​『【実録】浪人生の僕と26歳の担任。~腕時計を交換したあの日から、僕たちは終わるために恋をした~』

まさき

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第8話:真夏のファインダー

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第8話:真夏のファインダー

 七月の太陽は、予備校の厚いコンクリート壁すら突き抜けて、僕たちの焦燥感を焼き焦がすようだった。
 夏期講習が始まり、校内は独特の熱気に包まれていた。誰もが「この夏で決まる」という強迫観念に突き動かされ、自習室の空気は限界まで張り詰めている。
 そんな中、僕は何度も、懲りもせずにユキさんを誘い続けていた。
「先生、今日この後、どっかご飯食べに行きませんか? 近くに美味い定食屋見つけたんですよ」
 講師室の片隅で、僕はなるべく軽いトーンを装って声をかける。
 けれど、ユキさんはいつものように、困ったような、それでいてどこか楽しそうな微笑みを浮かべて僕をはぐらかした。
「定食屋? 魅力的だけど、先生まだ仕事が終わらないんだ。ダイスケくんも、そんな余裕あるなら英単語の一百個でも覚えなさい」
「単語ならもう覚えましたよ。じゃあ、明日は?」
「明日は会議かな。……ほら、早く自習室戻った戻った!」
 そんなやり取りが、何度繰り返されただろうか。
 ご飯の誘いは、いつも華麗にかわされる。彼女のガードは、優しく、けれど鉄壁だった。教師と生徒という越えられない境界線が、そこには厳然と横たわっているように思えた。
 そんな二人の空気に、わずかな変化が訪れたのは、予備校で開催された夏の球技大会がきっかけだった。
 受験勉強の息抜きとして企画されたその行事で、僕たちは束の間の「普通の若者」に戻った。コートを駆け回り、汗を流し、大声で笑う。
 その休憩時間、僕と浪人生仲間、そして監督役として参加していたユキさんで、一枚の写真を撮ることになった。
「はい、チーズ!」
 仲間のデジカメが光る。
 その写真の中で、僕はユキさんの隣に立っていた。
 意識しないようにしていても、体は自然と彼女の方へと傾き、僕の視線はカメラではなく、隣で眩しそうに目を細める彼女の横顔を捉えていた。
 隠そうとしても溢れ出してしまう、あまりに露骨で、あまりに一途な熱。
 その一枚の写真が、僕の知らないところで、彼女の心を揺らすことになるとは、その時の僕は微塵も思っていなかった。
 
 後日、ユキさんがその写真を予備校以外の友人に見せた時のことだ。
 写真を見た友人は、一瞬で、そこに写る僕の「正体」を見抜いたらしい。
『ねえ、ユキ。この隣に写ってる男の子――ダイスケくんだっけ?』
『え? うん、私のクラスの生徒だよ。すごく熱心に勉強頑張ってるの』
『……あんた、鈍感すぎ。この子、絶対にあんたのこと好きだよ。見てよ、この視線。あんた以外、何も見えてないじゃない』
 友人のその一言が、ユキさんの胸に深く突き刺さった。
 それまで彼女にとって、僕は「一生懸命で、少し生意気な、可愛い教え子」でしかなかったのかもしれない。
 けれど、その日から、彼女の目に映る僕は、「自分を想う一人の男」へと、その輪郭を変え始めたのだ。
 そんな内情を知らない僕は、相変わらず玉砕覚悟で彼女を誘い続けていた。
 
「ユキ先生。ご飯がダメなら、せめてちょっとだけお茶しませんか? 近くに涼しいカフェがあるんです。三十分だけでいいですから」
 いつものように「ダメだよ」という言葉を予測して、僕は次の食い下がり方を考えていた。
 けれど、その日のユキさんは違った。
 彼女は少しだけ俯き、何かを確かめるように僕の顔をじっと見つめると、ふっと、これまでとは違う、どこか少し照れたような微笑みを浮かべた。
「……三十分だけだよ? 本当に」
「え……?」
 予想外の答えに、今度は僕の方が固まってしまった。
 
「何? 嫌だった?」
「いえ! 嬉しいです。……本当にいいんですか?」
「うん。たまには休憩も必要だもんね。……内緒だよ?」
 その日の放課後。僕たちは、予備校から少し離れた場所にある、小さな喫茶店のテラス席にいた。
 冷たいアイスティーのグラスが、カチリと音を立てる。
 街の喧騒から少し離れたその場所で、僕たちは初めて、教科書を介さない会話をした。
「……ダイスケくんって、本当によく誘ってくれるよね。先生、ちょっとびっくりしてたんだよ」
 ユキさんはグラスを両手で持ち、ストローで氷を弄びながらそう言った。
 彼女の頬が、夕暮れの陽射しとは違う理由で、微かに赤らんでいるように見えた。
「だって、先生と話してると、勉強の疲れが全部消えるんです。……本当は、もっともっと話したいことがたくさんあるんですけど」
「……そうなんだ」
 ユキさんは、僕の言葉を否定しなかった。
 以前のように「生徒なんだから」という正論で僕を突き放すこともなかった。
 ただ、静かに僕の言葉を受け止め、時折、困ったように笑いながら僕の話に耳を傾けてくれた。
 
 三十分という時間は、僕たちの「共犯」をさらに深めるには十分すぎるほど、濃密で、甘美な時間だった。
 
 お茶を終えて店を出る時、僕はふと、彼女の手首に目をやった。
 そこには、あの銀色の腕時計が光っていた。
 僕が一週間預かっていた、彼女の時間。
 
 あの日、彼女から聞いた「写真のエピソード」は、それからずっと後の、僕たちが結ばれてからの話だ。
 けれど、この日の彼女の少し落ち着かない仕草や、時折僕の目を避けるような不自然な眼差しが、何によって引き起こされていたのかを、今の僕は知っている。
 
 友人の何気ない一言が、彼女の中で僕という存在を、特別な場所へと押し上げていた。
 僕が全力で投げ続けたボールを、彼女がようやく、正面から受け止めようとしてくれた日。
 
 七月の風は、まだ湿り気を帯びていた。
 けれど、喫茶店を出て駅へと向かう僕たちの間に流れる空気は、これまでの「教師と生徒」のものとは、明らかに違っていた。
 
 僕は、自分の胸の鼓動が、彼女の腕時計の秒針と同じリズムで刻まれているような、不思議な一体感を感じていた。
 
 ――もう、ただの生徒には戻れない。
 
 夕闇が迫る街の中で、僕はそう確信していた。
 そして隣を歩く彼女もまた、同じ予感に、その小さな肩をわずかに震わせていたのかもしれない。
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