​『【実録】浪人生の僕と26歳の担任。~腕時計を交換したあの日から、僕たちは終わるために恋をした~』

まさき

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第5話:一週間の共犯者

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第5話:一週間の共犯者

 左手の拳の中に、彼女の体温が閉じ込められている。
 自習室の指定席に戻り、僕は真っ先に、握りしめていた銀色の腕時計を机の上にそっと置いた。蛍光灯の白い光を反射して、それはまるで冷たい宝石のように輝いている。けれど、僕の手のひらには、つい数分前まで彼女の柔らかな肌に触れていた残熱が、痺れるような感覚となって刻み込まれていた。
 ベルトが短すぎて僕の手首には巻けない。だから僕は、その時計を左手で包み込むようにして持つか、参考書のすぐ脇に置いて、視界の端に絶えず入れておくことにした。
 それは、浪人生という「社会の余白」にいる僕にとって、世界で唯一の、確かな繋がりだった。
 ペンを握る。不思議なことに、あんなに重苦しかった化学の計算問題が、今は驚くほど滑らかに解けていく。
 ふとした瞬間に、鼻先を掠める香り。
 時計のベルトに染み付いた、あの石鹸とバニラを混ぜたような、ユキさん特有の甘く清潔な香りが、僕を包み込む。
 僕は周囲に悟られないよう、細心の注意を払いながら、そっと時計を鼻に近づけた。
 深く息を吸い込む。肺の奥まで彼女の存在が浸透していく。
 
(……頑張れる。これなら、どこまでも行ける)
 そんな子供じみた全能感が、僕の背中を強く押していた。
 ユキさんは「期待の重さ」だと言った。僕はその重さを、一秒たりとも無駄にしたくなかった。彼女の秒針が刻む一刻一刻を、僕は自分の血肉に変えていく。
 翌日からの予備校生活は、一変した。
 授業中、講師の言葉をノートに書き留めながら、僕は何度も左手の中の金属の感触を確かめた。
 ホームルームでユキさんが教壇に立つ。彼女の左手首には、僕のあの安っぽい黒いラバー時計が巻かれている。
 彼女が黒板に字を書くたびに、僕の時計が彼女の細い腕でゆるゆると揺れる。その光景を見るたびに、僕は自分たちだけが共有している「秘密」に、胸が熱くなった。
 他の生徒たちは、担任の先生がなぜあんな不釣り合いな男物の時計をつけているのか、不審に思っているかもしれない。けれど、その理由は世界中で僕と彼女しか知らないのだ。
 
 それは、一種の共犯関係だった。
 
 ある日の放課後、廊下でユキさんとすれ違った。
 彼女は僕の顔を見るなり、いたずらっぽく自分の左手首を掲げて見せた。
 
「ダイスケくんの時計、意外と見やすいね。でもやっぱり、重いよ」
 
 彼女はふふっと鈴を転がすような声で笑い、僕の横を通り過ぎていった。
 すれ違いざまに漂った彼女の生の香りと、手元にある時計の香りが共鳴し、僕の心拍数は一気に跳ね上がった。
 返したくない。このまま、この時計ごと、彼女の時間を僕だけのものにしてしまいたい。
 そんな独占欲が、胸の奥で黒い澱のように溜まっていく。
 三日目、四日目と、僕の勉強量は異常なまでに増えていった。
 朝一番に自習室に入り、夜は閉館のベルが鳴るまで席を立たない。
 疲労で意識が朦朧としてくると、僕は机の上の時計にそっと指先を触れる。
 冷たいはずの金属は、僕の熱を吸って、いつの間にか体温のように温かくなっていた。
 ユキさんは今、何をしているだろうか。
 僕の時計を見て、僕のことを一瞬でも思い出してくれているだろうか。
 
 交換した時計は、単なる道具ではなかった。
 それは、物理的な距離を超えて、彼女の存在を僕の傍らに繋ぎ止めるための「依代(よりしろ)」だった。
 
 五日目の夜。僕は自習室で一人、彼女の時計を見つめていた。
 秒針が、円を描いて進んでいく。
 カチ、カチ、カチ。
 その規則正しい音を聞いていると、まるで彼女の心臓の鼓動を直接聴いているような錯覚に陥る。
 彼女がこの時計をつけて、誰と会い、どんな言葉を交わし、どんな夜を過ごしてきたのか。
 僕の知らない彼女の過去が、この小さな文字盤の中に閉じ込められている。
 その時間の全てを、僕は遡って共有したいと願った。
 十八歳の僕が抱くには、あまりに重すぎる、けれど純粋すぎる渇望だった。
 
 そして、約束の一週間が近づいてくる。
 時計を返さなければならない。その事実は、僕にとって死刑宣告に近い重みを持っていた。
 この時計が手元からなくなってしまったら、僕はまた、あの灰色の日常に引き戻されてしまうのではないか。
 彼女との「共犯」が解かれ、ただの生徒と教師に戻ってしまうのではないか。
 
 最終日の前夜。僕は自室で、自分の時計よりも大切に、彼女の時計を磨いた。
 柔らかな布で、指紋ひとつ残らないように、丁寧に、丁寧に。
 けれど、そうすればするほど、彼女の香りが薄れていってしまうような気がして、僕は途中で手を止めた。
 ベルトの裏側。彼女の肌が直接触れていた場所に、僕はそっと唇を寄せた。
 
 狂っている。自分でも分かっていた。
 けれど、この熱をどこにぶつければいいのか、十八歳の僕には分からなかった。
 浪人生という、何も持たない、何者でもない僕が、唯一手にした「宝物」。
 
 翌朝、僕は今までで一番早く予備校へ向かった。
 鞄の奥に、ハンカチに包んで大切に仕舞われた、銀色の腕時計。
 講師室のドアの前に立った時、僕の手はわずかに震えていた。
 
 この時計を返した時、僕たちの時間はどう変わるのか。
 彼女はまた、あの陽だまりのような微笑みで僕を迎えてくれるだろうか。
 それとも、僕の瞳の奥に宿る「熱」に気づき、距離を置いてしまうのだろうか。
 
 僕は震える指先で、講師室のドアを叩いた。
 
 一週間という、かりそめの時間は終わりを告げようとしていた。
 けれど、僕の心に深く刻まれた彼女の秒針は、これからさらに加速して、僕を誰も知らない場所へと連れ去ろうとしていた。
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