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第4章 苦海の章
第162話 皮引けば身が痛い
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「申し上げます!幡豆郡寺部城主・小笠原左衛門佐広重が当家を離反!城へは続々と兵が詰めだしてもおるとのこと!」
幡豆郡での変事を告げてきたのは本多平八郎忠勝であった。しかし、家康よりも六ツも若い平八郎に、焦るような素振りは見受けられない。
「幡豆小笠原氏が離反と来たか。一度降伏させてもおるゆえ、上野城ほど攻略に手こずることもなかろう。来月上旬の出陣といたすゆえ、支度にかかれと各将へ伝えねばならぬか」
「では、まずは誰に使者を立てましょうや」
「そうじゃな、所領も近い東条松平勢には出陣してもらうこととなろう。東条城へまず使者を入れ、上和田の大久保衆や土居の本多豊後守、形原城の松平薩摩守家広へも出兵を命じることとしようぞ。それぞれに使者を立て、わしからの命を伝えさせよ」
家康はどこへ誰を派遣するか、詳細に記した一枚の和紙を本多平八郎へ託し、準備を急がせた。
大半の勢力には岡崎城の守衛やどこかしらの勢力への対応を担ってもらっているため、動員できる兵数は限られている。それらを算段したうえでも、十二分に勝機はあると踏んでの此度の出兵であった。
家康の命を受けて、出兵の準備で慌ただしくなる岡崎城。能見松平家には滝脇松平家への後詰めを依頼し、上野城の酒井将監忠尚や大給松平家、足助鱸氏への対応を委ねた。
矢矧川西岸の桜井松平家、福釜松平家、藤井松平家には苅谷の水野下野守信元と連携して酒井将監が南下してきた場合の対処を任せ、警戒を怠らぬよう伝達。
そのほかの深溝松平家、竹谷松平家、五井松平家、長沢松平家、上之郷城の久松松平家には東三河の警戒に当たらせ、居城・岡崎城の防衛には石川与七郎数正をはじめとする石川家や鳥居伊賀守忠吉ら鳥居家の面々が就くこととなり、家康は選りすぐりの若手を率いて出陣。
道中では上和田砦の大久保衆や土居の本多豊後守広孝、陣代を務める松井左近忠次が率いる東条松平勢の軍勢を糾合しながら南下。二千を超える大軍勢でもって、離反した小笠原左衛門佐が籠城する幡豆郡寺部城を包囲したのである。
「殿、大久保七郎左衛門にございます」
「おう、七郎左衛門か。いかがしたか」
「はっ、斥候を放ちましたところ、城内に籠もっておるのはわずか三百にも満たない数とのこと。ここは力攻めで一気に勝敗を決されてはいかがにございましょうか」
「焦るでない、七郎左衛門。それだけの兵数しか集められぬことを算段できぬほど敵は愚かではない。それだけの兵数で籠城したのには何か裏があると見るべきであろう」
「殿の仰る通りにございまするな。頭に血が上り、見落としてはならぬことを見落としてしまったやもしれませぬ。ゆえ、今一度斥候を放ち、城の周囲を探らせまする」
家康よりも齢が十八も上の大久保七郎左衛門忠勝の判断はさすがというべきものであった。齢四十ともなると、戦の経験も豊富。彼が二十年以上戦場を往来する中で培ってきた経験は、家康にも想定できない可能性を察知することを可能とする。
「おお、殿。それに、七郎左衛門殿もおられたか」
「これは本多豊後守殿。たった今、殿のお言葉で目が覚め申した。今一度自陣へ戻り、城の周囲を探らせて参る」
「そうでござったか」
やって来た本多豊後守へそこまで告げると、足早に家康本陣を立ち去る大久保七郎左衛門。その足音が遠くなった頃、本多豊後守が口を開く。
「殿。此度の小笠原左衛門佐が挙兵、今川方と連絡を取り合ってのことではなさそうにございまする」
「それは何故じゃ」
「はっ、城から出ていく使者は東ではなく、皆一様に北へ。加茂郡へと走っていくのでございます。十中八九、酒井将監が調略を受けての叛乱と見ておくべきかと」
「それならば合点がいく。こうして我らが幡豆郡へ主力を向けたすきに、岡崎を襲おうという魂胆であろうか」
「はたまた、我らの注意を幡豆郡にも向けさせることで、上野城攻めに必要なだけの兵力が集められないよう仕向けるが狙いか」
「豊後守が申すことはあり得よう。さりとて、岡崎城を狙う可能性も捨てきれぬ。留守居の与七郎らへも警戒を怠らぬよう、改めて書状をしたためておくこととしようぞ」
「それがよろしいかと」
家康と本多豊後守が想定する限り、小笠原左衛門佐の離反に酒井将監が一枚噛んでいることだけは間違いなさそうであった。
しかも、現に幡豆郡での挙兵によって、家康はものの見事に加茂郡ではなく、幡豆郡へと出兵してしまっている。そのあたりの読みの正確さたるや、さすがは『三河一のおとな』というべきであった。
「されど、殿。問題となるのは兵の数だけではございませぬ」
「うむ。兵糧米のことであろう。先日、佐々木上宮寺に借米を申し入れたところ、断られてしもうた。飢饉の只中ゆえ、なにぶん兵らに食わせる食料の確保が急務じゃ」
「いかにも。深溝の松平主殿助殿といった他の松平家も土呂の本宗寺、佐々木の上宮寺、針崎の勝鬘寺、野寺の本證寺といった四ヶ寺より、すでに多くの銭や米を借り入れております。これ以上、寺院に借りを作るのは芳しくはございませぬ」
「そうであろう。そのことはわしも分かっておる。じゃが、浄土真宗寺院が持つ経済力なしには戦を継続できぬのもまた事実」
家康の言葉は真実であった。ゆえに、本多豊後守といえども、返す言葉もなかった。
当時、西三河を拠点とする浄土真宗本願寺派は矢矧川流域に末寺・道場を数多展開し、隆盛していた。その門徒の中には松平氏の家臣も多く、三河三ヶ寺は西三河ばかりでなく、美濃・尾張国境の木曽川・長良川・揖斐川の流域、伊勢長島願証寺のある伊勢にまで影響力が及んでいた。
そもそも三ヶ寺が河川交通の要所に位置しており、三河湾や伊勢湾といった海上交通を通じて、教線が拡大させていた。
何より、水上交通の便が良いことは何も布教に役立つだけではない。寺内町の商工業者たちの活動にとっても、大いに利益のあることであり、一向宗寺院とそれに従う商工業者たちの紐帯が寺内町の発達と密接に関わっていたのである。
そして、土呂本宗寺、佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺、平坂無量寿寺に存在する寺内町。その規模たるや、家康にとっても脅威と呼べるほどに繫栄していた。
一向宗寺院を中心に形成された寺内には二種類が存在し、それは本堂などの堂舎と住持の住まいが立ち並ぶ中枢たる空間と、在家や町場、山林などが付随する世俗的空間とで構成され、それぞれが堀や土塁で囲繞される二重構造。
中でも、土呂本宗寺、佐々木上宮寺は当時、商工業者が集う町場としては、三河屈指の規模を誇り、家康の岡崎城下町をも凌ぐ繁栄ぶりであった。この繁栄の礎こそが、不入権という特権の存在にほかならなかった。
「ここだけの話じゃが、実は兵糧米や銭の貸借で寺側と揉め事を起こしたとの訴えが後を絶たぬ。この件についても早急に対応せねば、一向一揆にも繋がりかねぬ」
「それは厄介至極。されど、解決する方策が殿にはおありで?」
「ない。あったら、すでに命じておる」
「さ、左様にございましたか。されど、まこと困ったことになりましたな」
幡豆郡の寺部城を包囲する中、戦を継続する兵糧米や銭の調達を案じ、一向宗寺院からの貸借について家康と本多豊後守が談義は続いていく。
包囲すれば、十日と経たず寺部城も降伏するであろうと考えていた家康であったが、それは甘い算段であったかと自覚し始めた十月下旬。とんでもない一報が青ざめた顔で本陣へ駆けこんできた阿部善九郎正勝によってもたらされる。
「殿!」
「おお、善九郎ではないか。いかがした」
「はっ、岡山村で蟄居していた吉良義昭様が東条城へ入城!大河内氏をはじめとする旧臣らを招集し、当家への反旗を翻したとのこと!く、加えて、八ツ面城主の荒川甲斐守義広殿も呼応して挙兵したとのこと!」
「馬鹿な!吉良義昭様だけでなく、妹の於市を嫁がせた荒川甲斐守までもが寝返ったと申すか!」
吉良義昭が降伏したことは渋々であったことは家康も重々承知している。しかし、異母妹の市場姫を嫁がせた荒川甲斐守までもが離反しようなどとは夢にも思わなかった。それゆえに、受けた衝撃は並大抵のものではなかった。
そこへ、天野三郎兵衛康景までもが息を切らして家康本陣へと駆けこんでくる。
「殿!一大事にございまする!」
「吉良義昭様と荒川甲斐守が挙兵したことは今しがた善九郎より聞いたばかりじゃ!」
「なんと!されど、某が報告したきことは他にもございまする!」
「他にもあるじゃと……?」
この時点で家康は嫌な予感しかしなかった。言い方から察するに、切り離して考えられる別件という意味合いではなく、連動している、それも悪い事柄であることが推察できるのだから。
「度重なる宝飯郡への出兵に納得がいかぬと桜井の松平監物家次殿、大草の松平昌久殿が離反!それぞれ居城へ籠城する構えを取っておりまする!」
家康が岡崎を離れ、幡豆郡へ入った頃合いを見計らっての吉良義昭・荒川甲斐守挙兵。さらには、桜井松平家と大草松平家の離反。離反者のまるで示し合わせていたかのような連動した動きに家康としても報告を聞きながら頭が痛くなってくるばかりであった。
「善九郎!三郎兵衛!そなたら、ただちに大久保七郎左衛門と松井左近を呼びに行って参れ!かかる事態となりしは、家康の不徳の致すところ。退路を断たれる前に自領へ退却するゆえ、その手順を打ち合わせたい、とな!」
「しょ、承知いたしました!」
「御意!」
家康の命を受けて、弾かれるように本陣を飛び出していく天野三郎兵衛と阿部善九郎。二人とも竹千代であった頃から付き従う無二の忠臣たちが駆け出した後、家康は本多豊後守と今後の進退をいかにすべきかを語り合う。
どのみち、これほど一斉に離反されては幡豆寺部城攻めなどしている場合でないことは二人の意見は合致していた。そこへ、呼びだされて集まった松井左近と大久保七郎左衛門とも緊急で評定が開かれる。
「東条城が奪われたとあっては、亀千代様の身も危うい!よって、我ら東条松平勢はただちに陣払いし、撤退したく……!」
「それは某とて同じこと。土居の本領や新領の室も守らねばならぬ。ただちに撤退し、自領の守備固めをいたしたく」
「うむ。皆も本領が気がかりであろうゆえ、これ以上の評議は必要もなかろう。ここは皆で一致団結し、敵中突破して各々が本領へ引き揚げるよりほかはない。ただちに陣払いを始めることとし、それぞれ支度にかかるように」
家康の下命に、本多豊後守、大久保七郎左衛門、松井左近らが一礼し、ただちに退却の準備へ取りかかっていく。
見事に家康を包囲するように離反者が出てしまっている以上、事態は想定していた以上に深刻なこととなっていた。だが、それは全軍の共通認識となっているため、各隊の支度が整うのもまた迅速であった。
「皆の者!これより本領へと帰還する!必ずや、離反した者らへもそれ相応の報いを受けさせるゆえ、皆はそれまでの間、しかと己が領地を守り抜いてくれよ!さぁ、行くぞ!」
家康の号令で招集された松平勢は青野、土居、上和田を経由するたびに数を減らし、岡崎城へ帰還した頃には宗家の軍勢のみとなっていた。
「殿!ご無事のお戻り、安堵いたしましたぞ!」
「おお、伊賀守も留守居大儀であった。まずは裏切った者共をいかにして成敗するか、考えねばならぬ」
「いかにも。されど、これまた厄介なことになりましたぞ」
岡崎城へ帰還した家康を出迎えた鳥居伊賀守忠吉。鳥居老人が家康に差し出した一枚の紙に書かれていた内容は家康を仰天させるだけのものであった。
「なんと、寺と喧嘩が発生したと!」
「はい。貸した米銭の返済を寺より強引に迫られたことから喧嘩となったようで……」
「だが、まだ続きがあるのであろう」
鳥居伊賀守の曇った表情から、まだ何かあると判断した家康は記された内容の続きへと目を通していく。
「喧嘩の際、合力する者らがそれぞれ加勢し、多くの負傷者が出たか」
「はい。事態を重くとらえた西尾城の酒井雅楽助より取り調べの許可を求める書状も届いておりますれば」
「うむ。その儀ならば使者を派遣して取り調べ、犯人の身柄を捕えさせよ。喧嘩事なれば、検断不入にも抵触はせぬであろう」
「然らば、その旨を酒井雅楽助へもお伝えくださいませ」
「うむ。そういたそう。伊賀守、報せ大儀であった」
家康は喧嘩の主犯をひっ捕らえるように酒井雅楽助政家へ命じ、ただちに検断に踏み切るのだが、これが思いがけない大事へ至るのである――
幡豆郡での変事を告げてきたのは本多平八郎忠勝であった。しかし、家康よりも六ツも若い平八郎に、焦るような素振りは見受けられない。
「幡豆小笠原氏が離反と来たか。一度降伏させてもおるゆえ、上野城ほど攻略に手こずることもなかろう。来月上旬の出陣といたすゆえ、支度にかかれと各将へ伝えねばならぬか」
「では、まずは誰に使者を立てましょうや」
「そうじゃな、所領も近い東条松平勢には出陣してもらうこととなろう。東条城へまず使者を入れ、上和田の大久保衆や土居の本多豊後守、形原城の松平薩摩守家広へも出兵を命じることとしようぞ。それぞれに使者を立て、わしからの命を伝えさせよ」
家康はどこへ誰を派遣するか、詳細に記した一枚の和紙を本多平八郎へ託し、準備を急がせた。
大半の勢力には岡崎城の守衛やどこかしらの勢力への対応を担ってもらっているため、動員できる兵数は限られている。それらを算段したうえでも、十二分に勝機はあると踏んでの此度の出兵であった。
家康の命を受けて、出兵の準備で慌ただしくなる岡崎城。能見松平家には滝脇松平家への後詰めを依頼し、上野城の酒井将監忠尚や大給松平家、足助鱸氏への対応を委ねた。
矢矧川西岸の桜井松平家、福釜松平家、藤井松平家には苅谷の水野下野守信元と連携して酒井将監が南下してきた場合の対処を任せ、警戒を怠らぬよう伝達。
そのほかの深溝松平家、竹谷松平家、五井松平家、長沢松平家、上之郷城の久松松平家には東三河の警戒に当たらせ、居城・岡崎城の防衛には石川与七郎数正をはじめとする石川家や鳥居伊賀守忠吉ら鳥居家の面々が就くこととなり、家康は選りすぐりの若手を率いて出陣。
道中では上和田砦の大久保衆や土居の本多豊後守広孝、陣代を務める松井左近忠次が率いる東条松平勢の軍勢を糾合しながら南下。二千を超える大軍勢でもって、離反した小笠原左衛門佐が籠城する幡豆郡寺部城を包囲したのである。
「殿、大久保七郎左衛門にございます」
「おう、七郎左衛門か。いかがしたか」
「はっ、斥候を放ちましたところ、城内に籠もっておるのはわずか三百にも満たない数とのこと。ここは力攻めで一気に勝敗を決されてはいかがにございましょうか」
「焦るでない、七郎左衛門。それだけの兵数しか集められぬことを算段できぬほど敵は愚かではない。それだけの兵数で籠城したのには何か裏があると見るべきであろう」
「殿の仰る通りにございまするな。頭に血が上り、見落としてはならぬことを見落としてしまったやもしれませぬ。ゆえ、今一度斥候を放ち、城の周囲を探らせまする」
家康よりも齢が十八も上の大久保七郎左衛門忠勝の判断はさすがというべきものであった。齢四十ともなると、戦の経験も豊富。彼が二十年以上戦場を往来する中で培ってきた経験は、家康にも想定できない可能性を察知することを可能とする。
「おお、殿。それに、七郎左衛門殿もおられたか」
「これは本多豊後守殿。たった今、殿のお言葉で目が覚め申した。今一度自陣へ戻り、城の周囲を探らせて参る」
「そうでござったか」
やって来た本多豊後守へそこまで告げると、足早に家康本陣を立ち去る大久保七郎左衛門。その足音が遠くなった頃、本多豊後守が口を開く。
「殿。此度の小笠原左衛門佐が挙兵、今川方と連絡を取り合ってのことではなさそうにございまする」
「それは何故じゃ」
「はっ、城から出ていく使者は東ではなく、皆一様に北へ。加茂郡へと走っていくのでございます。十中八九、酒井将監が調略を受けての叛乱と見ておくべきかと」
「それならば合点がいく。こうして我らが幡豆郡へ主力を向けたすきに、岡崎を襲おうという魂胆であろうか」
「はたまた、我らの注意を幡豆郡にも向けさせることで、上野城攻めに必要なだけの兵力が集められないよう仕向けるが狙いか」
「豊後守が申すことはあり得よう。さりとて、岡崎城を狙う可能性も捨てきれぬ。留守居の与七郎らへも警戒を怠らぬよう、改めて書状をしたためておくこととしようぞ」
「それがよろしいかと」
家康と本多豊後守が想定する限り、小笠原左衛門佐の離反に酒井将監が一枚噛んでいることだけは間違いなさそうであった。
しかも、現に幡豆郡での挙兵によって、家康はものの見事に加茂郡ではなく、幡豆郡へと出兵してしまっている。そのあたりの読みの正確さたるや、さすがは『三河一のおとな』というべきであった。
「されど、殿。問題となるのは兵の数だけではございませぬ」
「うむ。兵糧米のことであろう。先日、佐々木上宮寺に借米を申し入れたところ、断られてしもうた。飢饉の只中ゆえ、なにぶん兵らに食わせる食料の確保が急務じゃ」
「いかにも。深溝の松平主殿助殿といった他の松平家も土呂の本宗寺、佐々木の上宮寺、針崎の勝鬘寺、野寺の本證寺といった四ヶ寺より、すでに多くの銭や米を借り入れております。これ以上、寺院に借りを作るのは芳しくはございませぬ」
「そうであろう。そのことはわしも分かっておる。じゃが、浄土真宗寺院が持つ経済力なしには戦を継続できぬのもまた事実」
家康の言葉は真実であった。ゆえに、本多豊後守といえども、返す言葉もなかった。
当時、西三河を拠点とする浄土真宗本願寺派は矢矧川流域に末寺・道場を数多展開し、隆盛していた。その門徒の中には松平氏の家臣も多く、三河三ヶ寺は西三河ばかりでなく、美濃・尾張国境の木曽川・長良川・揖斐川の流域、伊勢長島願証寺のある伊勢にまで影響力が及んでいた。
そもそも三ヶ寺が河川交通の要所に位置しており、三河湾や伊勢湾といった海上交通を通じて、教線が拡大させていた。
何より、水上交通の便が良いことは何も布教に役立つだけではない。寺内町の商工業者たちの活動にとっても、大いに利益のあることであり、一向宗寺院とそれに従う商工業者たちの紐帯が寺内町の発達と密接に関わっていたのである。
そして、土呂本宗寺、佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺、平坂無量寿寺に存在する寺内町。その規模たるや、家康にとっても脅威と呼べるほどに繫栄していた。
一向宗寺院を中心に形成された寺内には二種類が存在し、それは本堂などの堂舎と住持の住まいが立ち並ぶ中枢たる空間と、在家や町場、山林などが付随する世俗的空間とで構成され、それぞれが堀や土塁で囲繞される二重構造。
中でも、土呂本宗寺、佐々木上宮寺は当時、商工業者が集う町場としては、三河屈指の規模を誇り、家康の岡崎城下町をも凌ぐ繁栄ぶりであった。この繁栄の礎こそが、不入権という特権の存在にほかならなかった。
「ここだけの話じゃが、実は兵糧米や銭の貸借で寺側と揉め事を起こしたとの訴えが後を絶たぬ。この件についても早急に対応せねば、一向一揆にも繋がりかねぬ」
「それは厄介至極。されど、解決する方策が殿にはおありで?」
「ない。あったら、すでに命じておる」
「さ、左様にございましたか。されど、まこと困ったことになりましたな」
幡豆郡の寺部城を包囲する中、戦を継続する兵糧米や銭の調達を案じ、一向宗寺院からの貸借について家康と本多豊後守が談義は続いていく。
包囲すれば、十日と経たず寺部城も降伏するであろうと考えていた家康であったが、それは甘い算段であったかと自覚し始めた十月下旬。とんでもない一報が青ざめた顔で本陣へ駆けこんできた阿部善九郎正勝によってもたらされる。
「殿!」
「おお、善九郎ではないか。いかがした」
「はっ、岡山村で蟄居していた吉良義昭様が東条城へ入城!大河内氏をはじめとする旧臣らを招集し、当家への反旗を翻したとのこと!く、加えて、八ツ面城主の荒川甲斐守義広殿も呼応して挙兵したとのこと!」
「馬鹿な!吉良義昭様だけでなく、妹の於市を嫁がせた荒川甲斐守までもが寝返ったと申すか!」
吉良義昭が降伏したことは渋々であったことは家康も重々承知している。しかし、異母妹の市場姫を嫁がせた荒川甲斐守までもが離反しようなどとは夢にも思わなかった。それゆえに、受けた衝撃は並大抵のものではなかった。
そこへ、天野三郎兵衛康景までもが息を切らして家康本陣へと駆けこんでくる。
「殿!一大事にございまする!」
「吉良義昭様と荒川甲斐守が挙兵したことは今しがた善九郎より聞いたばかりじゃ!」
「なんと!されど、某が報告したきことは他にもございまする!」
「他にもあるじゃと……?」
この時点で家康は嫌な予感しかしなかった。言い方から察するに、切り離して考えられる別件という意味合いではなく、連動している、それも悪い事柄であることが推察できるのだから。
「度重なる宝飯郡への出兵に納得がいかぬと桜井の松平監物家次殿、大草の松平昌久殿が離反!それぞれ居城へ籠城する構えを取っておりまする!」
家康が岡崎を離れ、幡豆郡へ入った頃合いを見計らっての吉良義昭・荒川甲斐守挙兵。さらには、桜井松平家と大草松平家の離反。離反者のまるで示し合わせていたかのような連動した動きに家康としても報告を聞きながら頭が痛くなってくるばかりであった。
「善九郎!三郎兵衛!そなたら、ただちに大久保七郎左衛門と松井左近を呼びに行って参れ!かかる事態となりしは、家康の不徳の致すところ。退路を断たれる前に自領へ退却するゆえ、その手順を打ち合わせたい、とな!」
「しょ、承知いたしました!」
「御意!」
家康の命を受けて、弾かれるように本陣を飛び出していく天野三郎兵衛と阿部善九郎。二人とも竹千代であった頃から付き従う無二の忠臣たちが駆け出した後、家康は本多豊後守と今後の進退をいかにすべきかを語り合う。
どのみち、これほど一斉に離反されては幡豆寺部城攻めなどしている場合でないことは二人の意見は合致していた。そこへ、呼びだされて集まった松井左近と大久保七郎左衛門とも緊急で評定が開かれる。
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「うむ。皆も本領が気がかりであろうゆえ、これ以上の評議は必要もなかろう。ここは皆で一致団結し、敵中突破して各々が本領へ引き揚げるよりほかはない。ただちに陣払いを始めることとし、それぞれ支度にかかるように」
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見事に家康を包囲するように離反者が出てしまっている以上、事態は想定していた以上に深刻なこととなっていた。だが、それは全軍の共通認識となっているため、各隊の支度が整うのもまた迅速であった。
「皆の者!これより本領へと帰還する!必ずや、離反した者らへもそれ相応の報いを受けさせるゆえ、皆はそれまでの間、しかと己が領地を守り抜いてくれよ!さぁ、行くぞ!」
家康の号令で招集された松平勢は青野、土居、上和田を経由するたびに数を減らし、岡崎城へ帰還した頃には宗家の軍勢のみとなっていた。
「殿!ご無事のお戻り、安堵いたしましたぞ!」
「おお、伊賀守も留守居大儀であった。まずは裏切った者共をいかにして成敗するか、考えねばならぬ」
「いかにも。されど、これまた厄介なことになりましたぞ」
岡崎城へ帰還した家康を出迎えた鳥居伊賀守忠吉。鳥居老人が家康に差し出した一枚の紙に書かれていた内容は家康を仰天させるだけのものであった。
「なんと、寺と喧嘩が発生したと!」
「はい。貸した米銭の返済を寺より強引に迫られたことから喧嘩となったようで……」
「だが、まだ続きがあるのであろう」
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「喧嘩の際、合力する者らがそれぞれ加勢し、多くの負傷者が出たか」
「はい。事態を重くとらえた西尾城の酒井雅楽助より取り調べの許可を求める書状も届いておりますれば」
「うむ。その儀ならば使者を派遣して取り調べ、犯人の身柄を捕えさせよ。喧嘩事なれば、検断不入にも抵触はせぬであろう」
「然らば、その旨を酒井雅楽助へもお伝えくださいませ」
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※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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