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第9話:真夏の宣戦布告
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第9話:真夏の宣戦布告
八月。受験生にとっての「天王山」は、もはや精神の限界を試す修練の場と化していた。
予備校の廊下を歩く生徒たちの顔からは生気が失われ、代わりに粘りつくような焦燥感と、誰かを蹴落としてでも上へ這い上がろうとする剥き出しの執念が漂っている。そんな地獄のような日常の中で、僕を唯一、人間らしく繋ぎ止めていたのは、ユキさんという光だった。
何度目かのお茶の時間を経て、僕たちの距離は、予備校の教卓と机のそれとは比べものにならないほど縮まっていた。けれど、縮まれば縮まるほど、僕は欲張りになっていく。三十分のコーヒータイム。廊下ですれ違う数秒の視線。そんな断片的な幸せでは、僕の心に灯った火を消すことはできなかった。
その日は、夏の湿った風が強く吹く、熱帯夜の前触れのような夕暮れだった。
いつものようにお茶を誘った流れで、「たまにはガッツリ食べて体力をつけよう」という僕の半ば強引な提案に、ユキさんが珍しく「いいよ、たまにはね」と乗ってくれた。
向かったのは、駅から少し離れた路地裏にある、年季の入ったお好み焼き屋だった。
ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、ソースが焦げる香ばしい匂いと、鉄板の熱気が一気に押し寄せてきた。
狭い店内。他のお客さんの賑やかな声。そんな庶民的で活気のある空間が、かえって僕たちの「講師と生徒」という禁欲的な関係を、束の間だけ忘れさせてくれた。
狭い座敷席に、向かい合って座る。
鉄板を挟んで座るユキさんは、教壇に立っている時よりもずっと距離が近く、湯気に煽られた彼女の頬がほんのりと赤らんでいるのが分かった。
「……あ、そういえば」
ユキさんが、コテで器用に豚玉を切り分けながら、ふと思い出したように口を開いた。
「今度、私の家からすごく近くで、大きな花火大会があるんだよね。当日、周辺は交通規制で大変なことになるから、仕事の調整が大変なの。予備校も早く閉まるし、先生たちもみんな、帰宅難民にならないように必死なんだよ」
何気ない世間話だったのだろう。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内を雷鳴のような衝撃が駆け抜けた。
僕の中の何かが、叫んでいた。
これだ。このチャンスを逃したら、僕は一生、彼女の隣を歩くことはできない。彼女の「プライベートな時間」に踏み込む権利を得ることは、二度とないかもしれない。
僕は、握りしめた割り箸をそっと置き、鉄板の熱気よりも熱い視線で、彼女をまっすぐに見つめた。
「ユキ先生。その花火、一緒に行きませんか?」
ユキさんの手が、ぴたりと止まった。
コテが鉄板と触れて、チリチリと乾いた音を立てる。
彼女は驚いたように顔を上げ、大きな、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳で僕をじっと見つめ返した。
「え……? 花火? 無理だよ、ダイスケくん。その日は人もすごいし、帰りだって電車が止まっちゃうかもしれないんだよ? 帰宅難民になっちゃうよ」
「いいんです。先生と一緒に行きたいんです。……お願いします。一回だけでいいから。一生のお願いです」
僕は、自分でも驚くほど必死な声を絞り出していた。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を内側から激しく叩く。
周りの客の声が遠のき、世界には僕と彼女、そして鉄板の上で焦げるソースの音しか存在しないような錯覚に陥った。
「ダメだよ。ダイスケくん、今は死ぬ気で勉強しなきゃいけない時期でしょ? 受験生が夜遊びなんて、私が許さないんだから」
彼女はいつものように、正論という防壁を築いて僕をはぐらかそうとする。
けれど、僕はもう、聞き分けの良い「教え子」でいることに耐えられなかった。
あの日、時計を交換した時から。彼女の香りと体温をこの肌に感じてしまったあの日から、僕の秒針は彼女へと向かう一途な軌道を描き続けていたのだ。
「お願いします。どうしても、先生と花火を見たいんです。勉強は、その日の分まで死ぬ気で終わらせますから。……先生と、同じ景色を見たいんです」
「……しつこいなぁ、もう。だからね、電車も止まるし、帰り道がなくなるって言ってるじゃない。ダイスケくん、本当に帰れなくなるよ? どうするの?」
ユキさんは困り果てたように、けれどどこか、僕の執念に根負けしたような深い溜息をついた。
その溜息に、僕はわずかな「隙」を見出した。
今、ここで一歩踏み出さなければ、僕は永遠に彼女を失う。
十八歳の僕が持てる全ての勇気を、そして無謀さを、一つの言葉に凝縮した。
「……そしたら、先生の家に泊まりますから。だから、いいですよね?」
お好み焼き屋の喧騒が、完全に消えた。
僕の心臓の音だけが、耳元でドクドクと不気味なほど大きく響いている。
ユキさんは、目を見開いて絶句した。
箸を持ったまま、時間が凍りついたかのように固まっている。
付き合ってもいない、ましてや自分の教え子からの、あまりに無礼で、あまりに直球な「お泊り」宣言。
講師としての立場、社会人としての常識、そして一人の女性としての警戒心。
それら全てをなぎ倒すような僕の「宣戦布告」に、彼女は震えていた。
沈黙が長く、果てしなく続く。
鉄板の上でソースがじゅうじゅうと鳴り、その煙が二人の間を遮る。
彼女の頬が、お好み焼きの熱のせいだけではない、鮮やかな朱色に染まっていくのを僕は逃さなかった。
彼女の唇がわずかに震え、何かを言いかけ、また閉じる。
拒絶されるかと思った。軽蔑されるかと思った。
「最低」だと罵られ、そのまま立ち去られる覚悟もできていた。
けれど。
ユキさんは、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げると、指の間から僕を覗き見るようにして、小さく吹き出した。
「……ふふっ。あははは!」
それは、呆れ果てた末の、乾いた笑いだった。
けれど、その瞳には、僕を拒絶する色は微塵もなかった。
「もう……! ダイスケくん、本当に……本当に、とんでもないこと言うね。先生を誰だと思ってるのよ」
彼女は首を左右に振り、信じられないというふうに笑い続けた。
そして、ふっと表情を和らげると、これまでのどんな授業の時よりも優しく、そして一人の女性としての情愛が混じった眼差しで、僕を射抜いた。
「……仕方ないなぁ。もう、負けたよ。……いいよ。一緒に行こう、花火大会」
心臓が止まるかと思った。
けれど、彼女の言葉はまだ終わっていなかった。
「その代わり! 条件があるの。……その日まで、死ぬ気で勉強すること。花火の日だって、移動中も見る前も、ちゃんと勉強道具を持ってくるのよ? 受験生なんだから、勉強を忘れることだけは、先生、絶対に許さないんだからね。……わかった?」
その瞬間、僕の視界は白光に包まれた。
「人生で一番嬉しい」という感情が、全身の血管を沸騰させ、脳天を突き抜けた。
彼女が受け入れてくれた。僕の無茶苦茶で、傲慢で、けれど純粋な願いを。
「先生の家に泊まる」という、まだ付き合ってもいない男女にとって決定的な境界線を越えることを、彼女は呆れながらも、その大きな優しさで肯定してくれたのだ。
それは、僕にとっての完全な勝利であり、同時に、彼女との「運命」が確定した瞬間でもあった。
ユキさんは「もう、本当になんて子なの……」と呟きながら、照れ隠しのように残りの豚玉を口に運んだ。その耳たぶが、まだ真っ赤なままであることを僕は見ていた。
窓の外、八月の夜空には、まだ本物の花火は上がっていない。
けれど、僕の胸の中では、どんなギネス級の花火よりも大きく、鮮やかで、激しい閃光が、爆音とともに鳴り響いていた。
この日のこと、この瞬間の彼女の表情、そして鼻をつくソースの匂い。
それらは僕の記憶に永遠に刻印され、一生、色褪せることはないだろう。
ダイスケくんは、本当にわがままだね。
ユキさんが零したその言葉は、僕にとって、どんな愛の誓いよりも甘く、そして重い「約束」として、僕の人生の秒針を力強く回し始めた。
決戦の日は、もうすぐそこまで来ていた。
僕は、彼女という目的地に向かって、残された時間を全力で駆け抜けることを、その時、自分自身の魂に誓った。
八月。受験生にとっての「天王山」は、もはや精神の限界を試す修練の場と化していた。
予備校の廊下を歩く生徒たちの顔からは生気が失われ、代わりに粘りつくような焦燥感と、誰かを蹴落としてでも上へ這い上がろうとする剥き出しの執念が漂っている。そんな地獄のような日常の中で、僕を唯一、人間らしく繋ぎ止めていたのは、ユキさんという光だった。
何度目かのお茶の時間を経て、僕たちの距離は、予備校の教卓と机のそれとは比べものにならないほど縮まっていた。けれど、縮まれば縮まるほど、僕は欲張りになっていく。三十分のコーヒータイム。廊下ですれ違う数秒の視線。そんな断片的な幸せでは、僕の心に灯った火を消すことはできなかった。
その日は、夏の湿った風が強く吹く、熱帯夜の前触れのような夕暮れだった。
いつものようにお茶を誘った流れで、「たまにはガッツリ食べて体力をつけよう」という僕の半ば強引な提案に、ユキさんが珍しく「いいよ、たまにはね」と乗ってくれた。
向かったのは、駅から少し離れた路地裏にある、年季の入ったお好み焼き屋だった。
ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、ソースが焦げる香ばしい匂いと、鉄板の熱気が一気に押し寄せてきた。
狭い店内。他のお客さんの賑やかな声。そんな庶民的で活気のある空間が、かえって僕たちの「講師と生徒」という禁欲的な関係を、束の間だけ忘れさせてくれた。
狭い座敷席に、向かい合って座る。
鉄板を挟んで座るユキさんは、教壇に立っている時よりもずっと距離が近く、湯気に煽られた彼女の頬がほんのりと赤らんでいるのが分かった。
「……あ、そういえば」
ユキさんが、コテで器用に豚玉を切り分けながら、ふと思い出したように口を開いた。
「今度、私の家からすごく近くで、大きな花火大会があるんだよね。当日、周辺は交通規制で大変なことになるから、仕事の調整が大変なの。予備校も早く閉まるし、先生たちもみんな、帰宅難民にならないように必死なんだよ」
何気ない世間話だったのだろう。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内を雷鳴のような衝撃が駆け抜けた。
僕の中の何かが、叫んでいた。
これだ。このチャンスを逃したら、僕は一生、彼女の隣を歩くことはできない。彼女の「プライベートな時間」に踏み込む権利を得ることは、二度とないかもしれない。
僕は、握りしめた割り箸をそっと置き、鉄板の熱気よりも熱い視線で、彼女をまっすぐに見つめた。
「ユキ先生。その花火、一緒に行きませんか?」
ユキさんの手が、ぴたりと止まった。
コテが鉄板と触れて、チリチリと乾いた音を立てる。
彼女は驚いたように顔を上げ、大きな、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳で僕をじっと見つめ返した。
「え……? 花火? 無理だよ、ダイスケくん。その日は人もすごいし、帰りだって電車が止まっちゃうかもしれないんだよ? 帰宅難民になっちゃうよ」
「いいんです。先生と一緒に行きたいんです。……お願いします。一回だけでいいから。一生のお願いです」
僕は、自分でも驚くほど必死な声を絞り出していた。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を内側から激しく叩く。
周りの客の声が遠のき、世界には僕と彼女、そして鉄板の上で焦げるソースの音しか存在しないような錯覚に陥った。
「ダメだよ。ダイスケくん、今は死ぬ気で勉強しなきゃいけない時期でしょ? 受験生が夜遊びなんて、私が許さないんだから」
彼女はいつものように、正論という防壁を築いて僕をはぐらかそうとする。
けれど、僕はもう、聞き分けの良い「教え子」でいることに耐えられなかった。
あの日、時計を交換した時から。彼女の香りと体温をこの肌に感じてしまったあの日から、僕の秒針は彼女へと向かう一途な軌道を描き続けていたのだ。
「お願いします。どうしても、先生と花火を見たいんです。勉強は、その日の分まで死ぬ気で終わらせますから。……先生と、同じ景色を見たいんです」
「……しつこいなぁ、もう。だからね、電車も止まるし、帰り道がなくなるって言ってるじゃない。ダイスケくん、本当に帰れなくなるよ? どうするの?」
ユキさんは困り果てたように、けれどどこか、僕の執念に根負けしたような深い溜息をついた。
その溜息に、僕はわずかな「隙」を見出した。
今、ここで一歩踏み出さなければ、僕は永遠に彼女を失う。
十八歳の僕が持てる全ての勇気を、そして無謀さを、一つの言葉に凝縮した。
「……そしたら、先生の家に泊まりますから。だから、いいですよね?」
お好み焼き屋の喧騒が、完全に消えた。
僕の心臓の音だけが、耳元でドクドクと不気味なほど大きく響いている。
ユキさんは、目を見開いて絶句した。
箸を持ったまま、時間が凍りついたかのように固まっている。
付き合ってもいない、ましてや自分の教え子からの、あまりに無礼で、あまりに直球な「お泊り」宣言。
講師としての立場、社会人としての常識、そして一人の女性としての警戒心。
それら全てをなぎ倒すような僕の「宣戦布告」に、彼女は震えていた。
沈黙が長く、果てしなく続く。
鉄板の上でソースがじゅうじゅうと鳴り、その煙が二人の間を遮る。
彼女の頬が、お好み焼きの熱のせいだけではない、鮮やかな朱色に染まっていくのを僕は逃さなかった。
彼女の唇がわずかに震え、何かを言いかけ、また閉じる。
拒絶されるかと思った。軽蔑されるかと思った。
「最低」だと罵られ、そのまま立ち去られる覚悟もできていた。
けれど。
ユキさんは、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げると、指の間から僕を覗き見るようにして、小さく吹き出した。
「……ふふっ。あははは!」
それは、呆れ果てた末の、乾いた笑いだった。
けれど、その瞳には、僕を拒絶する色は微塵もなかった。
「もう……! ダイスケくん、本当に……本当に、とんでもないこと言うね。先生を誰だと思ってるのよ」
彼女は首を左右に振り、信じられないというふうに笑い続けた。
そして、ふっと表情を和らげると、これまでのどんな授業の時よりも優しく、そして一人の女性としての情愛が混じった眼差しで、僕を射抜いた。
「……仕方ないなぁ。もう、負けたよ。……いいよ。一緒に行こう、花火大会」
心臓が止まるかと思った。
けれど、彼女の言葉はまだ終わっていなかった。
「その代わり! 条件があるの。……その日まで、死ぬ気で勉強すること。花火の日だって、移動中も見る前も、ちゃんと勉強道具を持ってくるのよ? 受験生なんだから、勉強を忘れることだけは、先生、絶対に許さないんだからね。……わかった?」
その瞬間、僕の視界は白光に包まれた。
「人生で一番嬉しい」という感情が、全身の血管を沸騰させ、脳天を突き抜けた。
彼女が受け入れてくれた。僕の無茶苦茶で、傲慢で、けれど純粋な願いを。
「先生の家に泊まる」という、まだ付き合ってもいない男女にとって決定的な境界線を越えることを、彼女は呆れながらも、その大きな優しさで肯定してくれたのだ。
それは、僕にとっての完全な勝利であり、同時に、彼女との「運命」が確定した瞬間でもあった。
ユキさんは「もう、本当になんて子なの……」と呟きながら、照れ隠しのように残りの豚玉を口に運んだ。その耳たぶが、まだ真っ赤なままであることを僕は見ていた。
窓の外、八月の夜空には、まだ本物の花火は上がっていない。
けれど、僕の胸の中では、どんなギネス級の花火よりも大きく、鮮やかで、激しい閃光が、爆音とともに鳴り響いていた。
この日のこと、この瞬間の彼女の表情、そして鼻をつくソースの匂い。
それらは僕の記憶に永遠に刻印され、一生、色褪せることはないだろう。
ダイスケくんは、本当にわがままだね。
ユキさんが零したその言葉は、僕にとって、どんな愛の誓いよりも甘く、そして重い「約束」として、僕の人生の秒針を力強く回し始めた。
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