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第2話 居酒屋『生きるが勝ち』
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「あなた、お紅茶のお替りは?」
「もう大丈夫だ。そろそろ運転手の西山君が迎えに来る時間だからね」
すると千代は私に小さな紙袋を渡した。
「これを西山さんに差し上げて下さい。秋田の名物、『燻りがっこ』です。
先日、お茶のお仲間から頂いたの。
西山さん、秋田のご出身でしたわよね?」
千代はそういう細やか気遣いが出来る女だった。
クルマの停まる音がした。
「喜ぶと思うよ、ふる里の味だからな。
どうやら来たようだ、それじゃ行ってくるよ」
私がクルマに乗り込むと、千代はお手伝いの幸江と共に深々と頭を下げ、いつものように私を見送った。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
クルマは滑らかに動き出した。
最初の赤信号で停車した時、私は助手席に千代から渡された紙袋をそっと置いた。
「部長、これは?」
「うちの家内が君に渡してくれと預かった物だ。君の実家は秋田だったね?『燻りがっこ』だそうだ」
「それはありがとうございます、私の大好物です。いつも気に掛けていただき、すみません。
奥様によろしくお伝え下さい」
「ああ」
東京にも所々に桜が咲いていた。
春の季節はいいものだ。まるで体が浮いてきそうな陽気だった。
クルマは高裁へ到着し、私は黒い法衣に着替えた。
今日の裁判は民事訴訟が3件。
私は10年前に刑事から民事の責任者になった。
民事の方が刑事よりも格上であり、辛い判決を出さなくて済む。
金を払えの払わないのなんて、私にはどうでもいい話だった。
各々の自分の依頼主の正当性を主張をする弁護士たちの茶番劇に、私はいつもうんざりしていた。
依頼主の前ではいかにも誠実懸命に弁護をしているように振る舞ってはいるが、実はお互いの弁護士は裏では通じていることが多い。
そこで頃合いを見てお互いの面子が立つように裁判を誘導する。
そう、和解だ。
裁判官にはありがたい話だ。判決文を書かなくて済むからだ。
そうなれば恨まれることもない。
「先生、どうです? この辺で和解といきませんか?
ホント、ウチの原告は何も知らないアホですからねー、いい加減に終わりにしましょうよ」
「じゃあ、ウチが6で先生の方が4ということでどう?」
「ロクヨンかあ? まあ、しょうがないでしょうね、言ってるこっちがおかしいんだし。
わかりました、では次回の裁判はその方向で」
「それじゃあ、よろしく」
儲かるのはいつもアイツら弁護士だった。
裁判に勝っても負けてもカネにはなる。
「そんな事実をどうして今まで黙っていたんですか!
それでは負けるに決まっていますよ!」
法曹界も医学会と似ているところがある。
それは彼らは限られたエリート集団であり、ピラミッド型の揺るぎないヒエラルキーが存在するということだ。
特に民事に於いての地方の弁護士会は酷い。
わずか数名の弁護士が利権を分け合うシステムになっており、勉強会や弁護士会の会合と称して酒を飲み歩いて親睦を深めている。
つまりズブズブの関係なのだ。
出身大学の先輩後輩、イソ弁だった頃の上司には逆らえるはずもない。
そこに正義はなく、あるのは忖度と馴れ合いの裁判だった。
他人の不幸は蜜の味
裁判所には一種独特の雰囲気が漂っている。
それは人間の醜い欲が染みついているからだと私は思う。
あらゆる犯罪と金銭がらみの争い。
まるで病院の霊安室のようにさえ感じることがある。
そもそもこんなところにまともな人間など来るはずがない。
殆どの人間には一生無縁な場所だ。
仕事を終えた私は銀座の片隅にある小さな居酒屋、『生きるが勝ち』に腰を据えることにした。
そこは自分のお清めのような場所だった。
主人は72歳、もう長い付き合いになるが、元刑務所の刑務官をしていたらしい。
どうして看守を辞めたのか、それは憶測に難くない。
おそらく私と同様、あまりにも暗い闇を見過ぎたことに嫌気がさした筈だ。
店主は穏やかな男だった。
「今日はいい鯖が入りましたがいかがです? そのお酒に合うと思いますが」
「ではそれをもらうとしよう。あと酒をもう1本」
「はい、かしこまりました」
店主は私の素性を知らない。
私は殆どひとりか、友里恵としかここへは来なかった。
そして自分のことは何も話さなかったからだ。
フランスの死刑執行を生業としていたサド侯爵は、代々その仕事を継承する貴族として生まれたことをどのように思っていたのだろうか?
少なくとも楽しんでいたとは私には思えない。
確かに時の権力者と治安維持のためには人に死を与える公務員は必要だ。
だが誰も志願してそれをやる者はいない。
もしいるとすればそれは悪魔か精神異常者だ。
日本にも昔、「首切り役人」という役人がいたという。
そして私もその首切り役人にそれを命じる嫌な官吏ということになる。
鯖の刺身が供された。
「艶々としていていい鯖だね?」
「はい、鯖は足が早いのでいつもは〆て出しますが、今日は上がったばかりの物が手に入ったので刺身にしました」
「この仕事は大変だよね?」
「仕事で大変じゃないものってあるんでしょうかねえ?
まあ、私のやっていることは仕事とは言えませんがね? 好きでやっていることですから。
趣味です、ただの趣味。仕事ではありません」
「趣味かあ、趣味が仕事だなんて、いいもんだね?」
私たちは顔を見合わせて笑った。
それはまるで戦友のように。
「大将もどう? 一杯」
私は店主に酒を勧めた。
「ありがとうございます、では頂戴します」
私は自分が居酒屋のオヤジになった姿を想像して笑った。
『生きるが勝ち』、いい店名だと思った。
「もう大丈夫だ。そろそろ運転手の西山君が迎えに来る時間だからね」
すると千代は私に小さな紙袋を渡した。
「これを西山さんに差し上げて下さい。秋田の名物、『燻りがっこ』です。
先日、お茶のお仲間から頂いたの。
西山さん、秋田のご出身でしたわよね?」
千代はそういう細やか気遣いが出来る女だった。
クルマの停まる音がした。
「喜ぶと思うよ、ふる里の味だからな。
どうやら来たようだ、それじゃ行ってくるよ」
私がクルマに乗り込むと、千代はお手伝いの幸江と共に深々と頭を下げ、いつものように私を見送った。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
クルマは滑らかに動き出した。
最初の赤信号で停車した時、私は助手席に千代から渡された紙袋をそっと置いた。
「部長、これは?」
「うちの家内が君に渡してくれと預かった物だ。君の実家は秋田だったね?『燻りがっこ』だそうだ」
「それはありがとうございます、私の大好物です。いつも気に掛けていただき、すみません。
奥様によろしくお伝え下さい」
「ああ」
東京にも所々に桜が咲いていた。
春の季節はいいものだ。まるで体が浮いてきそうな陽気だった。
クルマは高裁へ到着し、私は黒い法衣に着替えた。
今日の裁判は民事訴訟が3件。
私は10年前に刑事から民事の責任者になった。
民事の方が刑事よりも格上であり、辛い判決を出さなくて済む。
金を払えの払わないのなんて、私にはどうでもいい話だった。
各々の自分の依頼主の正当性を主張をする弁護士たちの茶番劇に、私はいつもうんざりしていた。
依頼主の前ではいかにも誠実懸命に弁護をしているように振る舞ってはいるが、実はお互いの弁護士は裏では通じていることが多い。
そこで頃合いを見てお互いの面子が立つように裁判を誘導する。
そう、和解だ。
裁判官にはありがたい話だ。判決文を書かなくて済むからだ。
そうなれば恨まれることもない。
「先生、どうです? この辺で和解といきませんか?
ホント、ウチの原告は何も知らないアホですからねー、いい加減に終わりにしましょうよ」
「じゃあ、ウチが6で先生の方が4ということでどう?」
「ロクヨンかあ? まあ、しょうがないでしょうね、言ってるこっちがおかしいんだし。
わかりました、では次回の裁判はその方向で」
「それじゃあ、よろしく」
儲かるのはいつもアイツら弁護士だった。
裁判に勝っても負けてもカネにはなる。
「そんな事実をどうして今まで黙っていたんですか!
それでは負けるに決まっていますよ!」
法曹界も医学会と似ているところがある。
それは彼らは限られたエリート集団であり、ピラミッド型の揺るぎないヒエラルキーが存在するということだ。
特に民事に於いての地方の弁護士会は酷い。
わずか数名の弁護士が利権を分け合うシステムになっており、勉強会や弁護士会の会合と称して酒を飲み歩いて親睦を深めている。
つまりズブズブの関係なのだ。
出身大学の先輩後輩、イソ弁だった頃の上司には逆らえるはずもない。
そこに正義はなく、あるのは忖度と馴れ合いの裁判だった。
他人の不幸は蜜の味
裁判所には一種独特の雰囲気が漂っている。
それは人間の醜い欲が染みついているからだと私は思う。
あらゆる犯罪と金銭がらみの争い。
まるで病院の霊安室のようにさえ感じることがある。
そもそもこんなところにまともな人間など来るはずがない。
殆どの人間には一生無縁な場所だ。
仕事を終えた私は銀座の片隅にある小さな居酒屋、『生きるが勝ち』に腰を据えることにした。
そこは自分のお清めのような場所だった。
主人は72歳、もう長い付き合いになるが、元刑務所の刑務官をしていたらしい。
どうして看守を辞めたのか、それは憶測に難くない。
おそらく私と同様、あまりにも暗い闇を見過ぎたことに嫌気がさした筈だ。
店主は穏やかな男だった。
「今日はいい鯖が入りましたがいかがです? そのお酒に合うと思いますが」
「ではそれをもらうとしよう。あと酒をもう1本」
「はい、かしこまりました」
店主は私の素性を知らない。
私は殆どひとりか、友里恵としかここへは来なかった。
そして自分のことは何も話さなかったからだ。
フランスの死刑執行を生業としていたサド侯爵は、代々その仕事を継承する貴族として生まれたことをどのように思っていたのだろうか?
少なくとも楽しんでいたとは私には思えない。
確かに時の権力者と治安維持のためには人に死を与える公務員は必要だ。
だが誰も志願してそれをやる者はいない。
もしいるとすればそれは悪魔か精神異常者だ。
日本にも昔、「首切り役人」という役人がいたという。
そして私もその首切り役人にそれを命じる嫌な官吏ということになる。
鯖の刺身が供された。
「艶々としていていい鯖だね?」
「はい、鯖は足が早いのでいつもは〆て出しますが、今日は上がったばかりの物が手に入ったので刺身にしました」
「この仕事は大変だよね?」
「仕事で大変じゃないものってあるんでしょうかねえ?
まあ、私のやっていることは仕事とは言えませんがね? 好きでやっていることですから。
趣味です、ただの趣味。仕事ではありません」
「趣味かあ、趣味が仕事だなんて、いいもんだね?」
私たちは顔を見合わせて笑った。
それはまるで戦友のように。
「大将もどう? 一杯」
私は店主に酒を勧めた。
「ありがとうございます、では頂戴します」
私は自分が居酒屋のオヤジになった姿を想像して笑った。
『生きるが勝ち』、いい店名だと思った。
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