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第4章 苦海の章
第148話 風は吹けども山は動ぜず
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ついに竹千代の身柄を岡崎へ引き取ることに成功した。そのことを元康をはじめ、松平家臣であれば皆が喜ぶ出来事であり、交渉を見事成し遂げた石川与七郎数正への賛辞が絶えなかった。
そして、誰よりも竹千代の帰還を喜んだのは、言うまでもなく竹千代の生母・駿河御前であった。そんな御前も、依然として元康からは瀬名と呼ばれているが、家臣や民衆からは築山に屋敷を構えていることから『築山殿』と呼ばれている。
ある日、元康は嫡男・竹千代を連れて、築山にある屋敷へ築山殿と亀姫を訪ねていった。そこには、竹千代の側に仕える石川与七郎と平岩七之助親吉といった面々も同行している。
「瀬名!瀬名はおるか!」
「これは殿。それに竹千代も参りましたか」
「うむ。屋敷に植えてある梅が見ごろであると母上から聞いたゆえ、家族で花見でもしようかと思うての」
「そうでございましたか。一昨日訪れられたお母上様も、梅を大層気に入られたご様子。おそらく、また近いうちに訪れられるであろうとは思うておりましたが、よもや城より殿と竹千代が参るとは思いませなんだ」
瀬名は元康一行を快く出迎えると、屋敷勤めの侍女たちへ的確に指示を出していく。その中には、元康が冬の頃に訪れた時には見かけなかった顔も混じっていた。
「瀬名、新たに侍女を召し抱えたのか。見慣れぬ顔が混じっておるが」
「はい。長らく仕えてくれていた老女が一人、足腰を痛めてしまいましたので、新しく召し抱えたのでございます」
「そうであったか。確かに人手も必要であろうが、もっと増やしても良いのではないか」
「私もなるべく手伝うようにしておりまするゆえ、今の人数で事足りるのではないかと」
屋敷を取り仕切る築山殿がそう言うのであれば、と元康はそれ以上奥のことに口出しすることはなかった。そうして、梅のよく見える広間へ通されると、礼儀正しく手をつき一礼する亀姫の姿があった。
「おお、於亀。壮健にしておったか」
「はい!亀は元気にしております!」
「そうかそうか。しかと母上の申すことを聞いておろうなぁ」
「はい!亀は良い子にしております!」
父からの問いかけに対し、とにかく元気に返事をする亀姫の姿に、元康からもついつい笑みがこぼれる。そんな夫と娘のやり取りにくすりと笑いながら、築山殿は父の後ろに隠れる竹千代を亀姫のもとへと近づけていく。
「於亀や」
「はい!」
「こちらにおられるのが、そなたの兄、竹千代じゃ」
「兄?」
兄という概念すらあやふやな亀姫にとって、兄・竹千代という存在はひどく定まらない存在であった。竹千代には生まれてすぐに母と共に居なくなった妹という認識はあっても、亀姫には生まれてすぐに離れ離れになった竹千代を兄と認識できないのは無理もないことであった。
そんな亀姫と竹千代の再会は感動を当人同士が感じることはなかったが、改めて兄妹関係を構築し始める良い取っ掛かりではあった。
「御前様。お茶をお持ちいたしました」
「於葉、皆さまへお配りしてくださいな」
「はい」
築山殿から『於葉』と呼ばれたいたく顔立ちの整った侍女は元康、竹千代、石川与七郎、平岩七之助の順に茶を出していく。主君の夫やその子、重臣たちを前にしても一切動じた様子はなく、終始落ち着き払っているのが、妙に元康の心に残った。
「殿。於葉がお気に召されましたか」
「いや、そのようなことは。新しく入ったとは思えぬ礼儀作法のなった女子じゃと思うたまで」
「ふふふ、左様にございますか。於葉もまた武家の出にございますゆえ」
「なに、武家の出じゃと?」
このような器量の良い娘が領内にいたのかと感心する元康へ、築山殿は彼女の出自を告げていく。
「於葉の父は加藤善左衛門義広と申し、柏原鵜殿家に仕える者だそうな」
「なにっ、柏原鵜殿家と申せば、先般の上之郷城攻めを前に当家に降った鵜殿藤助長忠のことではないか」
「ええ、そうです。ゆえに、礼儀作法もしかと心得ており、此度侍女として召し抱えたのでございます」
「そうであったか」
つい先日まで敵対していた国衆に仕える家臣の娘がこうして妻の屋敷で奉公しているというのは、元康としても不思議な心地がする。
「そうです、殿」
「うむ、いかがした」
「与七郎より聞きました。駿府の父がずいぶんやつれておったと」
「そのことはわしも報告を受けた。やはり、わしが離反したことで今川家中にて肩身の狭い思いをしておられるのであろう」
ここで築山殿の提示する話題は侍女の於葉から、駿府に残された実父・関口刑部少輔氏純のことへと移り変わった。
亀姫はよく理解していないといった様子でぽかんと口を開けているのに対し、先日まで屋敷でよく顔を見ていた竹千代は聞き覚えのある名を聞いて好奇心を持っている。血を分けた兄妹であっても、育った環境によって興味関心は大きく異なるものとなっていた。
「やはり父は……」
「うむ。じゃが、今さら今川家との関係を改善することなどは思いも寄らぬ。舅殿のことを案じる気持ちは離反した昔にとうに捨てておる」
元康の言葉は築山殿にとって惨いものであった。しかし、それは松平宗家の当主という立場から毅然とした態度で臨んだうえで出てきた言葉にすぎない。
そのことを重々理解している築山殿は今川との和平という無理をいってごねたり、泣きわめいたりするような無教養な女性ではなかった。
「父上を人質交換することで、こちらへ呼び寄せることはできませぬか」
「無理であろうな。竹千代と違って、舅殿は今川家の重臣であり実務も数多と担っておられる御方。そのような方の身柄を交換しようとは、あまりに無謀なこと。おそらく、釣り合いの取れる者は遠江国懸川城主の朝比奈備中守泰朝殿くらいであろう」
「それは厳しゅうございます」
「であろう。まだ東三河も制圧できておらぬ我らが東遠江におる朝比奈備中守の身柄を生け捕るなど、夢のまた夢といえよう」
そこまできっぱり言い切られてしまっては、築山殿としてもその悲しい真実を受け止めざるを得なかった。
「殿、無理を申しました。お忘れくださいませ」
「いや、よい。瀬名の思うがままを聞けて、わしも満足じゃ。さっ、今は梅でも見て、心晴れやかにしようではないか」
元康は瀬名の手を取って縁側へと導き、竹千代と亀姫を膝に座らせて花見と洒落込んでいく。そうして梅の次は桜の見ごろを迎え、季節が移ろう中、西三河は平穏そのものであった。
四月の七日に菅沼新八郎定盈が懸命に守備していた野田領の富永城は吉田城代を務める大原肥前守資良の子・三浦右衛門大夫真明の攻囲に耐えかねて降伏。同城には牧野民部丞成定が在城することとなった。
そのことは数日のうちに岡崎城の元康へ伝えられるとともに、西郷領との連絡路がまたもや遮断されたことに元康たちを焦燥感に駆り立てる結果になっていく。
「殿、富永城がこと、いかがなされるご所存で!?」
「うむ。ただちに戦支度を始めるつもりじゃ。出陣は来月上旬とし、なるべく多くの兵を集めさせよ」
「ははっ!しかと心得ました!」
義兄弟の間柄である西郷孫九郎の身を案じる家老・酒井左衛門尉忠次の焦りは元康以上のものであった。そんな酒井左衛門尉の焦りを察知している元康は、またもや今川方との合戦を行うべく支度を進めさせるように命を発した。
今月十五日に善明寺堤で戦死した松平大炊助好景の一周忌法要を控えている深溝松平家から兵を動員することが厳しいことを見込んだうえで、兵数を算段しなければならない。それは当主として、なかなか骨の折れることであった。
「上之郷城攻めを終えた後、先代当主である松平甚太郎忠茂殿の七回忌法要を執り行った七回忌を終えた東条松平家からはいくらか兵を見込むことはできようか。だがしかし、上之郷城攻めに続けて、此度も戦へ動員するとなれば負担は測り知れぬか」
独り言を繰り返し述べながら城を攻めるのに必要であろう兵数を考える頭の痛くなるような準備を整えながら、元康は来月六日は外祖母・源応尼の三回忌を控えていることも思い出す。
出兵中に三回忌法要を行うことは厳しいが、執り行わないわけにもいかない大切な法事である。戦争という殺生のことを考えながら、仏事までも算段して動かなければならないのが、一層元康を迷わせる。
そうして時は過ぎて四月十八日。元康は出陣の算段をつけると、平坂無量寿寺に宛てた不入権に関する以下のような判物をしたためていた。
平坂寺内不入之事
一、喧嘩口論之事
一、押買狼藉之事
一、竹木不可切取之事
右為諸不入地之間、背此旨輩にをひてハ急度可有成敗候、此条々永相違有間敷者也、仍如件
永禄五年四月十八日 元康(花押)
無量寿寺
冒頭において寺内不入と記したうえで、竹木伐採の不可、喧嘩口論に押し買いといった商売が絡んだ紛争を想定したうえで、定めた三カ条に背く者を検断、すなわち成敗する権利を平坂無量寿寺に対して認める内容であった。
「殿、こちらが平坂の無量寿寺に対する判物にございまするな」
「そうじゃ。ここまでの権利を認めておかねば、土呂の本宗寺、佐々木の上宮寺、針崎の勝鬘寺、野寺の本證寺と同じく寺内町を有する無量寿寺も納得すまい」
「なるほど、それは良きお考えであろうかと。ここで寺社からの反感を買ってしまっては戦どころではございませぬからな」
「いかにも。じゃが、わしがおこなっておる不入権にまつわる打ち手は今川家のやり方を踏襲しただけにすぎぬ。やがて戦が落ち着いたならば、寺社への不入権についても改めて考える必要もあろう」
元康は家老・石川彦五郎と不入権のことをはじめ、寺社にまつわる事柄を話し合った後、来月に控える東三河への出兵のことを話し合った。
どの家からいかほどの兵を集められるか、それをまかなうだけの兵粮は確保できるのか。調達するのにどれほどの資金が必要となるのか。金銭の面でも領主というのは大変なものであった。
「次なる戦は富永城にございまするか」
「そのつもりじゃ。旧領を奪還したい菅沼新八郎殿より要請も受けておるし、今のままでは八名郡の西郷孫九郎殿を孤立無援にしてもしまう」
「富永城には牛久保城主の牧野民部丞が守備しておりますれば、そう容易くは参らぬかと」
「そう、であろうな。牧野家としても当家に味方する者が東三河で勢いづくことは避けたいであろうゆえ」
仮に元康が此度の東三河出兵において富永城を奪還した場合、菅沼新八郎定盈は八名郡の西郷孫九郎と連携して野田菅沼家の本領を奪還しに動くことは明白。
そのまま菅沼新八郎が旧領奪還を成してしまえば、松平方としては東三河の今川方への緩衝地帯ともなり、大いに睨みを利かせることができる。
対する今川方としてもやっとのことで制圧した八名郡の西郷領と野田菅沼領を奪還されては、枕を高くして眠ることはできなくなる。
中でも、牧野民部丞の牛久保城は昨年四月に豊川三人衆によって行われたことが再び起きる可能性が高くなる。前回と大きく異なるのは元康が西三河の大半を制圧し、いつでも水野と連合して援軍に来られるという脅威が増していること。
その点では、吉田城の大原肥前守資良以上に脅威を感じているのが境目に位置する牧野民部丞と牛久保城であるといっても良かった。
すなわち、牧野民部丞としては、ここで菅沼新八郎の野田領復帰を是が非でも阻止したい。そうでなくては、自領を侵してくるであろう敵をみすみす増やしてしまうことにもなりかねないのだ。
「よりにもよって一番我らの侵攻を警戒しておる牧野民部丞を配備するとは、駿府の者らも急所というものを理解しておる」
「そうでありましょう。かの桶狭間合戦にて今川義元公を失いし後も駿河と遠江の二ヵ国と東三河を堅守しておるのです。多くの戦慣れした者らを失ってなお、これだけ精強なのです。いかに今川家が強大であったのかが今改めて思い知らされておりまする」
「ははは、まことじゃ。桶狭間合戦で太守様がお討ち死にあそばさねば、我らとて今なお今川家へ従属する国衆にすぎなかったであろう。運命とはまことどう転ぶか分からぬ曲者よ」
「まことに」
「じゃがな、彦五郎。わしは松平宗家の主として、断じて屈するわけにはいかぬのだ。心が屈した時こそ、まことの敗北と心得よ」
「しかと肝に銘じまする。然らば、これにて失礼いたしまする」
石川彦五郎が去った後、元康は城より東をじっと見つめる。来月十九日は今川義元の三回忌。
元康も氏真、それぞれの運命を激変させた桶狭間合戦から丸二年という節目を迎えようとしていた――
そして、誰よりも竹千代の帰還を喜んだのは、言うまでもなく竹千代の生母・駿河御前であった。そんな御前も、依然として元康からは瀬名と呼ばれているが、家臣や民衆からは築山に屋敷を構えていることから『築山殿』と呼ばれている。
ある日、元康は嫡男・竹千代を連れて、築山にある屋敷へ築山殿と亀姫を訪ねていった。そこには、竹千代の側に仕える石川与七郎と平岩七之助親吉といった面々も同行している。
「瀬名!瀬名はおるか!」
「これは殿。それに竹千代も参りましたか」
「うむ。屋敷に植えてある梅が見ごろであると母上から聞いたゆえ、家族で花見でもしようかと思うての」
「そうでございましたか。一昨日訪れられたお母上様も、梅を大層気に入られたご様子。おそらく、また近いうちに訪れられるであろうとは思うておりましたが、よもや城より殿と竹千代が参るとは思いませなんだ」
瀬名は元康一行を快く出迎えると、屋敷勤めの侍女たちへ的確に指示を出していく。その中には、元康が冬の頃に訪れた時には見かけなかった顔も混じっていた。
「瀬名、新たに侍女を召し抱えたのか。見慣れぬ顔が混じっておるが」
「はい。長らく仕えてくれていた老女が一人、足腰を痛めてしまいましたので、新しく召し抱えたのでございます」
「そうであったか。確かに人手も必要であろうが、もっと増やしても良いのではないか」
「私もなるべく手伝うようにしておりまするゆえ、今の人数で事足りるのではないかと」
屋敷を取り仕切る築山殿がそう言うのであれば、と元康はそれ以上奥のことに口出しすることはなかった。そうして、梅のよく見える広間へ通されると、礼儀正しく手をつき一礼する亀姫の姿があった。
「おお、於亀。壮健にしておったか」
「はい!亀は元気にしております!」
「そうかそうか。しかと母上の申すことを聞いておろうなぁ」
「はい!亀は良い子にしております!」
父からの問いかけに対し、とにかく元気に返事をする亀姫の姿に、元康からもついつい笑みがこぼれる。そんな夫と娘のやり取りにくすりと笑いながら、築山殿は父の後ろに隠れる竹千代を亀姫のもとへと近づけていく。
「於亀や」
「はい!」
「こちらにおられるのが、そなたの兄、竹千代じゃ」
「兄?」
兄という概念すらあやふやな亀姫にとって、兄・竹千代という存在はひどく定まらない存在であった。竹千代には生まれてすぐに母と共に居なくなった妹という認識はあっても、亀姫には生まれてすぐに離れ離れになった竹千代を兄と認識できないのは無理もないことであった。
そんな亀姫と竹千代の再会は感動を当人同士が感じることはなかったが、改めて兄妹関係を構築し始める良い取っ掛かりではあった。
「御前様。お茶をお持ちいたしました」
「於葉、皆さまへお配りしてくださいな」
「はい」
築山殿から『於葉』と呼ばれたいたく顔立ちの整った侍女は元康、竹千代、石川与七郎、平岩七之助の順に茶を出していく。主君の夫やその子、重臣たちを前にしても一切動じた様子はなく、終始落ち着き払っているのが、妙に元康の心に残った。
「殿。於葉がお気に召されましたか」
「いや、そのようなことは。新しく入ったとは思えぬ礼儀作法のなった女子じゃと思うたまで」
「ふふふ、左様にございますか。於葉もまた武家の出にございますゆえ」
「なに、武家の出じゃと?」
このような器量の良い娘が領内にいたのかと感心する元康へ、築山殿は彼女の出自を告げていく。
「於葉の父は加藤善左衛門義広と申し、柏原鵜殿家に仕える者だそうな」
「なにっ、柏原鵜殿家と申せば、先般の上之郷城攻めを前に当家に降った鵜殿藤助長忠のことではないか」
「ええ、そうです。ゆえに、礼儀作法もしかと心得ており、此度侍女として召し抱えたのでございます」
「そうであったか」
つい先日まで敵対していた国衆に仕える家臣の娘がこうして妻の屋敷で奉公しているというのは、元康としても不思議な心地がする。
「そうです、殿」
「うむ、いかがした」
「与七郎より聞きました。駿府の父がずいぶんやつれておったと」
「そのことはわしも報告を受けた。やはり、わしが離反したことで今川家中にて肩身の狭い思いをしておられるのであろう」
ここで築山殿の提示する話題は侍女の於葉から、駿府に残された実父・関口刑部少輔氏純のことへと移り変わった。
亀姫はよく理解していないといった様子でぽかんと口を開けているのに対し、先日まで屋敷でよく顔を見ていた竹千代は聞き覚えのある名を聞いて好奇心を持っている。血を分けた兄妹であっても、育った環境によって興味関心は大きく異なるものとなっていた。
「やはり父は……」
「うむ。じゃが、今さら今川家との関係を改善することなどは思いも寄らぬ。舅殿のことを案じる気持ちは離反した昔にとうに捨てておる」
元康の言葉は築山殿にとって惨いものであった。しかし、それは松平宗家の当主という立場から毅然とした態度で臨んだうえで出てきた言葉にすぎない。
そのことを重々理解している築山殿は今川との和平という無理をいってごねたり、泣きわめいたりするような無教養な女性ではなかった。
「父上を人質交換することで、こちらへ呼び寄せることはできませぬか」
「無理であろうな。竹千代と違って、舅殿は今川家の重臣であり実務も数多と担っておられる御方。そのような方の身柄を交換しようとは、あまりに無謀なこと。おそらく、釣り合いの取れる者は遠江国懸川城主の朝比奈備中守泰朝殿くらいであろう」
「それは厳しゅうございます」
「であろう。まだ東三河も制圧できておらぬ我らが東遠江におる朝比奈備中守の身柄を生け捕るなど、夢のまた夢といえよう」
そこまできっぱり言い切られてしまっては、築山殿としてもその悲しい真実を受け止めざるを得なかった。
「殿、無理を申しました。お忘れくださいませ」
「いや、よい。瀬名の思うがままを聞けて、わしも満足じゃ。さっ、今は梅でも見て、心晴れやかにしようではないか」
元康は瀬名の手を取って縁側へと導き、竹千代と亀姫を膝に座らせて花見と洒落込んでいく。そうして梅の次は桜の見ごろを迎え、季節が移ろう中、西三河は平穏そのものであった。
四月の七日に菅沼新八郎定盈が懸命に守備していた野田領の富永城は吉田城代を務める大原肥前守資良の子・三浦右衛門大夫真明の攻囲に耐えかねて降伏。同城には牧野民部丞成定が在城することとなった。
そのことは数日のうちに岡崎城の元康へ伝えられるとともに、西郷領との連絡路がまたもや遮断されたことに元康たちを焦燥感に駆り立てる結果になっていく。
「殿、富永城がこと、いかがなされるご所存で!?」
「うむ。ただちに戦支度を始めるつもりじゃ。出陣は来月上旬とし、なるべく多くの兵を集めさせよ」
「ははっ!しかと心得ました!」
義兄弟の間柄である西郷孫九郎の身を案じる家老・酒井左衛門尉忠次の焦りは元康以上のものであった。そんな酒井左衛門尉の焦りを察知している元康は、またもや今川方との合戦を行うべく支度を進めさせるように命を発した。
今月十五日に善明寺堤で戦死した松平大炊助好景の一周忌法要を控えている深溝松平家から兵を動員することが厳しいことを見込んだうえで、兵数を算段しなければならない。それは当主として、なかなか骨の折れることであった。
「上之郷城攻めを終えた後、先代当主である松平甚太郎忠茂殿の七回忌法要を執り行った七回忌を終えた東条松平家からはいくらか兵を見込むことはできようか。だがしかし、上之郷城攻めに続けて、此度も戦へ動員するとなれば負担は測り知れぬか」
独り言を繰り返し述べながら城を攻めるのに必要であろう兵数を考える頭の痛くなるような準備を整えながら、元康は来月六日は外祖母・源応尼の三回忌を控えていることも思い出す。
出兵中に三回忌法要を行うことは厳しいが、執り行わないわけにもいかない大切な法事である。戦争という殺生のことを考えながら、仏事までも算段して動かなければならないのが、一層元康を迷わせる。
そうして時は過ぎて四月十八日。元康は出陣の算段をつけると、平坂無量寿寺に宛てた不入権に関する以下のような判物をしたためていた。
平坂寺内不入之事
一、喧嘩口論之事
一、押買狼藉之事
一、竹木不可切取之事
右為諸不入地之間、背此旨輩にをひてハ急度可有成敗候、此条々永相違有間敷者也、仍如件
永禄五年四月十八日 元康(花押)
無量寿寺
冒頭において寺内不入と記したうえで、竹木伐採の不可、喧嘩口論に押し買いといった商売が絡んだ紛争を想定したうえで、定めた三カ条に背く者を検断、すなわち成敗する権利を平坂無量寿寺に対して認める内容であった。
「殿、こちらが平坂の無量寿寺に対する判物にございまするな」
「そうじゃ。ここまでの権利を認めておかねば、土呂の本宗寺、佐々木の上宮寺、針崎の勝鬘寺、野寺の本證寺と同じく寺内町を有する無量寿寺も納得すまい」
「なるほど、それは良きお考えであろうかと。ここで寺社からの反感を買ってしまっては戦どころではございませぬからな」
「いかにも。じゃが、わしがおこなっておる不入権にまつわる打ち手は今川家のやり方を踏襲しただけにすぎぬ。やがて戦が落ち着いたならば、寺社への不入権についても改めて考える必要もあろう」
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「次なる戦は富永城にございまするか」
「そのつもりじゃ。旧領を奪還したい菅沼新八郎殿より要請も受けておるし、今のままでは八名郡の西郷孫九郎殿を孤立無援にしてもしまう」
「富永城には牛久保城主の牧野民部丞が守備しておりますれば、そう容易くは参らぬかと」
「そう、であろうな。牧野家としても当家に味方する者が東三河で勢いづくことは避けたいであろうゆえ」
仮に元康が此度の東三河出兵において富永城を奪還した場合、菅沼新八郎定盈は八名郡の西郷孫九郎と連携して野田菅沼家の本領を奪還しに動くことは明白。
そのまま菅沼新八郎が旧領奪還を成してしまえば、松平方としては東三河の今川方への緩衝地帯ともなり、大いに睨みを利かせることができる。
対する今川方としてもやっとのことで制圧した八名郡の西郷領と野田菅沼領を奪還されては、枕を高くして眠ることはできなくなる。
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その点では、吉田城の大原肥前守資良以上に脅威を感じているのが境目に位置する牧野民部丞と牛久保城であるといっても良かった。
すなわち、牧野民部丞としては、ここで菅沼新八郎の野田領復帰を是が非でも阻止したい。そうでなくては、自領を侵してくるであろう敵をみすみす増やしてしまうことにもなりかねないのだ。
「よりにもよって一番我らの侵攻を警戒しておる牧野民部丞を配備するとは、駿府の者らも急所というものを理解しておる」
「そうでありましょう。かの桶狭間合戦にて今川義元公を失いし後も駿河と遠江の二ヵ国と東三河を堅守しておるのです。多くの戦慣れした者らを失ってなお、これだけ精強なのです。いかに今川家が強大であったのかが今改めて思い知らされておりまする」
「ははは、まことじゃ。桶狭間合戦で太守様がお討ち死にあそばさねば、我らとて今なお今川家へ従属する国衆にすぎなかったであろう。運命とはまことどう転ぶか分からぬ曲者よ」
「まことに」
「じゃがな、彦五郎。わしは松平宗家の主として、断じて屈するわけにはいかぬのだ。心が屈した時こそ、まことの敗北と心得よ」
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家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
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「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
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