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第4章 苦海の章
第150話 今川氏真の東三河入り
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五月に松平家と水野家に対して自らの出陣をちらつかせる文意の書状を送った北条左京大夫氏康であったが、六月に入ってなお、敵対する大名との戦いが落ち着く気配は微塵もなかった。
上杉弾正少弼輝虎に与していた小田氏治が北条方へ転じるなど、北条家に与する者もいるが、房総半島の里見義堯・義弘父子が未だ従わない東金城、土気城の酒井氏や千葉家重臣・原胤貞の居城である生実城、馬加城攻略に動くなど、北条家の眼が房総に向いていないうちに着々と勢力拡大に勤しむ者もいた。
だが、北条家としてはこの六月、上杉勢が劣勢であることを受けて関白・近衛前久が古河城を離れて畿内へ帰っていった好機を逃すことはできなかった。
氏康はすかさず軍勢を動員して武蔵全土や上野、北下総、南下総など北条に従属する国衆を動員して古河城を包囲、およそ一万五千の軍勢で古河城を攻略し、足利藤氏を屈服させようと動き出していた。
そんな未だ関東方面で上杉方との戦いに忙殺されている北条氏康をあざ笑うかのように、今川氏真との和睦を一蹴した元康は東三河掌握に向けて動き始める――
「よし、者共!準備は良いか!これより、牧野に奪われた我らが本城野田城を奪い返すぞ!すでに某の従兄である西郷孫九郎殿は勝山にて佐原平蔵や大泉助次郎を討つなどの手柄を挙げておられる!我らも負けてはならぬぞ!さあ、城東の絶壁を滑落覚悟で登るのだ!」
居城・野田城の奪還を成すべく、菅沼新八郎定盈は松平家からの援軍を得て城への夜襲を決行。月明かりを頼りに進んだ菅沼新八郎らは巧みに城東の崖を攻め上り、見事に城を守る稲垣氏俊ら牧野勢への不意打ちに成功する。
「稲垣様!敵襲にございます!」
「敵襲じゃと!どうせ、菅沼の旧臣どもが血迷って攻めてきたのであろうが、少数の兵で落とせる城ではない!守り通せ!」
「さ、されど敵は東より――」
伝令がそこまで言ったところで、その兵士は腹部を槍で貫かれて絶命していた。そんな伝令兵の背後に立っていたのは旧領奪還の執念に燃える若武者・菅沼新八郎その人であった。
「貴様は菅沼新八郎定盈!いかにしてここまで……!」
「ここは某の居城じゃ!造りなど熟知しておる!」
「くっ、くそっ!」
牧野民部丞成定の重臣・稲垣重宗の実弟である稲垣氏俊に降伏という選択肢はなく、死中に活を求めて眼前の菅沼新八郎へと斬りかかる。
「おう、降伏はせぬか!ならば、容赦はいらぬ!覚悟せよ!」
稲垣氏俊渾身の抜き打ちざまの一閃を後ろへ飛びのいてかわした菅沼新八郎は力強く踏み込み、槍による突きを見舞った。
槍は鈍い音を立てて稲垣氏俊に突き立ち、鮮血が床へと滴り落ちる。稲垣氏俊がぐらっと床へ倒れ込んだ頃、すでに彼は絶命していた。菅沼新八郎はまことに息絶えたのかどうかを確かめると、まだ外で斬り合っている牧野兵らにも見えるように首級を掲げていく。
「城代稲垣氏俊、この菅沼新八郎定盈が討ち取ったり!」
槍を片手にした菅沼新八郎のもう一方の手に自分たちの大将の首がある。その事実に、統率者を失った牧野兵は四方八方へ逃げ散り始める。そうして逃げていく牧野兵を城から叩き出すように野田菅沼勢が追い散らし、ついに本城・野田城の奪還に成功したのであった。
「殿!やりましたな!」
「おう、やったぞ!」
昨年七月、大原肥前守資良を大将とする今川勢によって奪い取られた本拠・野田城を奪回することに成功した。それは野田菅沼家の者らにとっては感慨無量のことであった。
「されど、殿。此度の夜襲にて野田城を奪い返しましたが、城の損壊は軽微とは申せませぬ」
「そう……じゃな」
なるべく城の損害を少なくしよう。そう思ってはいた菅沼新八郎であったが、事態はそう思うようにはいかないものであった。
辺りを見回してみれば、修復が必要な個所が多く、万一すぐにも敵が押し寄せたならば、守り切れなくなることが見込める状態なのである。
「やむを得ぬ。ここより防禦の面では劣るが、大野田城を手直ししたうえで仮の本拠とし、野田城を修築することにいたそうぞ」
「承知いたしました!ひとまず、その旨を皆に伝えて参ります!」
自分よりも二回りほど上の家臣が他の家臣らへ大野田城を仮の拠点とすることを伝えに走った後、菅沼新八郎は天満つ星を見上げながら、これからのことへ思いを馳せていくのであった。
翌朝、野田城には元康の命を受けて野田菅沼家と西郷家の支援を任された本多百助信俊が大野田城へ手勢を引き連れて合流した。
菅沼新八郎よりも七つ年上で齢二十八となる豪傑・本多百助を応対した菅沼新八郎は清掃が済んだばかりの広間へと彼を通した。
「まずは戦勝、心底よりお祝い申し上げる」
「これはかたじけない。されど、ご覧の通り修復せねばならぬ箇所が数多くござり、仮の本拠を大野田城と定め申した」
「なるほど、これでは再び今川勢に攻められてはたまったものではござらぬ。さすがは菅沼新八郎殿。良き判断であるかと」
本多百助は日に焼けた肌を伝う汗を袖で無造作に拭いながら、菅沼新八郎と現状の共有をしていく。八名郡では西郷孫九郎が旧領奪還を成しているため、野田菅沼領の奪還が成せたのであれば情勢は大きく覆せるであろうことなどである。
「して、本多百助殿はこれよりいかがなされるご所存か」
「某は殿より菅沼新八郎殿と西郷孫九郎殿の支援を命じられてもおりますゆえ、まだ岡崎へ立ち返るわけにも参りませぬ。ひとまずは某も五百の手勢がおりまするゆえ、それを引っ提げて南の一宮へ砦を築き、引き続き支援をさせていただくつもりにござる」
「なるほど、その地ならば今川勢を牽制するに良き地にございましょう。されど、敵が動けば、この野田城よりも先に敵の攻撃を受けることにもなるのでは」
「そのようなこと、百も承知。野田城の復旧が済むまで、一歩たりとも敵を入れるような無様は曝しませぬゆえ、ご案じなく」
豪傑・本多百助が五百の兵を率いて一宮へ砦を築いて守るとなれば、菅沼新八郎としても幾分か心が安らぐ想いであった。
そうして本多百助は菅沼新八郎と別れると、迅速に砦普請に着手。今川勢の来襲へ備え始めたのである。
しかし、ここへ来て、元康が想定する中で最も恐れていた事態が勃発してしまう。そう、駿府ではかねてより協議されていた今川氏真自らの東三河出陣である。
「御屋形様、いよいよ出陣にございまするな」
「うむ。ついに予自ら松平蔵人佐と雌雄を決する時が参った」
腹心の三浦備後守正俊とともに眼下に招集された四千を超える軍勢を見下ろす今川上総介氏真の表情は、当主らしく落ち着き払ったものであった。
「まずは朝比奈備中守の懸川城にて遠江衆と合流となるか」
「はい。御屋形様はそのまま遠江府中を通り、曳馬城へ。その道中でも国衆らの軍勢が加わりましょうゆえ、曳馬へ入られる頃には総勢一万を超える大軍勢となっておりましょう」
「左様か。ならば、予は吉田城へは東海道ではなく、本坂道を通って参ろう。物資などは陸路よりも今切の渡しより船で運ばせようぞ」
「はい。そのつもりで、浜名湖周辺の者らへは舟を出させるよう命じてありますれば」
政治面で優秀な三浦備後守に手抜かりはなかった。どの城主には出兵させる兵数を減らす代わりに船を出させて物資の運搬に当たらせるなど、実に見事なものであった。
そして、氏真自らの進軍は滞りなく進み、あらかじめ定められていた通りに曳馬城へ入城したのであった。
道中を進む氏真の心境としてはこれから大戦になるかもしれないという不安も当然あったが、二年前に父・三河守義元もこの道を大軍勢とともに進んだのだという感慨に浸ってもいた。
「御屋形様、飯尾豊前守連龍にございまする。遠路はるばるの行軍、さぞかしお疲れにございましょう。本日は城内にてごゆるりと逗留くださいませ」
「うむ。出迎えご苦労。戦働きも期待しておるぞ」
「はっ、ははっ!お任せくださいませ!」
出迎えた飯尾豊前守の挨拶が済むと、次に氏真の前へ進み出たのは東三河吉田城よりやって来ていた三浦右衛門大夫真明であった。
「御屋形様のお越しを某、父ともども首を長うして待っておりました」
「うむ。東三河でのお主らの奮戦なくば、東三河は松平の手に落ちていたであろう。感謝するぞ」
「勿体なきお言葉!此度こそは松平の奴らに目にもの見せてやりまする!」
「よくぞ申した。その意気じゃ。そなたは明日、予とともに本坂道を進め。軍議を刑部にて開くゆえ、それへも加わるがよい。予よりも東三河に馴染みのあるそなたの意見も聞きたいゆえな」
「ははっ!喜んでお供いたしまする!」
三浦右衛門大夫は同伴を許され、喜び勇む気持ちを抱きながら下がっていった。そうして夜も更け、再び東の空が白み出した頃、誰よりも早く床より起き上がった氏真の号令により遠州刑部へと軍勢の大半が進出した。
氏真の命によって軍議の場に招集されたのは、昨晩同伴を許された三浦右衛門大夫をはじめ、今川譜代の家臣や高天神小笠原家の小笠原清有といった遠江衆であった。
「皆、よくぞ集まってくれた。これより峠越えをして三河へ討ち入るが、その前に軍評定を済ませておきたい。予が懸念しておるのは西郷や野田菅沼といった者らに退路を遮断されることにある。そのことについて、意見のある者はおるか」
二十五歳となった若き今川家当主からの呼びかけに挙手したのは、三浦右衛門大夫であった。
「御屋形様、然らば小笠原清有殿ら遠江衆の一部を野田城近くの……そうですな、この一鍬田の地まで進出させ、野田城を窺わせてはいかがでしょう。ここへお味方が入れば、野田菅沼は無論のこと、西郷も北へ目を向けねばならなくなり、退路を遮断される恐れはなくなろうかと」
三浦右衛門大夫の進言に名指しされた小笠原清有らは表情を強張らせていたが、その策は氏真の認めるところとなり、刑部からは別動隊として動くこととなり、宇利峠を越えて野田城方面へと進出させる運びとなった。
そうして依然として一万近い数を有する今川軍本隊は本坂道を悠々と進み、吉田城にて三浦右衛門大夫の実父・大原肥前守が招集した東三河の軍勢を加え、豊川の渡河を無事に済ませると牛久保城へ本陣を置いたのである。
この桶狭間合戦の時と比べても遜色ない大軍勢を率い、今川家当主自らが三河へ入ったことの影響は大きかった。
「板倉弾正重定!前へ!」
「ははっ!」
「そなたは中島城、岡城と二度も松平の者共に苦杯を嘗めさせられたであろう」
「はっ!あの折の口惜しさを今日まで、一日たりとも忘れたことはございませぬ!」
「そこでじゃ。松平蔵人佐が進軍してくるであろう山中筋へ、八幡砦を築いて守備にあたれ。此度は砦を奪われること、断じてならぬ!良いな!」
「委細承知いたしました!何があろうとも、この板倉弾正、砦を死守いたしまする!」
「よくぞ申した!倅の主水も連れていくがよい。親子で力を合わせ、砦を堅守せよ!」
板倉弾正重定は松平家への雪辱を晴らすべく、倅の板倉主水を連れて兵を預かって向かっていく。
そのままの語気で氏真は大塚城や平坂街道への抑えとして佐脇砦の普請を命じ、三浦勢に守備にあたるようきつく命じていく。その勇ましい姿に、老臣の中には今は亡き今川義元の面影を感じ取り、肩を震わして泣く者もあった。
「御屋形様、牧野民部丞成定にございまする」
「おう、先般の富永城防衛は見事であったぞ。して、いかがした」
「ははっ、この牛久保城より北、野田城を阻む一宮の地に本多百助信俊とか申す松平家臣が五百の兵で砦を守っておりまする。ここを潰しておかねば、野田城を奪還することは難しかろうかと」
「ふむ。つまりは、予に一宮砦を攻めるべきだと進言しておるわけか」
「はっ、ははっ!無礼なことを申しました」
「よい。真っ当な進言ゆえ、採用することとしようぞ。されど、敵の動きを見てからでなくては予も判断しかねる。ひとまず、八幡砦と佐脇砦が構築できたならば西三河と分断することが叶うであろう」
牧野民部丞は進言の意図を瞬時に把握した氏真の器量が想像以上であることに驚きつつ、それ以上食い下がって不興を買ってはならないと判断し、引き下がった。
「御屋形様、今日のところはお休みになられては」
「うむ。三浦右衛門大夫の申す通りか。慣れぬ進軍で疲れたゆえ、今日は休むこととする。夜襲への備えは抜かるでないぞ」
「はっ、しかと承りましてございます」
氏真は三浦右衛門大夫にその夜のことは任せ、寝所へ戻って進軍の疲れを癒やすことに専心するのであった。
上杉弾正少弼輝虎に与していた小田氏治が北条方へ転じるなど、北条家に与する者もいるが、房総半島の里見義堯・義弘父子が未だ従わない東金城、土気城の酒井氏や千葉家重臣・原胤貞の居城である生実城、馬加城攻略に動くなど、北条家の眼が房総に向いていないうちに着々と勢力拡大に勤しむ者もいた。
だが、北条家としてはこの六月、上杉勢が劣勢であることを受けて関白・近衛前久が古河城を離れて畿内へ帰っていった好機を逃すことはできなかった。
氏康はすかさず軍勢を動員して武蔵全土や上野、北下総、南下総など北条に従属する国衆を動員して古河城を包囲、およそ一万五千の軍勢で古河城を攻略し、足利藤氏を屈服させようと動き出していた。
そんな未だ関東方面で上杉方との戦いに忙殺されている北条氏康をあざ笑うかのように、今川氏真との和睦を一蹴した元康は東三河掌握に向けて動き始める――
「よし、者共!準備は良いか!これより、牧野に奪われた我らが本城野田城を奪い返すぞ!すでに某の従兄である西郷孫九郎殿は勝山にて佐原平蔵や大泉助次郎を討つなどの手柄を挙げておられる!我らも負けてはならぬぞ!さあ、城東の絶壁を滑落覚悟で登るのだ!」
居城・野田城の奪還を成すべく、菅沼新八郎定盈は松平家からの援軍を得て城への夜襲を決行。月明かりを頼りに進んだ菅沼新八郎らは巧みに城東の崖を攻め上り、見事に城を守る稲垣氏俊ら牧野勢への不意打ちに成功する。
「稲垣様!敵襲にございます!」
「敵襲じゃと!どうせ、菅沼の旧臣どもが血迷って攻めてきたのであろうが、少数の兵で落とせる城ではない!守り通せ!」
「さ、されど敵は東より――」
伝令がそこまで言ったところで、その兵士は腹部を槍で貫かれて絶命していた。そんな伝令兵の背後に立っていたのは旧領奪還の執念に燃える若武者・菅沼新八郎その人であった。
「貴様は菅沼新八郎定盈!いかにしてここまで……!」
「ここは某の居城じゃ!造りなど熟知しておる!」
「くっ、くそっ!」
牧野民部丞成定の重臣・稲垣重宗の実弟である稲垣氏俊に降伏という選択肢はなく、死中に活を求めて眼前の菅沼新八郎へと斬りかかる。
「おう、降伏はせぬか!ならば、容赦はいらぬ!覚悟せよ!」
稲垣氏俊渾身の抜き打ちざまの一閃を後ろへ飛びのいてかわした菅沼新八郎は力強く踏み込み、槍による突きを見舞った。
槍は鈍い音を立てて稲垣氏俊に突き立ち、鮮血が床へと滴り落ちる。稲垣氏俊がぐらっと床へ倒れ込んだ頃、すでに彼は絶命していた。菅沼新八郎はまことに息絶えたのかどうかを確かめると、まだ外で斬り合っている牧野兵らにも見えるように首級を掲げていく。
「城代稲垣氏俊、この菅沼新八郎定盈が討ち取ったり!」
槍を片手にした菅沼新八郎のもう一方の手に自分たちの大将の首がある。その事実に、統率者を失った牧野兵は四方八方へ逃げ散り始める。そうして逃げていく牧野兵を城から叩き出すように野田菅沼勢が追い散らし、ついに本城・野田城の奪還に成功したのであった。
「殿!やりましたな!」
「おう、やったぞ!」
昨年七月、大原肥前守資良を大将とする今川勢によって奪い取られた本拠・野田城を奪回することに成功した。それは野田菅沼家の者らにとっては感慨無量のことであった。
「されど、殿。此度の夜襲にて野田城を奪い返しましたが、城の損壊は軽微とは申せませぬ」
「そう……じゃな」
なるべく城の損害を少なくしよう。そう思ってはいた菅沼新八郎であったが、事態はそう思うようにはいかないものであった。
辺りを見回してみれば、修復が必要な個所が多く、万一すぐにも敵が押し寄せたならば、守り切れなくなることが見込める状態なのである。
「やむを得ぬ。ここより防禦の面では劣るが、大野田城を手直ししたうえで仮の本拠とし、野田城を修築することにいたそうぞ」
「承知いたしました!ひとまず、その旨を皆に伝えて参ります!」
自分よりも二回りほど上の家臣が他の家臣らへ大野田城を仮の拠点とすることを伝えに走った後、菅沼新八郎は天満つ星を見上げながら、これからのことへ思いを馳せていくのであった。
翌朝、野田城には元康の命を受けて野田菅沼家と西郷家の支援を任された本多百助信俊が大野田城へ手勢を引き連れて合流した。
菅沼新八郎よりも七つ年上で齢二十八となる豪傑・本多百助を応対した菅沼新八郎は清掃が済んだばかりの広間へと彼を通した。
「まずは戦勝、心底よりお祝い申し上げる」
「これはかたじけない。されど、ご覧の通り修復せねばならぬ箇所が数多くござり、仮の本拠を大野田城と定め申した」
「なるほど、これでは再び今川勢に攻められてはたまったものではござらぬ。さすがは菅沼新八郎殿。良き判断であるかと」
本多百助は日に焼けた肌を伝う汗を袖で無造作に拭いながら、菅沼新八郎と現状の共有をしていく。八名郡では西郷孫九郎が旧領奪還を成しているため、野田菅沼領の奪還が成せたのであれば情勢は大きく覆せるであろうことなどである。
「して、本多百助殿はこれよりいかがなされるご所存か」
「某は殿より菅沼新八郎殿と西郷孫九郎殿の支援を命じられてもおりますゆえ、まだ岡崎へ立ち返るわけにも参りませぬ。ひとまずは某も五百の手勢がおりまするゆえ、それを引っ提げて南の一宮へ砦を築き、引き続き支援をさせていただくつもりにござる」
「なるほど、その地ならば今川勢を牽制するに良き地にございましょう。されど、敵が動けば、この野田城よりも先に敵の攻撃を受けることにもなるのでは」
「そのようなこと、百も承知。野田城の復旧が済むまで、一歩たりとも敵を入れるような無様は曝しませぬゆえ、ご案じなく」
豪傑・本多百助が五百の兵を率いて一宮へ砦を築いて守るとなれば、菅沼新八郎としても幾分か心が安らぐ想いであった。
そうして本多百助は菅沼新八郎と別れると、迅速に砦普請に着手。今川勢の来襲へ備え始めたのである。
しかし、ここへ来て、元康が想定する中で最も恐れていた事態が勃発してしまう。そう、駿府ではかねてより協議されていた今川氏真自らの東三河出陣である。
「御屋形様、いよいよ出陣にございまするな」
「うむ。ついに予自ら松平蔵人佐と雌雄を決する時が参った」
腹心の三浦備後守正俊とともに眼下に招集された四千を超える軍勢を見下ろす今川上総介氏真の表情は、当主らしく落ち着き払ったものであった。
「まずは朝比奈備中守の懸川城にて遠江衆と合流となるか」
「はい。御屋形様はそのまま遠江府中を通り、曳馬城へ。その道中でも国衆らの軍勢が加わりましょうゆえ、曳馬へ入られる頃には総勢一万を超える大軍勢となっておりましょう」
「左様か。ならば、予は吉田城へは東海道ではなく、本坂道を通って参ろう。物資などは陸路よりも今切の渡しより船で運ばせようぞ」
「はい。そのつもりで、浜名湖周辺の者らへは舟を出させるよう命じてありますれば」
政治面で優秀な三浦備後守に手抜かりはなかった。どの城主には出兵させる兵数を減らす代わりに船を出させて物資の運搬に当たらせるなど、実に見事なものであった。
そして、氏真自らの進軍は滞りなく進み、あらかじめ定められていた通りに曳馬城へ入城したのであった。
道中を進む氏真の心境としてはこれから大戦になるかもしれないという不安も当然あったが、二年前に父・三河守義元もこの道を大軍勢とともに進んだのだという感慨に浸ってもいた。
「御屋形様、飯尾豊前守連龍にございまする。遠路はるばるの行軍、さぞかしお疲れにございましょう。本日は城内にてごゆるりと逗留くださいませ」
「うむ。出迎えご苦労。戦働きも期待しておるぞ」
「はっ、ははっ!お任せくださいませ!」
出迎えた飯尾豊前守の挨拶が済むと、次に氏真の前へ進み出たのは東三河吉田城よりやって来ていた三浦右衛門大夫真明であった。
「御屋形様のお越しを某、父ともども首を長うして待っておりました」
「うむ。東三河でのお主らの奮戦なくば、東三河は松平の手に落ちていたであろう。感謝するぞ」
「勿体なきお言葉!此度こそは松平の奴らに目にもの見せてやりまする!」
「よくぞ申した。その意気じゃ。そなたは明日、予とともに本坂道を進め。軍議を刑部にて開くゆえ、それへも加わるがよい。予よりも東三河に馴染みのあるそなたの意見も聞きたいゆえな」
「ははっ!喜んでお供いたしまする!」
三浦右衛門大夫は同伴を許され、喜び勇む気持ちを抱きながら下がっていった。そうして夜も更け、再び東の空が白み出した頃、誰よりも早く床より起き上がった氏真の号令により遠州刑部へと軍勢の大半が進出した。
氏真の命によって軍議の場に招集されたのは、昨晩同伴を許された三浦右衛門大夫をはじめ、今川譜代の家臣や高天神小笠原家の小笠原清有といった遠江衆であった。
「皆、よくぞ集まってくれた。これより峠越えをして三河へ討ち入るが、その前に軍評定を済ませておきたい。予が懸念しておるのは西郷や野田菅沼といった者らに退路を遮断されることにある。そのことについて、意見のある者はおるか」
二十五歳となった若き今川家当主からの呼びかけに挙手したのは、三浦右衛門大夫であった。
「御屋形様、然らば小笠原清有殿ら遠江衆の一部を野田城近くの……そうですな、この一鍬田の地まで進出させ、野田城を窺わせてはいかがでしょう。ここへお味方が入れば、野田菅沼は無論のこと、西郷も北へ目を向けねばならなくなり、退路を遮断される恐れはなくなろうかと」
三浦右衛門大夫の進言に名指しされた小笠原清有らは表情を強張らせていたが、その策は氏真の認めるところとなり、刑部からは別動隊として動くこととなり、宇利峠を越えて野田城方面へと進出させる運びとなった。
そうして依然として一万近い数を有する今川軍本隊は本坂道を悠々と進み、吉田城にて三浦右衛門大夫の実父・大原肥前守が招集した東三河の軍勢を加え、豊川の渡河を無事に済ませると牛久保城へ本陣を置いたのである。
この桶狭間合戦の時と比べても遜色ない大軍勢を率い、今川家当主自らが三河へ入ったことの影響は大きかった。
「板倉弾正重定!前へ!」
「ははっ!」
「そなたは中島城、岡城と二度も松平の者共に苦杯を嘗めさせられたであろう」
「はっ!あの折の口惜しさを今日まで、一日たりとも忘れたことはございませぬ!」
「そこでじゃ。松平蔵人佐が進軍してくるであろう山中筋へ、八幡砦を築いて守備にあたれ。此度は砦を奪われること、断じてならぬ!良いな!」
「委細承知いたしました!何があろうとも、この板倉弾正、砦を死守いたしまする!」
「よくぞ申した!倅の主水も連れていくがよい。親子で力を合わせ、砦を堅守せよ!」
板倉弾正重定は松平家への雪辱を晴らすべく、倅の板倉主水を連れて兵を預かって向かっていく。
そのままの語気で氏真は大塚城や平坂街道への抑えとして佐脇砦の普請を命じ、三浦勢に守備にあたるようきつく命じていく。その勇ましい姿に、老臣の中には今は亡き今川義元の面影を感じ取り、肩を震わして泣く者もあった。
「御屋形様、牧野民部丞成定にございまする」
「おう、先般の富永城防衛は見事であったぞ。して、いかがした」
「ははっ、この牛久保城より北、野田城を阻む一宮の地に本多百助信俊とか申す松平家臣が五百の兵で砦を守っておりまする。ここを潰しておかねば、野田城を奪還することは難しかろうかと」
「ふむ。つまりは、予に一宮砦を攻めるべきだと進言しておるわけか」
「はっ、ははっ!無礼なことを申しました」
「よい。真っ当な進言ゆえ、採用することとしようぞ。されど、敵の動きを見てからでなくては予も判断しかねる。ひとまず、八幡砦と佐脇砦が構築できたならば西三河と分断することが叶うであろう」
牧野民部丞は進言の意図を瞬時に把握した氏真の器量が想像以上であることに驚きつつ、それ以上食い下がって不興を買ってはならないと判断し、引き下がった。
「御屋形様、今日のところはお休みになられては」
「うむ。三浦右衛門大夫の申す通りか。慣れぬ進軍で疲れたゆえ、今日は休むこととする。夜襲への備えは抜かるでないぞ」
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1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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