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第4話:銀色の相棒
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第4話:銀色の相棒
予備校の放課後というのは、昼間よりもずっと残酷な静寂に支配されている。
自習室の空気は、受験生たちが吐き出す二酸化炭素と、焦燥感、そして消しゴムのカスが舞う独特の匂いで濁っていた。窓の外では、部活帰りであろう高校生たちの笑い声が遠く響き、それがこの閉鎖された空間にいる僕たちとの、埋めようのない隔絶を突きつけてくる。
僕は参考書を開いたまま、ペンを動かす手が止まっていた。
頭の中に浮かぶのは、難解な化学式ではなく、三日前の面談室で見たユキさんの微笑みだ。そして、彼女が「相棒」と呼び、お守りのように大切にしている、あの銀色の腕時計の輝き。
僕が今つけている安っぽいラバー時計は、一秒一秒をただ「浪人生活の終わり」へと事務的に進めるだけの装置に過ぎない。けれど、彼女の手首にある時計は、彼女の人生の重みを刻んでいるように見えた。
どうしても、もう一度あの時計を、そして彼女を近くで感じたかった。
重苦しい自習室の空気から逃げ出すように、僕は意を決して立ち上がった。質問用のプリントを一枚手に取り、講師室へと向かう。この時間は、講師たちが一息つくタイミングだ。ユキさんがまだ残っていることを、僕は半分だけ確信し、半分だけ祈っていた。
講師室の重いドアを開けると、コーヒーの匂いと、コピー機の熱気が混じった空気が鼻をついた。
一番奥のデスク。そこに、少し丸めた背中で資料を整理している小さな影を見つけた。ユキさんだ。
彼女は、講師用の大きな椅子に対してあまりに小柄で、まるで子供が背伸びをして仕事をしているように見えて、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「あの、ユキ先生。質問、いいですか?」
僕が声をかけると、ユキさんは肩を少し跳ねさせて振り向き、僕の顔を見るなり、またあの柔らかい微笑みを浮かべた。
「あ、ダイスケくん! どうしたの? またマークミスして絶望した顔になっちゃった?」
「違いますよ。今日は、本当に分からないところがあったんです」
僕が苦笑いしながらプリントを差し出すと、彼女は「ふふっ、冗談だよ」と言って、自分の椅子の隣に丸椅子を引き寄せた。
「いいよ、座って。どこが分からない?」
促されるままに座ると、彼女との距離は三十センチもなかった。
面談室の時よりもさらに近い。石鹸のような、そして微かにバニラのような甘い香りが、僕の理性をじわじわと麻痺させていく。
ユキさんは僕のプリントを覗き込み、ペンを動かし始めた。
「ここはね、この公式をそのまま当てはめるんじゃなくて、電子の動きをイメージしてみて……」
彼女の解説は丁寧だった。けれど、僕の意識はその内容よりも、動く彼女の唇や、熱心に説明する際にわずかに揺れる、白くて細い首筋に釘付けになっていた。
そして、プリントを押さえている彼女の左手首。
夕方の蛍光灯の下で、あの銀色の腕時計が、静かに、けれど確実に時を刻んでいた。
質問が終わった後も、僕は立ち上がることができなかった。
ユキさんが不思議そうに「ダイスケくん?」と僕の顔を覗き込む。
僕は、握りしめた拳に力を込め、喉まで出かかった言葉を、勢い任せに吐き出した。
「先生……その、お願いがあるんです」
「お願い? 英語の単語テスト、一回休ませてとかじゃないよね?」
「違います。……先生のその時計、一週間だけ貸してくれませんか?」
ユキさんの瞳が、驚きに大きく開かれた。
講師室の喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。
「え……? 私の時計を?」
「はい。さっきの面談の時、お守りだって言ってたじゃないですか。……それ、僕に貸してほしいんです。先生の時計が手元にあったら、僕、今までの何倍も勉強頑張れる気がするんです。次の模試で、絶対にミスしない自信が持てる気がするんです」
自分でも驚くほど、必死な声が出ていた。
そんなこと、許されるはずがない。教師と生徒が私物を、しかも肌に身につけるものを貸し借りするなんて。
けれど、僕は賭けてみたかった。この「浪人生」という不安定な立場が許す、なりふり構わない誠実さが、彼女に届くのかを。
ユキさんは、困ったように眉を下げ、自分の手首を見つめた。
「そんな……私の時計なんて、男の子がつけるようなものじゃないよ? 華奢だし、ピンクゴールドも入ってるし……それに、これお気に入りだから……」
「わかってます。でも、先生の『時間』を借りていると思えば、一秒も無駄にできないって思えるんです。お願いします」
僕は頭を下げた。視界の端で、彼女の細い指先が、時計のベルトを愛おしそうに撫でるのが見えた。
長い沈黙が流れる。鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。
やがて、ユキさんは小さく、けれど深い吐息をついた。
「……もう、ダイスケくんは本当に、真っ直ぐすぎるね。そんなこと言われたら、断りづらいじゃない」
ユキさんは、困り果てたような、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべた。
そして、細い指先で自分の腕時計のバックルを外した。
カチッ、という小さな金属音が、静かな講師室に鮮烈に響いた。
「……はい。一週間だけだよ? 壊したり、失くしたりしたら、本当に怒るからね。その代わり……ダイスケくんの時計、私が預かっておく」
「え……?」
「交換、でしょ? 私だけ時間を取られちゃうのは不公平だもん。ほら、貸して」
予想外の言葉に、僕は呆然としながらも、自分の左手首からラバー時計を外した。
ユキさんは、僕の黒い時計を両手で受け取ると、自分の細い手首にそれを当てた。けれど、僕の時計は彼女の手首に対してあまりに大きく、ベルトの穴を一番奥にしても、まだゆるゆると遊んでしまう。
ユキさんはそれを見て、「うわ、大きい!」とふふっと鈴を転がすような声で笑った。
「見て、ブレスレットみたい。なんか、男の子の時計って感じがする。……よし、これで一週間、ダイスケくんの時間は私が預かったからね」
彼女の手首でぶら下がる、僕の安っぽい時計。
それが、彼女の柔らかな肌に密着している光景を見て、僕は喉の奥が焼けるように熱くなった。
今度は僕が、彼女の銀色の時計を受け取った。
その瞬間、驚くほどの熱が手のひらに伝わってきた。
それは、たった今まで彼女の肌に触れていた、彼女の体温そのものだった。
冷たい金属であるはずの時計が、まるで生き物のように僕の手の中で脈打っているような気がした。
案の定、ベルトは短くて僕の手首には届かない。僕はそれを無理に締めず、拳の中に握り込むようにして、手首に押し当てた。
ひんやりとした金属の感触の奥に、依然として彼女の熱が残っている。
そして、それ以上に僕を動揺させたのは、立ち上る香りだった。
時計のベルトに染み付いた、あの石鹸とバニラの香り。
彼女の吐息をそのまま閉じ込めたようなその香りが、僕の鼻先を掠めるたび、意識が遠のきそうになる。
「……重い。先生の時計、意外と重みを感じます」
「それはね、先生の期待の重さだよ。……約束だよ、ダイスケくん。一週間、しっかり頑張ること」
ユキさんは、僕の心の乱れに気づく様子もなく、またあの柔らかい微笑みを浮かべて僕を見た。
講師室を出て、薄暗い廊下を歩く。
左手首には、彼女の時間が、彼女の体温が、彼女の香りが、確かに存在していた。
自習室に戻る足取りは、先ほどとは全く違っていた。
窓の外では、もうすっかり日が落ち、濃紺の夜が街を包み込もうとしている。
僕は自分の席に座り、周囲に悟られないよう、こっそりと左手首を鼻に近づけた。
暗闇の中で、銀色の秒針がチクタクと音を立てている。
それは、僕と彼女だけが共有する、秘密の鼓動のように聞こえた。
一週間。
この銀色の相棒が、僕をどんな場所に連れて行ってくれるのか。
浪人生という孤独な時間の代わりに、僕はユキさんという「時間」を手に入れてしまった。
それが、僕をさらなる深みへと引きずり込んでいく予兆だとは、その時の僕はまだ、気づいていなかった。
予備校の放課後というのは、昼間よりもずっと残酷な静寂に支配されている。
自習室の空気は、受験生たちが吐き出す二酸化炭素と、焦燥感、そして消しゴムのカスが舞う独特の匂いで濁っていた。窓の外では、部活帰りであろう高校生たちの笑い声が遠く響き、それがこの閉鎖された空間にいる僕たちとの、埋めようのない隔絶を突きつけてくる。
僕は参考書を開いたまま、ペンを動かす手が止まっていた。
頭の中に浮かぶのは、難解な化学式ではなく、三日前の面談室で見たユキさんの微笑みだ。そして、彼女が「相棒」と呼び、お守りのように大切にしている、あの銀色の腕時計の輝き。
僕が今つけている安っぽいラバー時計は、一秒一秒をただ「浪人生活の終わり」へと事務的に進めるだけの装置に過ぎない。けれど、彼女の手首にある時計は、彼女の人生の重みを刻んでいるように見えた。
どうしても、もう一度あの時計を、そして彼女を近くで感じたかった。
重苦しい自習室の空気から逃げ出すように、僕は意を決して立ち上がった。質問用のプリントを一枚手に取り、講師室へと向かう。この時間は、講師たちが一息つくタイミングだ。ユキさんがまだ残っていることを、僕は半分だけ確信し、半分だけ祈っていた。
講師室の重いドアを開けると、コーヒーの匂いと、コピー機の熱気が混じった空気が鼻をついた。
一番奥のデスク。そこに、少し丸めた背中で資料を整理している小さな影を見つけた。ユキさんだ。
彼女は、講師用の大きな椅子に対してあまりに小柄で、まるで子供が背伸びをして仕事をしているように見えて、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「あの、ユキ先生。質問、いいですか?」
僕が声をかけると、ユキさんは肩を少し跳ねさせて振り向き、僕の顔を見るなり、またあの柔らかい微笑みを浮かべた。
「あ、ダイスケくん! どうしたの? またマークミスして絶望した顔になっちゃった?」
「違いますよ。今日は、本当に分からないところがあったんです」
僕が苦笑いしながらプリントを差し出すと、彼女は「ふふっ、冗談だよ」と言って、自分の椅子の隣に丸椅子を引き寄せた。
「いいよ、座って。どこが分からない?」
促されるままに座ると、彼女との距離は三十センチもなかった。
面談室の時よりもさらに近い。石鹸のような、そして微かにバニラのような甘い香りが、僕の理性をじわじわと麻痺させていく。
ユキさんは僕のプリントを覗き込み、ペンを動かし始めた。
「ここはね、この公式をそのまま当てはめるんじゃなくて、電子の動きをイメージしてみて……」
彼女の解説は丁寧だった。けれど、僕の意識はその内容よりも、動く彼女の唇や、熱心に説明する際にわずかに揺れる、白くて細い首筋に釘付けになっていた。
そして、プリントを押さえている彼女の左手首。
夕方の蛍光灯の下で、あの銀色の腕時計が、静かに、けれど確実に時を刻んでいた。
質問が終わった後も、僕は立ち上がることができなかった。
ユキさんが不思議そうに「ダイスケくん?」と僕の顔を覗き込む。
僕は、握りしめた拳に力を込め、喉まで出かかった言葉を、勢い任せに吐き出した。
「先生……その、お願いがあるんです」
「お願い? 英語の単語テスト、一回休ませてとかじゃないよね?」
「違います。……先生のその時計、一週間だけ貸してくれませんか?」
ユキさんの瞳が、驚きに大きく開かれた。
講師室の喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。
「え……? 私の時計を?」
「はい。さっきの面談の時、お守りだって言ってたじゃないですか。……それ、僕に貸してほしいんです。先生の時計が手元にあったら、僕、今までの何倍も勉強頑張れる気がするんです。次の模試で、絶対にミスしない自信が持てる気がするんです」
自分でも驚くほど、必死な声が出ていた。
そんなこと、許されるはずがない。教師と生徒が私物を、しかも肌に身につけるものを貸し借りするなんて。
けれど、僕は賭けてみたかった。この「浪人生」という不安定な立場が許す、なりふり構わない誠実さが、彼女に届くのかを。
ユキさんは、困ったように眉を下げ、自分の手首を見つめた。
「そんな……私の時計なんて、男の子がつけるようなものじゃないよ? 華奢だし、ピンクゴールドも入ってるし……それに、これお気に入りだから……」
「わかってます。でも、先生の『時間』を借りていると思えば、一秒も無駄にできないって思えるんです。お願いします」
僕は頭を下げた。視界の端で、彼女の細い指先が、時計のベルトを愛おしそうに撫でるのが見えた。
長い沈黙が流れる。鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。
やがて、ユキさんは小さく、けれど深い吐息をついた。
「……もう、ダイスケくんは本当に、真っ直ぐすぎるね。そんなこと言われたら、断りづらいじゃない」
ユキさんは、困り果てたような、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべた。
そして、細い指先で自分の腕時計のバックルを外した。
カチッ、という小さな金属音が、静かな講師室に鮮烈に響いた。
「……はい。一週間だけだよ? 壊したり、失くしたりしたら、本当に怒るからね。その代わり……ダイスケくんの時計、私が預かっておく」
「え……?」
「交換、でしょ? 私だけ時間を取られちゃうのは不公平だもん。ほら、貸して」
予想外の言葉に、僕は呆然としながらも、自分の左手首からラバー時計を外した。
ユキさんは、僕の黒い時計を両手で受け取ると、自分の細い手首にそれを当てた。けれど、僕の時計は彼女の手首に対してあまりに大きく、ベルトの穴を一番奥にしても、まだゆるゆると遊んでしまう。
ユキさんはそれを見て、「うわ、大きい!」とふふっと鈴を転がすような声で笑った。
「見て、ブレスレットみたい。なんか、男の子の時計って感じがする。……よし、これで一週間、ダイスケくんの時間は私が預かったからね」
彼女の手首でぶら下がる、僕の安っぽい時計。
それが、彼女の柔らかな肌に密着している光景を見て、僕は喉の奥が焼けるように熱くなった。
今度は僕が、彼女の銀色の時計を受け取った。
その瞬間、驚くほどの熱が手のひらに伝わってきた。
それは、たった今まで彼女の肌に触れていた、彼女の体温そのものだった。
冷たい金属であるはずの時計が、まるで生き物のように僕の手の中で脈打っているような気がした。
案の定、ベルトは短くて僕の手首には届かない。僕はそれを無理に締めず、拳の中に握り込むようにして、手首に押し当てた。
ひんやりとした金属の感触の奥に、依然として彼女の熱が残っている。
そして、それ以上に僕を動揺させたのは、立ち上る香りだった。
時計のベルトに染み付いた、あの石鹸とバニラの香り。
彼女の吐息をそのまま閉じ込めたようなその香りが、僕の鼻先を掠めるたび、意識が遠のきそうになる。
「……重い。先生の時計、意外と重みを感じます」
「それはね、先生の期待の重さだよ。……約束だよ、ダイスケくん。一週間、しっかり頑張ること」
ユキさんは、僕の心の乱れに気づく様子もなく、またあの柔らかい微笑みを浮かべて僕を見た。
講師室を出て、薄暗い廊下を歩く。
左手首には、彼女の時間が、彼女の体温が、彼女の香りが、確かに存在していた。
自習室に戻る足取りは、先ほどとは全く違っていた。
窓の外では、もうすっかり日が落ち、濃紺の夜が街を包み込もうとしている。
僕は自分の席に座り、周囲に悟られないよう、こっそりと左手首を鼻に近づけた。
暗闇の中で、銀色の秒針がチクタクと音を立てている。
それは、僕と彼女だけが共有する、秘密の鼓動のように聞こえた。
一週間。
この銀色の相棒が、僕をどんな場所に連れて行ってくれるのか。
浪人生という孤独な時間の代わりに、僕はユキさんという「時間」を手に入れてしまった。
それが、僕をさらなる深みへと引きずり込んでいく予兆だとは、その時の僕はまだ、気づいていなかった。
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