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第4章 苦海の章
第112話 十八町畷での合戦
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苛立ちを紛らわせるかのように爪を噛む元康のもとへ駆け寄ってきたのは本多肥後守忠真であった。体の至る所に傷が見受けられる猛将は、元康の馬前にて片膝ついたのである。
「殿、此度の戦はこれまで。一度兵を退き、後日の再戦を期すべきかと存じます」
「ならぬ。ここで退くことなどあってはならぬ」
「さ、されど……!」
撤退を進言する本多肥後守に対し、冷たく撤退することを拒絶する元康。そんな主君に何とか撤退を決断させようとする本多肥後守より先に言葉を発したのは元康であった。
「聞くところによれば織田軍は美濃へ出兵したそうではないか」
「はっ、そのようでございますが、それがどうかなされましたか」
「これが何を意味しておるのか、分からぬか」
戦場で行われる突然の問答。元康は一体何を想って織田軍の美濃攻めなど話題にしたのであろうか。本多肥後守はじっと考え込む素振りを見せる。
「織田の眼は三河でなく、美濃を向いているということでしょうか」
「そうじゃ。太守様亡き後の今川など、当面は水野だけで対処可能である。今川に属する松平など、水野で十分始末できると我らは見くびられておるのだぞ」
「むっ、そう言われれば……」
「ここで我らが退けば清洲の織田上総介信長はどう判断するぞ。危うい場面こそあったが、水野独力でも松平勢を退けられた。やはり松平は水野だけで制圧できそうじゃと、今撤退すればそれを裏付けることにもなりかねんではないか」
自分の仕える家が敵に侮られている。それほど強烈に猛将の心に火を点けるものはなかった。本多肥後守の瞳は先ほどまでとは打って変わって、闘志がみなぎっていた。
「良いか、まだわしの旗本らは温存されておる。これより、わし自ら馬を進め、敵陣へ斬り込む!さすればすでに疲弊している水野勢じゃ、たちまち総崩れとなろう。上首尾に水野下野守を討てたとあらば、跡を継いだ水野元茂如き相手にもならぬ。当家が水野を併呑することも夢ではなかろうが」
「殿の御考え、この肥後守はようやく理解でき申した。然らば、旗本衆に先駆けて今一度敵中へ飛び込み、もうひと踏ん張りしてみせまする!」
「よくぞ申した!者ども、これよりわし自ら敵中へ斬り込み、一気に大勢を決す!そこな本多肥後守に後れを取るでないぞ!元康直参の旗本衆が恐ろしさ、水野の奴らにとくと味わわせてやろうぞ!」
「「おうっ!」」
「よし、者共前進じゃ!かかれ!」
ついに元康の身を護るため、後方に控えていた旗本衆も前線へ繰り出した。すでにこれまでの戦闘による疲労が蓄積したところへ、元康の身を護る精鋭部隊ともいえる旗本衆が雪崩れ込んだことを受けて、たちまち水野勢は追い立てられることとなった。
そんな乱戦の中で奮戦する水野家臣・高木主水助清秀が前に槍を引っ提げて現れたのは、石川与七郎数正。
「某は水野下野守が家臣、高木主水助清秀と申す!馳せ来たる貴殿は何者ぞ!さぞかし名のある武士とお見受けした!」
「おう、石川与七郎数正じゃ!十二年前、小豆坂の合戦で高名した高木主水助とは貴殿がことであったか!いざ、槍合わせ願おう!」
「受けて立つ!かかって参られよ!」
かかってこいと言われたのにはムカッとした石川与七郎であったが、来いと言われて行かない手はない。一撃で仕留めんものと殺気を籠めた一突きを繰り出す。
されど、高木主水助とて名うての猛者。石川与七郎の突きを紙一重で避け、お返しとばかりに突きを返す。
高木主水助と石川与七郎による一騎打ちはしばらく続いたが、結果だけを見れば決着はつかず、言うなれば引き分けという形で終わった。
高木主水助にしてみれば『松平にはこれほどの猛者がおるのか』と感じ入り、石川与七郎にとっては『やはり小豆坂で高名した武士は手ごわい』と思い知らされ、両者ともに敵への認識を改めることとなったのである。
ともあれ、石ヶ瀬での合戦は元康率いる旗本衆が乱入したことがトドメとなり、水野下野守信元率いる水野勢は撤退する羽目になった。
「殿!敵を追われまするか!」
元康の側にあって水野兵を幾人も斬り伏せた若き豪傑・鳥居四郎左衛門忠広からそう言われると、元康は静かに首を横に振った。
味方を見回してみれば、勝利こそ収めたものの、味方の被害は甚大であり、勢いに任せての緒川城攻めは避けた方が良いと判断せざるを得ない状況であったのである。
「やむを得ぬ、ここは一度苅谷方面へ向かい、後詰めと合流することといたそう」
そう判断した元康の動きは迅速であった。泉田の地から重原城跡へ回り込み、援軍との合流を期したのである。
「殿、後詰め隊が先ほど合流いたしましたが、これよりいかがなさいますか」
「うむ、苅谷城へこれ見よがしに付城でも築こうと考えておる」
「ここから苅谷城は西へ一里ほど。付城を築くにはまたとない立地にございまする。されど、敵とて黙ってはおらぬかと」
「であろうな。じゃが、これが我が狙いじゃ。すでに日暮れでもある。夜襲してくるとは考えづらいが、明日の朝には仕掛けてくる可能性はあろう。連日の合戦ともなるが、皆にももうひと踏ん張りしてもらわねばならぬ。あとな、与七郎。大久保七郎左衛門らへわしからの命も伝えておいてくれい」
元康の言うように、水野下野守としても十分に兵を休めたいであろうから、今日合戦を仕掛けてくることはないと石川与七郎も重々承知している。だが、生来の慎重な気質もあって、夜討ちの警戒だけは怠らなかった。
そうして水野勢による夜襲は案の定行われず、再び三河の地は朝を迎える。
一方で、石川与七郎から元康の命を受けた大久保七郎左衛門忠勝ら後詰めがそそくさと重原城跡より姿を消していた。
昨夜のうちに緒川から苅谷へ移っていた水野下野守は松平勢が付城を築こうとしている動きを看過することなど断じてできなかった。
「ちっ、蔵人佐めが!力攻めでは落とせぬと判断し、順当に苅谷から兵糧攻めにしていくつもりか。さしずめ、いつぞやの大高城や鳴海城と同じ状況へ追い込みたいのであろうが、そうはさせぬ!浅井六之助は留守を守れ、藤十郎はわしと共に出陣じゃ!」
水野下野守は元康の推測通り、苅谷城に詰めていた兵と緒川より連れてきた手勢を合わせた千五百で苅谷城を出陣。再び松平勢と対峙する。
「昨日の合戦にて敵は疲労が蓄積しておろう!じゃが、当家の軍勢の大半は新手の苅谷勢じゃ!今日こそは蔵人佐に目にもの見せてくれるわ!」
陽が昇って早々に、水野下野守は異母弟・藤十郎を先鋒に松平勢へ猛攻を開始した。
「来たぞ!弓隊、構えっ!放て!」
高木長次郎広正の号令で松平勢から数多の弓矢が斉射され、後ろに控えていた大久保七郎右衛門忠世ら大久保党が向かってくる水野勢を血祭りにあげるべく前進し、白兵戦を展開していく。
はじめは水野勢の突撃を受けて浮足立つ松平勢であったが、元康が陣頭指揮を執り始めると持ち直し始め、突撃を良く防いでいた。
「殿、お味方苦戦の様子」
「うむ。さすがに昨日のこともある。一夜では疲労が回復してはおらぬゆえ、致し方あるまい。とにかく今は耐えよ。敵が疲れるのを待つのだ」
傍らに控える大久保左衛門次郎忠次と言葉をかわしながら、沈着冷静なまま合戦の成り行きを見る若大将・元康。
まだ爪を噛んでいないことから、これは想定通りなのだということが武闘派の大久保左衛門次郎にも容易に理解できた。それゆえに、冷静さを欠くことなく戦場へ赴くことができている。
「こちらの陣形は魚鱗。敵は見たところ、鋒矢の陣形か」
「ははは、まこと敵の勝利に対する執念が感じ取れる陣形にございまするな」
「まことじゃな。正面突破に適した陣形ではあるが、一ヵ所たりとも突破させなければ危うくなることはないゆえ、各隊には防御に徹するよう通達せよ」
両家の大将の心境が陣形にも良く表れている。それゆえに、元康は各隊に防御に徹して攻めてはならぬ、今は耐えよと指令を出し続けていた。
そのことに歯がゆい思いをしながらも、昨日の疲労が残る松平兵は体力を温存したまま攻撃に対処できる点では見事に自部隊の弱点を補った戦い方ともいえる。
一方で水野勢はといえば、一挙に敵陣を突き破ってしまおうと考えていたがために、突破できずに時間だけが過ぎていく状況によって士気の低下は免れなかった。
「ええい!先鋒部隊は何をしておるか!まだ敵前衛を崩せぬのか!」
「はっ、敵は魚鱗の陣を布き、堅く守りに徹しているらしく……」
「もう言わぬで良い!そなたは先鋒隊へ向かい、『何を手間取っておるか!早く突破せよ!』と伝えて参れ!」
「はっ、ははっ!」
伝令兵が慌ただしく水野下野守がもとより去っていった頃、元康の命を受けて南へ廻っていた別動隊はといえば。
大久保七郎左衛門忠勝、その従兄弟・阿部四郎兵衛忠政、村越平三郎に杉浦勝重といった若武者から、筧平三郎重忠や石川親綱といった老練な武士たちまで血に飢えた眼差しでじっと機会を窺っていた。
「鳥居四郎左衛門、殿の命を受けて参上!方々、手筈通りにお頼み申す!」
「四郎左衛門殿、殿に承知したとお伝えあれ。我らはこれよりただちに敵側面へ突撃を開始するとな!」
大久保七郎左衛門は鳥居四郎左衛門へ承知したと返答を告げると、嬉々とした表情で別動隊へ、突撃の号令を発したのである。
この時を待ちわびていた松平の新手がわあっと鬨の声を上げて縦に伸びた水野勢の中央へ容赦なく突っ込んだ。
「我こそは大久保新八郎忠俊が子、七郎左衛門忠勝であるぞ!水野下野守が首、頂戴しに参った!」
今年で三十七となり、八ツ下の従弟・七郎右衛門忠世や十三も齢が下の治右衛門忠佐らから慕われる兄貴分・大久保七郎左衛門は槍で敵を突き伏せながら、全体の士気を執ることも忘れず、見事に敵側面への突撃を成功させた。
「我は筧平三郎重忠!平安城長吉の刀が切れ味、とくと見よ!」
松平忠倫を暗殺した折に分捕った平安城長吉の刀の試し斬りでもするかのように近くの水野兵を討ち取って見せるも、群がる敵と戦う中で重傷を負ってしまう。
「平三郎殿!あまり調子に乗ってはなりませんぞ!」
「おう、石川親綱殿か!助かりましたぞ!」
「そうじゃ、阿部四郎兵衛や村越平三郎、杉浦勝重の姿が見当たらぬが平三郎殿は見かけなんだか」
「阿部四郎兵衛ならば水野下野守が首を獲ると息巻いて西へ、村越平三郎と杉浦勝重の両名は東へ走っていくのを見かけたが」
「ちっ、どいつもこいつも好き勝手暴れまわりよって」
「殿がおれば忠犬の如く動くであろうが、今は殿に褒めて貰いたい一心の忠犬ゆえ、誰にも止められまい」
筧平三郎重忠の絶妙な表現に舌打ちする石川親綱。だが、大久保七郎左衛門だけは着実に武功を重ねながら、元康の命を忠実に守って隊の士気を執ることを忘れていないのはせめてもの救いであった。
そんな手柄を欲する村越平三郎と杉浦勝重は良い兜首を求めて敵中を駆け回った中、一人の敵将と出会った。
「我こそは水野下野守が末弟、藤十郎であるぞ!松平の強者ども、我が槍の錆にしてくれるわ!」
「拙者、村越平三郎と申す!」
「某は杉浦大八郎五郎吉貞が子、杉浦勝重なり!いざ、尋常に勝負!」
水野藤十郎は名乗りを上げた村越平三郎と杉浦勝重の両名を交互に見やると、鼻で笑った。
「聞いたこともない雑魚が。まとめて相手してやるで、かかって参れ!」
その言葉に激高した村越平三郎が怒りを込めた一突きを見舞うが、それを易々と払った水野藤十郎が払った勢いで槍を回転させ、石突の部分で村越平三郎のみぞおちへめり込ませると、そのまま力を籠めて吹っ飛ばす。
代わって向かってきた杉浦勝重の槍による刺突を首を捻ってかわすと、かわしている間に石突と穂先の向きを入れ替えた槍でもって彼の胸板を刺し貫き絶命させる。
杉浦勝重の体を槍で貫いていることで隙だらけとなった水野藤十郎。それを見逃すことなく、村越平三郎が態勢を立て直して向かっていく。
それを視界の隅に捉えた水野藤十郎は槍を手放し、刀の抜き打ちざまに槍の穂先を斬り飛ばし、そのまま止まることができずに向かってきた村越平三郎の勢いを利用して、太刀を首の高さに合わせて待ってから首を刎ねてしまうのであった。
二対一という不利な状況にあっても、瞬く間に敵を屠った水野藤十郎の猛勇に恐れをなす松平兵をしり目に、前線の水野勢の指揮を執り、正面の元康本隊への攻勢を強めていくのであった。
「殿、此度の戦はこれまで。一度兵を退き、後日の再戦を期すべきかと存じます」
「ならぬ。ここで退くことなどあってはならぬ」
「さ、されど……!」
撤退を進言する本多肥後守に対し、冷たく撤退することを拒絶する元康。そんな主君に何とか撤退を決断させようとする本多肥後守より先に言葉を発したのは元康であった。
「聞くところによれば織田軍は美濃へ出兵したそうではないか」
「はっ、そのようでございますが、それがどうかなされましたか」
「これが何を意味しておるのか、分からぬか」
戦場で行われる突然の問答。元康は一体何を想って織田軍の美濃攻めなど話題にしたのであろうか。本多肥後守はじっと考え込む素振りを見せる。
「織田の眼は三河でなく、美濃を向いているということでしょうか」
「そうじゃ。太守様亡き後の今川など、当面は水野だけで対処可能である。今川に属する松平など、水野で十分始末できると我らは見くびられておるのだぞ」
「むっ、そう言われれば……」
「ここで我らが退けば清洲の織田上総介信長はどう判断するぞ。危うい場面こそあったが、水野独力でも松平勢を退けられた。やはり松平は水野だけで制圧できそうじゃと、今撤退すればそれを裏付けることにもなりかねんではないか」
自分の仕える家が敵に侮られている。それほど強烈に猛将の心に火を点けるものはなかった。本多肥後守の瞳は先ほどまでとは打って変わって、闘志がみなぎっていた。
「良いか、まだわしの旗本らは温存されておる。これより、わし自ら馬を進め、敵陣へ斬り込む!さすればすでに疲弊している水野勢じゃ、たちまち総崩れとなろう。上首尾に水野下野守を討てたとあらば、跡を継いだ水野元茂如き相手にもならぬ。当家が水野を併呑することも夢ではなかろうが」
「殿の御考え、この肥後守はようやく理解でき申した。然らば、旗本衆に先駆けて今一度敵中へ飛び込み、もうひと踏ん張りしてみせまする!」
「よくぞ申した!者ども、これよりわし自ら敵中へ斬り込み、一気に大勢を決す!そこな本多肥後守に後れを取るでないぞ!元康直参の旗本衆が恐ろしさ、水野の奴らにとくと味わわせてやろうぞ!」
「「おうっ!」」
「よし、者共前進じゃ!かかれ!」
ついに元康の身を護るため、後方に控えていた旗本衆も前線へ繰り出した。すでにこれまでの戦闘による疲労が蓄積したところへ、元康の身を護る精鋭部隊ともいえる旗本衆が雪崩れ込んだことを受けて、たちまち水野勢は追い立てられることとなった。
そんな乱戦の中で奮戦する水野家臣・高木主水助清秀が前に槍を引っ提げて現れたのは、石川与七郎数正。
「某は水野下野守が家臣、高木主水助清秀と申す!馳せ来たる貴殿は何者ぞ!さぞかし名のある武士とお見受けした!」
「おう、石川与七郎数正じゃ!十二年前、小豆坂の合戦で高名した高木主水助とは貴殿がことであったか!いざ、槍合わせ願おう!」
「受けて立つ!かかって参られよ!」
かかってこいと言われたのにはムカッとした石川与七郎であったが、来いと言われて行かない手はない。一撃で仕留めんものと殺気を籠めた一突きを繰り出す。
されど、高木主水助とて名うての猛者。石川与七郎の突きを紙一重で避け、お返しとばかりに突きを返す。
高木主水助と石川与七郎による一騎打ちはしばらく続いたが、結果だけを見れば決着はつかず、言うなれば引き分けという形で終わった。
高木主水助にしてみれば『松平にはこれほどの猛者がおるのか』と感じ入り、石川与七郎にとっては『やはり小豆坂で高名した武士は手ごわい』と思い知らされ、両者ともに敵への認識を改めることとなったのである。
ともあれ、石ヶ瀬での合戦は元康率いる旗本衆が乱入したことがトドメとなり、水野下野守信元率いる水野勢は撤退する羽目になった。
「殿!敵を追われまするか!」
元康の側にあって水野兵を幾人も斬り伏せた若き豪傑・鳥居四郎左衛門忠広からそう言われると、元康は静かに首を横に振った。
味方を見回してみれば、勝利こそ収めたものの、味方の被害は甚大であり、勢いに任せての緒川城攻めは避けた方が良いと判断せざるを得ない状況であったのである。
「やむを得ぬ、ここは一度苅谷方面へ向かい、後詰めと合流することといたそう」
そう判断した元康の動きは迅速であった。泉田の地から重原城跡へ回り込み、援軍との合流を期したのである。
「殿、後詰め隊が先ほど合流いたしましたが、これよりいかがなさいますか」
「うむ、苅谷城へこれ見よがしに付城でも築こうと考えておる」
「ここから苅谷城は西へ一里ほど。付城を築くにはまたとない立地にございまする。されど、敵とて黙ってはおらぬかと」
「であろうな。じゃが、これが我が狙いじゃ。すでに日暮れでもある。夜襲してくるとは考えづらいが、明日の朝には仕掛けてくる可能性はあろう。連日の合戦ともなるが、皆にももうひと踏ん張りしてもらわねばならぬ。あとな、与七郎。大久保七郎左衛門らへわしからの命も伝えておいてくれい」
元康の言うように、水野下野守としても十分に兵を休めたいであろうから、今日合戦を仕掛けてくることはないと石川与七郎も重々承知している。だが、生来の慎重な気質もあって、夜討ちの警戒だけは怠らなかった。
そうして水野勢による夜襲は案の定行われず、再び三河の地は朝を迎える。
一方で、石川与七郎から元康の命を受けた大久保七郎左衛門忠勝ら後詰めがそそくさと重原城跡より姿を消していた。
昨夜のうちに緒川から苅谷へ移っていた水野下野守は松平勢が付城を築こうとしている動きを看過することなど断じてできなかった。
「ちっ、蔵人佐めが!力攻めでは落とせぬと判断し、順当に苅谷から兵糧攻めにしていくつもりか。さしずめ、いつぞやの大高城や鳴海城と同じ状況へ追い込みたいのであろうが、そうはさせぬ!浅井六之助は留守を守れ、藤十郎はわしと共に出陣じゃ!」
水野下野守は元康の推測通り、苅谷城に詰めていた兵と緒川より連れてきた手勢を合わせた千五百で苅谷城を出陣。再び松平勢と対峙する。
「昨日の合戦にて敵は疲労が蓄積しておろう!じゃが、当家の軍勢の大半は新手の苅谷勢じゃ!今日こそは蔵人佐に目にもの見せてくれるわ!」
陽が昇って早々に、水野下野守は異母弟・藤十郎を先鋒に松平勢へ猛攻を開始した。
「来たぞ!弓隊、構えっ!放て!」
高木長次郎広正の号令で松平勢から数多の弓矢が斉射され、後ろに控えていた大久保七郎右衛門忠世ら大久保党が向かってくる水野勢を血祭りにあげるべく前進し、白兵戦を展開していく。
はじめは水野勢の突撃を受けて浮足立つ松平勢であったが、元康が陣頭指揮を執り始めると持ち直し始め、突撃を良く防いでいた。
「殿、お味方苦戦の様子」
「うむ。さすがに昨日のこともある。一夜では疲労が回復してはおらぬゆえ、致し方あるまい。とにかく今は耐えよ。敵が疲れるのを待つのだ」
傍らに控える大久保左衛門次郎忠次と言葉をかわしながら、沈着冷静なまま合戦の成り行きを見る若大将・元康。
まだ爪を噛んでいないことから、これは想定通りなのだということが武闘派の大久保左衛門次郎にも容易に理解できた。それゆえに、冷静さを欠くことなく戦場へ赴くことができている。
「こちらの陣形は魚鱗。敵は見たところ、鋒矢の陣形か」
「ははは、まこと敵の勝利に対する執念が感じ取れる陣形にございまするな」
「まことじゃな。正面突破に適した陣形ではあるが、一ヵ所たりとも突破させなければ危うくなることはないゆえ、各隊には防御に徹するよう通達せよ」
両家の大将の心境が陣形にも良く表れている。それゆえに、元康は各隊に防御に徹して攻めてはならぬ、今は耐えよと指令を出し続けていた。
そのことに歯がゆい思いをしながらも、昨日の疲労が残る松平兵は体力を温存したまま攻撃に対処できる点では見事に自部隊の弱点を補った戦い方ともいえる。
一方で水野勢はといえば、一挙に敵陣を突き破ってしまおうと考えていたがために、突破できずに時間だけが過ぎていく状況によって士気の低下は免れなかった。
「ええい!先鋒部隊は何をしておるか!まだ敵前衛を崩せぬのか!」
「はっ、敵は魚鱗の陣を布き、堅く守りに徹しているらしく……」
「もう言わぬで良い!そなたは先鋒隊へ向かい、『何を手間取っておるか!早く突破せよ!』と伝えて参れ!」
「はっ、ははっ!」
伝令兵が慌ただしく水野下野守がもとより去っていった頃、元康の命を受けて南へ廻っていた別動隊はといえば。
大久保七郎左衛門忠勝、その従兄弟・阿部四郎兵衛忠政、村越平三郎に杉浦勝重といった若武者から、筧平三郎重忠や石川親綱といった老練な武士たちまで血に飢えた眼差しでじっと機会を窺っていた。
「鳥居四郎左衛門、殿の命を受けて参上!方々、手筈通りにお頼み申す!」
「四郎左衛門殿、殿に承知したとお伝えあれ。我らはこれよりただちに敵側面へ突撃を開始するとな!」
大久保七郎左衛門は鳥居四郎左衛門へ承知したと返答を告げると、嬉々とした表情で別動隊へ、突撃の号令を発したのである。
この時を待ちわびていた松平の新手がわあっと鬨の声を上げて縦に伸びた水野勢の中央へ容赦なく突っ込んだ。
「我こそは大久保新八郎忠俊が子、七郎左衛門忠勝であるぞ!水野下野守が首、頂戴しに参った!」
今年で三十七となり、八ツ下の従弟・七郎右衛門忠世や十三も齢が下の治右衛門忠佐らから慕われる兄貴分・大久保七郎左衛門は槍で敵を突き伏せながら、全体の士気を執ることも忘れず、見事に敵側面への突撃を成功させた。
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「ちっ、どいつもこいつも好き勝手暴れまわりよって」
「殿がおれば忠犬の如く動くであろうが、今は殿に褒めて貰いたい一心の忠犬ゆえ、誰にも止められまい」
筧平三郎重忠の絶妙な表現に舌打ちする石川親綱。だが、大久保七郎左衛門だけは着実に武功を重ねながら、元康の命を忠実に守って隊の士気を執ることを忘れていないのはせめてもの救いであった。
そんな手柄を欲する村越平三郎と杉浦勝重は良い兜首を求めて敵中を駆け回った中、一人の敵将と出会った。
「我こそは水野下野守が末弟、藤十郎であるぞ!松平の強者ども、我が槍の錆にしてくれるわ!」
「拙者、村越平三郎と申す!」
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水野藤十郎は名乗りを上げた村越平三郎と杉浦勝重の両名を交互に見やると、鼻で笑った。
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その言葉に激高した村越平三郎が怒りを込めた一突きを見舞うが、それを易々と払った水野藤十郎が払った勢いで槍を回転させ、石突の部分で村越平三郎のみぞおちへめり込ませると、そのまま力を籠めて吹っ飛ばす。
代わって向かってきた杉浦勝重の槍による刺突を首を捻ってかわすと、かわしている間に石突と穂先の向きを入れ替えた槍でもって彼の胸板を刺し貫き絶命させる。
杉浦勝重の体を槍で貫いていることで隙だらけとなった水野藤十郎。それを見逃すことなく、村越平三郎が態勢を立て直して向かっていく。
それを視界の隅に捉えた水野藤十郎は槍を手放し、刀の抜き打ちざまに槍の穂先を斬り飛ばし、そのまま止まることができずに向かってきた村越平三郎の勢いを利用して、太刀を首の高さに合わせて待ってから首を刎ねてしまうのであった。
二対一という不利な状況にあっても、瞬く間に敵を屠った水野藤十郎の猛勇に恐れをなす松平兵をしり目に、前線の水野勢の指揮を執り、正面の元康本隊への攻勢を強めていくのであった。
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HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
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対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
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