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番外編 亡霊の旋律
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東京の夜は、静寂すらも金で買える。 地上百五十メートルのペントハウス。特注の二重防音ガラスは、都会の喧騒を完璧に遮断し、室内にはただ、加湿器が吐き出す白い霧の音だけが微かに漂っていた。
「……お兄様、またあの曲、聴きたいな」
あたしは、お兄様の膝の上で猫のように丸まりながら、甘えた声を出す。
お兄様は細い指で、タブレットの画面を操作した。数千万もするオーディオシステムが静かに起動し、真空管が琥珀色の光を宿す。
流れ出したのは、かつて西伊豆の、あの腐りかけた屋敷で那美お姉ちゃんがよく弾いていた曲。
ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
伊豆の屋敷にあった、鍵盤がいくつか象牙の剥がれた古いピアノは、今ごろ湿った潮風に晒されて、音も出なくなっているだろう。あの「重し」のようなピアノを、わざわざ東京へ運ぶ必要なんてなかった。
お兄様がここで買い直したスタインウェイは、驚くほど正確で、残酷なまでに美しい音を奏でる。けれど、お兄様が選ぶのはいつも、ノイズの混じった古いレコードの音源だった。
「この曲を聴くと、あの地下室の匂いを思い出すね、世璃」
お兄様が、あたしの耳たぶを優しく噛む。
あたしは、その心地よい刺激に身を委ねながら、まぶたの裏に広がる「泥」の記憶を反芻した。
カビ臭い空気、死んでいった者たちの脂の匂い。そして、自分たちを「呪い」として閉じ込めていた、あの村の人間たちの嫌な気配。
「お姉ちゃんが弾くときは、もっとトゲトゲしてた。……きっと、お兄様を連れて逃げたかったからだね」
「そうだね。彼女はいつも、鍵盤に指を叩きつけるように弾いていた。……でも今の僕には、この穏やかな旋律の方が心地いい。君と一緒に、誰にも邪魔されずに聴けるから」
お兄様の左足が、リズムを刻むようにあたしの太腿を叩く。
肉厚な魔人の足。その鼓動が、優雅なクラシック音楽と重なり、歪な不協和音を生み出していく。
あたしたちは、一千万人が蠢く都会の頂上で、かつての自分たちを苦しめた「思い出」を、贅沢なエンターテインメントとして消費する。
かつての那美の悲鳴も、絶望も、今では極上のスパイスに過ぎない。
「お兄様。……あたし、決めたよ。もうすぐ、あのご飯たちが一番美味しくなる時期だね」
「ああ、わかっているよ、世璃。……地図から消してしまおう。僕たちの過去を汚した、あの卑しい村ごと、ね」
音楽が最高潮に達し、静かに消えていく。
お兄様の手が、あたしの首筋を強く締め上げる。愛おしくてたまらないというように。
あたしたちは、硝子の城の中で、来るべき「饗宴」の計画を立てる。
東京の空には、獲物たちの悲鳴を予感させるような、赤い月が昇っていた。
「……お兄様、またあの曲、聴きたいな」
あたしは、お兄様の膝の上で猫のように丸まりながら、甘えた声を出す。
お兄様は細い指で、タブレットの画面を操作した。数千万もするオーディオシステムが静かに起動し、真空管が琥珀色の光を宿す。
流れ出したのは、かつて西伊豆の、あの腐りかけた屋敷で那美お姉ちゃんがよく弾いていた曲。
ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
伊豆の屋敷にあった、鍵盤がいくつか象牙の剥がれた古いピアノは、今ごろ湿った潮風に晒されて、音も出なくなっているだろう。あの「重し」のようなピアノを、わざわざ東京へ運ぶ必要なんてなかった。
お兄様がここで買い直したスタインウェイは、驚くほど正確で、残酷なまでに美しい音を奏でる。けれど、お兄様が選ぶのはいつも、ノイズの混じった古いレコードの音源だった。
「この曲を聴くと、あの地下室の匂いを思い出すね、世璃」
お兄様が、あたしの耳たぶを優しく噛む。
あたしは、その心地よい刺激に身を委ねながら、まぶたの裏に広がる「泥」の記憶を反芻した。
カビ臭い空気、死んでいった者たちの脂の匂い。そして、自分たちを「呪い」として閉じ込めていた、あの村の人間たちの嫌な気配。
「お姉ちゃんが弾くときは、もっとトゲトゲしてた。……きっと、お兄様を連れて逃げたかったからだね」
「そうだね。彼女はいつも、鍵盤に指を叩きつけるように弾いていた。……でも今の僕には、この穏やかな旋律の方が心地いい。君と一緒に、誰にも邪魔されずに聴けるから」
お兄様の左足が、リズムを刻むようにあたしの太腿を叩く。
肉厚な魔人の足。その鼓動が、優雅なクラシック音楽と重なり、歪な不協和音を生み出していく。
あたしたちは、一千万人が蠢く都会の頂上で、かつての自分たちを苦しめた「思い出」を、贅沢なエンターテインメントとして消費する。
かつての那美の悲鳴も、絶望も、今では極上のスパイスに過ぎない。
「お兄様。……あたし、決めたよ。もうすぐ、あのご飯たちが一番美味しくなる時期だね」
「ああ、わかっているよ、世璃。……地図から消してしまおう。僕たちの過去を汚した、あの卑しい村ごと、ね」
音楽が最高潮に達し、静かに消えていく。
お兄様の手が、あたしの首筋を強く締め上げる。愛おしくてたまらないというように。
あたしたちは、硝子の城の中で、来るべき「饗宴」の計画を立てる。
東京の空には、獲物たちの悲鳴を予感させるような、赤い月が昇っていた。
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