不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第98話 驟雨

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 ――織田信長が善照寺砦にて丸根砦・鷲津砦の陥落を知った頃。

 空を覆い隠す雲の下、丸根砦で兵を休息させる松平元康のもとへ、瀬名陸奥守氏俊が手勢を率いて来訪していた。

「蔵人佐殿、此度の丸根砦占領、まことお見事にござった。太守様もお喜びであられた」

「左様にございましたか。して、義伯父上は何用でこのようなところまで参られたのでございましょうか」

「うむ、殿のご下命を受けて大高城へ向かう途上で、蔵人佐殿に太守様よりの命を伝えねばならぬゆえ、立ち寄ったまで」

 瀬名陸奥守は元康正室・駿河御前から見て伯父にあたり、関口刑部少輔氏純の同母兄にあたる人物である。ゆえに、元康から見ても義理の伯父にあたる。

「然らば、太守様よりのお言葉を承りとうございます」

「うむ。太守様は、松平勢はかねてよりの打ち合わせ通り、大高城へ入られるようにとの仰せであった」

「確かに承ってございます」

「では、大高城にて鵜殿藤太郎殿へ伝えねばならぬこともあるゆえ、ここで失礼いたす」

「はっ、お役目ご苦労様にございます。何卒、道中お気を付けくださいませ」

 瀬名陸奥守より正式に義元の命令が伝えられた元康は大高城へ移動するべく、支度にかかる。そこへ、奥平監物定勝と長沢松平政忠が連れ立ってやって来た。

「これは、珍しい組み合わせにございますな。して、お二方とも、何事かご用でしょうか」

「奥平監物殿と我が長沢松平家の隊は太守様より、丸根砦が陥落次第、本隊の援護に回るよう仰せつかっておりまするゆえ、出立前に一言伝えておかねばならぬと思い、罷り越した次第」

「なるほど、左様にございましたか。では、ここでしばしのお別れとなりまするな。共に戦えたこと、この元康、一生忘れはしませぬ」

「ははは、これまた大袈裟な。では、蔵人佐殿。ご武運を」

 元康は松平政忠と話はしたが、その間、むすっと黙りこくったままの奥平監物の態度には腹立たしさを抱えていた。

「ちっ、なんじゃあの態度は。相変わらず、腹立たしい老人じゃ」

「と、殿。お怒りをお鎮めくださいませ」

「分かっておる!全軍、大高城へ向かう!出発!」

 丸に三つ葉葵の旗を筆頭に、昨晩から働きづめの松平勢は興奮冷めて眠くなってきた目をこすりながら大高城へ入らんと大手門へ差し掛かった。すると、同刻、丸に三つ石の旗を掲げた鵜殿勢が隊列を組んで出てくるのとぶつかった。

「これは鵜殿藤太郎殿!一体、いずこへ向かわれるので?」

「おお、松平蔵人佐殿!昨晩の兵粮入れ、大変助かり申した。さらには丸根砦の陥落、まことお見事にござった!我らは先ほど瀬名陸奥守様より鷲津砦を陥落せしめた朝比奈勢と合流し、西より中島砦を攻め落とせとの下知を賜ってござる!」

 瀬名陸奥守が大高城へ急いで進発したことの意味を理解した元康は鵜殿藤太郎率いる鵜殿勢の武運を祈りながら見送った後に大高城へ入城した。

「殿、負傷兵らの手当てをしてもよろしいでしょうか」

「言うまでもない。ただちに取りかかってくれい」

 あくまでも丸根砦を攻め落とした時にはいつ敵が攻め返して来るとも分からず、応急処置しかできなかった。しかし、大高城内であれば、落ち着いた時間をかけて兵士らを手当てすることも可能になるのだ。

「殿、しばしの間、大高城にて休息を取れそうにございまするな」

「おお、大久保新八郎ではないか。それに、鳥居伊賀守も参ったか」

 老練な大久保新八郎忠俊、鳥居伊賀守忠吉の両名が床几に腰かけてひと息ついているところへ足を運んできた。六十二にもなる大久保老人と六十九の鳥居老人。いずれも松平家の柱石である。

 そんな両名も戦場にいる時よりも穏やかな表情で訪れてきたのだから、元康も自然、顔をほころばせてしまう。

 だが、その場にいる三名とも、完全に気を抜いたわけではなく、どこか警戒心と不安を抱えたまま、前線拠点・大高城の広間に滞在しているのである。そのような空間にて、鳥居伊賀守が膝を進めて今後のことを話し出す。

「殿、先ほどすべての隊が大高城へ入ったと報告がございました。瀬名陸奥守様にも城内にてご逗留いただいておりまする」

「そうか。ならばよい。見てみよ、雨催いじゃ」

「いかにも、一雨降りそうにございまする。野外であれば、休息を取るのもままならぬかと」

 少なからず、大高城という屋根のある場所にて交代しながら休息を取ることが叶うのだ。松平勢にとっては僥倖であった。

「青野、深溝、五井、大草の四家の隊には手分けして守備固めをさせておりまする。無論、当家の隊も均一に配備しておりまするが」

 そう言ったのは大久保新八郎であった。落ち着き払った様子で発される言葉の一つ一つに底知れぬ安心感のようなものが感じられる。

 そんな折のことであった。鎧の擦れる音とともに青山藤蔵忠門と米津藤蔵常春がやって来たのは。

「両名ともいかがした!敵襲か!」

「さにあらず!放っていた物見より、桶狭間山にて動きがあったとのこと」

 青山藤蔵が顧みて首を縦に振ると、米津藤蔵は持参した周囲の絵図を元康と大久保新八郎、鳥居伊賀守の前で広げてみせる。

「まずまず、今川本隊は瀬名陸奥守さまが設営に当たっておられた場所へ義元様自らも輿に乗りながら入られ、本陣を置いたとのこと。葛山左衛門佐さまも清洲方面へ北条の援軍とともに展開し、織田の来援を防ぐ構え」

「うむ、どちらも太守様が岡崎城にて仰られていた通りの動きじゃ」

 元康も知っている内容ばかりの報告となったが、それが事前確認ともいうべきものであった。

 また、義元が尾張国内で輿に乗り、桶狭間山に入ったことも足利氏の庶流として室町二十一屋形と称された屋形号を有している今川家の格を見せつけているのである。

 この尾張国において輿に乗れる資格があるのは、今川家と同じく足利氏庶流の守護の斯波氏のみ。この騎乗でなく、輿に乗って進軍することには織田家との家柄や立場の違いを尾張の人々に示すには十分であった。

「左様にございます。我らが大高城へ入る折、鵜殿勢とすれ違いましたが、その時に何と仰っておられましたか」

「鵜殿勢は鷲津砦を攻略した朝比奈勢と合流し、中島砦を西から攻撃しに向かうと申しておられた」

「おそらく、鵜殿藤太郎殿がわざわざ西からと言葉を付け加えていたのは、かかる理由があったからでしょう」

「いかなる理由じゃ。もったいぶらず、早う申せ」

 随分と回りくどい報告をする青山藤蔵に、さすがの元康も続きが気になり、苛立ちが募る。それに気おされてか、青山藤蔵は長話にならないよう細心の注意を払いながら報告を続けていく。

「はっ、義元様が本陣を置いてしばらく後、数千の軍勢が北へ通じる長坂道を進軍。なんでも、大将は朝比奈丹波守殿、そのほかにも久野元宗、藤枝伊賀守氏秋、朝比奈主計助秀詮、岡部甲斐守長定らが同道しておるとのこと」

「長坂道を北へ向かったのであれば、狙いは間違いなく中島砦であろう。ふむ、鵜殿藤太郎殿が方角を付け足したのは別方向から狙う部隊があるということ。この朝比奈丹波守殿が率いておられる部隊がそれである、とかように申したいわけか」

 元康の推測を青山藤蔵は肯定し、己の推測が当たったことに機嫌が直る元康。しかし、今の報告を聞きながら、元康は指をくっていた。それは、名の上がらなかった今川方の将を思い返しているからでもあった。

「ともすれば、太守様の本隊に残っているのは松井左衛門佐宗信殿、井伊信濃守直盛殿、庵原右近忠春殿、富永伯耆守氏繁殿、由比美作守正信殿、一宮宗是殿、三浦左馬助義就殿、庵原将監忠縁殿、斎藤掃部介利澄殿、蒲原氏徳殿、久野氏忠殿、長谷川伊賀守元長殿といった方々か」

「よくぞ、それだけのお味方の名を覚えておられましたな」

 言い淀むことなく人名が口から出てくる元康に、鳥居伊賀守も大久保新八郎も舌を巻いていた。

「なんの。皆、共に今川家と戴く味方ではないか。味方の名だけでなく、所領の位置や重臣同士の関係性も理解しておかねば、どのような失礼を働いてしまうか分かった者ではない」

「これは恐れ入りましてございます」

 その場にいた鳥居伊賀守、大久保新八郎、青山藤蔵、米津藤蔵が一礼したのを見て、元康も苦笑した。しかし、戦経験が少ないながらも、絵図を見て不安を感じた部分が一点あった。

「大久保新八郎。わしは戦の経験がそなたよりも少ない。ゆえに、一笑に付されるやもしれぬが」

「何ぞ気がかりな点でもございましたか」

「うむ。一つほどある。一つは些細な事、一つは大きな全体のことじゃ」

「ほう、それは気になりまするな。試みに伺ってみてもよろしゅうございまするか」

 顎鬚をいじりながら、興味津々といった様子で絵図を覗き込む大久保新八郎。それにつられて、鳥居伊賀守らも絵図と睨めっこを開始する。

「まず、一つ。太守様が本陣を置かれた桶狭間山と大高城を結ぶ地点に誰の隊も陣しておらぬこと」

 元康は自分が言いたい場所を絵図上で指し示す。そこに一同の視線が集まるとともに、感嘆の声が漏れ出す。

「ほほう、言われてみればがら空きにございますな。殿が仰られたいのは、南より敵、水野勢が攻め入るようなことにでもなれば、容易く本陣までたどり着けてしまうといったところでございましょうか」

「いかにも。無論、この大高城からもその地点は眺望できるやもしれぬ」

「されど、今の曇天模様。これに雨でも降り始めたら、見通しがきかなくなり、見張ることもできますまい」

 自分が言いたかったことのすべてを先に見抜き、口にした大久保新八郎。やはり、この老練な将にも危ぶむ理由が手に取るように分かっている。

「仮に攻め寄せるのが水野だとすれば、この隙を逃すとも思えぬ。朝比奈丹波守殿が数千を率いて北に陣しているのに、南は隙だらけなのだから」

 そう元康が独り言ちたところへ、鎧ではなく衣服が擦れる音が元康たちのいる広間へ聞こえてくる。そうして姿を現したのは、案の定松平家臣ではなかった。

「これは、義伯父上ではございませぬか」

 元康のもとへやって来たのは義理の伯父・瀬名陸奥守氏俊であった。

「うむ、先ほど太守様より早馬があったのじゃ。桶狭間山と大高城を結ぶ地点に誰の隊も布陣しておらぬでは心許ない。ゆえに、我が隊が布陣して連絡路を確保するように、とな。そうじゃ、今まさしく蔵人佐殿が指し示しておる地点じゃ」

 元康は瀬名陸奥守から自分の指先へと視線を落とす。そう、義元から瀬名勢に布陣するよう下知があった場所は、今しがた元康ががら空きだと懸念していた地点であった。

「さすがは太守様にございまする。今しがた、ここに誰の部隊も配置されておらぬことを話しておったところにございました」

「そうであったか。まだ若いというに、用心深きことよ。さすがは崇孚和尚が薫陶を受けた御仁じゃ」

 滅相もないと謙遜して見せる元康に対し、瀬名陸奥守は先を急ぐとして、あっさり立ち去っていく。

 その際、くれぐれも大高城の守備を怠らぬよう念押しがあったのだが、まるで自分がいないと守備を怠るかのような言いぐさに、米津藤蔵は腹を立てるのであった。

「米津藤蔵、落ち着かぬか。ああは申したが、悪気あってのことではなかろう」

 そう言って米津藤蔵をなだめた後、元康はもう一つの懸念事項を口にした。それは――

「隊が分散して配置されていること。これでは本隊の数は小荷駄隊を含めても六千ほどとなろう」

「二万を超える大軍勢といえども、こうまで分散してはそれほど少なくなってしまうのですな」

「二万が固まっているのと分散して二万おるのとでは発揮できる力に差が出てしまう」

「何より、こうも広範囲に隊を配備しては隊ごとの伝達にも難儀いたしまする」

「さすがは大久保新八郎じゃ。わしが懸念しておる全体のこととは、まさにそのことよ。これでは万が一のことが起きても、隊同士の連携は取りづらくなる。それは大きな隙ともいえるであろう」

 元康がそう断じた刹那、遠くで雷が光り、少々遅れて轟音が各自の耳へ飛び込んできたのである。突如として暗くなりはじめ、妙に肌寒い風が吹き荒れ始めた。

「殿、雨が降って参りましたな。それに、風も出て参りました」

「しかも、急に暗くなっしもうた。青山藤蔵、今何刻じゃ」

「未の刻にございます」

 午の刻より未の刻へ推移した頃、屋根に叩きつけるような雨が降り始めたのである。

「殿、石水混じりにございまするな」

「各自に屋根の下へ入るよう通達せよ。外におっては怪我のもとじゃ」

「はっ、伝えて参りまする」

 そう下知した元康は恨めしそうに空を睨みつけるのであった。
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