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第4章 苦海の章
第153話 禍福は糾える縄の如し
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一宮砦への後詰めを完遂し、五井松平元心への弔問を済ませた元康は翌八月二日、敬慕していた大叔母・随念院の一周忌を迎えていた。
「殿」
「おお、これは継母上。それに母上たちも皆お揃いで」
元康にとっては育ての母とも呼べる随念院の法要ということもあり、生母である於大の方や継父・久松佐渡守、継母の田原御前といった親族も参列していた。
「妾が先代の広忠公と離縁し、水野家へ戻された後、蔵人佐殿の養育にあたってくださったのが随念院様じゃ。感謝してもし足りぬほどじゃ」
「母上は大叔母上とは面識があったのですか」
「ええ、同じ城で暮らしておれば、幾度も顔を合わせました。水野家から嫁いだ妾にも優しくしてくださる方でした」
於大の方が目を閉じ、冥福を祈っている。そんな彼女と同じく、随念院に嫁いできたばかりの頃から目をかけてもらっていた田原御前も合掌している。
「よもや、父上の正室二人が揃って今では同じ岡崎に暮らしておろうとは、大叔母上も父上も黄泉にて驚いておりましょう」
「ほほほ、そうでありましょうか。いえ、そうあればよいのです」
於大の方と田原御前はいがみ合うかに思われたが、意外に気が合うのか、法要を終えた後は仲良さげに言葉を交わし、笑いあっていた。
「そうじゃ、蔵人佐殿。一周忌法要に際して、大樹寺十五世黁誉魯聞を開山に寺を造営なされたとか」
「さすがは継父上、お耳が早い。寺の名前は大叔母上の法名である随念院殿桂室泰栄大禅定尼にちなんで、随念寺と名付けてございます」
「随念寺。こう、心に響くものがございまするな」
「ははは、それならば良いのですが」
久松佐渡守とは建立したばかりの随念寺のことについて、あれやこれやと話をしていく。そうした中で元康は随念院との思い出話を披露し、より継父との親交を深めていく。
「そうじゃ、蔵人佐殿。此度、一周忌を迎えられた随念院様のことじゃが、夫であった足助真弓山城の鈴木重直と、実の息子である大給城の松平和泉守親乗は何ぞ便りなどはなかったので」
「いや、まったくござらぬ。敵対しておるゆえ法要に参加できぬとはいえ、弔意を示すこともなく戦ばかりしておる者共じゃ。これでは大叔母上とて浮かばれまい」
「蔵人佐殿は両家を滅ぼされるおつもりか」
「言わずもがな、某に従わぬとあっては成敗するよりほかはない。育ての母の夫だの息子だのに捉われていては三河一統など夢のまた夢でありましょう。たとえ、親兄弟であっても容赦はせぬつもりにございます」
「では、わしも蔵人佐殿に成敗されぬよう、忠節を尽くすこととしようぞ」
「ははは、ご冗談を。継父上が某を裏切るような御仁だとは露ほども思っておりませぬゆえ、不安に感じられることではございませぬ」
随念院の二人目の夫・鈴木重直と随念院を実の母に持つ松平和泉守親乗は、元康が今川家を離反してより未だ降伏することなく抵抗を続けている。
こうした元康に従わない三河の勢力は未だ多く存在する。これらを未だ従えることができていないことに、元康はもどかしさを感じてもいた。
「蔵人佐殿、焦るお気持ちは分かりまするが、決して焦ってはなりませぬぞ」
「それは分かっておりまする。されど、時をかけては今川方を勢いづかせるばかり。多少無理をしてでも戦をせねばなりませぬ」
久松佐渡守は義理の息子・元康の瞳からにじみ出る焦りという感情を見逃さなかった。しかし、彼の言葉で元康が止まるはずもなく、取りつかれたように三河一統への道を突き進んでいく。
そんな矢先のことである。九月に入った頃、平坂街道沿いの大塚城にて異変が起こった。
昨年、牧野民部丞成定から離反した岩瀬吉右衛門は幾度となく、牧野勢の攻撃から大塚城を守り抜いていたが、今川氏真が東三河へ入ったことの余波が秋口になって出始めることとなる。
「いっ、家久!父に刃を向けるとは何のつもりじゃ!目を覚ませ!」
「目を覚まさねばならぬのは父上の方じゃ!主家である牧野家を離反してまで裏切り者の松平なんぞに与するとは!」
父・岩瀬吉右衛門は松平方であったが、子・岩瀬家久は今川方の牧野家への帰順を主張。物騒極まりない親子喧嘩が勃発してしまったのである。
しかし、父の方針に以前から不満を抱いていた岩瀬家久は手勢だけでは城を制圧できないと考え、秘策を用意していた。
いざ抗争が勃発すると、城内から鬨の声が上がり、城の各所から丸に三つ柏の旗指物をつけた兵士らが雪崩れ込み、かえって岩瀬吉右衛門が不利な局面に立たされていた。
「家久!さては、城内に敵を手引きしたか!」
「いかにも!」
気づけば、岩瀬吉右衛門の周囲は近臣を除けば、牛久保城からやって来た牧野勢にぐるりと取り囲まれていた。
「岩瀬家久、此度の内応、まこと見事であった」
「これは殿!」
岩瀬家久の背後から姿を現したのは、岩瀬吉右衛門のかつての主君・牧野民部丞成定その人であった。
「岩瀬吉右衛門、これが最後じゃ。今わしに降伏すれば帰参することを許そう」
「否と申したならば?」
「あの世で首を長くしてお主が来るのを待っておろう、稲垣氏連のもとへ参ることとなろう!」
――否と申したならば共に牧野家を離反した稲垣氏連の後を追って、お前も死ぬことになる。
牧野民部丞が発した言葉はそう言った意味合いのものであった。取り囲まれて絶体絶命の岩瀬吉右衛門は否応なしに従う。そこまでを算段してのものであった。
「断る!」
そう言うなり目の前の牧野兵へ斬りかかり、牧野民部丞のもとへ突進しようとする。しかし、兵士たちは主君のもとへ近づけさせまいと容赦なく、岩瀬吉右衛門へあらゆる角度から槍で刺し貫いた。
兵士らが槍を引き抜くと、魂の抜けた岩瀬吉右衛門は冷たく床へ転がっている。彼に付き従った家臣たちは全員が主君の後を追うかのように自害してしまったのであった。
「殿。父の無礼、何卒お許しくださいませ」
「よい。何もそなたが悪いのではない。城はそなたが守備につくのだ。良いな」
牧野民部丞がそう吐き捨てていった言葉に、岩瀬家久は何も言わずに従った。そうして冷たくなった父の骸を埋葬すると、自らが城将として収まった。
この変事によって平坂街道沿いの大塚城が今川方に転じてしまい、隣接する五井松平家にとっては由々しき事態となったのである。
そんな九月の十一日には西郷孫九郎にとっては父・弾正左衛門正勝と兄・孫六郎元正の二人を一気に失った五本松城の戦いから一年が過ぎ、彼らの一周忌にもあたる日となった。
加えて、元康にとってもその二日後の十三日には大久保大八郎忠包らが討ち死にし、本多豊後守広孝が富永伴五郎忠元を討ち取った藤波畷の戦いから一年、彼らの一周忌法要が営まれる時分となっていた。
それから幾日も過ぎた九月下旬。元康は死者たちが託していった想いを胸に、東三河の戦場に立っていた。
そんな御油台にて板倉弾正・主水父子率いる東三河に駐留する今川軍と対峙する元康のもとへ、家老・酒井左衛門尉忠次がとある報せを持って戻ってきた。
「左衛門尉、敵に何ぞ動きでもあったか!」
「敵……と申せば、そうなりまするが……」
「ええい、言葉を濁すな!わしは合戦前で気が立っておるのだ」
「はっ、然らば申し上げます。今月十八日、殿の命を受けて以前より調略しておりました信濃国伊那郡飯田城主の坂西永忠殿が所領をめぐって対立していた同郡松尾城主の小笠原掃部大夫信嶺と交戦に及んだとのこと!」
奥三河の国衆らへ圧力をかける狙いで信濃国へと調略の手を伸ばしていた元康。運よく武田家へ不平不満を抱えていた坂西永忠が調略に乗って蜂起したのである。そこまでは良かった。
「なんと!して、合戦の結果やいかに!?」
「申し上げにくきことながら、坂西永忠殿は合戦に敗れ、木曽郡へと放逐された気《げ》にございまする」
「左様か。じゃが、武田家の信濃支配へ調略できる隙があるとは望外の成果であった」
「はい。されど、当家の関与が知れれば、厄介なことになりましょう」
「そうであろうな。ゆえに、書状ではなく、使者を介して口頭のみでやり取りさせておいたのじゃ。さほど武田家に発覚することを恐れる必要はなかろう」
元康は酒井左衛門尉を安心させる方便として、そう言い切った。しかし、もし信濃国への調略が武田信玄の知るところとなれば、それが何を意味するのか。考えているうちに恐ろしく思えてならない事柄ではあった。
「左衛門尉、その後の信濃国の情勢は何か聞いておらぬか」
「いえ、何も。おそらく、迎撃した小笠原掃部大夫より坂西永忠殿と交戦したことを報せる早馬が飛ばされた頃にございましょう」
「たしか武田軍は武州松山城攻めへ向かっておるのであったか」
「はい。力攻めにはしておらぬと耳にしておりまするゆえ、兵糧攻めを行っておるのではないかと」
「ともすれば、坂西永忠がことを知られても武田軍が矛先をすぐさま転じてくることはなかろうか」
武田軍の眼は目下関東へと注がれている。松山城が陥落したならば矛先を転じてくる恐れもあったが、今川氏真よりも先に三河へ兵を向ける可能性は低かった。
「左衛門尉、信濃のことはよい。今は目の前の敵を撃滅するところからぞ」
「いかにも。某も一度不覚を取った相手にございます。気を引き締めて戦に臨みまする!」
元康よりも戦慣れしている酒井左衛門尉率いる松平勢をはじき返した板倉弾正重定・主水父子。彼らが率いる今川勢を蹴散らせなければ、牛久保城攻略どころではなくなってしまう。
「時をかけては牛久保城や吉田城から敵の後詰めが参ろう。ここは短期決戦しかあるまい!貝を吹け!出陣じゃ!」
先に動いたのは元康率いる松平勢。数的有利を活かし、貪欲に勝利を求めて目の前の今川勢へ食らいついた。
「父上!敵が進んで参りましたぞ!」
「相分かった!主水!矢を射かけよ!敵の勢いを削ぐのじゃ!」
「承知!」
板倉弾正の沈着な対応により、今川勢から矢が放たれる。松平勢の勢いが削げるかに見えたが、しっかりと飛来する矢を木楯で受けながら徒歩武者は前進し、騎馬武者たちも致命傷を負っていない限り、勢いに任せて突っ込んだ。
入り乱れての白兵戦へともつれ込んだ御油台合戦であったが、当主自らが前線にまで出張ってきて意気軒高な松平勢相手では板倉弾正ら今川勢では受け止めきれなかった。
たちまち壊走となり、続く八幡・佐脇合戦にて勢いを盛り返さんと陣形を整え待ち構えるも、これもまた勢いそのままに突き進んできた松平勢に惨敗することとなった。
「父上!ここは砦まで退けば勝機もありましょう!」
「否とよ、主水。見てみよ、この五十にも満たない手勢で八幡砦へ入ったとて兵の数が足らぬでは守り切れぬ」
「そ、それは……」
「ここは牛久保城まで下がり、吉田城の大原肥前守殿とともに対策を協議するべきじゃ」
八幡砦にて最後まで抵抗すべきと主張していた板倉主水であったが、父の意見の方が良いと判断し、それに従おうと決めた。しかし、運命という殺戮者は敗者を決して逃がさない。
「いたぞ!あれが板倉弾正じゃ!」
「おう、板倉主水もおるぞ!あの父子を討ち取れば大手柄ものじゃ!」
気づけば、板倉父子の周囲は追撃してきた松平勢によって蟻の這い出る隙もないほどに取り囲まれてしまっていた。
「ち、父上……」
「敵の数は我らの倍はおろう。もはや天運も尽きたか――」
群がる松平勢を相手に板倉父子は最後まで抗ったが、彼らの首級は八幡砦と佐脇砦を陥落させて首実験をする元康の前へと並べられていた。
「左衛門尉。見よ、板倉弾正重定とその子の板倉主水の首も並んでおる」
「最後まで抵抗することを諦めず、討ち取るのにも手を焼いたと耳にしておりまする」
「うむ。まこと惜しい武士であった。我らに味方すれば、さぞかし頼もしかったであろうに」
「それを申してはなりませぬ。これも天運にございますれば……」
元康は酒井左衛門尉の言葉を聞きながら静かに合掌する。板倉父子だけでなく、今回の合戦で散っていった敵方の勇敢な武者たちの冥福を祈って。
「左衛門尉、此度の合戦にて今川勢が築いた砦は陥落せしめた。これにて大塚城を含め、牧野領へと再び兵を進めることができよう」
「いかにも。されど、牧野民部丞と牛久保六騎の者らは強者揃い。一層気を引き締めてかからねばなりませぬな」
「うむ。じゃが、牛久保城が敵の手にある限り、今川軍は安全に豊川を渡ってこられるのじゃ。何があろうと、落とさねばならぬ」
合掌していた手を握り拳に変え、元康は一里半ほど先に見える牛久保城を見据えるのであった――
「殿」
「おお、これは継母上。それに母上たちも皆お揃いで」
元康にとっては育ての母とも呼べる随念院の法要ということもあり、生母である於大の方や継父・久松佐渡守、継母の田原御前といった親族も参列していた。
「妾が先代の広忠公と離縁し、水野家へ戻された後、蔵人佐殿の養育にあたってくださったのが随念院様じゃ。感謝してもし足りぬほどじゃ」
「母上は大叔母上とは面識があったのですか」
「ええ、同じ城で暮らしておれば、幾度も顔を合わせました。水野家から嫁いだ妾にも優しくしてくださる方でした」
於大の方が目を閉じ、冥福を祈っている。そんな彼女と同じく、随念院に嫁いできたばかりの頃から目をかけてもらっていた田原御前も合掌している。
「よもや、父上の正室二人が揃って今では同じ岡崎に暮らしておろうとは、大叔母上も父上も黄泉にて驚いておりましょう」
「ほほほ、そうでありましょうか。いえ、そうあればよいのです」
於大の方と田原御前はいがみ合うかに思われたが、意外に気が合うのか、法要を終えた後は仲良さげに言葉を交わし、笑いあっていた。
「そうじゃ、蔵人佐殿。一周忌法要に際して、大樹寺十五世黁誉魯聞を開山に寺を造営なされたとか」
「さすがは継父上、お耳が早い。寺の名前は大叔母上の法名である随念院殿桂室泰栄大禅定尼にちなんで、随念寺と名付けてございます」
「随念寺。こう、心に響くものがございまするな」
「ははは、それならば良いのですが」
久松佐渡守とは建立したばかりの随念寺のことについて、あれやこれやと話をしていく。そうした中で元康は随念院との思い出話を披露し、より継父との親交を深めていく。
「そうじゃ、蔵人佐殿。此度、一周忌を迎えられた随念院様のことじゃが、夫であった足助真弓山城の鈴木重直と、実の息子である大給城の松平和泉守親乗は何ぞ便りなどはなかったので」
「いや、まったくござらぬ。敵対しておるゆえ法要に参加できぬとはいえ、弔意を示すこともなく戦ばかりしておる者共じゃ。これでは大叔母上とて浮かばれまい」
「蔵人佐殿は両家を滅ぼされるおつもりか」
「言わずもがな、某に従わぬとあっては成敗するよりほかはない。育ての母の夫だの息子だのに捉われていては三河一統など夢のまた夢でありましょう。たとえ、親兄弟であっても容赦はせぬつもりにございます」
「では、わしも蔵人佐殿に成敗されぬよう、忠節を尽くすこととしようぞ」
「ははは、ご冗談を。継父上が某を裏切るような御仁だとは露ほども思っておりませぬゆえ、不安に感じられることではございませぬ」
随念院の二人目の夫・鈴木重直と随念院を実の母に持つ松平和泉守親乗は、元康が今川家を離反してより未だ降伏することなく抵抗を続けている。
こうした元康に従わない三河の勢力は未だ多く存在する。これらを未だ従えることができていないことに、元康はもどかしさを感じてもいた。
「蔵人佐殿、焦るお気持ちは分かりまするが、決して焦ってはなりませぬぞ」
「それは分かっておりまする。されど、時をかけては今川方を勢いづかせるばかり。多少無理をしてでも戦をせねばなりませぬ」
久松佐渡守は義理の息子・元康の瞳からにじみ出る焦りという感情を見逃さなかった。しかし、彼の言葉で元康が止まるはずもなく、取りつかれたように三河一統への道を突き進んでいく。
そんな矢先のことである。九月に入った頃、平坂街道沿いの大塚城にて異変が起こった。
昨年、牧野民部丞成定から離反した岩瀬吉右衛門は幾度となく、牧野勢の攻撃から大塚城を守り抜いていたが、今川氏真が東三河へ入ったことの余波が秋口になって出始めることとなる。
「いっ、家久!父に刃を向けるとは何のつもりじゃ!目を覚ませ!」
「目を覚まさねばならぬのは父上の方じゃ!主家である牧野家を離反してまで裏切り者の松平なんぞに与するとは!」
父・岩瀬吉右衛門は松平方であったが、子・岩瀬家久は今川方の牧野家への帰順を主張。物騒極まりない親子喧嘩が勃発してしまったのである。
しかし、父の方針に以前から不満を抱いていた岩瀬家久は手勢だけでは城を制圧できないと考え、秘策を用意していた。
いざ抗争が勃発すると、城内から鬨の声が上がり、城の各所から丸に三つ柏の旗指物をつけた兵士らが雪崩れ込み、かえって岩瀬吉右衛門が不利な局面に立たされていた。
「家久!さては、城内に敵を手引きしたか!」
「いかにも!」
気づけば、岩瀬吉右衛門の周囲は近臣を除けば、牛久保城からやって来た牧野勢にぐるりと取り囲まれていた。
「岩瀬家久、此度の内応、まこと見事であった」
「これは殿!」
岩瀬家久の背後から姿を現したのは、岩瀬吉右衛門のかつての主君・牧野民部丞成定その人であった。
「岩瀬吉右衛門、これが最後じゃ。今わしに降伏すれば帰参することを許そう」
「否と申したならば?」
「あの世で首を長くしてお主が来るのを待っておろう、稲垣氏連のもとへ参ることとなろう!」
――否と申したならば共に牧野家を離反した稲垣氏連の後を追って、お前も死ぬことになる。
牧野民部丞が発した言葉はそう言った意味合いのものであった。取り囲まれて絶体絶命の岩瀬吉右衛門は否応なしに従う。そこまでを算段してのものであった。
「断る!」
そう言うなり目の前の牧野兵へ斬りかかり、牧野民部丞のもとへ突進しようとする。しかし、兵士たちは主君のもとへ近づけさせまいと容赦なく、岩瀬吉右衛門へあらゆる角度から槍で刺し貫いた。
兵士らが槍を引き抜くと、魂の抜けた岩瀬吉右衛門は冷たく床へ転がっている。彼に付き従った家臣たちは全員が主君の後を追うかのように自害してしまったのであった。
「殿。父の無礼、何卒お許しくださいませ」
「よい。何もそなたが悪いのではない。城はそなたが守備につくのだ。良いな」
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加えて、元康にとってもその二日後の十三日には大久保大八郎忠包らが討ち死にし、本多豊後守広孝が富永伴五郎忠元を討ち取った藤波畷の戦いから一年、彼らの一周忌法要が営まれる時分となっていた。
それから幾日も過ぎた九月下旬。元康は死者たちが託していった想いを胸に、東三河の戦場に立っていた。
そんな御油台にて板倉弾正・主水父子率いる東三河に駐留する今川軍と対峙する元康のもとへ、家老・酒井左衛門尉忠次がとある報せを持って戻ってきた。
「左衛門尉、敵に何ぞ動きでもあったか!」
「敵……と申せば、そうなりまするが……」
「ええい、言葉を濁すな!わしは合戦前で気が立っておるのだ」
「はっ、然らば申し上げます。今月十八日、殿の命を受けて以前より調略しておりました信濃国伊那郡飯田城主の坂西永忠殿が所領をめぐって対立していた同郡松尾城主の小笠原掃部大夫信嶺と交戦に及んだとのこと!」
奥三河の国衆らへ圧力をかける狙いで信濃国へと調略の手を伸ばしていた元康。運よく武田家へ不平不満を抱えていた坂西永忠が調略に乗って蜂起したのである。そこまでは良かった。
「なんと!して、合戦の結果やいかに!?」
「申し上げにくきことながら、坂西永忠殿は合戦に敗れ、木曽郡へと放逐された気《げ》にございまする」
「左様か。じゃが、武田家の信濃支配へ調略できる隙があるとは望外の成果であった」
「はい。されど、当家の関与が知れれば、厄介なことになりましょう」
「そうであろうな。ゆえに、書状ではなく、使者を介して口頭のみでやり取りさせておいたのじゃ。さほど武田家に発覚することを恐れる必要はなかろう」
元康は酒井左衛門尉を安心させる方便として、そう言い切った。しかし、もし信濃国への調略が武田信玄の知るところとなれば、それが何を意味するのか。考えているうちに恐ろしく思えてならない事柄ではあった。
「左衛門尉、その後の信濃国の情勢は何か聞いておらぬか」
「いえ、何も。おそらく、迎撃した小笠原掃部大夫より坂西永忠殿と交戦したことを報せる早馬が飛ばされた頃にございましょう」
「たしか武田軍は武州松山城攻めへ向かっておるのであったか」
「はい。力攻めにはしておらぬと耳にしておりまするゆえ、兵糧攻めを行っておるのではないかと」
「ともすれば、坂西永忠がことを知られても武田軍が矛先をすぐさま転じてくることはなかろうか」
武田軍の眼は目下関東へと注がれている。松山城が陥落したならば矛先を転じてくる恐れもあったが、今川氏真よりも先に三河へ兵を向ける可能性は低かった。
「左衛門尉、信濃のことはよい。今は目の前の敵を撃滅するところからぞ」
「いかにも。某も一度不覚を取った相手にございます。気を引き締めて戦に臨みまする!」
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「時をかけては牛久保城や吉田城から敵の後詰めが参ろう。ここは短期決戦しかあるまい!貝を吹け!出陣じゃ!」
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「父上!敵が進んで参りましたぞ!」
「相分かった!主水!矢を射かけよ!敵の勢いを削ぐのじゃ!」
「承知!」
板倉弾正の沈着な対応により、今川勢から矢が放たれる。松平勢の勢いが削げるかに見えたが、しっかりと飛来する矢を木楯で受けながら徒歩武者は前進し、騎馬武者たちも致命傷を負っていない限り、勢いに任せて突っ込んだ。
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「父上!ここは砦まで退けば勝機もありましょう!」
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「そ、それは……」
「ここは牛久保城まで下がり、吉田城の大原肥前守殿とともに対策を協議するべきじゃ」
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「ち、父上……」
「敵の数は我らの倍はおろう。もはや天運も尽きたか――」
群がる松平勢を相手に板倉父子は最後まで抗ったが、彼らの首級は八幡砦と佐脇砦を陥落させて首実験をする元康の前へと並べられていた。
「左衛門尉。見よ、板倉弾正重定とその子の板倉主水の首も並んでおる」
「最後まで抵抗することを諦めず、討ち取るのにも手を焼いたと耳にしておりまする」
「うむ。まこと惜しい武士であった。我らに味方すれば、さぞかし頼もしかったであろうに」
「それを申してはなりませぬ。これも天運にございますれば……」
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「左衛門尉、此度の合戦にて今川勢が築いた砦は陥落せしめた。これにて大塚城を含め、牧野領へと再び兵を進めることができよう」
「いかにも。されど、牧野民部丞と牛久保六騎の者らは強者揃い。一層気を引き締めてかからねばなりませぬな」
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大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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