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期待と不安
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「失礼いたします」
ティーポットから丁寧に紅茶を注いで、音を立てずにマノンの前に置く。
「貴女の淹れる紅茶を飲むのはこれが最後かもしれないわね」
「奥様がご所望でしたら、いつでもご準備いたします」
サーシャの返答にマノンは珍しく困ったような笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも貴女はもう自分の人生を歩みなさい。学園で同年代の子供たちと学ぶことは貴女にとって成長の機会となるでしょう。卒業後に貴族として生きるのも、市井で働くのも貴女の自由よ」
マノンの言葉にサーシャは胸が熱くなるのを感じた。
「奥様、今まで本当にありがとうございました。多くのことをお傍で学ばせていただいた上に学園にも通わせていただくなんて、ご厚情に感謝いたします」
優雅なカーテシーは貴族令嬢にふさわしいものだった。
侍女として働くサーシャだったが、マノンは同時に令嬢としてのマナーや教養も教え込んでいた。
優秀な侍女には知識も必要だと家庭教師を付けて勉強の時間を与え、最近では商談の場に同席させて場に応じた立ち振る舞い方を示した。そのおかげで社交界デビューこそしていないが、貴族との付き合い方や距離の取り方などを学ぶことができたのだ。
「すべては貴女の努力の結果ですよ、サーシャ」
普段は厳しいマノンに認められたことは、涙が出そうなほど嬉しかった。――あくまで心の中だけだが。
慌ただしいノックの音とほぼ同時に扉が開く。
「サーシャ!明日から学園に向かうというのに、君はまだ侍女の恰好をしているのか」
騒がしい父の登場に感動が少しだけ薄れる
「…っ、お父様をそんなに邪険にしないでくれ。ああ、君たちは血の繋がりがないのにどうしてそんなにそっくりなんだ……」
別に邪険にしているつもりはないが、父にはそう見えているのだろう。
貴族は感情を表に出さない。令嬢たるもの優雅な笑みを貼りつけて、本心を悟らせないようにするのが一般的だが、サーシャの身近な手本はマノンだった。
マノンはジュールの代行として指示を出し、海千山千の商人たちの相手をするにつれて、微笑みより無表情で相手を威圧することを選んだのだ。
その結果、傍に仕えるサーシャも無表情が通常仕様となったが、本人はその事を気にしていない。
(昔は前世の記憶もあって、働きだした頃はつい笑顔で誤魔化そうとしていたけど今ではこの方が楽なのよね)
「お父様、お世話になりました。お義母様をあまり困らせないでくださいね」
「そんなお嫁に行くようなセリフはまだ早い!というか僕よりマノンを心配するの?!」
残念なほど領地経営に向いていないジュールに代わって、仕事をしているのはマノンであるし侍女としても令嬢としても教育を施してくれたのもマノンである。
家族の中で血の繋がりがないマノンがサーシャを育ててくれたといっても過言ではない。
「………お父様もお元気で」
笑顔は見せないが、引き取ってくれたことには感謝をしているし、それを言葉にするのは大切だと思っている。だが未だに思うところはあるので、控えめな別れの言葉に留めておく。
「昔は、『お父様大好き』なんて笑顔で抱きついてくれたのに…」
「お父様、記憶の捏造は止めてください」
初対面でクズ認定した男にそんなこという訳がない。今では『しょうがないダメ男』程度に評価を変更したが、間違いだっただろうか。
そんなやり取りに気を取られていたため、サーシャはマノンが涙を浮かべていることに気づかなかった。
ずっと「子爵夫人」、もしくは「奥様」としか呼ばなかったサーシャが初めて「お義母様」という言葉を使ってくれたことがマノンの胸を打ったのだ。
初めて言葉を交わした日からマノンはサーシャを気に入っていた。見知らぬ環境下でも自分で考え最善を選択しようとする聡明さ、それから旺盛に学び努力を続けるサーシャを気づけば実の子供と同じように感じるようになった。
(どんな未来を選んだとしても、幸せになって欲しいわ)
滲んだ涙を誤魔化すように、マノンはまだ温かさを保った紅茶を手に取った。
「明日から学生か…」
ベッドに転がってぼんやりと天井を見つめる。
6年前からずっとこの世界が乙女ゲームの世界ではないかと疑念を抱いていたが、ようやくその答えが出るはずだ。何事もなく学園生活を送ることができれば、それは妄想だったということ。
だけどもし自分がヒロインであるのならば――。
「攻略なんかしない。私は平穏な人生を手に入れるんだから」
厄介事には近づかない、関わらない、手を出さない。それがサーシャのモットーだ。
他人の婚約者に手を出すのも、一時的な気の迷いで誰かを傷付けることもしたくない。そう思うのは両親の影響もあるのだが、元より恋愛に関しては潔癖なところがある。
物語としては楽しめても現実において逆ハーレムはもちろん、婚約者を奪うなど最低の行為だ。それは婚約者がいながら他の女に手を出す男も同様で、父のようなクズに興味などない。
改めて決意を固めると、少し気持ちが落ち着いた。同年代の子供と触れ合う機会がなかったため、正直上手くやれるのか不安な部分があった。
「友達は、やっぱり欲しいな」
貴族令嬢と仲良くなれるのかは分からないけど、せっかく3年間学生生活を送るのなら楽しいほうがいい。
そんな期待と不安を抱えながらも、サーシャは眠りへと落ちていった。
ティーポットから丁寧に紅茶を注いで、音を立てずにマノンの前に置く。
「貴女の淹れる紅茶を飲むのはこれが最後かもしれないわね」
「奥様がご所望でしたら、いつでもご準備いたします」
サーシャの返答にマノンは珍しく困ったような笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも貴女はもう自分の人生を歩みなさい。学園で同年代の子供たちと学ぶことは貴女にとって成長の機会となるでしょう。卒業後に貴族として生きるのも、市井で働くのも貴女の自由よ」
マノンの言葉にサーシャは胸が熱くなるのを感じた。
「奥様、今まで本当にありがとうございました。多くのことをお傍で学ばせていただいた上に学園にも通わせていただくなんて、ご厚情に感謝いたします」
優雅なカーテシーは貴族令嬢にふさわしいものだった。
侍女として働くサーシャだったが、マノンは同時に令嬢としてのマナーや教養も教え込んでいた。
優秀な侍女には知識も必要だと家庭教師を付けて勉強の時間を与え、最近では商談の場に同席させて場に応じた立ち振る舞い方を示した。そのおかげで社交界デビューこそしていないが、貴族との付き合い方や距離の取り方などを学ぶことができたのだ。
「すべては貴女の努力の結果ですよ、サーシャ」
普段は厳しいマノンに認められたことは、涙が出そうなほど嬉しかった。――あくまで心の中だけだが。
慌ただしいノックの音とほぼ同時に扉が開く。
「サーシャ!明日から学園に向かうというのに、君はまだ侍女の恰好をしているのか」
騒がしい父の登場に感動が少しだけ薄れる
「…っ、お父様をそんなに邪険にしないでくれ。ああ、君たちは血の繋がりがないのにどうしてそんなにそっくりなんだ……」
別に邪険にしているつもりはないが、父にはそう見えているのだろう。
貴族は感情を表に出さない。令嬢たるもの優雅な笑みを貼りつけて、本心を悟らせないようにするのが一般的だが、サーシャの身近な手本はマノンだった。
マノンはジュールの代行として指示を出し、海千山千の商人たちの相手をするにつれて、微笑みより無表情で相手を威圧することを選んだのだ。
その結果、傍に仕えるサーシャも無表情が通常仕様となったが、本人はその事を気にしていない。
(昔は前世の記憶もあって、働きだした頃はつい笑顔で誤魔化そうとしていたけど今ではこの方が楽なのよね)
「お父様、お世話になりました。お義母様をあまり困らせないでくださいね」
「そんなお嫁に行くようなセリフはまだ早い!というか僕よりマノンを心配するの?!」
残念なほど領地経営に向いていないジュールに代わって、仕事をしているのはマノンであるし侍女としても令嬢としても教育を施してくれたのもマノンである。
家族の中で血の繋がりがないマノンがサーシャを育ててくれたといっても過言ではない。
「………お父様もお元気で」
笑顔は見せないが、引き取ってくれたことには感謝をしているし、それを言葉にするのは大切だと思っている。だが未だに思うところはあるので、控えめな別れの言葉に留めておく。
「昔は、『お父様大好き』なんて笑顔で抱きついてくれたのに…」
「お父様、記憶の捏造は止めてください」
初対面でクズ認定した男にそんなこという訳がない。今では『しょうがないダメ男』程度に評価を変更したが、間違いだっただろうか。
そんなやり取りに気を取られていたため、サーシャはマノンが涙を浮かべていることに気づかなかった。
ずっと「子爵夫人」、もしくは「奥様」としか呼ばなかったサーシャが初めて「お義母様」という言葉を使ってくれたことがマノンの胸を打ったのだ。
初めて言葉を交わした日からマノンはサーシャを気に入っていた。見知らぬ環境下でも自分で考え最善を選択しようとする聡明さ、それから旺盛に学び努力を続けるサーシャを気づけば実の子供と同じように感じるようになった。
(どんな未来を選んだとしても、幸せになって欲しいわ)
滲んだ涙を誤魔化すように、マノンはまだ温かさを保った紅茶を手に取った。
「明日から学生か…」
ベッドに転がってぼんやりと天井を見つめる。
6年前からずっとこの世界が乙女ゲームの世界ではないかと疑念を抱いていたが、ようやくその答えが出るはずだ。何事もなく学園生活を送ることができれば、それは妄想だったということ。
だけどもし自分がヒロインであるのならば――。
「攻略なんかしない。私は平穏な人生を手に入れるんだから」
厄介事には近づかない、関わらない、手を出さない。それがサーシャのモットーだ。
他人の婚約者に手を出すのも、一時的な気の迷いで誰かを傷付けることもしたくない。そう思うのは両親の影響もあるのだが、元より恋愛に関しては潔癖なところがある。
物語としては楽しめても現実において逆ハーレムはもちろん、婚約者を奪うなど最低の行為だ。それは婚約者がいながら他の女に手を出す男も同様で、父のようなクズに興味などない。
改めて決意を固めると、少し気持ちが落ち着いた。同年代の子供と触れ合う機会がなかったため、正直上手くやれるのか不安な部分があった。
「友達は、やっぱり欲しいな」
貴族令嬢と仲良くなれるのかは分からないけど、せっかく3年間学生生活を送るのなら楽しいほうがいい。
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