五郎殿とは思いも寄りませなんだ。助五郎殿であらば、太守様の甥であり、御屋形様の従弟にもあたりまする。何より――」
「この関口刑部少輔が婿。蔵人佐殿と同じく、のぅ」
「よもや相婿の元服の儀であったとは、これまた太守様に度肝を抜かれました」
何度も顔を合わせたことのある北条助五郎。彼は元康の正室・駿河御前の妹を妻に迎えることで、関口家を継承する手はずとなっている人物。
先日の義元の発言からして、元康一人に氏真の補佐を任せるのではなく、今川一門と呼べる北条助五郎とともに支えていってほしい。そんな想いを抱いているのではなかろうかと、元康は推し量った。
北条助五郎の元服は粛々と進められ、元康の頃と同じように理髪の役、泔杯の役、打乱箱の役、鏡台并鏡の役などの人々が登場し、三年前の元康元服の光景が瞼を閉じれば鮮明に思い出される。
そうして、いよいよ北条助五郎の頭上へ烏帽子が載せられる。
「北条助五郎」
「はい!」
「そなたには北条家の通字である『氏』、当家の通字の『範』と読みを同じゅうする『規』の一字を併せ、今日より北条助五郎氏規と名乗るがよい」
「はっ!諱の通り、北条家と今川家の橋渡し役となれますよう、誠心誠意つとめまする!」
新たに元服を迎えた北条助五郎氏規。この時、元康より三ツ年下の十四歳であった。
その後は酒が振る舞われ、宴の席へと移行していく。
いつから列席していたのか、北条助五郎氏規の祖母・寿桂尼は涙を流しながら、助五郎の元服を喜んでいる。そこへ、当主である氏真も改めて祝いの言葉をかけ、楽し気なやり取りが繰り広げられていた。
「舅殿、二人目の婿の元服を終えて、いかがにございまするか」
「感慨無量の境地と言うほかなかろう。婿の元服でこれほどな幸福を味わえるのじゃ、実の息子の元服に立ち会う父の喜びとはかようなものであろうか」
子宝に恵まれ、玉のような女子二人を授かった関口刑部少輔氏純。三十七となった彼は男子には恵まれなかったが、娘婿には恵まれたといっても良かった。
そんな恵まれた二人目の婿は寿桂尼の元を辞すると、子供らしさの残る足取りで舅である関口刑部少輔、相婿の元康の元へとやってきた。
「舅殿、北条助五郎氏規にございます」
「うむ、うむ……!まこと、良き名をいただきましたなぁ」
「はいっ!これよりは頂いた名に恥じぬ働きをして参る所存にございます!」
真っ直ぐな北条助五郎氏規の言葉に、自然涙をこぼす舅。それに気づいた隠居の義元が茶化して、万座笑いが満ちる。どっと笑う周囲の人々につられて、元康からもまた笑みがこぼれる。
「これ、婿殿。笑うでない……!」
「ははは、これはしたり。元康も舅殿が涙をこぼされておらなんだら、かように笑うことなどございませぬ……!」
関口刑部少輔に軽く左肩を叩かれてなお、からからと笑い続ける元康。一人の笑いが別の誰かに伝播し、その誰かからまた別の誰かへと伝播していく。
このようにして、広間中に幸福が満ちていく。この場にいる誰もが幸せだと思える空間が出来上がっていた。
……まぁ、酒でできあがっていたのは大人たちも同じなのだが。
何はともあれ、北条氏康の四男で、今川義元の甥でもある北条助五郎氏規の元服の儀はつつがなく済み、その日は解散。酔っ払った大人たちは供の者に支えられながら、各々の屋敷へ帰っていくのであった。
それは元康や関口刑部少輔とて同じこと。
「太守様は一足早くお休みになられ、御屋形様も悪酔いなさっておられたゆえ、先に帰られましたな」
「うむ。じゃが、お二人があれほど酒に酔うとは珍しきこと」
「それほど助五郎殿の元服が喜ばしかったのでしょう」
「そうであろうなぁ」
そう言う関口刑部少輔とて、元康に支えられなくては真っ直ぐに歩行することも叶わないほど酒に酔っていた。逆に元康は周りに遠慮して、酒をそこまで口にしなかったため、あまり酒に酔っている感覚はなかった。
「舅殿。先ほど某の近侍、阿部善九郎を当家の屋敷へ走らせ、瀬名に舅殿のお屋敷へ参るよう使いさせました。今頃は出発のため慌ただしくしておりましょうほどに」
「おお、娘を我が屋敷にとな。それはかたじけない」
「いえいえ、こうした機会でもなければ、夫婦揃って舅殿にお目にかかることもかなわぬ不孝、お許しいただきたく」
「何を申す。機会があれば、こうして会いに来てくれることこそ喜ばしいものはない」
酔っている関口刑部少輔は、表情筋が溶けたのではないかと思うほどに緩ませながら近くにいる家臣を呼び寄せ、自らの屋敷へと急派した。
「さぁ、婿殿。そうと決まれば、一刻も早う我が屋敷へ参りましょうぞ!」
「はっ、はい!」
関口刑部少輔が急に歩く速度を上げたこともあり、一瞬前へよろけた元康であったが、そこは巧みに体勢を立て直して舅と歩調を合わせていく。
「今日の元服の儀でも思うたが、この関口刑部少輔は娘婿に恵まれておる!今川家中一じゃ!わはははは……!」
「ははは。舅殿、何をおっしゃいます。麗しい姫君二人に、良妻賢母にも恵まれておられるではございませぬか」
「おお、婿殿もなかなか世辞が上手くなったの」
「いえ、世辞ではなく、本心からにございます」
「本心からとな。そこまで言われると照れくさいのぅ」
酔っ払いとの問答を上手く返しながら歩き続ける元康。それを近侍の天野三郎兵衛景能や鳥居彦右衛門尉、平岩七之助親吉、植村新六郎栄政などは未だ緊張を帯びた面持ちで静かに見守っている。
そうしている間に、目的地たる関口刑部少輔家の屋敷へ到着。そこまで来ると、関口刑部少輔は元康の元を離れ、慣れた足取りで屋敷内へ帰っていく。
表玄関まで覚束ない足取りでたどり着いた関口刑部少輔を関口夫人が駆け寄って支え、家臣たちに奥の間にて休ませるよう命じていた。
「これは蔵人佐殿。ここまで夫を介抱してくださったこと、感謝申し上げます」
「なんのこれしき、日ごろより目をかけてくださる大恩を思えば、別段大したことではございませぬ。そうです、瀬名はもうこちらへ参っておりますか」
「ええ、今しがた広間へ。石川与七郎どの、阿部善九郎どの、高力与左衛門どのが同伴して参られました」
「そうでしたか。では、某もお屋敷へ上がらせていただきたく存じますが……」
「ええ、このような場所でお引止めしてしまい、すみませぬ。ささっ、ご家来衆の皆々様もお上がりになってくださいまし」
「では、お言葉に甘えさせていただきまする」
関口夫人に一礼し、元康主従は関口刑部少輔屋敷へ上がった。広く長い廊下を抜け、広間へと辿り着くと、そこには石川与七郎数正、阿部善九郎正勝、高力与左衛門清長らと談笑する駿河御前の姿があった。
「おおっ、殿!」
「与七郎、突然関口刑部少輔屋敷へ御前を連れて参るよう伝えられ、さぞかし慌てたのではないか」
「ははは、これしきのことで動転いたしては戦場での奉公など到底かないませぬ」
「これは頼もしいことを申す」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」
軽口を叩いたかと思えば、突然堅苦しい主従の会話に変貌する。そんなやり取りをした元康と石川与七郎は、石川与七郎が顔を上げた瞬間から自然と声をあげて笑っていた。
「善九郎も当家の屋敷までの使い走りからこれまで、ご苦労であった」
「なんの。これしき、労われるほどのことではございませぬ」
幼少の頃より元康の側に近侍する阿部善九郎として、その言葉は真なるものであった。そして、高力与左衛門はここまでの元康の様子を見てニコニコと笑みを浮かべながらも、駿河御前の方へ何度も目くばせしていた。
その高力与左衛門の視線の移動に気づいた元康は、何事もなかったかのように振る舞いつつ、正室・駿河御前の方へと話題を振ってゆく。
「そうじゃ、御前。本日執り行われた元服の儀、北条助五郎殿のものであった」
「何と!?ですが、それで合点が参りました」
「合点が参ったとは?」
「父が気分よく酔って帰られたことにございます。父はあなた様と助五郎殿には格別目をかけておりますゆえ、よほど助五郎殿の元服が嬉しかったのでございましょう」
――さすがは娘。父のことをよく観て、理解している。
落ち着いた様子の駿河御前を見て、元康が感じたことはそういったことである。読書にしか関心がないかと思えば、しっかり周囲の事を見ている。その意外性が彼女の魅力ではあった。
「そうじゃ、助五郎殿は北条家の通字である『氏』と今川家の通字の『範』に通じる『規』の字を併せ、『氏規』と名乗ることとなった」
「北条助五郎氏規殿……!これまた立派な名前、それが妹の旦那となるのです。姉である私まで誇らしく思えて参りました」
「左様か。助五郎殿も古今無双の若武者といった風貌となっておったゆえ、先が楽しみな武士じゃ」
「ふふふ、殿も負けてはおれませぬ。でなくては、義理の兄としての威厳を保てませぬ」
からかうような駿河御前の言葉に、元康はただ笑うことしかできなかった。三ツ下とはいえ、才能の片鱗を見せる北条助五郎氏規と競おうなど、思案の外。ともに主君である氏真を支えるにあたり、頼もしき武士と思うに留めたかった。
そうして元康と駿河御前とで今日の元服の儀をはじめ、近ごろあったことについて色々と話し合っていると、その間に一休みして酔いも醒めた関口刑部少輔氏純が夫人を伴って広間へと姿を現した。
「これは婿殿、先ほどは失礼いたした」
「いえ、すっかり酔いも醒められたようで、安堵いたしました」
関口刑部少輔は完全に酔いが醒めたわけではなく、それが元康にも駿河御前にも分かるような足取りで二人の近くへと歩み寄る。
「瀬名もつつがなく過ごしておるようで、安堵したぞ」
「はい、父上。では、父上も母上も揃いましたゆえ、この場にて報告したきことがございます」
ニコリと両親と向き合っていた駿河御前の表情が真剣なものへと変化する。その真剣な表情に、元康も、関口刑部少輔も、関口夫人も、皆が背筋を伸ばし、駿河御前へと向き直った。
しかし、真剣な表情とは裏腹に、深呼吸を終えた駿河御前は柔らかな口調で語りだす。
「み、身ごもりましてございます」
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「おお、それはまことか……!?」
「は、はい。先月、先々月と来たるべきものは来ましたが、今月はまだ……」
「なるほどのぅ。これ、あなた様。私たちの初孫にございますぞ!」
駿河御前から事情を聴いた関口夫人は喝を入れるように夫の背中を力強く叩く。それで正気に戻ったのか、関口刑部少輔は常の彼らしくもない慌てようを見せた。
「瀬名、この元康もまこと嬉しく思う。神仏にも報告申し上げて、安産の祈願をせねばならぬな」
「はい、その儀につきましてはよろしくお願いいたします」
「それは言われるまでもないこと。任せておくがよい」
数年前までは元服も済んでおらぬ子どもであった自分が、父親になろうとしている。男女の区別は生まれてみねば分からぬものの、男であれば正室が産んだ立派な松平宗家の嫡男となる。
戦が絶えず、ひょんなことから命を落とす乱世。そこに、また新たな命が誕生しようとしている。このお腹の児も乱世の荒波に翻弄されて、生を弄ばれていくのであろうか。
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すると、目の前では涙を流しながら懐妊した娘の手を取り喜ぶ関口刑部少輔の姿があった。
「瀬名、体をいたわれよ。お腹の児に障るようなことがあってはならぬゆえ」
「はい、父上」
「瀬名、出産は女子にとっての大戦。気張るのですよ」
「は、はいっ!母上の言葉、心のうちにしかと留めおきまする」
両親からの圧に気おされている風の駿河御前であったが、元康としてはこれからも母子ともに健康であることを願うばかりであった。
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やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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