不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第168話 艱難汝を玉にす

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 吐息が白い靄となって口から漏れ出る寒さの中、家康は上和田砦への救援を決行した。岡崎城を出陣し、乙川を渡河。馬を駆けさせて上和田砦すぐ北の浄珠院へ到着するも、未だに兵数は二百に満たなかった。

「殿、中根利重にございまする」

「おう、そなたか。して、いかがした」

「はっ、物見をして参りましたので、そのご報告を」

「ご苦労であった。申せ」

 中根利重からの報告によれば、合戦は一進一退。大久保党と六名の筒井忠元が合力して応戦しているものの、依然として一向一揆勢の方が数的にも有利であり、苦戦している様子であるとのことであった。

「左様か。これ以上、浄珠院で味方の結集を待っていたとて、さほどの数は集まるまい。やむを得ぬ、そなたは皆に出陣を告げて参れ」

「はっ!承知いたしました!」

 胴丸姿の豪傑・中根利重が立ち去ると、傍で控えていた内藤甚一郎正成が口を開いた。

「殿、主な敵将には渡辺半蔵や蜂屋半之丞といった若武者や渡辺源五左衛門、石川十郎左衛門、土屋惣兵衛といった老練な者共もおります。くれぐれもご用心くださいませ」

「分かっておる。じゃが、我らが加勢に加われば、兵力差は拮抗する。さすれば、一向一揆勢とて無理な戦いはすまい」

「はっ、そうであれば良いのですが……」

 どこか不安が拭えないのか、しかめっ面のまま内藤甚一郎は再びだんまりを決め込んでいく。そこへ出陣と聞いて宇津与五郎が家康の曳いて到着し、家康は出陣すべく騎乗する。

 刹那、柏原鵜殿勢百余が浄珠院へ着陣し、大将の鵜殿長祐が家康の馬前へと進み出る。

「蔵人佐殿、遅ればせながら柏原鵜殿勢もお加えくださいませ。城外へ陣取っておりましたゆえ、殿が岡崎城を発たれたのを見て慌てて追いかけることができたのでございます」

「おお、そうであったか!いや、そなたらを加えれば兵数は二百を超える。これで一向一揆勢との兵数を覆せようぞ!よし、そうと決まれば出陣じゃ!わしに続けっ!」

 家康は後に続けと鵜殿長祐へ目くばせすると、ただちに馬に一鞭くれて浄珠院を飛び出していく。それに遅れまいと浄珠院へ結集した総兵力で北側から一向一揆勢目がけて突撃。大久保党の忠義へ報いるかのような猛攻を仕掛け、たちまち一向一揆勢の隊列を崩していく。

「我こそは松平蔵人佐家康なるぞ!」

 家康が遮二無二一向一揆勢へと斬り込むと、松平家臣たちは槍を向けるも敵が家康だと気付くと、背を向けて逃げ出していく。それまで戦っていた門徒武士の武者ぶりはどこへ行ったのかと言わんばかりに、家康が進むところ、門徒武士が四方八方へ逃げていく。

「むっ、これはどうしたことか」

 てっきり家康は一向一揆に加わった家臣たちは自分のことを殺したいと思うほどに不満を募らせていた者たちばかりなのだと思っていた。

 だが、こうして自分が姿を見せれば、敵意など微塵も感じない青ざめた顔で逃げ始める。そんな者たちがどうして一揆を起こしたのか、家康には皆目見当もつかなかった。

「ちっ、不甲斐ない者らじゃ」

 そう言って舌打ちして銃口を家康へ向けたのは門徒武士らとともに合戦に加わっていた僧兵であった。

 よもや自分が敵から鉄砲で狙われているとは露知らず、家康は敵中へ馬を乗り入れていく。そこで刀を抜いて立ちはだかったのは土屋惣兵衛であった。

「おう、惣兵衛ではないか!そなたはわしに向かってくるか!」

 家康は馬から飛び降りると、齢四十五となった老臣・土屋惣兵衛重治と相対する。だが、寒さとは思えないほどに、土屋惣兵衛の指先は震えていた。

「殿!不入権を侵してはならぬと、あれほど周囲の者らからも忠告されていたというのに、何故あのようなことをなされたのか!」

「検断のことか!されど、所詮は喧嘩の延長ゆえ、不入権には抵触せぬ!そのような寝言を申さんがために此度のようなことをしでかしたというのであらば、この家康、容赦はせぬぞ!」

 家康は初めて酒井将監忠尚の離反に始まり、一向一揆の発生したことへの激しい怒りをぶちまけた。

 ――三河から戦をなくさんがため、ただひたすらに西へ東へと戦い続けてきた。なのにどうしてお前たちは分かってくれないのだ!

 そうした怒りを家康が言葉に付加して吐き出す中、土屋惣兵衛はハッとした様子で背後を振り向くと、刀を捨てて家康に組み付いた。

 とっさの出来事に家康は土屋惣兵衛は自分を組み伏せて、そのまま自分の首を取ろうとしていると思った。しかし、そうではないことが直後に放たれた一発の銃弾が証明した。

「と、殿……。ご、ご無事にございますか……!」

 家康は言葉を発しようにも言葉にならず、息も絶え絶えの土屋惣兵衛に何も言い返すことができず、頷くよりほかはなかった。

 先ほどの焦った様子で振り返ったのは家康へ向けられる殺気に勘付いてのこと。それゆえに、とっさに自分の体を盾として家康を庇ったのである。そのせいで、家康に覆いかぶさっている土屋惣兵衛の背部からはおびただしい量の出血が見られた。

「そ、それならばようございました……。殿、戦場は危険にございまする。お気を付けくださいま……せ――」

「惣兵衛!惣兵衛っ!しっかりせぬか、惣兵衛!」

 家康が必死に呼びかけるも、土屋惣兵衛重治は安らかな表情で眠るように事切れていた。享年四十五。

 土屋惣兵衛が家康を庇って息を引き取った頃、すぐ後を追いかけていた宇津与五郎は白樫三間柄の槍を振るって戦う蜂屋半之丞貞次と遭遇してしまっていた。

「おう、与五郎ではないか!」

「いかにも!かく言うそなたは蜂屋半之丞だなっ!殿へ弓引く不忠者め!成敗してくれるわ!」

 腰の太刀を抜き払い、蜂屋半之丞と対峙する宇津与五郎。しかし、身軽な動きで斬りかかった宇津与五郎も、次の瞬間には胸部に槍が突き立っていた。

「くっ、無念……」

「お主なんぞ、某の敵ではないわ!くたばれっ!」

 そのまま槍で胸部を刺し貫かれ、宇津与五郎は絶命。槍を引き抜くと、蜂屋半之丞は周辺の敵へと戦いを挑み、暴れまわっていく。

 同じ頃、蜂屋半之丞ともども猛将として知られる渡辺半蔵守綱は箱柳中根氏の中根利重と戦場で出会い、槍合わせを行っていた。

「ちっ!」

「ふん、槍半蔵だとかもてはやされておるようだが、自惚れるでないぞ!」

 槍合わせでは齢二十三と若い渡辺半蔵の槍捌きをあざ笑うかのように中根利重が見事に応じ、付け入る隙を与えなかった。しかし、渡辺半蔵とて槍半蔵と謳われる槍の名手だけあって、中根利重にも決定打を与えない見事な立ち回りを見せていた。

「ちっ、面倒だ!組むか!」

「おう!槍を捨てた槍半蔵など、恐れることもない!お主がそう申すならば受けてやろうぞ!」

 先ほどから続く槍合わせではお互いに決定打に欠く。それもあり、中根利重と渡辺守綱の一騎打ちは太刀での勝負へと移行。互いに先ほどよりも間合いを詰めて戦に臨み、技巧みに斬りかかり、激しく斬り合っていく。

「ふんっ!」

 渡辺半蔵の太刀を払い、先に一太刀浴びせたのは中根利重。しかし、渡辺半蔵も負けじと技を返して中根利重にも手傷を負わせ、双方ともに見る見るうちに傷が増えていく。

「ちっ、これでは埒が明かぬ!此度は引き分けじゃ!」

「逃げるか!腰抜けめ!」

「なにをっ!今日は具合が悪いゆえ、後日再戦と参ろうぞ!次こそは討ち取ってくれるから覚悟しておけ!」

 渡辺半蔵はこれ以上争っても中根利重を討ち取ることはできないと判断し、その場を離れた。しかし、それを待っていたかのように一本の矢が飛来し、渡辺半蔵の肩口へ命中する。

「何奴!」

「松平蔵人佐が家臣、阿部四郎兵衛じゃ!一揆方の渡辺半蔵と見受けたり!」

 齢が一回り違う阿部四郎兵衛忠政からの呼びかけに、『某とて松平家臣じゃ!』と返したい渡辺半蔵であったが、一向一揆に与している以上、返す言葉が見つからなかった。

「四郎兵衛、ここにおったか!」

「おう、兄者!見つけましたぞ、裏切り者を」

「おお、槍半蔵か。ここでこやつの首を挙げれば、門徒武士らの士気も低下しようものぞ」

 弟を追いかけて姿を現したのは大久保八郎右衛門忠重であった。武術に優れる大久保党と負傷したままやり合うのは、さすがの渡辺半蔵も分が悪かった。しかし、今は乱戦の最中である。たちまち敵味方に包まれて、大久保八郎右衛門・阿部四郎兵衛の兄弟の姿も見えなくなった。

「今のうちに下がるか。この傷ではまともに戦えぬ」

 そう思い踵を返したところへ、陣刀を引っ提げた鵜殿長祐が立ちはだかる。

「逃げるか!渡辺半蔵!坊主にたぶらかされ、武士の心も忘れてきたと見える!この汚らしい武者め!この場で討ち取ってくれる!」

「ほざいたなっ!」

 相手にする価値もないと通り過ぎかけた渡辺半蔵であったが、鵜殿長祐から浴びせられる侮辱の言葉に耐え切れず、一騎打ちに臨もうとする。

 だが、中根利重との戦いで幾つもの手傷を負い、さらには阿部四郎兵衛が放った矢を肩口に受けたままでは、鵜殿長祐との勝負も思うに任せなかった。

「ははは、これがあの槍半蔵か!」

 防戦一方の渡辺半蔵であったが、連戦に次ぐ連戦で蓄積した疲労のせいか、足が絡まって転倒してしまう。

「渡辺半蔵、覚悟せよっ!」

 渡辺半蔵が死を覚悟した刹那、金属が肉塊を貫く鈍い音が響いた。そして、次の瞬間に刺し貫かれていたのは鵜殿長祐の方であった。

「なにっ……!」

「ここで息子を死なせるわけにはゆかぬ!」

「むっ、無念……!」

 鵜殿長祐に追い詰められた窮地の渡辺半蔵を救わんがため、文字通りの横槍を入れたのは実父・渡辺源五左衛門高綱であった。

「父上、助かり申した」

「倅よ、手ひどくやられたのぅ」

「申し訳ございませぬ」

「よいよい、殿まで来援したとあっては、こちらに勝ち目などない。見てみよ、味方は次々に針崎や土呂へ向けて逃げ出し始めてもおる」

 父・源五左衛門の言葉に渡辺半蔵は唇を噛んだ。もはや戦況は大勢が決したと言っても過言ではなかった。

「然らば、父上。我らも針崎へ落ちましょうぞ」

「そうじゃな。お主がそれほど手傷を負わされたとあっては、ここに踏みとどまったとて、死あるのみぞ」

 そう言って、渡辺源五左衛門・半蔵父子が南へ足を向けた刹那、足元へ一本の矢が撃ち込まれる。

「何奴!」

 眦をあげて射線を辿った先にいる人物を見やると、そこには騎乗した家康の姿があった。土屋惣兵衛に庇われた直後、近くで嘶いていた愛馬を拾ってここまで進んできたのである。

「ちっ、殿か!」

 もう一矢射ようとする家康の構えを見るや、渡辺父子の行動は迅速であった。刀や槍を振るおうにも、近づく頃には射殺されてしまうのは明白。であるならば、距離を取って逃げるよりほかはなかった。

 されど、現実は渡辺父子を見逃してくれるほど甘くはなかった。家康とはまた別な方向から放たれた矢が的確に渡辺源五左衛門の胸部を射抜いていたのである。

「父上!」

「ううっ……!半蔵、お前だけでも逃げよ……!」

「いやです!父上を見捨てて逃げるなどと!逃げるにせよ父上を担いでゆきます!」

 置いて行けという父・源五左衛門の頼みを頑として聞き入れず、渡辺半蔵は父を担ぎ上げて走り出す。その後も二度三度射かけられるも、射程距離から脱したのか、それ以上矢が飛来することはなかった。

「殿!申し訳ございませぬ!取り逃がしました!」

「よい、もとより半蔵は手負い。それに、そなたの矢を受けた渡辺源五左衛門も重傷じゃ」

「お気遣い、痛み入りまする!されど、次に出会ったならば必ずや討ち取ってご覧にいれまする!」

 家康の側へ駆け寄ったのは弓の腕では並ぶ者なしとまで言われる内藤甚一郎正成。渡辺父子を取り逃がしたのがよほど悔しいのか、目には涙を堪えている。

「殿!某は追い討ちに向かいまする!」

「おう、わしは一度上和田砦へ入る。そなたも深追いはせず、上和田砦へ引き揚げるように」

 内藤甚一郎にそう言い残して家康は上和田砦へと馬を走らせ、その背中が遠く見えなくなると、内藤甚一郎は追い討ちを開始。逃げる一向一揆勢を追う中で見覚えのある老武者を発見する。

「おう、舅殿ではござらぬか!」

「おお、婿殿か」

 馬上の主は内藤甚一郎の舅・石川十郎左衛門知綱であった。呼びかけたのが娘婿であると気付くや、手綱を引き、足を止める。しかし、次の瞬間には石川十郎左衛門の左膝へ一本の矢が突き立つ。

「婿殿!これはいかなる仕打ちじゃ!」

 内藤甚一郎は無言で矢を番え、間髪入れず石川十郎左衛門の右膝を射抜く。両膝を射られて落馬した石川十郎左衛門はあえなく娘婿の手にかかって討ち取られてしまうのであった――
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