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第1話 ある計画
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このBARには無駄な音楽がなかった。
私はそれが気に入っていた。
バカラのグラスに注がれたロイヤルサルートが氷を流れて行くのが見える。
咽び泣くようなコルトレーンのサックスが頭の中で鳴っていた。
息子の裕也は昨年結婚し、家を出た。
裕也は医大の准教授をしている。
専門は脳外科で、フェローとして3年間、ペンシルバニアの医大で研鑽を積み、昨年、結婚するために帰国した。
娘の愛理は法科大学院に残り、憲法学の研究を続けていた。
私の跡を継ぐために。
妻の千代と娘は仲が良く、
「将来はママとこの家で彼と同居するね?」
と、言っているようだ。
家のことはすべて妻の千代に任せていた。
私は今まで、家族と関わることを避けて来た。それはなるべく感情を持たない「機械」になるためにだった。
裁判官という私の仕事は感謝と憎しみが常にワンセットになっている。
喜びと落胆、絶望と希望の審判を下す。
それが私の役目だった。
遂に計画を実行に移す時がやって来た。
今の裁判官という自分を捨てて別人として生きることを。
憎しみに穢れた黒い法衣と今までの自分を脱ぎ捨てることを私は考えたのだ。
私は仮面を付けた自分の人生から逃げることを決意したのだ。
なぜそんなことを考えたのか?
私は完全に壊れていた。
高裁の判事という仕事は、本来であれば単純な作業だった。
日本は罪刑法定主義であり、法令や判例に従い判決を下せばそれで良かった。
だが、実際には社会の変化は著しくも速く、法制化が遅延し、その事件が古い法令と合致しない。
そこで過去の判例から類推し、法令と照らし合わせて判決文を作成することになる。
自分の判断がその当事者の人生を、そしてその周りの人間の運命をも変えてしまう。
「死刑に処す」
それは神でもない同じ人間が命じることではない。
死を言い渡すとは「殺人」なのだ。
罪を犯した人間に対して死を宣告し、法の名の元に死刑執行を命じることは許されるべきではない。
これは人間の所業ではないのだ。
私は心のない機械になろうとしたが駄目だった。
私は心を捨て切れなかった。苦悩し、自分を責め続けて生きて来た。
もう限界だった。
判決を書くのはババ抜きのようなもので、自分の在任中にはなるべく重い判決を出したくはない。
難しい事件に関わると転勤が待ち遠しいのも事実だ。
私の家は代々続く法曹界の重鎮の家柄であり、裁判官の道に進んだのは自然の成り行きだった。
それはこの家に生まれた時から既に決められた路線だったのだ。
私は法律に興味はなかった。
いや、寧ろ私はそれを憎んでさえいたのかもしれない。
私は自分を捨てる覚悟を決めた。
先祖から相続した財産もあり、体面を維持するだけの財力はある。
私が仕事を離れ、行方知れずになったとしても、最初、家族は周囲の同情や好奇の目に晒されるかもしれないが、人の噂などそのうち消えてしまうものだ。
私と妻の千代は親同士が決めた許嫁だった。
千代の家は政治家の家系であり、彼女は三女として生まれ、千代が女子高の三年生の頃には既にそれは決められていたことだった。
私が司法試験に合格し、千代が女子大を卒業すると同時に私たちは結婚し、夫婦になった。
千代は美しく聡明であり、良妻賢母のお手本のような女だった。
だがそれは、ある意味「優秀なお手伝いさん」でもあった。
私は判事としての重圧を千代に吐露することはなかった。
父親も先代たちも本妻の他に妾を持ち、そして私も友里恵という愛人を囲っていた。
友里恵は銀座の高級クラブでホステスをしていたが、有楽町のビルに私が小料理屋を出してやった。
私はその夜、BARから閉店した友里恵の店を訪れ、1,000万円の現金の塊をカウンターに静かに置いた。
「何のおつもり?」
「手切れ金だ」
「他に女でも出来たの?」
「まあ、そんなところだ」
「いつものでいい?」
「ああ」
友里恵は暖簾を仕舞い、鍵を掛けた。
友里恵は私の好物の角煮と〆鯖を用意し、熱燗をつけてくれた。
友里恵は着物が似合う和風美人だった。
料理の腕も職人並みで愛想も良く、店は旨い酒と料理、そして友里恵目当ての常連たちで繁盛していた。
友里恵は着物の袂に気を付けながら、熱燗をブルーの江戸切子に注いだ。
「私もいただいてもいいかしら?」
私は徳利を手に取り、友里恵の盃に酒を注いだ。
この大島紬は私が仕立ててやった物だった。
盃を呷る友里恵のすらりと伸びた白い腕が儚くも美しい。
私たちは長い静寂の中を漂っていた。
そして、友里恵が静かに口を開いた。
「私も一緒に連れて行って頂戴・・・」
友里恵は私にしだれかかり、大粒の涙を流した。
彼女は私の嘘を既に見抜いていたのだった。
友里恵は本当の私を、女房の千代よりも深く理解している。
何も言わず、友里恵はいつも私の疲弊した心に寄り添い、癒してくれた。
私がどこかへ去って行くことを友里恵は感じていたのだ。
友里恵はまだ若く美しい。彼女のこれからの人生を、年老いた私と道連れにすることは出来なかった。
私はそう自分に判決を下した。
それが私と友里恵の最後の夜になった。
私はそれが気に入っていた。
バカラのグラスに注がれたロイヤルサルートが氷を流れて行くのが見える。
咽び泣くようなコルトレーンのサックスが頭の中で鳴っていた。
息子の裕也は昨年結婚し、家を出た。
裕也は医大の准教授をしている。
専門は脳外科で、フェローとして3年間、ペンシルバニアの医大で研鑽を積み、昨年、結婚するために帰国した。
娘の愛理は法科大学院に残り、憲法学の研究を続けていた。
私の跡を継ぐために。
妻の千代と娘は仲が良く、
「将来はママとこの家で彼と同居するね?」
と、言っているようだ。
家のことはすべて妻の千代に任せていた。
私は今まで、家族と関わることを避けて来た。それはなるべく感情を持たない「機械」になるためにだった。
裁判官という私の仕事は感謝と憎しみが常にワンセットになっている。
喜びと落胆、絶望と希望の審判を下す。
それが私の役目だった。
遂に計画を実行に移す時がやって来た。
今の裁判官という自分を捨てて別人として生きることを。
憎しみに穢れた黒い法衣と今までの自分を脱ぎ捨てることを私は考えたのだ。
私は仮面を付けた自分の人生から逃げることを決意したのだ。
なぜそんなことを考えたのか?
私は完全に壊れていた。
高裁の判事という仕事は、本来であれば単純な作業だった。
日本は罪刑法定主義であり、法令や判例に従い判決を下せばそれで良かった。
だが、実際には社会の変化は著しくも速く、法制化が遅延し、その事件が古い法令と合致しない。
そこで過去の判例から類推し、法令と照らし合わせて判決文を作成することになる。
自分の判断がその当事者の人生を、そしてその周りの人間の運命をも変えてしまう。
「死刑に処す」
それは神でもない同じ人間が命じることではない。
死を言い渡すとは「殺人」なのだ。
罪を犯した人間に対して死を宣告し、法の名の元に死刑執行を命じることは許されるべきではない。
これは人間の所業ではないのだ。
私は心のない機械になろうとしたが駄目だった。
私は心を捨て切れなかった。苦悩し、自分を責め続けて生きて来た。
もう限界だった。
判決を書くのはババ抜きのようなもので、自分の在任中にはなるべく重い判決を出したくはない。
難しい事件に関わると転勤が待ち遠しいのも事実だ。
私の家は代々続く法曹界の重鎮の家柄であり、裁判官の道に進んだのは自然の成り行きだった。
それはこの家に生まれた時から既に決められた路線だったのだ。
私は法律に興味はなかった。
いや、寧ろ私はそれを憎んでさえいたのかもしれない。
私は自分を捨てる覚悟を決めた。
先祖から相続した財産もあり、体面を維持するだけの財力はある。
私が仕事を離れ、行方知れずになったとしても、最初、家族は周囲の同情や好奇の目に晒されるかもしれないが、人の噂などそのうち消えてしまうものだ。
私と妻の千代は親同士が決めた許嫁だった。
千代の家は政治家の家系であり、彼女は三女として生まれ、千代が女子高の三年生の頃には既にそれは決められていたことだった。
私が司法試験に合格し、千代が女子大を卒業すると同時に私たちは結婚し、夫婦になった。
千代は美しく聡明であり、良妻賢母のお手本のような女だった。
だがそれは、ある意味「優秀なお手伝いさん」でもあった。
私は判事としての重圧を千代に吐露することはなかった。
父親も先代たちも本妻の他に妾を持ち、そして私も友里恵という愛人を囲っていた。
友里恵は銀座の高級クラブでホステスをしていたが、有楽町のビルに私が小料理屋を出してやった。
私はその夜、BARから閉店した友里恵の店を訪れ、1,000万円の現金の塊をカウンターに静かに置いた。
「何のおつもり?」
「手切れ金だ」
「他に女でも出来たの?」
「まあ、そんなところだ」
「いつものでいい?」
「ああ」
友里恵は暖簾を仕舞い、鍵を掛けた。
友里恵は私の好物の角煮と〆鯖を用意し、熱燗をつけてくれた。
友里恵は着物が似合う和風美人だった。
料理の腕も職人並みで愛想も良く、店は旨い酒と料理、そして友里恵目当ての常連たちで繁盛していた。
友里恵は着物の袂に気を付けながら、熱燗をブルーの江戸切子に注いだ。
「私もいただいてもいいかしら?」
私は徳利を手に取り、友里恵の盃に酒を注いだ。
この大島紬は私が仕立ててやった物だった。
盃を呷る友里恵のすらりと伸びた白い腕が儚くも美しい。
私たちは長い静寂の中を漂っていた。
そして、友里恵が静かに口を開いた。
「私も一緒に連れて行って頂戴・・・」
友里恵は私にしだれかかり、大粒の涙を流した。
彼女は私の嘘を既に見抜いていたのだった。
友里恵は本当の私を、女房の千代よりも深く理解している。
何も言わず、友里恵はいつも私の疲弊した心に寄り添い、癒してくれた。
私がどこかへ去って行くことを友里恵は感じていたのだ。
友里恵はまだ若く美しい。彼女のこれからの人生を、年老いた私と道連れにすることは出来なかった。
私はそう自分に判決を下した。
それが私と友里恵の最後の夜になった。
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