★【完結】アネモネ(作品230605)

菊池昭仁

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第3話 悪夢

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 すべての準備は整った。
 私は有給休暇を申請し、北陸新幹線に乗って富山を目指した。
 もちろん妻の千代や子供たちにも行先は伝えてはいない。

 「以前勤務していた仙台高裁の連中と勉強会に出掛けて来る」
 「お帰りはいつですの?」
 「三日後の水曜日になる」
 「お気を付けて」

 3日分の着替えを千代に用意させ、スーツのまま出張に出掛けるように私は家を出た。
 まさかこれから主人の私が蒸発するなど夢にも思うまい。
 玄関で靴を履いた時、千代が言った。

 「仙台はまだ寒いのではありませんか? 今、コートを持って参ります」

 千代は2階の私のクローゼットから薄手のスプリング・コートを持って来てくれた。

 「ありがとう」

 私は少し心が痛んだ。

 「今回の出張、寂しく感じるのはどうしてなんでしょう?」
 「出張なんてめずらしいことではないではないか? それとも私に死神でも付いているのか?」
 「とんでもない! ただあなたが遠く感じたものですから・・・」
 「馬鹿なことを」

 私は横顔で笑って見せた。
 普段から感情を露わにしない私だが、妻の千代には感じるところがあったようだった。

 「では、くれぐれもお気をつけて」
 「留守を頼む」
 「かしこまりました」




 自分の忌まわしい過去を断ち切るには太平洋の雄大さは邪魔だった。
 私はあの暗く荒れ狂う冬の日本海と、厳然とした立山連峰のある富山を終の地として選んだ。


 北陸新幹線で糸魚川を超えると眼前に日本海が広がった。
 季節は梅雨の前。やがて富山の名物、チューリップ畑が所々に虹のように咲いている。
 まるで小さなオランダのように。

 長野に着く前に弁当をつまみに缶ビールを飲んでしまっていたので、私はKIOSKで買ったウイスキーの小瓶とチョコを取り出した。
 私の心は羽根が生えたように軽ろやかだった。
 こんなときめきを感じたのは高校での初恋の時以来だった。
 後藤由美子。読書好きだった彼女は今、どうしているだろう?
 私は彼女に何一つ勝てる物が無かった。

 彼女の両親はニューヨークで医者をしていたが、彼女の母親に日本の医科大から准教授のポストの誘いがあり、彼女も母親と共に日本に帰国することになったのだった。

 彼女はいつもサリンジャーとかを英語の原書で読んでいた。
 後藤はクラスの人気者で成績も良く、誰にも親しまれ、そしてとてもやさしかった。
 私たちは放課後、毎日のように学校の図書館で一緒に勉強をした。
 それは勉強という名の単なるデートだった。
 私たちはその時、よく将来の話をした。

 「相沢君は東大法学部志望だよね? お父さんと同じように将来は裁判官になるの?」

 私はその時、何故か嘘を吐いた。

 「俺は絵本作家になりたいんだ」
 
 そんな私を彼女は嬉しそうに笑った。

 「似合わないわよ、相沢君が絵本作家だなんて。
 だって、絵がヘタ過ぎるもの。あはははは」
 「絵は誰かに描いてもらえばいいだろう?」
 「そうか? その手があったか? 裁判官は嫌なの?」
 「俺は人を裁けるほど立派な人間じゃないよ」
 「似合っていると思うけどなー、相沢君の裁判官姿。
 黒い法衣なんか着ちゃってさ、「判決を言い渡す。主文、被告を死刑に処す」とか言って。うふふっつ」

 そう言って彼女は笑ったが、私は笑うことが出来なかった。

 そして私たちはお互いの手にすら触れることもなく、いつの間にか別れてしまった。
 それがどんな理由で別れたのかは、今では思い出せなくなってしまっていた。
 記憶にあるのは少し顎を上げて軽やかに微笑む彼女の姿だけだった。
 同級生たちの噂では、後藤はロンドンでERの医者となっていると聞いたが、私は彼女の予言通り、死刑を言い渡す裁判官となってしまっていた。



 グレーの日本海を右手に観ながら、新幹線はいつの間にか富山駅のホームへと滑り込んでいた。


 私はタクシーに乗り、中新湊へと向かった。
 中新湊は新湊漁港の漁師町で、飲み屋街としても栄えていた。
 ここに紛れてしまえば、そう簡単に見つけられることもあるまい。
 私は見知らぬ漁師町を宛てもなく、見知らぬ観光客のようにぶらついた。

 鮮魚店も多く、魚の木箱が店先に積まれ、生臭い魚臭を放っていた。

 『すし舟』と言う鮨屋を見つけ、カウンターでいくつか鮨をつまみ、地酒を飲んだ。

 「お客さん、富山へは観光で来たんが?」
 「いいえ、ここに引っ越して来るつもりなんです。この町が気に入ったので」
 「どこから来たが?」

 富山弁で訊かれた。
 私は無難に「仙台」とだけ答えた。
 仙台高裁で勤務した経験があり、万が一、仙台の話題になっても怪しまれることがないと思ったからだ。
 気軽に素性を明かさない。これも職業病と言えるのかもしれない。

 「そうね? 仙台から?
 ここは住みやすいところだがやちゃ。なんでもうまいし、人もいいがよ」

 富山の鮨は京都、金沢の影響からなのか? あるいは富山が元祖なのか? 鮨はかなり上品な小ぶりの握りだった。おちょぼ口の女性でも一口で食べられるような大きさだった。


 
 私は軽く腹を満たすと、夜の街を探検することにした。
 5月とはいえ、まだ夜風は肌寒かった。
 コートを持たせてくれた千代に私は感謝した。
 昭和の看板がダラダラと続いていた。
 私は焼鳥屋の香ばしい香りに誘われて、その店の暖簾を潜った。

 「いらっしゃい」
 「!」

 その店の年老いた主人を見た時、私は心臓が止まりそうになった。

 その男は10年前、私が懲役刑にしたヤクザの若頭、沢村銀次だったからだ。
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