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第4章 苦海の章
第80話 岡崎城代との面会と水野のこと
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夕方になって激しさを増す雨の中、大樹寺の一室では元康と近侍らが桜井松平家当主・監物と、彼が連れてきた少年と供廻りの者らとの会見が続行されていた。
「そうじゃ、監物殿。そちらに連れておられる少年は御嫡男にございますか」
「はっ、左様にございます。これ、与一郎。挨拶せぬか」
「お初に御意を得ます。松平監物が嫡男、与一郎忠正にございまする!」
「与一郎か。そなた、幾つになるか」
「はっ、今年で十七になりましてございます!」
――気骨のある若武者。
それが元康が松平与一郎忠正に抱いた第一印象であった。己と二つしか年の違わぬ若武者に、元康は大変な好印象を抱いていた。
「さすがは監物殿が嫡男。まこと、しっかりしておられる」
「ありがとう存じまする。しかと蔵人佐殿に奉公できるよう、日頃より鍛錬を欠かさず行っておりまする。必ずや、蔵人佐殿の助けとなりましょう」
「殊勝なる心がけ。この元康、感じ入りました。春の尾張出兵においても頼りにしております」
「尾張出兵、やはり先鋒を申しつけられるのでしょうか」
松平監物の不安の入り混じった問いに、元康は静かに頷くのみ。恐らくそうなる。それだけで、十二分に松平監物には伝わったようであった。
「なるほど、我らも戦支度をせねばならぬ様子。然らば、これにて我らは失礼いたしまする」
「何卒、お頼み申し上げる」
「ははっ!では、ご免!」
先ほどまで松平与一郎は鍛錬を欠かさずに行っていると豪語していた監物。しかし、実際の戦場に我が子を引き連れていかねばならぬと思い、不安といかせたくない想いが湧き出てきたのに違いなかった。
「やはり、父親とはあのような表情をするものか」
「先ほどの監物殿のことにございましょうや?」
「うむ。わしとて、いざ竹千代を戦場へとなれば、拒めるものならば拒みたいと思うてしまう。万が一、討たれることなどあっては、生きていけぬやもしれぬ」
すでに子を持つ父親としての立場から、元康は松平監物が去り際に見せた表情が理解できるような心地がした。しかし、それを傍らで聞いていた鳥居彦右衛門尉らにはいまいち計りかねる心境であった。
「殿、肝心の岡崎城入りはいつにいたしましょうか」
「うむ、明日の朝一番訪ねてみるとしようぞ。それで面会が叶わずば、大樹寺に戻り、訪問してくる松平家の当主と対面することに専念すればよかろう」
「明日はたしか福釜松平に藤井松平。加えて、滝脇松平と大草松平にございましたな」
「うむ。福釜と藤井は矢矧川を渡河せねばならぬし、滝脇も険しい山道を通って参るゆえ、一番に来るは大草松平であろう」
はたして、明日一番に来るのは大草松平。そんな己の予想が当たるのか、心躍る想いで眠りにつく。はじめは興奮冷めやまぬ様子であった元康も、次第に疲労によって眠りの世界へと引きずり込まれていった。
そうしてまだ肌寒い朝の寒気に促されるかのように、陽が昇る前に起床する元康。
まだ誰もいない早朝のひと時こそ至福なのだと自分に言い聞かせながら体を起こし、冷え切った廊下へと一歩を踏み出す。すると、寺の一日は始まっていたのである。
「そうじゃ、ここは寺じゃ。僧侶の朝は早いと聞くが、よもやこれほどとはのぅ」
朝早くから活動する。この点においては、武士も僧侶も同じであった。されど、僧侶の方が一足早いというのは、どこか負けたような心地がする。
そんな一日の営みが始まった音に耳を傾けながら、元康は与えられた一室にて読書を始める。駿府の屋敷であったのなら、弓や剣術の稽古をするところなのだが、あいにくとそのような物騒な施設は寺内にはない。
それゆえに、朝の澄み切った空気の中で読書に励む。励むと言っても、無二の趣味である読書は元康にとってまったく苦ではなかった。それから一刻と経たぬ間に、近侍たちも目を覚まして動き始める。
「殿、お目覚めにございましたか」
「うむ。少しばかり早く眼が覚めたゆえな。皆が起きたのならば、支度をして岡崎城へ参ろうぞ」
「はっ!では、お召し替えの支度はすでに整えておりまするゆえ、こちらへ」
天野三郎兵衛の導かれるまま、着替えの用意されている隣室へと向かう元康。それからは段取りのよい近侍たちのおかげで、瞬く間に支度を整え、岡崎城へ赴かんか。
そんな折であった。岡崎城から使者が到着したのは。
「殿、榊原弥平兵衛忠政が参っております」
「ほう、岡崎の老臣らからであろうか。よい、通してくれい」
平岩七之助・善十郎兄弟に取り次がれて入ってきたのは元康の一つ上、二十歳の青年――榊原弥平兵衛であった。何度か駿府に書状を持ってきたことがあり、その折に面識のある者であった。
「殿、石川安芸守どのより言伝を預かって参りました」
「うむ、聞こう。申してみよ」
「ははっ!では、申し上げまする!『岡崎城代の三浦上野介氏員殿、飯尾豊前守乗連殿、田中次郎衛門殿の御三方より面会の許可が出ましたゆえ、岡崎城へお越しくださいますよう。本日の面会には石川安芸守忠成、鳥居伊賀守忠吉、大久保新八郎忠俊の三名が同道いたしまするゆえ、ご案じなさいますな』とのことにございました!」
「報せ大儀であった!立ち戻って、元康は待ちきれずに着替えを済ませて待っておったと伝えておいてくれい」
「はっ、ははっ!今のお言葉、しかと伝えまする!では、これにてご免!」
自分の居城である岡崎城。駿府に留まっていなければ、自分の手で直接政を担うこともできようものを、今では居城に入るのも今川家の城代にお伺いを立てなければならぬとは――
そう思い、もどかしく思っていたが、慣れてしまえば煩わしさや口惜しさといった感情は薄れていくものであった。
「さぁ、岡崎城へ入るとしよう。榊原弥平兵衛によれば、なんでも石川安芸や鳥居伊賀、大久保新八郎らが同道してくれるそうじゃ。あまり大人数を引き連れていくには及ばぬであろう」
そういった元康は大樹寺に阿部善九郎と天野三郎兵衛、平岩善十郎を残し、わずかに鳥居彦右衛門尉と平岩七之助を伴ったのみで、一里にも満たない距離を南へ向かうのであった。
「殿。表情が駿府におるよりも生き生きしておられまする」
「ほう、七之助にはそう映ったか」
「はい。大空に羽ばたいた鳥のようにございます」
「ははは、そうか。わしはそんな顔をしておったか」
やはり自分の評定の変化というものは自分では気づかないものらしい。元康も自分ではそのような表情をしているなど、微塵も思っていなかった。それゆえに、少々驚かされたのである。
そうして馬に乗りながら到着した岡崎城の城門は以前よりもどこか小さく見えた。
「殿、いかがなさいましたか」
「いや、何。城門はこれほど小さかったかと思ってな」
「殿が成長なさったからではないかと。ここ二年のうちに、体つきもたくましくなられましたゆえ」
「そうか。わしが大きくなったから小さく見えたのか。なるほど、彦右衛門尉に言われて腹落ちしたわ」
「それはようございました。では、某は門番に殿が到着したと取り次いで参りまする!」
門番が城内へと取り次いでいる間、元康一行は馬から降りて、しずかに入城の時を待つ。そうして堅く閉ざされていた城門が開くと、久しぶりに見る顔ぶれがそこにあった。
真っ先に前に進み出たのは、ひときわ白髪の目立つ鳥居伊賀守忠吉であった。
「おお、鳥居伊賀に石川安芸、大久保新八郎ではないか」
「殿!また一段とたくましくなられましたなぁ」
「先ほどそなたの倅、彦右衛門尉にも言われたところじゃ。親子で同じことを申すとは、まこと面白い父子じゃ」
一人笑う元康。それを見て、恥ずかしそうに頬をかく鳥居伊賀・彦右衛門尉父子。そんな中で、石川安芸が元康の面前へと進み出る。
「殿、門前での立ち話もよろしいですが、ひとまず城代との面会を」
「そうであった。うむ、二の丸か?」
「いえ、本丸でお会いしたいとのこと。おそらく、来る尾張表への出陣についても何らか話がございましょう」
「なるほど。安芸の申す通り、それはあり得るやもしれぬ」
かくして、二の丸――ではなく、本丸へと向かった元康。渡り廊下などで元康をちらちらと見やる侍女や城代の家臣らに対し、大久保新八郎がギロリと威圧を込めた眼光を向けるのには、さすがの元康も制止せざるを得なかった。
「新八郎。あの者らはわしと面識がない者らじゃ。あの若造は誰だと見ても不思議ではなかろうに」
「いえ、殿にあのような不躾な視線を向けるなど、この大久保新八郎は許せぬのです」
「き、気持ちは嬉しいのじゃが、わしの面子にも関わることゆえ、控えてはくれまいか」
「殿がそうおっしゃるのならば、従わぬわけには参りませぬな」
主君である元康からそう言われると、素直に従う大久保老人。しかし、その頼もしさたるや、随行している家臣では断トツであった。
ともあれ、元康は本丸の大広間へと辿り着き、予定通り、岡崎城代らとの面会を果たした。
「松平蔵人佐元康にございます。この度は――」
「待たれよ、松平蔵人佐殿」
元康の挨拶を遮ったのは飯尾豊前守乗連であった。彼は元康を制した後、左右の三浦上野介氏員、田中次郎衛門を交互に見やり、頷き合うと、一斉に上座を空けたのである。
「ご城代の御三方!こ、これはいかなることにございましょうや!?」
「我らは岡崎城代ではございますが、松平蔵人佐殿は今川家親類衆。今川一門を下座に据えるなど、今川家臣としてあってはならぬこと。それゆえに、上座を空けたまでにござる」
城代らの真剣な眼差しに、元康は折れざるをえなかった。何も、からかって申しているのではない。それが分かっただけで十分であった。何より、ここで上座に座らなかったとあっては、かえって城代らの面目を潰すことにもなる。
「では、お言葉に甘えさせていただくことにいたしまする」
元康は三名に丁重に礼をしたのち、上座へと移った。短い面会の間だけであったが、松平宗家の主・松平蔵人佐元康が岡崎城主本丸の上座に堂々と腰かけている。その姿に、同行していた石川安芸、鳥居伊賀、大久保新八郎は感極まり涙をこぼす。
――かつて、父や祖父も、ここから皆を眺めていたのであろうか。
そんな感慨が胸にこみ上げてくる。しかし、泣くまいと涙をこらえて元康は城代らと言葉を交わしていく。
日ごろの岡崎の様子から、近ごろの織田・水野の動静などお堅い話ばかりであったが、どれも聞き漏らしてはならない重大な事柄ばかりであった。
「そうじゃ、江馬加賀守!例の物をこれへ!」
面会中、江馬と申す己の家臣を呼びつけたは飯尾豊前守であった。突然の主君からの呼び出しに、慌てて前に進み出た壮年こそが江馬加賀守なのだろうと元康は見た。
「松平蔵人佐殿、こちらが苅谷の水野藤九郎信近よりの書状にございます」
「なんと、我が叔父から?」
「はい。なんでも、緒川におる水野下野守信元の調略が成せるやもしれぬと」
水野下野守。その名を聞くなり、元康に随行してきた三老臣らは眉をひそめた。何せ、先代広忠の頃に於大の方との離縁を強行し、松平との敵対を選択した張本人である。当時を知る松平宗家の者で快く思っている者など誰一人としていなかった。
「拝見してもよろしいでしょうか」
「どうぞ。そのために持参いたした書状にございまするゆえ」
「では」
元康は飯尾豊前からの許諾を得たうえで書状に目を通した。
春に駿河・遠江・三河の太守、今川義元自らが大軍で出兵してくるとの噂を耳にした水野下野守は織田を見限り今川に従属する用意があると申し出てきたことをはじめ、従属することを今川義元が承認するならば、喜んで起請文と人質を提出すると申しているのだそうな。
「ふむ、起請文だけでなく、人質まで出す用意があるならば、太守様も前向きに交渉に入られるであろう」
「殿!水野を信用してはなりませぬ!」
そう言って声を荒げたのは鳥居伊賀であった。声を荒げないまでも、両隣の石川安芸と大久保新八郎も同じ目をしている。
「うむ、それもそうじゃな。この文面を見る限り、あくまでも用意があると申してきておるだけ。たしかに、信用はできぬか」
改めて書状に目を通した元康は、鳥居伊賀の申す通り慎重に判断せねばならぬと判断した。
「では、某は水野藤九郎に会うべく、苅谷へ向かいたく存ずる。この書状の真意を確かめる。今日話し合ったことを含め、某と城代の御三方の連署状でもって駿府へ注進することとしたいが、よろしゅうございますか」
元康の申し出に城代らも同意し、急ぎ連署状が認められ、駿府へ届けられたのであった――
「そうじゃ、監物殿。そちらに連れておられる少年は御嫡男にございますか」
「はっ、左様にございます。これ、与一郎。挨拶せぬか」
「お初に御意を得ます。松平監物が嫡男、与一郎忠正にございまする!」
「与一郎か。そなた、幾つになるか」
「はっ、今年で十七になりましてございます!」
――気骨のある若武者。
それが元康が松平与一郎忠正に抱いた第一印象であった。己と二つしか年の違わぬ若武者に、元康は大変な好印象を抱いていた。
「さすがは監物殿が嫡男。まこと、しっかりしておられる」
「ありがとう存じまする。しかと蔵人佐殿に奉公できるよう、日頃より鍛錬を欠かさず行っておりまする。必ずや、蔵人佐殿の助けとなりましょう」
「殊勝なる心がけ。この元康、感じ入りました。春の尾張出兵においても頼りにしております」
「尾張出兵、やはり先鋒を申しつけられるのでしょうか」
松平監物の不安の入り混じった問いに、元康は静かに頷くのみ。恐らくそうなる。それだけで、十二分に松平監物には伝わったようであった。
「なるほど、我らも戦支度をせねばならぬ様子。然らば、これにて我らは失礼いたしまする」
「何卒、お頼み申し上げる」
「ははっ!では、ご免!」
先ほどまで松平与一郎は鍛錬を欠かさずに行っていると豪語していた監物。しかし、実際の戦場に我が子を引き連れていかねばならぬと思い、不安といかせたくない想いが湧き出てきたのに違いなかった。
「やはり、父親とはあのような表情をするものか」
「先ほどの監物殿のことにございましょうや?」
「うむ。わしとて、いざ竹千代を戦場へとなれば、拒めるものならば拒みたいと思うてしまう。万が一、討たれることなどあっては、生きていけぬやもしれぬ」
すでに子を持つ父親としての立場から、元康は松平監物が去り際に見せた表情が理解できるような心地がした。しかし、それを傍らで聞いていた鳥居彦右衛門尉らにはいまいち計りかねる心境であった。
「殿、肝心の岡崎城入りはいつにいたしましょうか」
「うむ、明日の朝一番訪ねてみるとしようぞ。それで面会が叶わずば、大樹寺に戻り、訪問してくる松平家の当主と対面することに専念すればよかろう」
「明日はたしか福釜松平に藤井松平。加えて、滝脇松平と大草松平にございましたな」
「うむ。福釜と藤井は矢矧川を渡河せねばならぬし、滝脇も険しい山道を通って参るゆえ、一番に来るは大草松平であろう」
はたして、明日一番に来るのは大草松平。そんな己の予想が当たるのか、心躍る想いで眠りにつく。はじめは興奮冷めやまぬ様子であった元康も、次第に疲労によって眠りの世界へと引きずり込まれていった。
そうしてまだ肌寒い朝の寒気に促されるかのように、陽が昇る前に起床する元康。
まだ誰もいない早朝のひと時こそ至福なのだと自分に言い聞かせながら体を起こし、冷え切った廊下へと一歩を踏み出す。すると、寺の一日は始まっていたのである。
「そうじゃ、ここは寺じゃ。僧侶の朝は早いと聞くが、よもやこれほどとはのぅ」
朝早くから活動する。この点においては、武士も僧侶も同じであった。されど、僧侶の方が一足早いというのは、どこか負けたような心地がする。
そんな一日の営みが始まった音に耳を傾けながら、元康は与えられた一室にて読書を始める。駿府の屋敷であったのなら、弓や剣術の稽古をするところなのだが、あいにくとそのような物騒な施設は寺内にはない。
それゆえに、朝の澄み切った空気の中で読書に励む。励むと言っても、無二の趣味である読書は元康にとってまったく苦ではなかった。それから一刻と経たぬ間に、近侍たちも目を覚まして動き始める。
「殿、お目覚めにございましたか」
「うむ。少しばかり早く眼が覚めたゆえな。皆が起きたのならば、支度をして岡崎城へ参ろうぞ」
「はっ!では、お召し替えの支度はすでに整えておりまするゆえ、こちらへ」
天野三郎兵衛の導かれるまま、着替えの用意されている隣室へと向かう元康。それからは段取りのよい近侍たちのおかげで、瞬く間に支度を整え、岡崎城へ赴かんか。
そんな折であった。岡崎城から使者が到着したのは。
「殿、榊原弥平兵衛忠政が参っております」
「ほう、岡崎の老臣らからであろうか。よい、通してくれい」
平岩七之助・善十郎兄弟に取り次がれて入ってきたのは元康の一つ上、二十歳の青年――榊原弥平兵衛であった。何度か駿府に書状を持ってきたことがあり、その折に面識のある者であった。
「殿、石川安芸守どのより言伝を預かって参りました」
「うむ、聞こう。申してみよ」
「ははっ!では、申し上げまする!『岡崎城代の三浦上野介氏員殿、飯尾豊前守乗連殿、田中次郎衛門殿の御三方より面会の許可が出ましたゆえ、岡崎城へお越しくださいますよう。本日の面会には石川安芸守忠成、鳥居伊賀守忠吉、大久保新八郎忠俊の三名が同道いたしまするゆえ、ご案じなさいますな』とのことにございました!」
「報せ大儀であった!立ち戻って、元康は待ちきれずに着替えを済ませて待っておったと伝えておいてくれい」
「はっ、ははっ!今のお言葉、しかと伝えまする!では、これにてご免!」
自分の居城である岡崎城。駿府に留まっていなければ、自分の手で直接政を担うこともできようものを、今では居城に入るのも今川家の城代にお伺いを立てなければならぬとは――
そう思い、もどかしく思っていたが、慣れてしまえば煩わしさや口惜しさといった感情は薄れていくものであった。
「さぁ、岡崎城へ入るとしよう。榊原弥平兵衛によれば、なんでも石川安芸や鳥居伊賀、大久保新八郎らが同道してくれるそうじゃ。あまり大人数を引き連れていくには及ばぬであろう」
そういった元康は大樹寺に阿部善九郎と天野三郎兵衛、平岩善十郎を残し、わずかに鳥居彦右衛門尉と平岩七之助を伴ったのみで、一里にも満たない距離を南へ向かうのであった。
「殿。表情が駿府におるよりも生き生きしておられまする」
「ほう、七之助にはそう映ったか」
「はい。大空に羽ばたいた鳥のようにございます」
「ははは、そうか。わしはそんな顔をしておったか」
やはり自分の評定の変化というものは自分では気づかないものらしい。元康も自分ではそのような表情をしているなど、微塵も思っていなかった。それゆえに、少々驚かされたのである。
そうして馬に乗りながら到着した岡崎城の城門は以前よりもどこか小さく見えた。
「殿、いかがなさいましたか」
「いや、何。城門はこれほど小さかったかと思ってな」
「殿が成長なさったからではないかと。ここ二年のうちに、体つきもたくましくなられましたゆえ」
「そうか。わしが大きくなったから小さく見えたのか。なるほど、彦右衛門尉に言われて腹落ちしたわ」
「それはようございました。では、某は門番に殿が到着したと取り次いで参りまする!」
門番が城内へと取り次いでいる間、元康一行は馬から降りて、しずかに入城の時を待つ。そうして堅く閉ざされていた城門が開くと、久しぶりに見る顔ぶれがそこにあった。
真っ先に前に進み出たのは、ひときわ白髪の目立つ鳥居伊賀守忠吉であった。
「おお、鳥居伊賀に石川安芸、大久保新八郎ではないか」
「殿!また一段とたくましくなられましたなぁ」
「先ほどそなたの倅、彦右衛門尉にも言われたところじゃ。親子で同じことを申すとは、まこと面白い父子じゃ」
一人笑う元康。それを見て、恥ずかしそうに頬をかく鳥居伊賀・彦右衛門尉父子。そんな中で、石川安芸が元康の面前へと進み出る。
「殿、門前での立ち話もよろしいですが、ひとまず城代との面会を」
「そうであった。うむ、二の丸か?」
「いえ、本丸でお会いしたいとのこと。おそらく、来る尾張表への出陣についても何らか話がございましょう」
「なるほど。安芸の申す通り、それはあり得るやもしれぬ」
かくして、二の丸――ではなく、本丸へと向かった元康。渡り廊下などで元康をちらちらと見やる侍女や城代の家臣らに対し、大久保新八郎がギロリと威圧を込めた眼光を向けるのには、さすがの元康も制止せざるを得なかった。
「新八郎。あの者らはわしと面識がない者らじゃ。あの若造は誰だと見ても不思議ではなかろうに」
「いえ、殿にあのような不躾な視線を向けるなど、この大久保新八郎は許せぬのです」
「き、気持ちは嬉しいのじゃが、わしの面子にも関わることゆえ、控えてはくれまいか」
「殿がそうおっしゃるのならば、従わぬわけには参りませぬな」
主君である元康からそう言われると、素直に従う大久保老人。しかし、その頼もしさたるや、随行している家臣では断トツであった。
ともあれ、元康は本丸の大広間へと辿り着き、予定通り、岡崎城代らとの面会を果たした。
「松平蔵人佐元康にございます。この度は――」
「待たれよ、松平蔵人佐殿」
元康の挨拶を遮ったのは飯尾豊前守乗連であった。彼は元康を制した後、左右の三浦上野介氏員、田中次郎衛門を交互に見やり、頷き合うと、一斉に上座を空けたのである。
「ご城代の御三方!こ、これはいかなることにございましょうや!?」
「我らは岡崎城代ではございますが、松平蔵人佐殿は今川家親類衆。今川一門を下座に据えるなど、今川家臣としてあってはならぬこと。それゆえに、上座を空けたまでにござる」
城代らの真剣な眼差しに、元康は折れざるをえなかった。何も、からかって申しているのではない。それが分かっただけで十分であった。何より、ここで上座に座らなかったとあっては、かえって城代らの面目を潰すことにもなる。
「では、お言葉に甘えさせていただくことにいたしまする」
元康は三名に丁重に礼をしたのち、上座へと移った。短い面会の間だけであったが、松平宗家の主・松平蔵人佐元康が岡崎城主本丸の上座に堂々と腰かけている。その姿に、同行していた石川安芸、鳥居伊賀、大久保新八郎は感極まり涙をこぼす。
――かつて、父や祖父も、ここから皆を眺めていたのであろうか。
そんな感慨が胸にこみ上げてくる。しかし、泣くまいと涙をこらえて元康は城代らと言葉を交わしていく。
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「松平蔵人佐殿、こちらが苅谷の水野藤九郎信近よりの書状にございます」
「なんと、我が叔父から?」
「はい。なんでも、緒川におる水野下野守信元の調略が成せるやもしれぬと」
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「では」
元康は飯尾豊前からの許諾を得たうえで書状に目を通した。
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「では、某は水野藤九郎に会うべく、苅谷へ向かいたく存ずる。この書状の真意を確かめる。今日話し合ったことを含め、某と城代の御三方の連署状でもって駿府へ注進することとしたいが、よろしゅうございますか」
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やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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