​『【実録】浪人生の僕と26歳の担任。~腕時計を交換したあの日から、僕たちは終わるために恋をした~』

まさき

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第11話:聖域の夜

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第11話:聖域の夜

 彼女と繋いだ右手の熱が、掌の境界線を越えて僕の血流へと溶け込み、全身の細胞を一つひとつ焼き尽くそうとしていた。
 路地裏の湿った静寂の中、僕たちはどちらからともなく、夢遊病者のような足取りで歩き出す。街灯が落とす淡いオレンジ色の光が、僕たちの長く伸びた影をアスファルトの上に重なり合わせ、離れないように縫い付けていた。アスファルトが吐き出す昼間の名残の熱気と、祭りの後の寂寥感が入り混じる空気。時折、ユキさんが「いたた……」と小さく、けれど甘い吐息のように零すたびに、僕は彼女の細い肩を壊れ物を扱うような手つきで抱き寄せ、自分の体温を分け与えるようにして支えた。
 さっきまでの「講師と生徒」という堅苦しい皮膜に包まれていた僕たちなら、決して許されなかったその親密な距離が、今は何よりも正しく、誇らしかった。
 やがて辿り着いたのは、街の喧騒から少しだけ離れた場所にある、築年数の浅い、静かなアパートだった。
 オートロックの解錠音が、夜の静寂を切り裂くように鋭く、無機質に響く。エレベーターという名の狭い密室の中で、僕は自分の心臓の音が、隣に立つ彼女にまで聞こえてしまうのではないかと気が気ではなかった。上昇する箱の中で、鏡に映る僕たちは、まだ自分の幸運を信じ切れていないような、戸惑いと幸福が混ざり合った、一組の初々しい恋人そのものだった。
 
「……ここだよ。本当に、少し散らかってるけど、許してね」
 ユキさんが鍵を開け、扉がゆっくりと、僕たちの新しい運命を祝福するように開く。
 そこは、彼女が一人で暮らす、誰も立ち入ることのできない「聖域」だった。
 玄関を跨いだ瞬間、僕の五感を支配したのは、予備校の講師室に漂うチョークの粉や古い紙の匂いでも、あのお好み焼き屋の刺激的なソースの匂いでもない、本当の意味での「ユキさんの生活の香り」だった。
 いつも彼女が纏っている、あの清潔な石鹸と甘いバニラの残り香。その奥に、彼女が毎日を過ごし、眠り、目覚めるという生活そのものが溶け込んだ、柔らかくて、どこか切なくなるほど甘い匂いが僕を優しく包み込んだ。
 
 六畳ほどの小さなリビングは、彼女の言葉とは裏腹に、女性らしい気遣いが行き届いた整然とした空間だった。けれど、壁際の本棚には、びっしりと化学の参考書や教育心理学の専門書が並び、小さなデスクの上には、僕たち生徒に配るために用意されたであろう、まだインクの匂いが残りそうなプリントの束が積まれているのが見えた。プライベートな空間の中に、僕の知っている「先生」としての彼女の足跡が色濃く同居していることに、僕は胸を締め付けられるような、どうしようもない愛おしさを感じた。
「ダイスケくん、とりあえずそこに座ってて。今、冷たい飲み物持ってくるから」
 ユキさんはそう言って、浴衣の裾を揺らしながらキッチンへと消えていった。
 僕はリビングの中央に置かれた小さな布製のソファに、恐る恐る腰を下ろしたが、どうにも落ち着かない。部屋のエアコンからは心地よい冷気が流れているはずなのに、僕の身体は、彼女という存在をすぐ近くに感じているだけで、内側から激しく沸騰しそうだった。
 やがて、ユキさんが麦茶の入った、結露したグラスを二つ持って戻ってきた。
 彼女は僕の隣に、拳一つ分の隙間を空けて、慎重に座った。
 窓の外では、遠くでまだ花火の余韻のような音がかすかに響いている。けれど、この部屋の中は、まるで外界から隔絶された真空地帯のように静まり返っていた。
「……ねえ、ダイスケくん」
 ユキさんが、グラスの表面に浮いた水滴を、細い指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「本当に、これでいいのかな。……私、あなたの先生なのに。こんなこと、もし誰かにバレたら、あなたの人生も、私の立場も、全部めちゃくちゃになっちゃうかもしれないんだよ?」
 彼女の瞳には、講師としての理性が残すわずかな不安と、それを上回るほどの、自分自身の感情を制御しきれなくなった一人の女性としての、剥き出しの脆さが滲んでいた。
 僕は無言で、彼女の左手を取った。
 あの銀色の腕時計が、カーテンの隙間から漏れる月明かりを反射して、静かに、けれど力強く光っている。一週間、僕が自分の魂の一部のように大切に肌身離さず持っていた、彼女の時間そのもの。
「僕が、絶対に合格します。ユキさんに迷惑なんて、一ミリもかけない。……だから、僕を信じてください。僕の気持ちは、そんなことで揺らぐような軽いものじゃないんです」
 僕が喉の奥から絞り出すように、けれど確固たる意志を込めて言うと、ユキさんは少しだけ驚いたように目を見開き、それから、困ったように眉を下げて、ふわりと笑った。その笑顔は、教壇で見せるものよりもずっと幼く、そして残酷なほどに美しかった。
「……もう。本当に、ダイスケくんは強引なんだから。誰に似たのかしらね」
 彼女はグラスをテーブルに置くと、重力に逆らえない果実のように、僕の胸にそっと頭を預けてきた。
 藍色の浴衣の薄い布地越しに、彼女の激しい鼓動が、ダイレクトに僕の皮膚へと伝わってくる。
 僕は彼女の細い背中に手を回し、その折れてしまいそうな身体を壊さないように、けれど二度と離さないという狂おしいほどの決意を込めて、強く、強く抱きしめた。
「……足、本当に大丈夫ですか?」
「ん……。もう、痛いのなんて、どこかへ行っちゃったみたい」
 彼女がゆっくりと顔を上げ、僕を見つめる。
 街灯の光が、彼女の潤んだ瞳を濡れた宝石のように光らせていた。
 どちらからともなく、顔が近づく。
 触れるか触れないかという、その数ミリの空白に、彼女の甘く熱い吐息が、僕の唇を震わせる。
 その瞬間、世界から一切の音が消え、時間そのものが凍りついた。
 初めて触れた彼女の唇は、想像していたよりもずっと柔らかく、そして、どこか悲しいほどに熱を持っていた。
 彼女が使っているシャンプーの香りと、彼女自身の生命が放つ甘い匂いが混ざり合い、僕の脳内を純白の閃光で塗り潰していく。
 浪人生であるという重圧も、明日の模試への不安も、この不安定な世界そのものも、すべてが何光年も先の出来事のように思えた。
 今、この瞬間に、この宇宙で存在しているのは、僕と、僕が心の底から愛したユキさんという一人の女性。ただ、それだけだった。
 夜は、誰にも気づかれないように、静かに、けれど深く更けていく。
 カーテンの向こう側では、世界が何事もなかったかのように冷淡に回り続けているかもしれない。けれど、この小さな、聖域のような部屋の中で、僕たちの時間は、誰にも邪魔されることのない二人だけの、新しいリズムを刻み始めていた。
 僕は彼女を抱き寄せたまま、暗闇の中で静かに誓っていた。
 この温もりを、この小さな幸せを、僕は一生かけて、何を引き換えにしても守り抜くのだと。
 
 十八歳の夏。
 僕の長い浪人生活という名の、出口の見えない闇は、ユキさんという唯一無二の光によって、今、最高に幸福で、鮮やかな色彩を帯びた物語へと、その姿を変えようとしていた。
 
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