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神々の悪戯、人の終焉(1:美食家の憂鬱)
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雨の夜だった。
この季節にしては珍しく、冷たい北風が吹いている。
屋敷の裏口に、黒塗りのセダンが滑り込んだ。 運転席から降りてきたのは、犬飼だ。 彼はトランクを開け、いつものように発泡スチロールの箱を抱えて、勝手口を叩いた。
「……お届けものです」
しわがれた声。 あたしが鍵を開けると、彼は濡れた身体を拭こうともせず、土間に箱を置いた。 蓋を開ける。 中には、霜降りの牛肉がぎっしりと詰まっている。 市場で手に入る最高級品。人間なら、これを見るだけで垂涎ものだろう。
でも。 リビングのソファに座っていたお兄様は、ピクリとも動かなかった。 本を閉じることもなく、顔も上げない。 ただ、不快そうに鼻を鳴らしただけだ。
「……臭いな」
お兄様の低い声が、部屋の空気を凍らせた。 犬飼がビクリと震える。
「え……? あ、あの、腐ってはいないはずですが……」
「違うよ、犬飼さん。鮮度の問題じゃない」
お兄様は、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、暗闇の中で金色に発光していた。 爬虫類のような縦長の瞳孔が、犬飼を射抜く。
「『死んでからの時間』が長すぎるんだ。 魂が抜けて、ただのタンパク質の塊になった肉からは、何の歌も聞こえてこない。 ……まるで、濡れた段ボールを噛んでいるような味がするんだ」
お兄様は、溜息をついて本を放り出した。 その左足――ズボンの生地を押し上げるほど太く脈打つ異形の足――が、イライラしたように床を叩く。 ドン、という重い音が、屋敷全体を揺らした。
「申し訳、ありません……! すぐに別のものを……!」
犬飼が土下座をする勢いで謝る。 お兄様はそれを冷ややかに見下ろし、やがてふわりと微笑んだ。 それは、空腹の猛獣が、檻の鍵が開いていることに気づいた時の笑顔だった。
「いいよ、犬飼さん。君のせいじゃない。 僕の舌が、贅沢になってしまっただけだから」
お兄様は立ち上がった。 その動きは、重力を感じさせないほど滑らかだ。
「世璃」
「なあに? お兄様」
「着替えておいで。 今夜は、外食にしよう」
外食。
その言葉の響きに、あたしの胸が高鳴った。
ずっとこのお城の中に引きこもっていたあたしたちが、外へ出る。 狩りに行くのだ。
「わあ! デートだね、お兄様!」
「ああ。久しぶりのデートだ。 ……犬飼さん、車を出してくれるね?」
お兄様の命令は、絶対だった。 犬飼は顔面蒼白になりながらも、首輪をつけられた老犬のように頷いた。
「は……はい。どちらへ……?」
「どこでもいいよ。 賑やかで、生きの良い獲物がたくさんいる場所へ」
***
10分後。 あたしとお兄様は、着替えを済ませて玄関に立っていた。
お兄様は、黒いロングコートを羽織っていた。
異形の左足を隠すためと、返り血が目立たないようにするためだ。
あたしは、那美が持っていた中で一番可愛い、白いワンピースを着た。 少しカビ臭かったけれど、あたしたちには香水のようなものだ。
「似合うよ、世璃。お姫様みたいだ」
「お兄様も素敵。魔王様みたい」
あたしたちは腕を組んで、雨の降りしきる外へと出た。 犬飼が待機させていた黒塗りのセダンの後部座席に乗り込む。 革張りのシート。閉鎖された空間。 運転席の犬飼からは、強烈な「恐怖」と「絶望」の匂いが漂ってくる。
車が走り出した。 西伊豆の曲がりくねった山道を下り、街の灯りを目指す。
「ねえ、お兄様。何を食べようか?」
あたしは窓の外を流れる闇を見ながら、ウキウキと尋ねた。 お兄様は、あたしの肩を抱き寄せながら、夜景のメニュー表を眺めるように言った。
「そうだね……。 脂っこいのは避けたいな。最近、胸焼けがするから」
それを聞いた犬飼が、ハンドルを握る手に力を込めたのがわかった。 バックミラー越しに、彼の怯えた目が見える。
「あ、あの……静様」
「なんだい?」
「……繁華街の方へ行けば、ガラの悪い連中がたむろしています。 薬の売人や、半グレのような……社会のゴミです。 そ、そういう連中なら……警察もすぐには動きませんし……」
犬飼は必死だった。 あたしたちが一般市民――特に子供や女性――を襲わないように、精一杯の誘導をしているのだ。 まだ彼の中に、警察官としての良心の欠片が残っているらしい。 滑稽で、愛おしい努力。
お兄様はクスクスと笑った。
「気が利くね、犬飼さん。 確かに、ゴミ掃除をするのは良いことだ。 それに、そういう連中は生命力が強くて、歯ごたえがありそうだ」
「は、はい……きっとお口に合うかと……」
犬飼が安堵の息を漏らす。 車は海岸沿いの国道を抜け、ネオンが輝く隣町の歓楽街へと入っていく。 雨に濡れたアスファルトが、街灯を反射してギラギラと光っている。
窓を開けると、街の匂いが入ってきた。 排気ガス。安っぽい香水。アルコール。そして、欲望と怠惰の匂い。 森の澄んだ空気とは違う、雑多で濃厚な「人間」の匂い。
「……すごい」
お兄様が、身を乗り出した。 その瞳孔がカッと見開かれる。
「聞こえるよ、世璃。 たくさんの心臓の音が。 ドクン、ドクン、ドクン……。まるで、街全体が巨大なバイキング料理みたいだ」
お兄様の口元から、唾液が糸を引いた。 もう、我慢の限界だ。 あたしも、お腹の底が熱くなってきた。
「止めろ」
お兄様が短く命じた。 人気のない路地裏。 薄汚れたバーの裏口あたり。 そこには、獲物になりそうな「質の悪そうな若者たち」の気配が濃厚に漂っていた。
キキーッ。 車が止まる。 お兄様はドアを開け、夜の街へと降り立った。 アスファルトを蹴る左足が、グチャリと湿った音を立てる。
「さあ、行こうか世璃。 ……狩りの時間だ」
お兄様が手を差し出す。 あたしはその手を取り、エスコートされて車を降りた。 運転席の犬飼は、ハンドルに額を押し付けて、耳を塞いでいた。 これから始まる惨劇の音を聞きたくないように。
でも、無駄よ。 今夜の悲鳴は、きっと街中に響き渡るから。
この季節にしては珍しく、冷たい北風が吹いている。
屋敷の裏口に、黒塗りのセダンが滑り込んだ。 運転席から降りてきたのは、犬飼だ。 彼はトランクを開け、いつものように発泡スチロールの箱を抱えて、勝手口を叩いた。
「……お届けものです」
しわがれた声。 あたしが鍵を開けると、彼は濡れた身体を拭こうともせず、土間に箱を置いた。 蓋を開ける。 中には、霜降りの牛肉がぎっしりと詰まっている。 市場で手に入る最高級品。人間なら、これを見るだけで垂涎ものだろう。
でも。 リビングのソファに座っていたお兄様は、ピクリとも動かなかった。 本を閉じることもなく、顔も上げない。 ただ、不快そうに鼻を鳴らしただけだ。
「……臭いな」
お兄様の低い声が、部屋の空気を凍らせた。 犬飼がビクリと震える。
「え……? あ、あの、腐ってはいないはずですが……」
「違うよ、犬飼さん。鮮度の問題じゃない」
お兄様は、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、暗闇の中で金色に発光していた。 爬虫類のような縦長の瞳孔が、犬飼を射抜く。
「『死んでからの時間』が長すぎるんだ。 魂が抜けて、ただのタンパク質の塊になった肉からは、何の歌も聞こえてこない。 ……まるで、濡れた段ボールを噛んでいるような味がするんだ」
お兄様は、溜息をついて本を放り出した。 その左足――ズボンの生地を押し上げるほど太く脈打つ異形の足――が、イライラしたように床を叩く。 ドン、という重い音が、屋敷全体を揺らした。
「申し訳、ありません……! すぐに別のものを……!」
犬飼が土下座をする勢いで謝る。 お兄様はそれを冷ややかに見下ろし、やがてふわりと微笑んだ。 それは、空腹の猛獣が、檻の鍵が開いていることに気づいた時の笑顔だった。
「いいよ、犬飼さん。君のせいじゃない。 僕の舌が、贅沢になってしまっただけだから」
お兄様は立ち上がった。 その動きは、重力を感じさせないほど滑らかだ。
「世璃」
「なあに? お兄様」
「着替えておいで。 今夜は、外食にしよう」
外食。
その言葉の響きに、あたしの胸が高鳴った。
ずっとこのお城の中に引きこもっていたあたしたちが、外へ出る。 狩りに行くのだ。
「わあ! デートだね、お兄様!」
「ああ。久しぶりのデートだ。 ……犬飼さん、車を出してくれるね?」
お兄様の命令は、絶対だった。 犬飼は顔面蒼白になりながらも、首輪をつけられた老犬のように頷いた。
「は……はい。どちらへ……?」
「どこでもいいよ。 賑やかで、生きの良い獲物がたくさんいる場所へ」
***
10分後。 あたしとお兄様は、着替えを済ませて玄関に立っていた。
お兄様は、黒いロングコートを羽織っていた。
異形の左足を隠すためと、返り血が目立たないようにするためだ。
あたしは、那美が持っていた中で一番可愛い、白いワンピースを着た。 少しカビ臭かったけれど、あたしたちには香水のようなものだ。
「似合うよ、世璃。お姫様みたいだ」
「お兄様も素敵。魔王様みたい」
あたしたちは腕を組んで、雨の降りしきる外へと出た。 犬飼が待機させていた黒塗りのセダンの後部座席に乗り込む。 革張りのシート。閉鎖された空間。 運転席の犬飼からは、強烈な「恐怖」と「絶望」の匂いが漂ってくる。
車が走り出した。 西伊豆の曲がりくねった山道を下り、街の灯りを目指す。
「ねえ、お兄様。何を食べようか?」
あたしは窓の外を流れる闇を見ながら、ウキウキと尋ねた。 お兄様は、あたしの肩を抱き寄せながら、夜景のメニュー表を眺めるように言った。
「そうだね……。 脂っこいのは避けたいな。最近、胸焼けがするから」
それを聞いた犬飼が、ハンドルを握る手に力を込めたのがわかった。 バックミラー越しに、彼の怯えた目が見える。
「あ、あの……静様」
「なんだい?」
「……繁華街の方へ行けば、ガラの悪い連中がたむろしています。 薬の売人や、半グレのような……社会のゴミです。 そ、そういう連中なら……警察もすぐには動きませんし……」
犬飼は必死だった。 あたしたちが一般市民――特に子供や女性――を襲わないように、精一杯の誘導をしているのだ。 まだ彼の中に、警察官としての良心の欠片が残っているらしい。 滑稽で、愛おしい努力。
お兄様はクスクスと笑った。
「気が利くね、犬飼さん。 確かに、ゴミ掃除をするのは良いことだ。 それに、そういう連中は生命力が強くて、歯ごたえがありそうだ」
「は、はい……きっとお口に合うかと……」
犬飼が安堵の息を漏らす。 車は海岸沿いの国道を抜け、ネオンが輝く隣町の歓楽街へと入っていく。 雨に濡れたアスファルトが、街灯を反射してギラギラと光っている。
窓を開けると、街の匂いが入ってきた。 排気ガス。安っぽい香水。アルコール。そして、欲望と怠惰の匂い。 森の澄んだ空気とは違う、雑多で濃厚な「人間」の匂い。
「……すごい」
お兄様が、身を乗り出した。 その瞳孔がカッと見開かれる。
「聞こえるよ、世璃。 たくさんの心臓の音が。 ドクン、ドクン、ドクン……。まるで、街全体が巨大なバイキング料理みたいだ」
お兄様の口元から、唾液が糸を引いた。 もう、我慢の限界だ。 あたしも、お腹の底が熱くなってきた。
「止めろ」
お兄様が短く命じた。 人気のない路地裏。 薄汚れたバーの裏口あたり。 そこには、獲物になりそうな「質の悪そうな若者たち」の気配が濃厚に漂っていた。
キキーッ。 車が止まる。 お兄様はドアを開け、夜の街へと降り立った。 アスファルトを蹴る左足が、グチャリと湿った音を立てる。
「さあ、行こうか世璃。 ……狩りの時間だ」
お兄様が手を差し出す。 あたしはその手を取り、エスコートされて車を降りた。 運転席の犬飼は、ハンドルに額を押し付けて、耳を塞いでいた。 これから始まる惨劇の音を聞きたくないように。
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