西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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腐っていく果実、芽吹く悪夢(3)

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 それから、三日三晩、お兄様は高熱にうなされ続けた。

  それは、ただの風邪や病気とは違う。

  「人間」という種から、「別のナニカ」へと生まれ変わるための、さなぎの期間だ。


 お兄様の身体は、燃えるように熱かった。

  全身から噴き出す汗は、脂っこく、黄色く濁っている。

  あたしは何度もタオルを替え、お兄様の身体を拭いてあげた。

  拭いても拭いても、すぐに新しい汗が滲んでくる。

  その匂いは、強烈だった。  腐った果実の甘い匂いと、錆びた鉄の匂い。  そして、古い墓地を掘り返した時のような、湿った土の匂い。


 お兄様の中で、細胞が死滅し、そして再生しているのだ。

  あたしがくっつけた「左足」は、おどろくべき変化を見せていた。 

 最初は土気色だった皮膚が、今はドス黒い紫色に変色し、血管が蔦のように太く浮き上がっている。

  接合部――お兄様の太腿のあたり――では、あたしの唾液と混ざった肉が白く泡立ち、互いを貪り合っていた。



 ドクン、ドクン、ドクン。


 足が脈打つたびに、お兄様の身体がビクンと跳ねる。  それはまるで、巨大な寄生虫が宿主を乗っ取ろうとしている光景だった。

  普通なら、ショック死してもおかしくない激痛のはずだ。

  でも、お兄様は耐えている。

  意識を失いながらも、歯を食いしばって、この異物を受け入れようとしている。

「……うぅ……あぁ……」

 お兄様が、苦しげに呻き声を上げた。  悪夢を見ているのだ。  あたしは、お兄様の汗ばんだ額に手を当てた。  熱い。火傷しそうだ。  そして、その脳内からは、悲鳴のような電気信号が漏れ出している。


 ――見てあげる。  お兄様が今、どこの地獄を彷徨っているのか。


 あたしは意識を同調させた。  ジジッ、ジジジ……。  ノイズの向こうに、暗い廊下が見える。  お兄様の夢の中だ。



 ***



 夢の中の屋敷は、どこまでも暗く、壁が呼吸するようにうねっていた。  お兄様は、一人で廊下を歩いている。  杖はない。自分の足で、あのアスリートの左足を引きずりながら。


 前方から、誰かがやってくる。  首のない男だ。  ダブダブのスーツを着た、太った男――叔父様だ。

『……静、痛いぞ』

 首の断面から血の泡を吹いて、叔父様が喋った。  腹の底から響くような、怨嗟の声。

『お前のせいだ。お前が許可を出したから、俺は食われたんだ。  返せ。俺の金を、俺の人生を返せ』

 叔父様の手が、お兄様の足首を掴もうとする。  けれど、お兄様は立ち止まらなかった。  冷ややかな目で、かつての後見人を見下ろす。


『……退いてください、叔父さん』


 お兄様が左足を振り上げる。

  ドガッ!

  強靭な筋肉の塊が、叔父様の胴体を蹴り飛ばした。  叔父様はボロ雑巾のように吹き飛び、壁にシミを作って消滅した。


 ――強い。

  あたしは感心した。  お兄様はもう、過去の亡霊になんて脅かされない。  罪悪感は、今の彼にとってはただの「雑音」でしかないのだ。



 お兄様は、さらに奥へと進む。  次に現れたのは、泥だらけのスーツを着た女だった。  里見先生だ。  喉笛を食い破られ、気管がむき出しになっている。


『静くん……どうして?』

 先生が、悲しげな瞳でお兄様を見つめる。  その手には、あの日の鞄が握られている。

『私は君を助けようとしたのに。  光の方へ、連れ出そうとしたのに。  ……どうして、そっちへ行くの? そっちは地獄よ』


 お兄様の足が、一瞬だけ止まった。  先生の言葉は、お兄様の中に残っていた「良心」を揺さぶる。  でも、お兄様は首を横に振った。


『光なんていりません』 

『静くん!』 

『あなたの正義は、僕には眩しすぎるんです。  ……さようなら、先生』


 お兄様は、先生の横を通り過ぎた。  先生が何かを叫ぼうとして、口から泥を吐き出して崩れ落ちる。  お兄様は一度も振り返らなかった。


 そして、廊下の突き当たり。  最後の扉の前に、白い着物の少女が立っていた。


 那美だ。

 彼女だけは、傷ひとつなく、生前よりも美しく輝いていた。  彼女は、お兄様に向かって手を差し伸べていた。

『兄さん。そっちは行き止まりだよ』

 那美の声は、鈴の音のように澄んでいた。

『その足は偽物よ。その強さは呪いよ。  こっちへ来て。私と一緒に、終わりましょう。  パパもママも死んだんだから、もう頑張らなくていいの』


 それは、死への誘いだった。  人間としての尊厳を保ったまま死ぬか。  それとも、化け物になって生き延びるか。

 お兄様は、自分の左足を見た。  醜く膨れ上がり、ドス黒く変色した異形の足。  そして、那美を見た。


『……那美。君は僕を愛してくれたね』 

『ええ。誰よりも愛しているわ』 

『僕も愛していたよ。君がいない世界なんて、考えられなかった』


 お兄様は、那美の手を取ろうとして――その手前で、手を引っ込めた。

『でも、ごめん。  僕は、生きるよ』

『兄さん……?』

『どんなに醜い姿になっても。人殺しになっても。  僕は、世璃と一緒に生きたいんだ。  ……あの温かい地獄の中で、ずっと暮らしたいんだ』


 お兄様の言葉が、夢の世界を震わせた。

  那美の顔が、悲しみに歪む。

  そして、ガラス細工のようにヒビが入り、音を立てて砕け散った。


  パリーン……。




 ***



「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 お兄様が、ガバッと上半身を起こした。  現実世界に戻ってきたのだ。  全身が汗でびっしょりと濡れている。  でも、その瞳には、もう迷いの色はなかった。

「……世璃」

 「お兄様、ここにいるよ」


 あたしは、お兄様の背中を支えた。  熱は下がっていた。  三日間の高熱が嘘のように、体温が急速に冷たくなっていく。  人間の体温から、あたしに近い「変温動物」の温度へ。


「夢を見たよ。……長い、お別れの夢だった」

 「うん。見ていたよ」


 あたしは微笑んで、タオルで汗を拭いてあげた。

  お兄様は、シーツを捲り、自分の左足を見た。


 そこには、完成した「足」があった。

  腫れは引き、筋肉は鋼のように引き締まっている。

  皮膚の色は、元の白い肌と、移植された土気色の肌がまだら模様を描き、血管が青い刺青のように絡みついている。

  グロテスクで、力強く、美しい足。


 お兄様は、その足を指先でなぞり、震える声で言った。


「……動くかな」 

「動くよ。あたしがあげた足だもの」


 お兄様は頷き、ベッドから足を下ろした。


 
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