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第4章 苦海の章
第151話 一之宮の後詰
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――今川氏真自らが一万数千もの軍勢で牛久保城に着陣した。
その一報に接して驚愕したのは東三河攻略を担う家老・酒井左衛門尉忠次であった。
自分たちの配備されている山中筋に築かれた八幡砦には今川家臣・板倉弾正重定とその子・主水の父子が守備し、平坂街道への備えとして築かれた佐脇砦にも今川勢が詰めているとあっては、大至急対応せねばならなかった。
「左衛門尉殿、いかがなされるおつもりか」
「そうじゃそうじゃ!」
「両名とも落ち着け。左衛門尉殿、よろしいか。敵は砦を築き、我らの東三河入りを妨げるつもりと見受けられるが、これを捨て置いては殿の武名に傷をつけることにもなろう。あの程度の砦、殿のご出陣を待つまでもなく攻め落とせよう」
考え込む齢三十六の酒井左衛門尉を急かすように、血の気の多い二十一歳の兄・渡辺半蔵守綱と十九歳の弟・渡辺半十郎政綱がまくし立てる。
そう不満を全身から滲ませる渡辺兄弟を制しておきながら、勇猛で知られる矢田作十郎助吉もまた酒井左衛門尉へ砦を攻める方針を採らせようと促していく。
そうした血の気の多い猛将が揃っているということもあり、酒井左衛門尉は強気の決断を下すこととした。
「お主らの申す通りじゃ。あの程度の砦、殿が来られる前に攻め潰し、戦果のほどを岡崎へ注進いたそうぞ!」
こうして酒井左衛門尉ら松平家の先陣による八幡砦攻めは実行に移された。元康の叔母を妻とした、義理の叔父として初めて采配を執る戦でもあり、酒井左衛門尉は普段以上の意気込みを見せた。
さりとて、八幡砦を守備する板倉父子もまた、雪辱を晴らさんとしている者たち。そんな八幡砦は案の定、苦戦の様相を呈した。
「今じゃ!弓隊放て!」
「怯むなっ!敵は熱湯を所望しておるらしいぞ!思う存分敵に馳走してやれ!」
砦防衛を柵の内から督戦する板倉弾正・主水父子の敢闘もあり、松平勢は力攻めでは城を攻め落とすことは難しいことを悟らされていた。
「くそっ!何故、あのような砦一つ落とせぬのだ!」
「半蔵、落ち着け。そうして癇癪を起こしておるようでは落とせる砦も落とせぬわ」
悔し涙をこする渡辺半蔵を慰める酒井左衛門尉であったが、このまま力攻めを続けたとしても犠牲が増すばかりで落とせそうになかった。
ましてや、目の前の牛久保城には今川上総介氏真自らが一万を超える大軍勢で陣取っているのである。もし、城から今川の大軍が打って出てくるようなことがあれば、たちまち先陣は壊滅し、誰一人生きて帰ることはできない。
「やむを得ぬ。ここは一度長沢まで退く。今は分が悪い。無理強いして死傷者を山積させるは愚将の行いぞ」
何も酒井左衛門尉とて撤退したいわけではない。だが、ここで無理に砦を強攻して落とせたとしても、破壊した砦を傷ついた僅かな守備兵で守れるものでもないのだ。となれば、もはや松平先陣に残された選択肢は撤退に他ならなかった。
酒井左衛門尉の下知によって包囲を解き、兵を西へ移動させていく様子は八幡砦内の板倉弾正からもいやというほどよく見えた。
「父上!敵が囲みを解き、撤退していきまするぞ!」
「ふん、この砦を落とせぬと知り、逃げていきよったか。松平も存外大したことないのぅ。牛久保には御屋形様もおられる!ここは打って出て松平勢を撃滅し、褒賞に預かろうぞ!主水!そなたはここに残って守りを固めよ!わしは打って出る!」
「承知!父上、くれぐれもお気をつけて!」
「分かっておるわ!」
板倉弾正はわずか二百ほどの手勢を率いて千をきった松平先陣を追撃。夜陰に紛れて撤退する松平勢を矢の射程に収めた。
「よしっ!腰抜けの松平に我らの恐ろしさ、とくと教えてくれようぞ!弓隊、構えっ!放てっ!」
暗闇に紛れて放たれた矢が意気消沈し、撤退する松平勢を狙い撃つ。この事態に殿を務める矢田作十郎は慌てて槍を手に取り、防戦にあたる。
「ええい!怯むなっ!矢の数からして敵は精々二百そこらじゃ!狼狽えるでない!」
陣頭指揮を執って隊列を整え、迎撃せんと試みる矢田作十郎であったが、次の瞬間、左大腿部にじーんと来る痛みが感じられた。
「うっ、しまった!矢か……!」
さすがの猛将・矢田作十郎といえども、こうも辺りが暗くては飛来する矢を交わすことは至難の業であった。そうして指揮官が矢を受けたことを確認した板倉勢は鬨の声を挙げて殿部隊へと襲いかかる。
「敵将と見受けたり!覚悟!」
「おのれっ、小癪な!」
足を負傷し、思うように戦えない矢田作十郎を討ち取ろうと斬りかかる敵兵。死角に入られたこともあり、反応が間に合わないと矢田作十郎も死を覚悟した刹那、敵兵は馬上から繰り出された槍で串刺しにされていた。
「作十郎殿!大丈夫にござるか!」
「おう!助かった!足を負傷したゆえ、敵兵と渡り合うのに不都合はあれど、指揮を執る分には問題ない!」
「然らば、作十郎殿は指揮をお頼み申す!槍働きは作十郎殿の分も、この渡辺半蔵守綱が引き受けまするゆえ!」
「ちっ、ならば武功はお主に譲ろう!じゃが、死ぬでないぞ!」
矢田作十郎が足を引きずりながら後退するのを見やりながら、渡辺半蔵は馬上でにやりと笑う。
「へっ、誰に向かって言っておる!こんな今川の雑魚どもに不覚を取るものか!」
それからの渡辺半蔵の奮戦は敵味方問わず目を見張るものがあった。馬を返しては敵を蹴散らし、蹴散らしては戻る。また戻っては馬を返して、敵を屠る。そんなことを十度も繰り返し、そのうち二度はわざわざ馬を下りてまで敵と槍を合わせる奮戦ぶり。
その奮戦から、渡辺半蔵守綱は以降「槍の半蔵」の異名となったのである。そんな渡辺半蔵の奮戦もあり、松平勢が板倉弾正の追撃を振り切って撤退した頃、八幡砦の板倉弾正が松平の先陣を蹴散らした報せは牛久保城に本陣を構える今川上総介氏真のもとへも注進された。
「申し上げます!酒井左衛門尉忠次率いる松平勢が八幡砦を攻めるも、板倉弾正父子の奮戦もあり撤退!現在逃げる敵を追い討ちし、数多の首級を挙げたとのこと!」
「板倉弾正と主水の父子へはよくやったと予が申していたと伝えよ。されど、あまり深追いしてはならぬとも伝えておくように」
「ははっ!」
氏真としても酒井左衛門尉は知らぬ仲ではない。元康が竹千代と呼ばれ、駿府へ参った時から付き従う忠臣であることもよく知っている。そんな彼が指揮する松平勢を一蹴したことは、氏真としても幸先が良いと思える勝利であった。
「よし、今ここには一万五千の軍勢がおる。そのうちの五千で一宮砦を包囲させよ。砦には五百ほどしかおらぬと聞く。十倍もの数で囲まれれば、すんなりと降伏しよう」
氏真は牧野民部丞成定の方を見やりながら、彼の進言してきた一宮砦攻めを実行に移す判断をした。
この氏真の命を受けて、速やかに五千もの大軍が北上。本多百助信俊が五百の兵で守備する一宮砦を包囲下に置いたのである。
「本多さま、いかがいたしましょうか」
「恐れるな!所詮、敵は寄せ集めの軍勢じゃ!それに、すぐにも攻め込んでくる様子はない!ここは岡崎城へ救援要請の使者を派遣し、我らは籠城で耐えるのみぞ!」
本多百助の判断もまた迅速なものであった。すぐにも岡崎城にいる主君・元康へ助けを求める使者を送り、それまでは籠城で凌ぐ決断をしたのである。
本多百助の見立て通り、一宮砦を包囲した今川軍は砦を力攻めすることはなく、幾度も降伏勧告の使者を派遣し、無傷で砦を得ようと苦心している様子であった。
そうして今川軍が包囲に留める間、本多百助が派遣した救援を求める使者は岡崎城へたどり着き、元康へ何が起こったのかを説明していた。
元康としても、つい昨日、酒井左衛門尉らが八幡砦攻略に失敗し、追撃を受けて矢田作十郎らが負傷したことをはじめ、数多の死傷者を出したとの報告を受け、苦い想いをしていた。
だが、今川氏真自らが一万を優に超える大軍勢で牛久保城へ入ったこともあって、動く踏ん切りがつかなかったのだ。しかし、本多百助を助けに行くのだと思えば、自然と決断も早かった。
「よし、そなたは戻って本多百助へ伝えよ。わし自らが援軍を率いて救援に参るゆえ、今しばらく砦を守り抜くようにとな!」
「ははっ!」
「者共!陣触れじゃ!使者よりも早く一宮砦へ入るつもりで臨め!出陣じゃ!」
元康はすぐにも岡崎城を出陣した。その数、わずか三千。
敵は牛久保城に今川本隊一万、一宮砦を包囲する部隊だけで五千。これに八幡砦や佐脇砦の兵も加わるのだから、桁違いの数であった。
今川氏真と決戦するとなれば、三千そこらの兵では心もとなかった。しかし、今の今川家の兵力では一万五千という大兵力で長陣はできないことを元康は理解していた。ゆえに、対処法はすでに考えてあった。
――飯尾豊前守連龍は病と称して陣払いをしたが、これは元康と通謀して城へ戻って挙兵するための口実である。
――井伊谷の井伊肥後守直親もまた元康と内通しているやもしれぬ。飯尾とともに反旗を翻したならば、今川軍は本坂道と東海道を封じられて兵粮物資も届かないだけでなく、駿府へ撤退することもままならなくなろう。
――元康はすでに飯尾や井伊を調略しており、彼らが反旗を翻すと同時に西より今川軍へ襲いかかるつもりだ。
そういった事実無根ながらも、有り得なくもないと思える風説を牛久保城下や吉田城下にて雇い入れた甲賀衆を使って広めさせていた。
「これで今川本隊を牛久保城へ釘付けにできればよいが……」
初夏を感じさせる暑さの中、元康は軍勢を率いて東海道を東進した。鐙を踏む足もにわかに震えていたが、やらなければ敵をみすみす家族のいる岡崎まで入れてしまうことにもなる。ここが正念場だと言い聞かせていた。
そうして元康は大胆不敵にも、板倉弾正・主水父子が守る八幡砦と平坂街道を見張る佐脇砦の間を無視するかのように駆け抜けていく。
「よいか!止まるでないぞ!一気に一宮砦まで駆けよ!」
孫子の兵法で言われる『其の疾きこと風の如く』を体現するかのように元康率いる松平勢三千は遮二無二本野ヶ原を駆け抜け、目下包囲され続けている一宮砦を視界に捉えた。
「よしっ、敵は油断しておるぞ!一気に城へ向かって突き進めっ!」
よもや一宮砦を包囲している今川軍も城とは真逆の方向から敵が襲来するとは思ってもみなかった。砦を包囲する軍勢の総勢が五千。
これが野戦であったならば、そう容易く城へ入ることはままならないが、城の東西南北に分散しているため、実際に破る箇所にいる兵よりも松平勢の方がかえって倍以上いることになる。
そんな死に物狂いで向かってくる三千兵が黒い塊となってぶつかり、たちまち包囲軍は崩れ出す。
そこへ応援に駆け付けようとする今川軍に対して、城内から鉄炮が撃ちかけられたり、矢が射かけられたりと文字通りの援護射撃がおこなわれる。
「今じゃ!門を開いて、殿をお迎えせよ!」
厭離穢土欣求浄土の旗を掲げて向かってくる軍勢が誰なのか、一宮砦の守将たる本多百助にとって言うまでもないことであった。本多百助の号令で閉ざされていた門扉が開かれ、元康率いる軍勢が砦へ入る。
「殿!よもやこれほどまでに早い到着とは思わず……!」
「泣くでない、百助!」
肩を震わして号泣する本多百助の肩を叩きながら、元康はまだ気を緩めるわけにいはいかなかった。何せ、包囲する敵が先ほどまでの気の抜けた陣構えではなくなっているのだから。
「敵は恐らく、牛久保城へ殿が一宮砦へ入ったことを報せに走っておりましょう」
「そうであろう。されど、焦ってはならぬ。まずは敵の動きを見極めてからじゃ」
ひとまず、松平勢は一宮砦にて一夜を明かすこととした。夜が空ける頃には敵にも何らかの動きがあるだろうと踏んでのことである。
そうして明朝卯の刻。岡崎城のある東より太陽が昇り、大地を照らし始める頃。松平勢は動き出す。
「百助を殿とし、打って出る!よいか、包囲する敵を蹴散らし、岡崎城までただひたすらに駆け抜けよ!決して止まってはならぬぞ!」
元康の号令に勇ましく返事をした総勢三千五百の松平勢は一宮砦を出撃。本野ヶ原を駆け抜けていく行きと同じ行路を選択し、大した犠牲を出すこともなく岡崎城まで引き退いたのであった。
今川軍は牛久保城近辺に一万五千もの数がいたにも関わらず、敵の総大将・松平元康をみすみす討ち漏らし、元康としても貴重な東三河の拠点・一宮砦を放棄したことは大きな損失を蒙る結果ともなった。
そのような中、今しばらく松平と今川の東三河をめぐる抗争は継続されていくのである――
その一報に接して驚愕したのは東三河攻略を担う家老・酒井左衛門尉忠次であった。
自分たちの配備されている山中筋に築かれた八幡砦には今川家臣・板倉弾正重定とその子・主水の父子が守備し、平坂街道への備えとして築かれた佐脇砦にも今川勢が詰めているとあっては、大至急対応せねばならなかった。
「左衛門尉殿、いかがなされるおつもりか」
「そうじゃそうじゃ!」
「両名とも落ち着け。左衛門尉殿、よろしいか。敵は砦を築き、我らの東三河入りを妨げるつもりと見受けられるが、これを捨て置いては殿の武名に傷をつけることにもなろう。あの程度の砦、殿のご出陣を待つまでもなく攻め落とせよう」
考え込む齢三十六の酒井左衛門尉を急かすように、血の気の多い二十一歳の兄・渡辺半蔵守綱と十九歳の弟・渡辺半十郎政綱がまくし立てる。
そう不満を全身から滲ませる渡辺兄弟を制しておきながら、勇猛で知られる矢田作十郎助吉もまた酒井左衛門尉へ砦を攻める方針を採らせようと促していく。
そうした血の気の多い猛将が揃っているということもあり、酒井左衛門尉は強気の決断を下すこととした。
「お主らの申す通りじゃ。あの程度の砦、殿が来られる前に攻め潰し、戦果のほどを岡崎へ注進いたそうぞ!」
こうして酒井左衛門尉ら松平家の先陣による八幡砦攻めは実行に移された。元康の叔母を妻とした、義理の叔父として初めて采配を執る戦でもあり、酒井左衛門尉は普段以上の意気込みを見せた。
さりとて、八幡砦を守備する板倉父子もまた、雪辱を晴らさんとしている者たち。そんな八幡砦は案の定、苦戦の様相を呈した。
「今じゃ!弓隊放て!」
「怯むなっ!敵は熱湯を所望しておるらしいぞ!思う存分敵に馳走してやれ!」
砦防衛を柵の内から督戦する板倉弾正・主水父子の敢闘もあり、松平勢は力攻めでは城を攻め落とすことは難しいことを悟らされていた。
「くそっ!何故、あのような砦一つ落とせぬのだ!」
「半蔵、落ち着け。そうして癇癪を起こしておるようでは落とせる砦も落とせぬわ」
悔し涙をこする渡辺半蔵を慰める酒井左衛門尉であったが、このまま力攻めを続けたとしても犠牲が増すばかりで落とせそうになかった。
ましてや、目の前の牛久保城には今川上総介氏真自らが一万を超える大軍勢で陣取っているのである。もし、城から今川の大軍が打って出てくるようなことがあれば、たちまち先陣は壊滅し、誰一人生きて帰ることはできない。
「やむを得ぬ。ここは一度長沢まで退く。今は分が悪い。無理強いして死傷者を山積させるは愚将の行いぞ」
何も酒井左衛門尉とて撤退したいわけではない。だが、ここで無理に砦を強攻して落とせたとしても、破壊した砦を傷ついた僅かな守備兵で守れるものでもないのだ。となれば、もはや松平先陣に残された選択肢は撤退に他ならなかった。
酒井左衛門尉の下知によって包囲を解き、兵を西へ移動させていく様子は八幡砦内の板倉弾正からもいやというほどよく見えた。
「父上!敵が囲みを解き、撤退していきまするぞ!」
「ふん、この砦を落とせぬと知り、逃げていきよったか。松平も存外大したことないのぅ。牛久保には御屋形様もおられる!ここは打って出て松平勢を撃滅し、褒賞に預かろうぞ!主水!そなたはここに残って守りを固めよ!わしは打って出る!」
「承知!父上、くれぐれもお気をつけて!」
「分かっておるわ!」
板倉弾正はわずか二百ほどの手勢を率いて千をきった松平先陣を追撃。夜陰に紛れて撤退する松平勢を矢の射程に収めた。
「よしっ!腰抜けの松平に我らの恐ろしさ、とくと教えてくれようぞ!弓隊、構えっ!放てっ!」
暗闇に紛れて放たれた矢が意気消沈し、撤退する松平勢を狙い撃つ。この事態に殿を務める矢田作十郎は慌てて槍を手に取り、防戦にあたる。
「ええい!怯むなっ!矢の数からして敵は精々二百そこらじゃ!狼狽えるでない!」
陣頭指揮を執って隊列を整え、迎撃せんと試みる矢田作十郎であったが、次の瞬間、左大腿部にじーんと来る痛みが感じられた。
「うっ、しまった!矢か……!」
さすがの猛将・矢田作十郎といえども、こうも辺りが暗くては飛来する矢を交わすことは至難の業であった。そうして指揮官が矢を受けたことを確認した板倉勢は鬨の声を挙げて殿部隊へと襲いかかる。
「敵将と見受けたり!覚悟!」
「おのれっ、小癪な!」
足を負傷し、思うように戦えない矢田作十郎を討ち取ろうと斬りかかる敵兵。死角に入られたこともあり、反応が間に合わないと矢田作十郎も死を覚悟した刹那、敵兵は馬上から繰り出された槍で串刺しにされていた。
「作十郎殿!大丈夫にござるか!」
「おう!助かった!足を負傷したゆえ、敵兵と渡り合うのに不都合はあれど、指揮を執る分には問題ない!」
「然らば、作十郎殿は指揮をお頼み申す!槍働きは作十郎殿の分も、この渡辺半蔵守綱が引き受けまするゆえ!」
「ちっ、ならば武功はお主に譲ろう!じゃが、死ぬでないぞ!」
矢田作十郎が足を引きずりながら後退するのを見やりながら、渡辺半蔵は馬上でにやりと笑う。
「へっ、誰に向かって言っておる!こんな今川の雑魚どもに不覚を取るものか!」
それからの渡辺半蔵の奮戦は敵味方問わず目を見張るものがあった。馬を返しては敵を蹴散らし、蹴散らしては戻る。また戻っては馬を返して、敵を屠る。そんなことを十度も繰り返し、そのうち二度はわざわざ馬を下りてまで敵と槍を合わせる奮戦ぶり。
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「申し上げます!酒井左衛門尉忠次率いる松平勢が八幡砦を攻めるも、板倉弾正父子の奮戦もあり撤退!現在逃げる敵を追い討ちし、数多の首級を挙げたとのこと!」
「板倉弾正と主水の父子へはよくやったと予が申していたと伝えよ。されど、あまり深追いしてはならぬとも伝えておくように」
「ははっ!」
氏真としても酒井左衛門尉は知らぬ仲ではない。元康が竹千代と呼ばれ、駿府へ参った時から付き従う忠臣であることもよく知っている。そんな彼が指揮する松平勢を一蹴したことは、氏真としても幸先が良いと思える勝利であった。
「よし、今ここには一万五千の軍勢がおる。そのうちの五千で一宮砦を包囲させよ。砦には五百ほどしかおらぬと聞く。十倍もの数で囲まれれば、すんなりと降伏しよう」
氏真は牧野民部丞成定の方を見やりながら、彼の進言してきた一宮砦攻めを実行に移す判断をした。
この氏真の命を受けて、速やかに五千もの大軍が北上。本多百助信俊が五百の兵で守備する一宮砦を包囲下に置いたのである。
「本多さま、いかがいたしましょうか」
「恐れるな!所詮、敵は寄せ集めの軍勢じゃ!それに、すぐにも攻め込んでくる様子はない!ここは岡崎城へ救援要請の使者を派遣し、我らは籠城で耐えるのみぞ!」
本多百助の判断もまた迅速なものであった。すぐにも岡崎城にいる主君・元康へ助けを求める使者を送り、それまでは籠城で凌ぐ決断をしたのである。
本多百助の見立て通り、一宮砦を包囲した今川軍は砦を力攻めすることはなく、幾度も降伏勧告の使者を派遣し、無傷で砦を得ようと苦心している様子であった。
そうして今川軍が包囲に留める間、本多百助が派遣した救援を求める使者は岡崎城へたどり着き、元康へ何が起こったのかを説明していた。
元康としても、つい昨日、酒井左衛門尉らが八幡砦攻略に失敗し、追撃を受けて矢田作十郎らが負傷したことをはじめ、数多の死傷者を出したとの報告を受け、苦い想いをしていた。
だが、今川氏真自らが一万を優に超える大軍勢で牛久保城へ入ったこともあって、動く踏ん切りがつかなかったのだ。しかし、本多百助を助けに行くのだと思えば、自然と決断も早かった。
「よし、そなたは戻って本多百助へ伝えよ。わし自らが援軍を率いて救援に参るゆえ、今しばらく砦を守り抜くようにとな!」
「ははっ!」
「者共!陣触れじゃ!使者よりも早く一宮砦へ入るつもりで臨め!出陣じゃ!」
元康はすぐにも岡崎城を出陣した。その数、わずか三千。
敵は牛久保城に今川本隊一万、一宮砦を包囲する部隊だけで五千。これに八幡砦や佐脇砦の兵も加わるのだから、桁違いの数であった。
今川氏真と決戦するとなれば、三千そこらの兵では心もとなかった。しかし、今の今川家の兵力では一万五千という大兵力で長陣はできないことを元康は理解していた。ゆえに、対処法はすでに考えてあった。
――飯尾豊前守連龍は病と称して陣払いをしたが、これは元康と通謀して城へ戻って挙兵するための口実である。
――井伊谷の井伊肥後守直親もまた元康と内通しているやもしれぬ。飯尾とともに反旗を翻したならば、今川軍は本坂道と東海道を封じられて兵粮物資も届かないだけでなく、駿府へ撤退することもままならなくなろう。
――元康はすでに飯尾や井伊を調略しており、彼らが反旗を翻すと同時に西より今川軍へ襲いかかるつもりだ。
そういった事実無根ながらも、有り得なくもないと思える風説を牛久保城下や吉田城下にて雇い入れた甲賀衆を使って広めさせていた。
「これで今川本隊を牛久保城へ釘付けにできればよいが……」
初夏を感じさせる暑さの中、元康は軍勢を率いて東海道を東進した。鐙を踏む足もにわかに震えていたが、やらなければ敵をみすみす家族のいる岡崎まで入れてしまうことにもなる。ここが正念場だと言い聞かせていた。
そうして元康は大胆不敵にも、板倉弾正・主水父子が守る八幡砦と平坂街道を見張る佐脇砦の間を無視するかのように駆け抜けていく。
「よいか!止まるでないぞ!一気に一宮砦まで駆けよ!」
孫子の兵法で言われる『其の疾きこと風の如く』を体現するかのように元康率いる松平勢三千は遮二無二本野ヶ原を駆け抜け、目下包囲され続けている一宮砦を視界に捉えた。
「よしっ、敵は油断しておるぞ!一気に城へ向かって突き進めっ!」
よもや一宮砦を包囲している今川軍も城とは真逆の方向から敵が襲来するとは思ってもみなかった。砦を包囲する軍勢の総勢が五千。
これが野戦であったならば、そう容易く城へ入ることはままならないが、城の東西南北に分散しているため、実際に破る箇所にいる兵よりも松平勢の方がかえって倍以上いることになる。
そんな死に物狂いで向かってくる三千兵が黒い塊となってぶつかり、たちまち包囲軍は崩れ出す。
そこへ応援に駆け付けようとする今川軍に対して、城内から鉄炮が撃ちかけられたり、矢が射かけられたりと文字通りの援護射撃がおこなわれる。
「今じゃ!門を開いて、殿をお迎えせよ!」
厭離穢土欣求浄土の旗を掲げて向かってくる軍勢が誰なのか、一宮砦の守将たる本多百助にとって言うまでもないことであった。本多百助の号令で閉ざされていた門扉が開かれ、元康率いる軍勢が砦へ入る。
「殿!よもやこれほどまでに早い到着とは思わず……!」
「泣くでない、百助!」
肩を震わして号泣する本多百助の肩を叩きながら、元康はまだ気を緩めるわけにいはいかなかった。何せ、包囲する敵が先ほどまでの気の抜けた陣構えではなくなっているのだから。
「敵は恐らく、牛久保城へ殿が一宮砦へ入ったことを報せに走っておりましょう」
「そうであろう。されど、焦ってはならぬ。まずは敵の動きを見極めてからじゃ」
ひとまず、松平勢は一宮砦にて一夜を明かすこととした。夜が空ける頃には敵にも何らかの動きがあるだろうと踏んでのことである。
そうして明朝卯の刻。岡崎城のある東より太陽が昇り、大地を照らし始める頃。松平勢は動き出す。
「百助を殿とし、打って出る!よいか、包囲する敵を蹴散らし、岡崎城までただひたすらに駆け抜けよ!決して止まってはならぬぞ!」
元康の号令に勇ましく返事をした総勢三千五百の松平勢は一宮砦を出撃。本野ヶ原を駆け抜けていく行きと同じ行路を選択し、大した犠牲を出すこともなく岡崎城まで引き退いたのであった。
今川軍は牛久保城近辺に一万五千もの数がいたにも関わらず、敵の総大将・松平元康をみすみす討ち漏らし、元康としても貴重な東三河の拠点・一宮砦を放棄したことは大きな損失を蒙る結果ともなった。
そのような中、今しばらく松平と今川の東三河をめぐる抗争は継続されていくのである――
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