不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第146話 風に順いて呼ぶ

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 鵜殿藤太郎長照が守備する上之郷城が元康たち松平方によって制圧された永禄五年二月。それから数日が経過した頃、菅沼新八郎定盈が動いた。

「よし、まずは当家領の富永城を奪い返してやろうぞ!者共、我に続けっ!」

 秘かに野田領へ舞い戻っていた菅沼新八郎は領内に散らばっていた家臣たちを招集し、富永城を急襲。不意を突かれた今川方はまともな抵抗をすることも叶わず、城はものの見事に菅沼新八郎の手に落ち、城へは丸に釘抜き紋の旗が掲げられたのである。

 そんな野田領の富永城にて異変が起こった頃。時を同じくして、八名郡の西郷領においても丸に一枚鷹の羽の旗と丸に三つ葉葵の旗を掲げる軍勢が豊川以東に出現したのであった。

 思いがけず、松平勢と西郷勢が五本松城を目指して進軍していることに相違ないと判断した宇津山城主・朝比奈紀伊守泰長は手勢を率いて五本松城を出陣。昨年討ち損じた西郷孫九郎を討ち取ることができれば、禍根を断つことに繋がると考えての出陣であった。

「植村出羽守殿。敵はあの朝比奈紀伊守。そう易々と勝てるでありましょうか」

「西郷孫九郎殿。あの時は堀江城の大澤勢がおりましたが、此度は朝比奈勢のみ。ここで臆して機を損じては所領の奪還はなりませぬぞ!」

「いや、植村出羽守殿が申される通りじゃ!ここで臆してはなりませぬな!何より、朝比奈紀伊守は父や兄の仇の片割れ!むしろ、ここで討ち果たし、父祖の墓前に供えてやりとうございます!」

「その意気じゃ!本多百助殿、鳥居四郎左衛門殿は弓隊が射かけた直後、間髪入れずに突撃してくだされ!」

 西郷孫九郎を激励した植村出羽守栄政は、彼の心意気に応えてみせんと豪勇で名を馳せる本多百助信俊と鳥居四郎左衛門忠広の両名へ的確に指示を出し、弓隊にも接敵したならば射かけるよう指示を出していく。

 そうして勝山周辺にて、松平・西郷連合軍と今川方の朝比奈勢との戦いの火ぶたが切って落とされる。

「今じゃ、放てっ!」

 先に射かけたのは松平・西郷連合軍であった。植村出羽守の号令で矢が放たれると、朝比奈勢の先陣は矢を受けて倒れる者が続出する。さりとて、百戦錬磨の朝比奈紀伊守。すぐにも態勢を立て直し、矢を射かけて反撃していく。

「よし、敵先陣が崩れた!今が好機ぞ!松平や西郷の奴らなど、悉く討ち取ってしまえ!」

 植村出羽守の号令で前に出た松平勢が矢を受けて倒れるのを確認すると、朝比奈紀伊守は騎馬隊にも槍隊にも前進を指示。たちまち、白兵戦へと発展していく。

「怯むな!押し戻せっ!」

 返り血を浴びながら自ら前線で太刀打ちして兵士らを鼓舞する本多百助の雄姿に松平勢は士気を盛り返し、精強な朝比奈勢へ立ち向かっていく。

「おう、さすがは本多百助殿じゃ!負けてはおれぬ!」

 鳥居彦右衛門尉元忠の弟・鳥居四郎左衛門忠広もまた、少し離れたところで奮戦する味方にあてられて新たに湧き上がる闘志を胸に槍を振るって敵兵を一人、また一人と突き伏せていく。

 そんな松平勢の猛反撃に後れを取るまいと西郷孫九郎ら西郷勢も攻勢へ転じ、朝比奈勢の陣形は崩れ始める。

「朝比奈様!第一陣が破られ、第二陣も苦戦しておる様子!」

「くっ、ここは一度賀茂まで退く!そこでもうひと合戦じゃ!」

 形勢不利と判断した朝比奈紀伊守の決断は実に迅速なものであった。たちまち、兵士らに後退することを伝達すると、付け入る隙のない動きで後退していく。

 そうして勝山周辺での合戦は松平・西郷連合軍の勝利という形となり、勝ち鬨が挙がる。

 しかし、北へと後退した朝比奈紀伊守らが五本松城へは行かせまいと賀茂の地へと布陣したことを聞くや、植村出羽守は西郷孫九郎と協議のうえで再び合戦を仕掛けるべく前進を決断。

 かくして、勝山に続き、同郡加茂の地において、朝比奈勢と松平・西郷連合軍は再度激突したのである。

「西郷孫九郎殿は西郷勢を率いて五本松城へ向かってくだされ。ここは我らが引き受けまするゆえ」

「さ、されど、朝比奈勢は追撃して来ようかと」

「そうさせるための陽動をお頼みしたい。朝比奈勢が寄せて来たならば、ただちに反転してこれを迎撃していただきたい」

「うむ、承知いたしましたぞ!さすがは植村出羽守殿じゃ!然らば、陽動の方はお任せくだされ!」

 兵数では松平勢に劣る西郷勢は戦線を離れて、朝比奈勢を無視するかのように五本松城方面へと移動を開始していく。その間、植村出羽守は本多百助と鳥居四郎左衛門へ遮二無二朝比奈勢へ斬り込むよう依頼したのである。

 まるで西郷勢が五本松城へ向かう間、朝比奈勢の眼を釘付けにしようという魂胆が透けて見える松平勢の激しい突撃に、朝比奈紀伊守が勘付かないはずがなかった。

「ははは、松平勢が我らを引き付け、その間に手薄となった五本松城を西郷勢が奪い返すという魂胆なのであろう。そのような見え透いた策が通じると思われたとは、この朝比奈紀伊守も侮られたものよ」

「いかがなされまするか」

「ここの守備はわしがおらずとも良かろう。槍衾を布き、弓隊をその後ろから援護させる形で十分凌げよう。西郷勢はわし自らが騎馬隊を率いて追撃にあたる。馬曳けっ!」

 朝比奈紀伊守は騎乗すると、愛用の長槍を受け取り、一鞭くれて自ら追撃にあたる。騎兵がその後にぞろぞろと続くのを見送ると、残された家臣たちは声を枯らして指揮を執り、松平勢の突撃を受け止め続ける。

 顧みて、己の指示通りに家臣らが松平勢の攻撃を食い止めているのを確認した朝比奈紀伊守からは勝利を確信し、笑みがこぼれる。

 何せ、接近に気づいて慌てて陣形を整える西郷勢が目と鼻の先にいるのだ。このまま朝比奈紀伊守率いる騎馬隊が突っ込めば、西郷勢はたちまち壊滅となろう。そう思ってほくそ笑んでいると、松平勢のいる方角から幾十にも重なった銃声が轟く。

「なにっ!?」

 先ほどの合戦で用いられることのなかった火縄銃の音がする。使うまもなく白兵戦となったことも理由の一つであったが、よもやここで発砲に及ぶとは予想だにしていない事態であった。

 一度目の射撃ですでに朝比奈勢の騎馬隊からは側面からの発砲を受けて落馬した者が数名出ていた。さては、こうして朝比奈勢が西郷勢を狙って隊を分けると読んで、松平勢は鉄炮隊を伏せていた可能性が高い。

「者ども、このまま駆け抜けよ!」

 そう叫んだ次の瞬間、朝比奈紀伊守の耳へ轟音が突入してきたことを認識したと同時に、右大腿部が焼かれたように熱を帯びる。

 まさかと思い、視線を自らの右大腿部へ移すと、鎧を貫通したのか赤い水滴が溢れ出している。指揮を執ろうにも、自らが被弾したこともあって迅速な判断を下すことが困難となる。

 そこへ容赦なく三度目となる一斉射撃が行われ、バタバタと味方が撃たれ、朝比奈紀伊守も右前腕部と兜の右側面へ新たに弾丸を受けて槍を取り落として落馬する。兜に弾丸が命中した衝撃で気を失ってしまったものであった。

 そんな緊急事態を受けて、周囲の朝比奈勢は狼狽する。その狼狽は松平勢の突撃を受け止めていた朝比奈勢にも伝播し、大将である朝比奈紀伊守を救出して本領・遠江宇津山城へ帰還せんと退却を開始していく。

 崩れ立った朝比奈勢へ追い討ちしようとする鳥居四郎左衛門や本多百助を諫め、植村出羽守は西郷孫九郎と合流。

 間髪入れず五本松城へ攻め寄せ、城兵の逃げ去った城など半刻と持ちこたえられず奪取することに成功し、そのままの勢いで西郷孫九郎は松平勢の援軍とともに月ヶ谷城をはじめとする西郷領の大半を回復することに成功したのである。

「西郷孫九郎殿。旧領奪還、まことお見事にござった」

「いやいや、植村出羽守殿こそ、鉄炮隊を伏せておき、我らを追う朝比奈勢へ発砲なさったのは見事にございました!なんでもその銃弾を浴びた者の中には、大将の朝比奈紀伊守もおったとか」

「某も鉄炮隊を指揮していた者から聞き、驚き申した。よもや大将に傷を負わせられるとは思っておりませなんだ。何はともあれ、これにて八名郡の西郷領は奪還が成せました。これよりは西郷孫九郎殿が西郷領を治めてくだされ」

「植村出羽守殿!その儀はしばらく!」

 奪還に成功した西郷領はそのままそっくり西郷孫九郎に与えるという主君・元康の意向に沿った発言をした家老・植村出羽守であったが、よもやそれを西郷孫九郎当人から制されるとは思いも寄らぬことであった。

「西郷領は西郷孫九郎殿にと、これは我が主が仰せになられたこと」

「それは重々承知しておりまする。されど、某ではなく、兄の孫六郎元正が遺児である孫太郎こそが嫡流にございますゆえ、某が西郷領を継承するなど恐れ多きこと。某は孫太郎が成人するまでの陣代としていただきたいのです。このこと、岡崎へ戻られましたら、蔵人佐殿へお伝えくだされ」

 その後も植村出羽守は西郷孫九郎に西郷領を継承することを薦めたが、西郷孫九郎は固辞して、ついに首を縦に振ることはなかった。

 ここまで頑なに断られては、植村出羽守としても説得のしようがなく、ひとまず元康の指示を仰ぐこととし、松平勢の援軍は撤収の支度へ移っていったのである。

 そんな野田菅沼領と八名郡の西郷領で起こった異変は駿府へ注進されたことは言うまでもなく、先般の上之郷城落城も相まって、元康方の東三河入りを許したことに氏真は激怒せざるを得なかった。

「おのれ、蔵人佐!上之郷城を攻め落とし、鵜殿藤太郎を戦死させるに飽き足らず、野田菅沼領と西郷領奪還に動いてきおった!」

 吉田城の大原肥前守資良より届けられた異変を報じる文書に目を通した今川上総介氏真は激怒し、傍らで控える三浦備後守正俊や関口刑部少輔氏純の面前へ書状を叩きつけた。

 氏真が投げ捨てた書状を慌てて拾い上げる三浦備後守には動揺の色が見え、関口刑部少輔は諦観の表情を浮かべていた。

「なんと!宇津山城主の朝比奈紀伊守殿が敵の銃弾を受けて、重傷とありまするぞ!」

「そうじゃ!鵜殿藤太郎の戦死に続けてのことゆえ、東三河の者らは周章狼狽しておるとのことじゃ!」

 あらゆる激情を抑えきれず肩を震わせる氏真。そんな若き今川家の当主を前に、三浦備後守は懐紙を取り出して頬を伝う冷や汗を拭っていく。

「遠江の天野家も御屋形様が知行・代官職を安堵なされた天野宮内右衛門尉景貫と、惣領家である天野景泰と天野元景の父子は以前所領をめぐって不仲とのこと。遠江国衆らも一枚岩でない以上、東三河で松平方をこれ以上のさばらせては遠州へ飛び火する恐れも出て参りましょう」

「三浦備後守の申す通りじゃ。ゆえに、まずは野田領の富永城じゃ。ここを潰せば、西郷領を孤立させられよう」

「なるほど、然らば吉田城代の大原肥前守殿を大将として攻めさせまするか」

「いや、その倅の三浦右衛門大夫真明を大将とさせるつもりでおる。予が偏諱した者を大将とすることで、予の怒りを三河の者共へ見せつけるのじゃ」

「なるほど、さすがは御屋形様。では、その旨を吉田城代の大原肥前守殿へ某から取り次いでおきまする!」

「そういたせ。加えて、落とした後の富永城には牛久保城の牧野民部丞成定を在番させることも命じておくように」

 氏真直々の命を受けた三浦備後守は深く一礼し、命じられたことの手配を済ませるべく、速やかに動き始める。

 そうして三浦備後守が吉田城代・大原肥前守へ氏真からの命を伝える文書をしたためる間、関口刑部少輔へと氏真の口舌の矛先が向けられていく。

「関口刑部少輔。そなたの娘婿の所業、そなたはいかが思うぞ」

「不届き至極、であるかと」

「であろう。この分では元康を下した後に竹千代を擁立して、新たに松平宗家を束ねさせるという考えを予は改めねばならぬ」

 それまで何もかも諦めたかのように、死んだ魚のような眼をしていた関口刑部少輔の瞳に、竹千代の名が出ると生気が蘇る。

「よもや、竹千代を処断なされるおつもりで!」

「駿府におる松平重臣の家族もじゃ。そなたが『交渉の材料となるうえ、竹千代を当主としたときに遺恨の残らぬように生かしておくように』と申しておったが、もはや生かしておく必要もなかろう。近日中に処刑することを決めたゆえ、そなたはいつ予からの命があっても良いよう、支度をしておくように」

 ――このままでは竹千代が処刑されてしまう。

 元康が離反してより約一年利用価値があると説いて懸命に庇ってきた初孫たちが処刑されようとしている。

 焦りを覚える関口刑部少輔の耳に、氏真の奉公衆から驚くべき内容が取り次がれる。

 ――松平蔵人佐が家老・石川与七郎数正なる者がお目通りを願っておりまする、と。
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