私の心臓をつかむあなたの手が冷たくも温かい~収穫祭~

秦江湖

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春・千尋

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ホテルでルイとの取引を終えた私は、一人ソファーに座って思い出に浸っていた。

由利を殺すのには数秒程度の時間で済んだ。

一華のやったことは全てバレている。その上で警察から一華を守る相談をしたいと言うと、由利は私を自室に招き入れた。


なにか飲み物でも出そうとして私に背を向けたときに、背後から両手で頭と顔を掴み、梃子の要領で思い切り捩じった。

由利はその場に崩れ落ちて動かなくなった。


人の死に対して私の心が何か動くことはなかった。

直前までの何物にも代え難い高揚感も、体の底から突き上げるような衝動も嘘のように冷めきっていた。
昔からだった。



私は小さいころから相手の感情というものがわからなかった。

それでも周りに合わせて、表情や声のトーンをコントロールすることで溶け込むことはできた。

自分自身は楽しいとかそういう感情が自分の中にあるのはわかる。

しかし悲しいとか怒るといった感情を自分の中に見出すことはできなかった。

人と共感することのない私は、罪悪感というものを一切抱くことがなかったし、今まで理解したことがない。


そして現在の私が、ある日忽然と現れたのだ。




あれは小学校五年生の夏。

「人を殺したらどうなるのか」と、いう疑問と同時に人を殺してみたくなった。

人を殺すと自分の感情はどうなるのか?自分は何を思い感じるのか?

興味は尽きなかった。


誰を殺すかという選択で私は母を選択した。

彼女は最も身近で、行動も把握しやすく、私とプライベートな空間を共有している分、余計な目撃者に備える必要もない。そして弱い。


私の家庭は裕福だったが、父は封建的で優生思想に毒されたような人間だった。

家での序列は、父を頂点として、その遺伝子を引き継ぐ私、そして赤の他人の母が最下層だった。

それは父と母の関係を見ていれば察することができた。

父からは私に対する多大な期待を感じた。


母は父に対して細心の注意を払い、私に対しては子供に対するものとは違う気遣いを、どこか卑屈なものを感じたからだ。

そんな精神状態が祟ったのか、母は時折、夢遊病のように徘徊するようになってしまった。気がつくと記憶が飛んでいる。


家の中にいたのに気がついたら外にいるといった具合だ。

そんな状態のため父に内緒で心療内科から薬を処方してもらっていた。

私にとっては非常に幸運なことだ。

私の家は旧家で、裏の庭に古い井戸があった。

もう水も枯れているが深さは相当ある。

危険なので蓋をしてあるが、小学校高学年の私でも外すことができる。

そこで母を殺すことにした。

殺害方法は簡単なものだった。


母に「友達が落ちた!」と、言って見に来てもらう。

井戸を母がのぞき込んだ時に足をすくいあげて落とす。

あとは井戸のふたを閉めれば終わりだ。



そして私の計画はいとも簡単に成功してしまった。

学校から帰った私は、裏庭の井戸のふたを外して、青ざめた顔をして母を呼びに行ったのだ。

母は血相を変えて井戸を覗き込んだ。

そのときの経験したことのない高揚感。

全身から力が湧き上がるような、体の芯から熱くなるような。

スポーツで試合をしていてもこんな感覚になったことはない。


私はおもむくままにすかさずその脚をすくいあげて井戸に落とした。

そして井戸に蓋をして家に戻った。

母は私が帰宅したときには出かけていていなかった。

父にはそう言えばいい。


先月くらいから母がこっそりと誰かと電話で話していた。そう吹き込めば、父の性格から体面を気にしてどこにも相談しないだろう。

それは、仮に私の犯行がバレてもそうするだろうと思っていた。

私は夜になり帰宅した父に、母は私が帰ってきたときはリビングのテーブルにスマホがあったので、てっきりいるかと思ったが不在だった。まだ帰ってこない。最近は誰かと何度も話していたと話した。


果たして、その通りになった。

父は母が不倫して家出したと考えたようだ。

怒りこそすれすぐに警察に届ける発想はなかった。

私の父を見る目は間違っていなかった。


そして肝心の私はというと、これが期待外れだった。

殺すときには自分の中に今までに味わったことのない高揚するものを感じた。

しかし殺した後はなにも残らない。

後悔もなければ罪悪感もない、実にあっさりとした味気ないもの。


これが私の殺人に対する感想だった。

そして、人の一線を越えるということは、こんなにも簡単なことだったのだと思った。



その日は普段と変わらず睡眠をとり、朝を迎えると、庭にあるトマトにふと目がいった。

母がやっていた家庭菜園。

特になにか考えてのことではなかったが、私は母の家庭菜園を引き継ぐことにした。

これが思いのほか自分には向いていてのめりこんだ。


自分で観察して育てるという行為がたまらなく楽しかった。

そして思ったのだ。人を育てるのはどういうものだろう?

人の悪意や妬み、憎しみを育ててどんなふうに成長するだろう?想像するとわくわくしてきた。

トマトと人を重ねたらきっとはかどって楽しくなるに違いない。

私がトマトに人の名前を付けるのはこうした理由からだ。


最初にトマトにつけた名前は父の名前だった。

自分は絶対に正しいと強固に思い込んでいる父を、自分も過ちを犯す人間なんだと自覚させる。

つまり成長させる。

ついでに母も父が自殺に追い込んだことにしよう。

おそらく父は体面をとりつくろうために事故死したことにするだろう。

自殺されたよりも事故で死んだ方が世間体的には良い。


特に父は、妻を自殺に追い込んだ男ではなく、事故で妻に先立たれたかわいそうな男になるのだから。

あとは私が献身的に協力すれば、父は私に感謝すると同時に負い目を感じて、私の言うことには逆らわないようになるだろう。



私は父が帰宅した折に、母の電話の内容で断片的に聞こえた話の中に精神的な虐待を受けているという文言があったことを伝えた。同時に裏庭の井戸のふたがずれているとも。

私の話を聞いて父は混乱したようだった。

懐中電灯を持って井戸をのぞいてみるも、そこは深くとても見えない。

呼びかけても反応はない。


私は母が内緒で心療内科から薬を処方してもらっていたことを教えて、母は夢遊病のような状態でふらふら歩いてきてあやまって落ちてしまったのだろうと、いかにも都合の良いストーリーを話してあげた。


果たして父は、通報すると私の作ってあげたストーリーを饒舌に警察へ話した。

井戸から引き揚げられた母はシートをかけられて、その死に顔は父しか見ることができなかった。

母の死は事故ということになり、私の犯行がバレることはなかった。



母の死から逃れるように父は慣れ親しんだ家を捨てて、新天地に生活の拠点を移した。もちろん私も一緒に。

私はシングルの父を献身的に支えながら、父を肯定してあげて、ときには母の死の責任を詰り続けた。

引っ越ししてから一華と出会う頃には、父の中で、母を死に追いやったのは自分だという罪の意識が醸造されていた。


父はこれまでの自分の非を認め、反省することを本当の意味で覚えた。

人間的に成長させることができたのだ。

そのせいか父は精神的に私へ依存するようになった。

あの家庭では絶対者だった父が私よりも弱者になったのだ。

自分の中にこれまでにない達成感が芽生えた。


以来、私は新しいトマトを育てながら記録をつけ続けている。

そしてこれから今までにない最高の達成感を味わうことになる。



心が躍った。



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