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そういうものだと思っていた。
平穏に生きていくために必要なこと、そして受けた恩は返さなくてはならない。
突出した才能があるわけでもなく、少々器用なだけの自分に何が出来るのだろうと自問して、ようやく巡ってきた機会だった。
初めて明確に出された指示が、人の命を奪ったり傷付けたりするものではないことに安堵さえしていたのだ。
(……それなのに間違ってしまった)
これほどに後悔する羽目になるとは思わなかった。
異世界の聖女は奇跡ともいうべき恩寵の持ち主で、神官長に次ぐ地位にある。神殿の庇護を受けて育った身としては少なからず憧憬の念を持ち合わせていたし、初顔合わせの際には冷静を装っていたものの、かなり緊張もしていた。
だが王宮を離れれば、その辺の少女と同じような気安い口調で話し庶民の食べ物に興味を示す。
聖女のイメージがどんどん崩れていったが、興味深そうに輝かせる瞳やふとした折りに覗かせる小さな笑みは楽しそうで生き生きとした表情が目を惹いた。
普通の少女ではなく特別な存在なのに、何故かしっくりきてこれが素なのだと実感する。
『ジャンは?食べるの、食べないの?』
『あ、食べます』
聖女に対して相応しくない言葉遣いだったが、彼女は気分を害した様子もない。それどころか串焼きにかぶりついて満面の笑みを浮かべていた。
賓客としてもてなされているだろうに、安い屋台の食べ物を幸せそうに頬張っている。
(まるで孤児院の子供たちみたいだ……)
聖女への感想としては不敬もいいところだったが、守ってあげなければという庇護欲が湧いた。騎士としての義務感というよりは年長者としての責任感と親愛の情を抱いたのはその時からだ。
『ここで待っているのよ』
寒さで感覚が麻痺し、空腹で目が回りそうになっても母との約束だけは守り通さなければと必死で寒空の下、必死で待っていた。そうしなければ二度と会えなくなる、心のどこかで捨てられたことが分かっていても、そうすることで自分の心を守ろうとしたのだろう。
邪魔だと何度か大人たちに追い払われそうになっても、頑なに拒みその場から離れなかったジャンは迷惑な子供だったはずだ。そんなジャンを孤児院に保護してくれたのがダミアーノだった。
根性と忍耐を見込まれて拾われたのだと後で知ったが、そんなに立派なものではなくただの意地と執着で居座り続けただけなのだ。だからこそ何かをしなければと孤児院でも子供の世話やシスターの手伝いを率先して行った。
剣の腕を認められて騎士団に入ることを決めた時、難色を示されることもなければ推奨されることもなかった。
ただ月に一度神殿に祈りを捧げに来るようにと言われて、自分の役割が――恩返しの方法が分かり、安堵したことを覚えている。
雑談と称して騎士団や王宮内での出来事、そして聖女の護衛をするようになってからは彼女についての詳細を求められるままに語った。
王太子殿下よりも神官長のほうが、エリー様について詳しいだろう。
嫌がらせの件や本来の性格、会話の内容など全て伝えていたが、怪我を治癒してもらったことだけは報告しなかった。
あんなに容易く使えるものだと知られてしまえば、疲弊するまで酷使されてしまう、そう思ったのだ。
「――っ!!」
強い痛みに意識が戻った。エリー様に何とか追いつかないといけないが、こんな朦朧とした状態ではいざという時に守れないだろう。短刀で傷つけた左腕からは鮮血が零れたが、それを気にしている場合ではない。
神官長から与えられた指示は魔物の浄化を行う聖女の護衛だ。ただし王宮関係者を排除し、神殿に関わる者のみを連れて行うようにとのことだった。それは即ち内密で事を進めるということだが、ジャンは理由を尋ねることなく承諾した。
駒である自分が理由まで知らなくても構わない。討伐隊が出立してから神殿に訪問する理由を作れば、危険度の低いエリアで訓練する時間ぐらい稼げるはずだ。
上司として、また同じ騎士として、副団長のことを尊敬しているし好感を持っている。神官長からの指示がなければ、自分も討伐隊に志願していただろう。出来れば無事に帰ってきて欲しいと願う気持ちは本心だが、聖女の参加となれば話は別だった。
王族や神官長たちと同じように聖女も代わりがきかない人材なのだ。
(だけどエリー様はそう思わなかった)
『あいつは予想外のことを仕出かすからな』
エリー様の動向に注意するよう副団長から言い含められていたため、単独行動を阻止することが出来たのは僥倖だった。
まさかバルコニーから逃げ出そうとするとは、以前の話を聞いていなければ想像もしなかったに違いない。
だがこちらの思惑通りに事を運ぼうとした結果、聖女の身を危険に晒す事態に陥ってしまったのだ。
(神殿は……駄目だ。だが騎士団を動かすならばエリー様の脱走を告げなくてはならない)
神殿には防犯上の理由からダミアーノが雇った私兵がいる。だが彼らを信用できるかどうか、見合うだけの琴線を得られなければエリー様を魔物から守ってくれるという点には不安が残る。
命には代えられないのだから、騎士団に事情を告げて保護してもらうのが現状では最善だ。
だがそうなればエリー様は厳重な監視下に置かれ、二度と逃げ出すことなど出来ないだろう。
どんな環境でも不幸を嘆くわけでもなく、最善を選び取ろうと見据える様は凛としていて、不自由な生活を強いられているのに、どこか自由なように見えた。
同情を寄せていた少女は、実のところ自分よりもずっと逞しくしたたかで、でも本当は優しい心の持ち主だ。
(あの方の身体も心も守って差し上げたかった)
それが自惚れであることは置き去りにされる直前に思い知らされた。エリー様の表情に嫌悪の色はなく、ただ仕方ないなとでもいうように少し困った顔をしていただけだ。
騙そうとしていたことを詰るわけでもなく、感情を動かさないその瞳を見て、信頼されていると思い込んでいた自分が間違っていたことに気づく。嫌われてはいなかったようだが、自分は彼女に何の影響も与えない、その程度の存在だったのだ。
前を向く彼女の心はいつだって自由だったのに、何の拘束を受けていないはずの自分のほうがよほど不自由な気がした。
(あの方の護衛を務めるのは俺じゃない)
馬に乗り意識を飛ばさないよう傷口を強く押さえながら、ジャンは方向転換をして引き返したのだった。
平穏に生きていくために必要なこと、そして受けた恩は返さなくてはならない。
突出した才能があるわけでもなく、少々器用なだけの自分に何が出来るのだろうと自問して、ようやく巡ってきた機会だった。
初めて明確に出された指示が、人の命を奪ったり傷付けたりするものではないことに安堵さえしていたのだ。
(……それなのに間違ってしまった)
これほどに後悔する羽目になるとは思わなかった。
異世界の聖女は奇跡ともいうべき恩寵の持ち主で、神官長に次ぐ地位にある。神殿の庇護を受けて育った身としては少なからず憧憬の念を持ち合わせていたし、初顔合わせの際には冷静を装っていたものの、かなり緊張もしていた。
だが王宮を離れれば、その辺の少女と同じような気安い口調で話し庶民の食べ物に興味を示す。
聖女のイメージがどんどん崩れていったが、興味深そうに輝かせる瞳やふとした折りに覗かせる小さな笑みは楽しそうで生き生きとした表情が目を惹いた。
普通の少女ではなく特別な存在なのに、何故かしっくりきてこれが素なのだと実感する。
『ジャンは?食べるの、食べないの?』
『あ、食べます』
聖女に対して相応しくない言葉遣いだったが、彼女は気分を害した様子もない。それどころか串焼きにかぶりついて満面の笑みを浮かべていた。
賓客としてもてなされているだろうに、安い屋台の食べ物を幸せそうに頬張っている。
(まるで孤児院の子供たちみたいだ……)
聖女への感想としては不敬もいいところだったが、守ってあげなければという庇護欲が湧いた。騎士としての義務感というよりは年長者としての責任感と親愛の情を抱いたのはその時からだ。
『ここで待っているのよ』
寒さで感覚が麻痺し、空腹で目が回りそうになっても母との約束だけは守り通さなければと必死で寒空の下、必死で待っていた。そうしなければ二度と会えなくなる、心のどこかで捨てられたことが分かっていても、そうすることで自分の心を守ろうとしたのだろう。
邪魔だと何度か大人たちに追い払われそうになっても、頑なに拒みその場から離れなかったジャンは迷惑な子供だったはずだ。そんなジャンを孤児院に保護してくれたのがダミアーノだった。
根性と忍耐を見込まれて拾われたのだと後で知ったが、そんなに立派なものではなくただの意地と執着で居座り続けただけなのだ。だからこそ何かをしなければと孤児院でも子供の世話やシスターの手伝いを率先して行った。
剣の腕を認められて騎士団に入ることを決めた時、難色を示されることもなければ推奨されることもなかった。
ただ月に一度神殿に祈りを捧げに来るようにと言われて、自分の役割が――恩返しの方法が分かり、安堵したことを覚えている。
雑談と称して騎士団や王宮内での出来事、そして聖女の護衛をするようになってからは彼女についての詳細を求められるままに語った。
王太子殿下よりも神官長のほうが、エリー様について詳しいだろう。
嫌がらせの件や本来の性格、会話の内容など全て伝えていたが、怪我を治癒してもらったことだけは報告しなかった。
あんなに容易く使えるものだと知られてしまえば、疲弊するまで酷使されてしまう、そう思ったのだ。
「――っ!!」
強い痛みに意識が戻った。エリー様に何とか追いつかないといけないが、こんな朦朧とした状態ではいざという時に守れないだろう。短刀で傷つけた左腕からは鮮血が零れたが、それを気にしている場合ではない。
神官長から与えられた指示は魔物の浄化を行う聖女の護衛だ。ただし王宮関係者を排除し、神殿に関わる者のみを連れて行うようにとのことだった。それは即ち内密で事を進めるということだが、ジャンは理由を尋ねることなく承諾した。
駒である自分が理由まで知らなくても構わない。討伐隊が出立してから神殿に訪問する理由を作れば、危険度の低いエリアで訓練する時間ぐらい稼げるはずだ。
上司として、また同じ騎士として、副団長のことを尊敬しているし好感を持っている。神官長からの指示がなければ、自分も討伐隊に志願していただろう。出来れば無事に帰ってきて欲しいと願う気持ちは本心だが、聖女の参加となれば話は別だった。
王族や神官長たちと同じように聖女も代わりがきかない人材なのだ。
(だけどエリー様はそう思わなかった)
『あいつは予想外のことを仕出かすからな』
エリー様の動向に注意するよう副団長から言い含められていたため、単独行動を阻止することが出来たのは僥倖だった。
まさかバルコニーから逃げ出そうとするとは、以前の話を聞いていなければ想像もしなかったに違いない。
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命には代えられないのだから、騎士団に事情を告げて保護してもらうのが現状では最善だ。
だがそうなればエリー様は厳重な監視下に置かれ、二度と逃げ出すことなど出来ないだろう。
どんな環境でも不幸を嘆くわけでもなく、最善を選び取ろうと見据える様は凛としていて、不自由な生活を強いられているのに、どこか自由なように見えた。
同情を寄せていた少女は、実のところ自分よりもずっと逞しくしたたかで、でも本当は優しい心の持ち主だ。
(あの方の身体も心も守って差し上げたかった)
それが自惚れであることは置き去りにされる直前に思い知らされた。エリー様の表情に嫌悪の色はなく、ただ仕方ないなとでもいうように少し困った顔をしていただけだ。
騙そうとしていたことを詰るわけでもなく、感情を動かさないその瞳を見て、信頼されていると思い込んでいた自分が間違っていたことに気づく。嫌われてはいなかったようだが、自分は彼女に何の影響も与えない、その程度の存在だったのだ。
前を向く彼女の心はいつだって自由だったのに、何の拘束を受けていないはずの自分のほうがよほど不自由な気がした。
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