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第4章 苦海の章
第154話 酒井忠尚の進言と井伊直親誅殺
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元康は御油台合戦、八幡・佐脇合戦にて連勝し、板倉弾正重定と板倉主水の父子を討ち取り、ついに牧野領まで侵攻する前段階まで戦局を展開させた。
しかし、そのまま勢いに任せて牧野領まで攻め込むことはせず、一度兵を下がらせた。稲刈り直後、兵士たちを無理矢理合戦へと連れ出していることもあり、無理に合戦を強いるべきではないとの酒井左衛門尉忠次や本多弥八郎正信らの進言があってのことであった。
かくして、岡崎城にて大人しくしている元康のもとを、十月十九日の夜。小姓を務める榊原小平太が謁見を願い出てきたのである。
「おお、小平太か。近ごろの働きには目を見張るものがある。そなたも齢十五となったゆえ、折を見て諱を定めようと思うのじゃが……」
「それは有り難き事なれど、それは今しばらくお待ちいただきたく」
明るく話しかけた元康であったが、どうにも榊原小平太の顔色が昼過ぎにあった時と比べてどんよりとしていると察知した。
「小平太、さては何かあったか」
「はい。本日、父が息を引き取ったと兄より報せが届いたのでございます」
「なんと……!」
榊原小平太の父・七郎右衛門長政は上野城主・酒井将監忠尚に仕えている。
榊原七郎右衛門は元康から見れば陪臣にあたる立場の者であるが、自分が生まれた頃より酒井将監を支えてきた忠臣であることは昔から知っていた。そんな彼が息を引き取ったというのであれば、酒井将監もまた気落ちしているであろうことは容易に想像できた。
「小平太、父の葬儀に参列する必要もあろう。しばしの間、暇を遣わすゆえ、実家へ顔を出して参れ」
「ご配慮いただき、まことありがとうございまする。この御恩には必ず報いまする!」
「恩などと思わぬでよい。ただ一人の父の葬儀に参列するのは大切な孝行ゆえな。さっ、行って参るがよい」
元康より許しを得た榊原小平太は二度も三度も頭を下げてから退出し、再び元康の居室に静寂が訪れる。
その日は大人しく眠りについた元康であったが、翌朝には榊原七郎右衛門長政を亡くして気落ちしている酒井将監を見舞う書状をしたため、平岩七之助親吉に命じて届けさせた。
「これは平岩七之助殿ではないか」
「酒井将監殿、お久しゅうございます。此度は主命を帯びて参上いたしました」
「おお、承ろう」
上野城へ入った平岩七之助は生来の温和な雰囲気を活かし、円滑に酒井将監とのやり取りを進めていく。その中で、さっそく元康より預かった書状を当人へ披露したのである。
「おお、我が家臣が亡くなったことを知り、見舞いの文を送っていただけるとは思わなんだ」
「はっ。殿も将監殿が気落ちしておられるのではといたく案じておられる様子。それゆえに、こうして文をしたためられたのではなかろうかと」
「そうであったか。有り難いことではある」
平岩七之助より受け取った主君・元康からの書状を一度といわず、二度も三度も目を通す酒井将監であったが、表情はどこか強張ったままであった。
「して、七之助殿。殿はいつまで戦をお続けになられるご所存か」
「さぁ、それは某にもはかりかねまする。西三河での合戦は落ち着きを見せてはおりまするが、何分にも東三河では未だ殿に従わぬ国衆らも多うございますから」
「儂はこれ以上の戦はすべきではないと思う。年中戦をしておるようでは国は治まらぬ。いつかどこかで綻びが生じ、しっぺ返しを受けるであろう。そのこと、そなたからもしかと殿にお伝えせよ」
「はっ、ははっ!宿老であらせられる将監殿がお言葉、しかと殿に言上いたしましょうぞ」
酒井将監は一年半もの長きに渡って戦をし続けている元康の方針についての見解を平岩七之助に伝え、そのことを念押しするように何度も何度も繰り返した。
老人の小言と思いながらもしかと全文を記憶した平岩七之助は用件も済んだことで、長居は無用とばかりに上野城を去り、岡崎城へと帰還したのである。
「七之助、書状は渡して参ったか」
「はい。いたく感謝しておられる様子でしたが、その酒井将監殿より言伝がございました」
平岩七之助は元康に対して、酒井将監からの伝言を一言一句違えることなく報告。いつまで戦は続くのかと苦言を呈していた旨を伝えたのである。
「はあ、そのようなことを申しておったか」
「はい。一年半もの長きに渡って戦を続けておられるが、このまま無理に戦を続ければいつか必ず手痛いしっぺ返しがあろう、と」
「されど、酒井将監が申すことは夢物語じゃ。こちらから仕掛けずとも、向こうから仕掛けて来よう。領内を戦場とせぬためには、こちらより攻め込むほかはないのじゃ。まったく老耄すると、そのような道理まで分からぬお人になられるか」
ため息まじりに酒井将監からの言伝を聞いた元康であったが、今さら家中の方針を転換することなど思いも寄らなかった。何より、戦局も少しずつ芳しくなりつつあるのだ。今ここで戦を辞めては、これまでの戦で亡くなっていった将兵らに顔向けできない。
「されど、酒井将監殿が申されたことは、松平の行く末を想うてのことでありましょう。せめて、その気概だけは拾っておかねばなりますまい」
「ははは、それはそうじゃが、これまで幾度も当家を離反し、その都度鎮圧されてきた時流の読めぬ御方じゃ。たしかに、領国を統治することや戦に関しては良き進言が山のようにあったが、それは戦術家であるがゆえのこと。時流を読むのは戦略。求められる知恵が違うであろう」
「然らば、此度の進言は聞かなかったことになされまするか」
「うむ。それに、物申したいことがあれば、岡崎城まで登城してくるであろう。その時にでも腹を割ってじっくり話すことといたす」
かくして酒井将監の献言は却下。元康率いる松平宗家はこれからも今川派の三河国衆との戦闘を継続。三河一国を統一するという方針は揺らがずであった。
そんなことがあった間も三河では松平方と今川方との小競り合いは後を絶たなかった。そんな中、十二月初旬。元康にとっては吉報とも呼べる報せが届けられる。
「殿!」
そう言うなり書院へ駆けこんできたのは鳥居彦右衛門尉元忠であった。齢二十五にもなり、一層たくましい体つきになった彼が報じたのは、ある城主の死であった。
「先月二十九日、遠江国宇津山城主の朝比奈紀伊守泰長が亡くなったとの由」
「おお、西郷勢と幾度と争っておった朝比奈紀伊守が……!」
堀江城主・大澤左衛門佐基胤とともに五本松城を急襲し、西郷弾正左衛門正勝・孫六郎元正父子を討ち取った朝比奈紀伊守が死去したというのは紛れもなく吉報であった。
朝比奈紀伊守は田原城代・朝比奈元智の実兄であり、先代の懸川城主・朝比奈備中守泰能の従兄弟にもあたる今川譜代の名将である。
「して、その跡は誰が継いだか」
「長男の孫太郎泰充が相続したとのこと」
「後継者がおらぬとあれば、ひと悶着あったであろうが、そう都合よくは参らぬか」
「はっ、そのようで。されど、殿にとっても難敵が一人この世を去っただけでも喜ばしいことかと存じますが」
「それもそうじゃが、まだまだ今川家には忠義に厚い武士が多い。ここらを切り崩すのには今しばらく時を要するであろう」
遠江国は三河の隣国。あえて荒らす必要はないが、東三河の抵抗勢力にとっては後詰めとして大いに期待できる地。ここの支配で混乱が生じれば切り崩しが容易になることもあり、元康としては期待したいところではあった。
そんな浜名湖西岸の宇津山城にて代替わりが起こった頃、雪に閉ざされた上越国境の三国峠越えを強行して上杉弾正少弼輝虎が上野国沼田城に入り、武蔵国松山城の救援に動き出す、元康にとって敵の敵が攻勢に出たという吉報が届くのは、今しばらく先のこととなる。
そうして元康が調略の手を遠江にも伸ばし始めた中、好感触であったのが曳馬城主の飯尾豊前守連龍と井伊谷城主の井伊肥後守直親であった。そのうち、後者の井伊肥後守へ突如として松平蔵人佐への内通容疑がかけられたのである。
「あなた様、まことに駿府へ向かわれるのですか」
「うむ。たしかに松平より寝返りを求められたが、未だ応じることはできぬと返事をしたばかりぞ。そこへ、突如として御屋形様が我らを征伐すべく挙兵する動きがあると申すのじゃ。じゃが、そもそも松平とのやり取りが何処から駿府へ漏れたのか解せぬ」
「ならばなおのこと、駿府へ参るのは危のうございます。誰ぞ、あなた様のことを悪しく申す者があるのやもしれませぬ」
「されど行かずばなるまい。行かねば容疑を否定しなかった。これすなわち容疑を認めたものぞと思われ、この井伊谷が戦場となってしまう。それだけは避けねばならぬ」
召喚命令に応じて駿府へ赴かんとする井伊肥後守。そんな彼の袖を引き、思いとどまらせようとするのは正室・ひよであった。
「ひよ。そなたが案ずることはない。此度も今川家御一家衆の新野左馬助親矩殿が取り成してくださり、駿府へ来て弁明すればお許しくださると。そなたは虎松とともに留守をしかと守ってくれればよい」
頑なに駿府へ向かおうとする井伊肥後守を止める術はひよには持ち合わせておらず、ただ静かに二ツとなった嫡男・虎松の手を引き、夫・井伊肥後守の背を見送るのみであった。
そうして井伊肥後守は井伊谷を発すると、東海道を東へ進み、朝比奈備中守泰朝が城主を務める懸川城へ入城したのである。
「これは井伊肥後守殿。此度はよくぞお越しくだされた。御屋形様よりしかともてなすよう仰せつかってもおりまするゆえ、今宵はどうぞごゆるりと」
「これはこれは朝比奈備中守殿。かように手厚くもてなしていただき、井伊肥後守直親、深く感じ入ってございます」
朝比奈備中守より想像以上に手厚い饗応を受け、すっかり警戒を解いた井伊肥後守は出された酒に口をつけ、酔いが回り始めた頃。広間の周囲が騒がしくなり始めた。
「む、備中守殿。外が騒がしいようですが、何かございましたか」
「ええ、御屋形様より急ぎの頼みがございましてな、家中の者らがその支度をしておるのでございます」
「ほう。あと半月もすれば年末ともなりまするゆえ、その支度にございましょうか。一体、御屋形様は何をご所望なのでございますか?」
「ははは、それは井伊肥後守直親が首にござる!」
そこまで言って目の前で笑う朝比奈備中守に言葉を返すまもなく、井伊肥後守は背後から槍で貫かれていた。
その場にいた井伊家臣らも慌てて襲いかかる朝比奈家臣を迎え撃つも、宴会前に刀や槍といった腰の物を預けてあったのでは如何ともしがたかった。
「あ、朝比奈備中守……!は、謀ったな……!」
「ははは、裏切り者にかける情けなどござらぬ。御屋形様よりの御恩を忘れた不埒者!成敗してくれるわ!」
次の瞬間には井伊肥後守は一刀のもとに朝比奈備中守によって討たれていた。それから四半刻が立つ頃には、井伊家の者で生き残った者は誰一人として居なかった。
「殿、此度は小野とか申す井伊家の家老が密告した甲斐あって未然に事が防げましたな」
「いかにも。井伊家の家老風情が御屋形様へ密告して参るとは思わなんだが、草の者を送り込んでみたところ、まことのことであると判明した。ゆえに、駿府へ向かう途上に当城にて討ち取れというのが、御屋形様の仰せじゃ」
「では、御屋形様はこのまま井伊家を取り潰されるおつもりでしょうや」
「うむ。おそらく、嫡男の虎松も始末せよと仰せになるであろうが、新野左馬助様がそれだけは阻止するであろう」
家老とやり取りしながら朝比奈備中守は討った井伊肥後守の首を駿府へ届けさせるべく、支度を続けさせる。
その中で井伊家についての話題が出たが、朝比奈備中守も想定していた通りに事態は進展した。あくまでも井伊肥後守の嫡男・虎松を始末するよう命じるも、今川家御一家衆・新野親矩の助命嘆願もあって虎松まで殺されるという最悪の結末だけは回避されたのである。
事の顛末は、岡崎にいる元康よりも先に、国内の飯尾豊前守へ報じられたのであった。
「それはまことか!江馬加賀守!」
「はっ!今月十四日、懸川城にて井伊肥後守殿が誅殺、嫡子である虎松まで累が及ぶところにございましたが、新野親矩様のとりなしで事なきを得た様子」
「左様か。我らも井伊の二の舞だけは避けねばならぬぞ」
「はい。くれぐれも先日のことはご内密に」
家臣・江馬加賀守時成とやり取りする中で氏真に誅殺されるかもしれないという恐怖が芽生えた飯尾豊前守。今川家の今のやり方に不満を抱える彼であったが、今しばらくは大人しくせざるを得なくなってしまったのである。
しかし、そのまま勢いに任せて牧野領まで攻め込むことはせず、一度兵を下がらせた。稲刈り直後、兵士たちを無理矢理合戦へと連れ出していることもあり、無理に合戦を強いるべきではないとの酒井左衛門尉忠次や本多弥八郎正信らの進言があってのことであった。
かくして、岡崎城にて大人しくしている元康のもとを、十月十九日の夜。小姓を務める榊原小平太が謁見を願い出てきたのである。
「おお、小平太か。近ごろの働きには目を見張るものがある。そなたも齢十五となったゆえ、折を見て諱を定めようと思うのじゃが……」
「それは有り難き事なれど、それは今しばらくお待ちいただきたく」
明るく話しかけた元康であったが、どうにも榊原小平太の顔色が昼過ぎにあった時と比べてどんよりとしていると察知した。
「小平太、さては何かあったか」
「はい。本日、父が息を引き取ったと兄より報せが届いたのでございます」
「なんと……!」
榊原小平太の父・七郎右衛門長政は上野城主・酒井将監忠尚に仕えている。
榊原七郎右衛門は元康から見れば陪臣にあたる立場の者であるが、自分が生まれた頃より酒井将監を支えてきた忠臣であることは昔から知っていた。そんな彼が息を引き取ったというのであれば、酒井将監もまた気落ちしているであろうことは容易に想像できた。
「小平太、父の葬儀に参列する必要もあろう。しばしの間、暇を遣わすゆえ、実家へ顔を出して参れ」
「ご配慮いただき、まことありがとうございまする。この御恩には必ず報いまする!」
「恩などと思わぬでよい。ただ一人の父の葬儀に参列するのは大切な孝行ゆえな。さっ、行って参るがよい」
元康より許しを得た榊原小平太は二度も三度も頭を下げてから退出し、再び元康の居室に静寂が訪れる。
その日は大人しく眠りについた元康であったが、翌朝には榊原七郎右衛門長政を亡くして気落ちしている酒井将監を見舞う書状をしたため、平岩七之助親吉に命じて届けさせた。
「これは平岩七之助殿ではないか」
「酒井将監殿、お久しゅうございます。此度は主命を帯びて参上いたしました」
「おお、承ろう」
上野城へ入った平岩七之助は生来の温和な雰囲気を活かし、円滑に酒井将監とのやり取りを進めていく。その中で、さっそく元康より預かった書状を当人へ披露したのである。
「おお、我が家臣が亡くなったことを知り、見舞いの文を送っていただけるとは思わなんだ」
「はっ。殿も将監殿が気落ちしておられるのではといたく案じておられる様子。それゆえに、こうして文をしたためられたのではなかろうかと」
「そうであったか。有り難いことではある」
平岩七之助より受け取った主君・元康からの書状を一度といわず、二度も三度も目を通す酒井将監であったが、表情はどこか強張ったままであった。
「して、七之助殿。殿はいつまで戦をお続けになられるご所存か」
「さぁ、それは某にもはかりかねまする。西三河での合戦は落ち着きを見せてはおりまするが、何分にも東三河では未だ殿に従わぬ国衆らも多うございますから」
「儂はこれ以上の戦はすべきではないと思う。年中戦をしておるようでは国は治まらぬ。いつかどこかで綻びが生じ、しっぺ返しを受けるであろう。そのこと、そなたからもしかと殿にお伝えせよ」
「はっ、ははっ!宿老であらせられる将監殿がお言葉、しかと殿に言上いたしましょうぞ」
酒井将監は一年半もの長きに渡って戦をし続けている元康の方針についての見解を平岩七之助に伝え、そのことを念押しするように何度も何度も繰り返した。
老人の小言と思いながらもしかと全文を記憶した平岩七之助は用件も済んだことで、長居は無用とばかりに上野城を去り、岡崎城へと帰還したのである。
「七之助、書状は渡して参ったか」
「はい。いたく感謝しておられる様子でしたが、その酒井将監殿より言伝がございました」
平岩七之助は元康に対して、酒井将監からの伝言を一言一句違えることなく報告。いつまで戦は続くのかと苦言を呈していた旨を伝えたのである。
「はあ、そのようなことを申しておったか」
「はい。一年半もの長きに渡って戦を続けておられるが、このまま無理に戦を続ければいつか必ず手痛いしっぺ返しがあろう、と」
「されど、酒井将監が申すことは夢物語じゃ。こちらから仕掛けずとも、向こうから仕掛けて来よう。領内を戦場とせぬためには、こちらより攻め込むほかはないのじゃ。まったく老耄すると、そのような道理まで分からぬお人になられるか」
ため息まじりに酒井将監からの言伝を聞いた元康であったが、今さら家中の方針を転換することなど思いも寄らなかった。何より、戦局も少しずつ芳しくなりつつあるのだ。今ここで戦を辞めては、これまでの戦で亡くなっていった将兵らに顔向けできない。
「されど、酒井将監殿が申されたことは、松平の行く末を想うてのことでありましょう。せめて、その気概だけは拾っておかねばなりますまい」
「ははは、それはそうじゃが、これまで幾度も当家を離反し、その都度鎮圧されてきた時流の読めぬ御方じゃ。たしかに、領国を統治することや戦に関しては良き進言が山のようにあったが、それは戦術家であるがゆえのこと。時流を読むのは戦略。求められる知恵が違うであろう」
「然らば、此度の進言は聞かなかったことになされまするか」
「うむ。それに、物申したいことがあれば、岡崎城まで登城してくるであろう。その時にでも腹を割ってじっくり話すことといたす」
かくして酒井将監の献言は却下。元康率いる松平宗家はこれからも今川派の三河国衆との戦闘を継続。三河一国を統一するという方針は揺らがずであった。
そんなことがあった間も三河では松平方と今川方との小競り合いは後を絶たなかった。そんな中、十二月初旬。元康にとっては吉報とも呼べる報せが届けられる。
「殿!」
そう言うなり書院へ駆けこんできたのは鳥居彦右衛門尉元忠であった。齢二十五にもなり、一層たくましい体つきになった彼が報じたのは、ある城主の死であった。
「先月二十九日、遠江国宇津山城主の朝比奈紀伊守泰長が亡くなったとの由」
「おお、西郷勢と幾度と争っておった朝比奈紀伊守が……!」
堀江城主・大澤左衛門佐基胤とともに五本松城を急襲し、西郷弾正左衛門正勝・孫六郎元正父子を討ち取った朝比奈紀伊守が死去したというのは紛れもなく吉報であった。
朝比奈紀伊守は田原城代・朝比奈元智の実兄であり、先代の懸川城主・朝比奈備中守泰能の従兄弟にもあたる今川譜代の名将である。
「して、その跡は誰が継いだか」
「長男の孫太郎泰充が相続したとのこと」
「後継者がおらぬとあれば、ひと悶着あったであろうが、そう都合よくは参らぬか」
「はっ、そのようで。されど、殿にとっても難敵が一人この世を去っただけでも喜ばしいことかと存じますが」
「それもそうじゃが、まだまだ今川家には忠義に厚い武士が多い。ここらを切り崩すのには今しばらく時を要するであろう」
遠江国は三河の隣国。あえて荒らす必要はないが、東三河の抵抗勢力にとっては後詰めとして大いに期待できる地。ここの支配で混乱が生じれば切り崩しが容易になることもあり、元康としては期待したいところではあった。
そんな浜名湖西岸の宇津山城にて代替わりが起こった頃、雪に閉ざされた上越国境の三国峠越えを強行して上杉弾正少弼輝虎が上野国沼田城に入り、武蔵国松山城の救援に動き出す、元康にとって敵の敵が攻勢に出たという吉報が届くのは、今しばらく先のこととなる。
そうして元康が調略の手を遠江にも伸ばし始めた中、好感触であったのが曳馬城主の飯尾豊前守連龍と井伊谷城主の井伊肥後守直親であった。そのうち、後者の井伊肥後守へ突如として松平蔵人佐への内通容疑がかけられたのである。
「あなた様、まことに駿府へ向かわれるのですか」
「うむ。たしかに松平より寝返りを求められたが、未だ応じることはできぬと返事をしたばかりぞ。そこへ、突如として御屋形様が我らを征伐すべく挙兵する動きがあると申すのじゃ。じゃが、そもそも松平とのやり取りが何処から駿府へ漏れたのか解せぬ」
「ならばなおのこと、駿府へ参るのは危のうございます。誰ぞ、あなた様のことを悪しく申す者があるのやもしれませぬ」
「されど行かずばなるまい。行かねば容疑を否定しなかった。これすなわち容疑を認めたものぞと思われ、この井伊谷が戦場となってしまう。それだけは避けねばならぬ」
召喚命令に応じて駿府へ赴かんとする井伊肥後守。そんな彼の袖を引き、思いとどまらせようとするのは正室・ひよであった。
「ひよ。そなたが案ずることはない。此度も今川家御一家衆の新野左馬助親矩殿が取り成してくださり、駿府へ来て弁明すればお許しくださると。そなたは虎松とともに留守をしかと守ってくれればよい」
頑なに駿府へ向かおうとする井伊肥後守を止める術はひよには持ち合わせておらず、ただ静かに二ツとなった嫡男・虎松の手を引き、夫・井伊肥後守の背を見送るのみであった。
そうして井伊肥後守は井伊谷を発すると、東海道を東へ進み、朝比奈備中守泰朝が城主を務める懸川城へ入城したのである。
「これは井伊肥後守殿。此度はよくぞお越しくだされた。御屋形様よりしかともてなすよう仰せつかってもおりまするゆえ、今宵はどうぞごゆるりと」
「これはこれは朝比奈備中守殿。かように手厚くもてなしていただき、井伊肥後守直親、深く感じ入ってございます」
朝比奈備中守より想像以上に手厚い饗応を受け、すっかり警戒を解いた井伊肥後守は出された酒に口をつけ、酔いが回り始めた頃。広間の周囲が騒がしくなり始めた。
「む、備中守殿。外が騒がしいようですが、何かございましたか」
「ええ、御屋形様より急ぎの頼みがございましてな、家中の者らがその支度をしておるのでございます」
「ほう。あと半月もすれば年末ともなりまするゆえ、その支度にございましょうか。一体、御屋形様は何をご所望なのでございますか?」
「ははは、それは井伊肥後守直親が首にござる!」
そこまで言って目の前で笑う朝比奈備中守に言葉を返すまもなく、井伊肥後守は背後から槍で貫かれていた。
その場にいた井伊家臣らも慌てて襲いかかる朝比奈家臣を迎え撃つも、宴会前に刀や槍といった腰の物を預けてあったのでは如何ともしがたかった。
「あ、朝比奈備中守……!は、謀ったな……!」
「ははは、裏切り者にかける情けなどござらぬ。御屋形様よりの御恩を忘れた不埒者!成敗してくれるわ!」
次の瞬間には井伊肥後守は一刀のもとに朝比奈備中守によって討たれていた。それから四半刻が立つ頃には、井伊家の者で生き残った者は誰一人として居なかった。
「殿、此度は小野とか申す井伊家の家老が密告した甲斐あって未然に事が防げましたな」
「いかにも。井伊家の家老風情が御屋形様へ密告して参るとは思わなんだが、草の者を送り込んでみたところ、まことのことであると判明した。ゆえに、駿府へ向かう途上に当城にて討ち取れというのが、御屋形様の仰せじゃ」
「では、御屋形様はこのまま井伊家を取り潰されるおつもりでしょうや」
「うむ。おそらく、嫡男の虎松も始末せよと仰せになるであろうが、新野左馬助様がそれだけは阻止するであろう」
家老とやり取りしながら朝比奈備中守は討った井伊肥後守の首を駿府へ届けさせるべく、支度を続けさせる。
その中で井伊家についての話題が出たが、朝比奈備中守も想定していた通りに事態は進展した。あくまでも井伊肥後守の嫡男・虎松を始末するよう命じるも、今川家御一家衆・新野親矩の助命嘆願もあって虎松まで殺されるという最悪の結末だけは回避されたのである。
事の顛末は、岡崎にいる元康よりも先に、国内の飯尾豊前守へ報じられたのであった。
「それはまことか!江馬加賀守!」
「はっ!今月十四日、懸川城にて井伊肥後守殿が誅殺、嫡子である虎松まで累が及ぶところにございましたが、新野親矩様のとりなしで事なきを得た様子」
「左様か。我らも井伊の二の舞だけは避けねばならぬぞ」
「はい。くれぐれも先日のことはご内密に」
家臣・江馬加賀守時成とやり取りする中で氏真に誅殺されるかもしれないという恐怖が芽生えた飯尾豊前守。今川家の今のやり方に不満を抱える彼であったが、今しばらくは大人しくせざるを得なくなってしまったのである。
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百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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