​『【実録】浪人生の僕と26歳の担任。~腕時計を交換したあの日から、僕たちは終わるために恋をした~』

まさき

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第7話:放課後のロスタイム

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第7話:放課後のロスタイム

 六月に入ると、予備校の空気は目に見えて湿り気を帯び始めた。
 窓の外では、アスファルトを叩く激しい雨が街を灰色に塗り潰している。自習室の空気清浄機はフル稼働しているが、それでも何百人という受験生が放つ熱気と、雨に濡れた靴や傘から漂う湿った匂いが混じり合い、呼吸をするだけで胸が詰まるような閉塞感があった。
 時計を交換したあの一週間が、遠い夢のように思える時がある。
 けれど、僕の左手首にある黒いラバー時計は、あの時彼女の肌に触れていた熱を、僕の脳裏に焼き付けたまま離さない。一見すると以前と変わらない日常。授業を受け、自習室に籠もり、英単語を暗記し、模試の結果に一喜一憂する。
 その単調な繰り返しの中で、唯一、僕の心拍数を狂わせるのは、公式な「面談」でも「質問」でもない、授業時間外のわずかなおしゃべりだった。
 それは、予備校の閉館時間が近づいた、二十時過ぎのロビーだったりする。
 あるいは、自動販売機の前で偶然鉢合わせた、ほんの数分の空白だったりする。
「あ、ダイスケくん。まだ残ってたの? 頑張るねぇ」
 背後からかけられたその声に、僕の肩がびくりと跳ねる。
 振り返ると、そこにはレインコートを腕に抱えたユキさんが立っていた。仕事終わりの少し疲れたような、けれど僕を見るとふわりと綻ぶ、あの柔らかな微笑み。
 予備校講師としての彼女は、常に生徒たちを導く「太陽」でなければならない。けれど、こうした時間外の彼女からは、時折、等身大の二十六歳の女性としての、しっとりとした落ち着きが漏れ出していた。
「……ユキ先生。先生こそ、今帰りですか?」
「うん、今日は事務作業が溜まっちゃって。もう、数字ばっかり見てると頭がパンクしそうだよ」
 ユキさんはそう言って、自動販売機で温かいほうじ茶を買った。ガコン、と落ちた缶を拾い上げる彼女の指先は、雨のせいか少しだけ冷えて見えた。
 彼女は缶を両手で包み込むように持ち、僕の方を向いて少し首を傾げた。
「ダイスケくん、最近すごく顔つきが変わったね。一ヶ月前より、ずっと精悍になったっていうか」
「そうですか? ……自分じゃ、ただ睡眠不足なだけだと思ってますけど」
「ふふっ、それもあるかもしれないけど、目が違うよ。……あの時計、ちゃんと効いてるみたいだね」
 彼女が僕の左手首に視線を落とした。
 一週間、彼女の腕に巻かれていた僕の時計。その事実を共有しているというだけで、周囲に他の生徒たちがいても、僕たちの間には透明な壁が立ち上がっているような、不思議な優越感があった。
「あの時計が返ってきてから、一秒を大事にするようになりました。先生の時間を預かってた時の感覚が、まだ残ってるんです」
 僕が少しだけ背伸びをした言葉を返すと、ユキさんは「そっか……」と小さく呟き、ほうじ茶の缶を自分の頬に当てた。
「……先生ね、実はダイスケくんの時計を返した日の夜、なんだか左手首が寂しくなっちゃったんだよ」
 心臓がドクリと跳ねた。
 それは、ただの社交辞令かもしれない。生徒をやる気にさせるための、講師らしいテクニックなのかもしれない。
 けれど、オレンジ色の街灯に照らされた彼女の横顔は、嘘をついているようには見えなかった。
 
「……僕もです。先生の時計がなくなった後、しばらく自分の時計が軽すぎて、落ち着きませんでした」
 僕たちは、どちらからともなく予備校の玄関へ向かって歩き出した。
 雨は小降りになっていたが、夜の空気は冷たい。
 玄関先で傘を広げる前、ユキさんは不意に足を止め、外の景色を見つめた。
「ねえ、ダイスケくん。……浪人生ってさ、世の中から忘れられた存在みたいに思うこともあるかもしれないけど。でも、この一年で君が経験してる『一生懸命』は、絶対に一生ものの宝物になるよ。私が保証する」
 彼女の声は、いつもより少し低く、深い。
 講師としてではなく、ダイスケという一人の人間に対して、魂を込めて語りかけているような、そんな響き。
「……先生にそう言われると、本当にそうなんだって思えます」
「本当? ならよかった。……あ、もうこんな時間! 電車、行っちゃうかも」
 ユキさんは慌てて腕時計――あの銀色の相棒――を確認した。
 
「ダイスケくん、また明日ね。あんまり無理して夜更かししすぎちゃダメだよ?」
「はい。先生も、気をつけて」
 彼女は小さな傘をパッと広げると、夜の雨の中へと駆け出していった。
 細い背中が、街灯の光の中に溶けていく。
 僕は、彼女が去った後の冷たい空気の中に立ち尽くし、自分の左手首をぎゅっと握りしめた。
 
 時間外の、なんてことのないおしゃべり。
 けれど、その数分間で交わされる言葉は、何百時間の講義よりも深く僕の血肉となっていた。
 彼女が僕の時計を「寂しい」と言ってくれた。その事実が、僕の乾燥した心に雨のように染み込んでいく。
 
 自習室に戻る気にはなれなかった。
 僕は、彼女が歩いていった雨の道をなぞるようにして、ゆっくりと駅へ向かった。
 
 六月の雨は、まだ少し冷たかった。
 けれど、僕の胸の奥では、彼女との言葉の断片が、消えない火種のように熱く灯り続けていた。
 
 ダイスケくん。
 ユキさん。
 
 名前を呼び合うだけの関係が、いつしか互いの時間を侵食し、溶け合い始めている。
 それはまだ、恋と呼ぶには未熟で、けれど絆と呼ぶにはあまりに危うい、四月の秒針が刻み始めた「特別なロスタイム」だった。
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