不屈の葵

ヌマサン

文字の大きさ
147 / 228
第4章 苦海の章

第147話 揚げ雲雀

しおりを挟む
 どこか冬の名残を残した冷たい空気とともに、穏やかで柔らかな日差しに包まれる永禄五年三月。冬うららという言葉そのものの気候の中、駿府館を訪ねてきたのは元康重臣・石川与七郎数正その人であった。

 落ち着いた雰囲気も相まって、年齢以上に見られがちな石川与七郎が館の奉公衆に案内されて通された大広間には、今川家当主・今川上総介氏真が駿河・遠江・三河の太守たる風格を備えて座している。

 その傍らには、石川与七郎にも親しみのある関口刑部少輔氏純が二年前よりも遥かにやつれた面持ちで正座していた。

「おのれ、元康の家臣ずれが今さら何用ぞ。よもや、京におわす公方様のご意向を受けて和議を結ぼうというのではなかろうな」

「はい。そのようなこと、我が主元康は考えておりませぬ。こうしている間にも、当家は戦の支度を進めておりまするゆえ」

「よくもまあ、ぬけぬけと予の前でそのようなことを申せたものぞ」

 先ほどまで関口刑部少輔を詰っていた氏真であったが、石川与七郎からの口上を聞くうちに怒りを通り越して冷静な心持ちで話を聞く気になっている。

「此度、某が駿府へ参りましたは、未だ駿府へ留め置かれております竹千代を返していただくため。それについての主命を帯びて参上いたした者にございます」

 敵地の只中へ一人乗り込んできた人間とは思えぬ石川与七郎の肝の据わった受け答えを、氏真はじっと見つめている。

 駿府にいる折から竹千代の側近として方々で活躍し、交渉事を任されてきた人物を派遣してきたのには、元康にもそれ相応の考えがあるのだということを察しているがゆえのことであった。

「なるほど、蔵人佐は竹千代を返して欲しいと、かように申したのだな」

「いかにも。今日まで竹千代を生かしたは駿河の御屋形様の深謀遠慮あってのこと、とかように申してございました」

「ほう、そのように申しておったか」

「はい。されど、ただ返して欲しいと希うのは当家に利があっても、今川家には利はない。ゆえに、提案いたしたきことがございます」

 ――これが本題。

 そのことは氏真はもちろんのこと、傍らで石川与七郎の言い分に耳を傾ける関口刑部少輔にも容易に察知できる言い方であった。なにせ、これまでの言葉と語気がまるで違うのだから。

「提案か。よかろう、申してみよ」

「はっ。然らば、言上仕ります。先の上之郷城攻めにおいて生け捕ったる鵜殿藤太郎長照が二子、鵜殿新七郎氏長と鵜殿藤三郎氏次の両名をお返しする代わりに、竹千代を岡崎へ引き取りたいというのが我が主よりの提案にございます」

「つまるところ、人質交換をしようというわけじゃな」

 氏真に言葉に対し、石川与七郎は無言で肯定した。そんな石川与七郎にとって、最も意外であったのは、桶狭間合戦までは頼りにするところの多かった関口刑部少輔へ何を計ることもせず、己の力で判断し、交渉を進めてきている点。

 これを今川氏真という人物の成長と見るべきなのか、それとも関口刑部少輔の今川家内での発言力が低下して意見を求められることすら無くなったと見るべきか、石川与七郎は判断しかねた。

 しかし、交渉自体は上手く進められている。関口刑部少輔は目を閉じながら口元に少しばかり笑みが見え、氏真としても考える素振りをしているが、姿勢が対面した時よりも前のめりになってきているのだから。

「石川与七郎。二人と一人を替えるというならば、予も応じる。そう思っての交渉であったろう」

「それは申し上げられませぬ」

「ふっ、隠さずともよい。たとえ、ここで竹千代を返すとしても、松平重臣よりの人質はまだ残っておるゆえな」

 氏真の言葉に石川与七郎は唇を噛んだ。ここで竹千代を助けられたとしても、松平重臣よりの人質のすべてを助けることなど、到底できない。すべてを替えさせるためには、一体何度人質交換をせねばならぬのか。考えるだけでも気が遠くなりそうであった。

 それだけに、次に氏真が放った言葉は石川与七郎にとって、頭部を思い切り殴りつけられるほどの衝撃が伴うものであった。

「蔵人佐が嫡男竹千代も松平重臣よりの人質もすべて返して遣わす」

「なっ!今、なんと仰せに……!?」

「駿府に留め置いてある人質はすべて返そう。予はそう申しておる」

「何故、そのような割りに合わぬことを……!?」

 上之郷鵜殿氏の嫡流の男子二人と松平宗家の嫡男を取り換えられれば良い。そう思っていたが、松平重臣の人質すべても返却となると、思わず石川与七郎も問い返さずにはいられなかった。

「早一年が経とうとしておるが、駿府の人質では蔵人佐の逆心を止めるには至らなかった。つまり、予が身柄を預かる価値のない人質ということじゃ。そして、この人質の命を秤にかけてなお、戦い続けておるということは蔵人佐が予のもとへ戻る気がないことは明らか。ならば、人質もすべて返したうえで、予自らの手で蔵人佐を屈服させてみせよう。人質を取って勝ったとしても、予は人質を得ていなければ国衆の一つも従えられぬ弱き国主だとそしりを受けよう」

「それゆえに、当家よりの人質は皆返すと仰られたのですか」

「そうじゃ。何ら効力を発揮しない人質を手元で養うなど、当家にとって損失でしかない。そのような役に立たぬ人質よりも、鵜殿藤太郎が子らの方が役に立とう」

 人質すべての解放という大盤振る舞い。石川与七郎はどんな顔で言葉を述べればよいか、まったくもって思いつかなかった。それは、関口刑部少輔としても驚くべき裁断であったことから、関口刑部少輔までもが瞳を丸めている。

「実はな、そなたが来るまで予は竹千代を処刑するつもりであった。蔵人佐の翻意を促すことにも繋がるであろうし、親類衆の地を引く松平宗家当主ともなる子であると思うてな。じゃが、予の思い通りに蔵人佐が復してくることは一向にない。もはや使い道のない童を養うくらいならば処刑し、予の怒りを蔵人佐へぶつけて憂さ晴らしをしようという短慮に支配されてしもうた」

 それが先ほどまでの関口刑部少輔を詰った本心であった。それを知り、関口刑部少輔は涙した。氏真とてこれまで堪忍に堪忍を重ねてきたのが、悲しげな表情が、今にも泣きだしそうな声が訴えているのである。

「よいか、石川与七郎」

「はっ、ははっ!」

「予は今でも蔵人佐のことを憎めぬ。幼少の頃より、弟とも想うて共に育ってきたからの。竹千代もまた、予にとっては甥のようなものじゃ」

 氏真の語り掛けるような口調に、石川与七郎も返す言葉に詰まった。理詰めで切り返すことの方が楽にできたであろうに、こうして情に訴えられては理詰めという白刃を抜刀することなどできようはずもない。

「石川与七郎。そなた、立ち戻って主に伝えよ」

「はいっ!」

「予はそなたを憎みきれぬし、長尾弾正少弼景虎が関東へ攻め込んだ折は弟とも想うておるそなたよりも東への対処を優先した。あの折の判断を間違ったと思うてはおらぬが、こうして援軍なき戦いを続けたそなたが当家を離反し、戦うことになったのはすべて我が身の不徳の致すところである。ゆえに、全力で向かって参れと!予もまた全力で迎え撃とう!そうして再びそなたを従え、父の悲願であった尾張制圧までも成して見せるとな!」

「しかと、しかと承りました!そのお言葉、立ち戻って我が主へそのままお伝えいたしまする!」

 かくして竹千代と鵜殿新七郎氏長・藤三郎氏次兄弟の人質交換は無事に成せた。氏真より許諾を得たうえで少将の宮町にある松平家の屋敷へ数年ぶりに足を踏み入れた石川与七郎は、念願の竹千代との再会を果たした。

「竹千代様!」

 屋敷の者たちに連れられて姿を現した竹千代は最後に会った時からは想像もつかないほど安定した歩き方ができるようになっていた。

「これは立派になられて――」

 竹千代の姿を見た石川与七郎は号泣する。戦場では勇ましく槍を振るい、交渉の場ではどっしりと構えて臨む肝の据わった齢三十の立派な武士が、目から大粒の涙をこぼしながら、おいおいと泣いているのである。

「いかがした?いたむのか?」

 涙で視界がぼやける石川与七郎の顔を覗き込んだのは、他でもない竹千代であった。どうやら目の前で泣いている石川与七郎を見て、どこか怪我でもしているのではないかと思ったようである。

「お気遣いいただきありがとうございます。されど、ほれ、この通り怪我などしておりませぬゆえ、ご心配なく」

「そうか。ならば、なにゆえないておるのだ」

「ははは、これはお恥ずかしいところを見られてしまいましたな」

「なくのははずべきことではないぞ。この竹千代もよくなくゆえな」

 そう言って無邪気に笑う竹千代の姿に、石川与七郎は駿府までやって来て良かったと心から思えた。

 そんな石川与七郎は屋敷の者たちに氏真から三河へ帰ることの許しが出たことを伝え、帰国の支度に取り掛かるよう依頼した。

 よもや自分たちまで帰れると思っていた屋敷の者たちは泣きながら帰国準備へ取りかかっていく。

 一晩明けて、明朝卯の刻。石川与七郎は主君の大切な嫡男・竹千代をしっかと抱きしめ、駿府に留まっていた重臣の人質らとともに東海道を西へと進んだ。道中は氏真より『手を出すな』との厳命が行き届いていたこともあり、さしたる揉め事もなく、遠州を抜けて東三河まで到達。

 軍勢を率いて越えようと思えば大変な困難である豊川の渡河を無事に終えた頃、吉田城の方面から百に満たない軽装の一団が追いついてきたのである。

「石川様!お待ちくだされ!伴与七郎資定にござる!」

「おお、伴氏一党であったか。そなたら、何故ここに」

 石川与七郎一行を見つけて駆けつけてきたのは、先月の上之郷城攻めにおいて火計の一役を担った伴氏一党であった。

 石川与七郎は己よりも一つ年上で共に『与七郎』と呼ばれる伴与七郎に対して、妙な親近感を抱き、松平家中の中でもひときわ好意的に伴氏一党に接していた。

「我らは石川様が竹千代君を連れて戻ることが今川家の使者より岡崎の殿へ伝えられると、捕虜としていた鵜殿新七郎氏長と鵜殿藤三郎氏次の兄弟を吉田城まで護送する役目を請け負ったのでございます」

「なるほど、そうであったか。それは大変な役目であったろう」

「なんのなんの。我らはせいぜい東三河の吉田城までにござるが、石川様は遠く遠江を越えて駿河まで参っておられたのです。大変な役目は我らではなく、石川様の方にございましょう」

「ははは、そうであろうかの。まあ、ここで立ち話もなんじゃ。積もる話は歩きながらにいたそう」

 石川与七郎は合流した伴氏一党にも竹千代らの警護を手伝ってもらう形を取り、三河に入ったからこそ油断せぬよう竹千代の身辺を固めている感じであった。

 そんな石川与七郎の真剣な様子を察してか、伴氏一党も手を抜くことなく周辺の警戒を行いながら同道していく。そうした中で、伴与七郎はあえて沈黙を破って石川与七郎へと話しかけた。

「そうじゃ、石川様。鵜殿新七郎と藤三郎の兄弟を吉田城まで連れて行った折、小耳に挟んだことが」

「ほう、何を聞いたと申すか」

「鵜殿兄弟のその後についてでござる。なんでも、駿府より下知が入ったらしく、兄弟はそのまま大原肥前守資良に従って吉田城の守備にあたらせるとのこと」

「やはり前線へ残したか。いかにもありそうなことじゃ」

 今川家への忠義を最期まで貫き通した忠臣・鵜殿藤太郎長照の遺児を前線へ配備することで今川方の士気を高めようとするであろうことは、石川与七郎にも大方予想はできていたために、対して驚くことはなかった。

 他にも、先月菅沼新八郎定盈の本領にある富永城を攻撃する三浦右衛門大夫真明は城を攻めあぐねているだとか、吉田城で見聞きしたことは伴与七郎から石川与七郎へ共有されていく。

「伴与七郎殿。まこと貴殿らは優秀な甲賀衆じゃ。どうじゃな、このまま当家へ仕官するつもりはないか。あるならば、某から殿へ取り次ぎ申そう」

「いえ、ございませぬ。これは松平蔵人佐様にも申し上げたことにございますが、岡崎城へ戻りし後、追加の報奨金をいただきましたら、甲賀へ帰郷するつもりでおりますゆえ」

「そうか。決意は堅そうじゃな。まあ、食い扶持に困るようなことがあれば、また当家をお訪ねくだされよ」

「お心遣いありがとう存じます。また、石川様ともお会いできますこと、楽しみにしておりまする」

 こうして竹千代を含め、駿府に留め置かれていた者たちは岡崎へと帰還した。

 その後、伴氏一党は元康や石川与七郎をはじめ、世話になった者たちに別れを告げ、近江国甲賀郡へ去っていくのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

高天神攻略の祝宴でしこたま飲まされた武田勝頼。翌朝、事の顛末を聞いた勝頼が採った行動とは?

俣彦
歴史・時代
高天神城攻略の祝宴が開かれた翌朝。武田勝頼が採った行動により、これまで疎遠となっていた武田四天王との関係が修復。一致団結し向かった先は長篠城。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

処理中です...