西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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魔城の年代記(2:赤色(ルージュ)の晩餐)

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 地下の貯蔵庫は、ひんやりとしていて、カビと土の匂いがする。


  あたしは業務用冷蔵庫の重たい扉を開けた。  冷気と共に、濃厚な鉄の匂いが漂ってくる。


 棚には、真空パックされた牛肉のブロックが並んでいる。


  犬飼が「最高級の黒毛和牛です」と言って持ってきたものだ。 

 あたしはその中から、一番色の濃い、レバーの塊を選んだ。  加熱なんてしない。  スパイスも、ソースもいらない。  今のあのお方には、余計な味付けは「不純物」でしかないから。


 あたしはまな板の上で、レバーを一口大に切り分けた。  包丁を入れるたびに、ドロリとした黒赤色の液体が染み出してくる。  指先についた血を舐めてみる。  ……うん。甘い。  死んでから数日が経ち、熟成が進んで、旨味が凝縮されている。  これならきっと、お兄様の新しい身体も満足するはずだ。


 あたしは銀の皿に肉を盛り付け、寝室へと戻った。



 ***



 寝室の扉を開けた瞬間、空気が変わったのがわかった。  獣の気配だ。


 お兄様は、ベッドの上でうずくまっていた。  シーツを握りしめ、荒い呼吸を繰り返している。  あたしが入っていくと、お兄様が弾かれたように顔を上げた。  その瞳孔は大きく開き、白目の部分には赤い血管が走っている。

「……世璃」

 お兄様の鼻が、ヒクヒクと動いた。  あたしが手に持っている皿――そこから漂う血の匂いに、反応しているのだ。

「その匂い……それは、なんだい?」

 お兄様の声が震えている。  それは恐怖ではない。焦がれるような「渇望」の震えだ。  理性では「それは生肉だ、人間が食べるものじゃない」とわかっているのに、身体の奥底、特にあの左足の細胞が、「それを寄越せ」と叫んでいるのだ。


「ご飯だよ、お兄様。  とっても新鮮で、栄養たっぷりのご飯」

 あたしはベッドの縁に腰掛け、皿を差し出した。  プルプルと震える、赤いレバーの山。  表面には、美しい血の膜が張っている。


「……肉……? 生の……?」


 お兄様がゴクリと喉を鳴らした。  唾液が溢れてくるのがわかる。  さっきのトーストを見た時の拒絶反応とは真逆だ。  胃袋がキュウと収縮し、消化液が分泌されている。

「だ、だめだ……こんなもの……僕は獣じゃない……」

 お兄様は必死で顔を背けようとした。  まだ、人間のプライドが残っている。  可愛いお兄様。  でも、その抵抗もあと数秒で終わる。


「いいのよ。無理しなくていいの。  ……ほら、あーん」


 あたしはフォークを使わず、素手で肉片を摘んだ。  指先から血が滴り落ち、シーツに赤い染みを作る。  その肉片を、お兄様の唇に押し当てた。

 冷たくて、ヌルリとした感触。  鉄の匂いが、お兄様の鼻腔を直接刺激する。

「んっ……!」

 お兄様が口を閉ざそうとするけれど、本能は正直だ。  唇が勝手に震え、わずかに開く。  あたしはその隙間に、肉を滑り込ませた。


 クチャ。


 お兄様の口の中に、生肉が侵入する。  舌の上で、血の味が広がる。  その瞬間、お兄様の身体に電流が走ったように硬直した。


 ――美味い。

  お兄様の脳みそから、爆発的な快楽物質(ドーパミン)が噴き出したのを、あたしは感じ取った。

  甘い。

 濃い。 

 生命そのものの味がする。


  砂のようだったトーストとは違う。これは、身体に染み渡る「燃料」だ。


 お兄様の顎が、無意識に動いた。  一回、二回。  柔らかいレバーが噛み潰され、濃厚なエキスが喉の奥へと流れていく。

  ゴクリ。

  飲み込んだ。  食道が歓喜の収縮運動をして、肉を胃袋へと運び込む。


「はぁ……っ、あぁ……!」


 お兄様の目から、涙が溢れた。  あまりの美味しさと、一線を越えてしまった背徳感に、感情がぐちゃぐちゃになっている。


「もっと……くれるかい?」

 お兄様が、掠れた声で強請った。  もう、拒絶はない。  あたしは微笑んで、皿ごと渡した。

「いいよ。全部食べて」

 お兄様は皿をひったくると、もう手づかみで肉を貪り始めた。

  上品だったお兄様が。

  ナイフとフォークの使い方を綺麗にこなしていたお兄様が。

  今は顔を皿に埋めて、獣のように肉を喰らっている。

 グチャ、ムチャ、クチャ。

 湿った咀嚼音が部屋に響く。  口の周りは血で真っ赤に染まり、白いパジャマにも赤い飛沫が飛ぶ。  時折、喉を詰まらせそうになりながら、それでも食べるのを止めない。


 あたしは、お兄様の左足を見た。  肉が入るたびに、左足の血管がドクンドクンと脈打ち、紫色に発光している。  栄養が行き渡っているのだ。  あたしの細胞が、お兄様の身体を内側から作り変えていく。


「……うまい、うまいよ、世璃……」

 お兄様が、血まみれの顔で笑った。  その歯の間には、赤い肉片が挟まっている。  狂気と恍惚に満ちた、美しい笑顔。


 あたしは、お兄様の血だらけの頬に指を這わせ、その指についた血を舐めた。  お兄様の唾液と、牛の血が混ざり合った味。

  それは、あたしたちの「婚約」の味だった。


「よかったね、お兄様。  これでやっと、同じご飯が食べられるね」


 皿はあっという間に空になった。  お兄様は名残惜しそうに、指についた血まで綺麗に舐め取った。  そして、満足げなため息をついて、ベッドに倒れ込んだ。  満腹になった猛獣が、昼寝をするように。


 でも、あたしは知っている。  これだけじゃ足りない。  今はまだ牛の肉で満足しているけれど、いずれ飽きる時が来る。  もっと上質な、もっと知性のある生き物の肉を欲しがる時が。



 その時こそ、お兄様は本当の意味で「魔王」になるのだ。  そして、そのための獲物は、向こうから勝手にやってくるはずだ。  この「化け物屋敷」の噂を聞きつけた、愚かな人間たちが。


    
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