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第12話 婚約者の焦燥
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怒号と炎の中を抜け出した夜から、まだ一日も経っていなかった。
リリアーナはエルヴェール伯爵家の離れに身を潜め、アランとともに証拠の確認を行っていた。
火の粉のように散った王城の帳簿。その中から救い出した数枚の契約書が、確かにレインフォード公爵家の罪を示していた。
それは密貿易、横領、そして贈賄。
王国を動かす要人たちの印章が並んでいる。
もはや一族の罪は明らかだった。
「これを公表すれば、公爵家は終わりね」
リリアーナの声には震えがなかった。
しかし、彼女の隣で地図を見つめていたアランの眉がわずかに動く。
「終わるのは公爵家だけじゃない。君の婚約も正式に破棄される。名誉も立場も、すべてを敵に回す覚悟が必要だ」
「ええ。覚悟なら、あの日の涙とともに済ませました」
彼女の声は冷たく澄み切っていて、それが逆に悲しみを帯びて聞こえる。
アランは小さくため息をついた。
「君は、優しすぎる。すべてを切り捨てる覚悟を持ちながら、人を恨みきれない」
「恨むのは、疲れるだけですもの。私はただ、過ちを元に戻したいだけ」
リリアーナの言葉に、アランが目を伏せる。
“元に戻したい”――それは、彼女が転生者である証だった。
彼だけがその秘密を知っている。そして、守ると誓った。
だが同時に、その力が彼女を孤独にしていることも痛いほどわかっていた。
「リリアーナ、今夜は休め。朝になったら対策を立てよう」
「休む時間はないの。今、私の代わりに王城では“処理”が始まっているはずよ」
「処理?」
「罪を着せるための工作。侯爵家も公爵家も、自分の立場を守るためなら平気で誰かを犠牲にする」
「つまり、君を」
「ええ。三年前と同じように」
***
リリアーナの予感は的中していた。
その頃、レインフォード公爵家の会議室では怒号が響き渡っていた。
エドモンドは父の前に立ち尽くし、その拳を握りしめている。
「父上、もう隠し通すことは不可能です!帳簿が奪われた以上、必ず外に漏れます」
「黙れ!何を知っている。貴様が余計なことをしたせいで王城の監査が入ったんだ!」
「違う、俺は――」
「リリアーナ・エルヴェール。あの女が全ての元凶だ。お前があの娘を庇ったから、公爵家が危うくなったのだ!」
父の怒声が、重厚な部屋に響き渡る。
エドモンドは苦しそうに目を閉じた。
あの夜、炎の倉庫で見た彼女の目――あれは嘘じゃなかった。
あの冷たくも凛とした瞳の中に、“真実”の光があった。
それを否定することなどできなかった。
「リリアーナは無実です」
その一言に父の顔色が変わる。
「身内に情をかけるなと言っている!貴族は誇りと権力を守るものだ。女ひとりに惑わされるな!」
「女ひとりではない。彼女は、過去の誰より強い」
「黙れッ!」
机を叩く音が響いた。
父公爵は顔を紅潮させ、手元の酒を荒々しく飲み下す。
「いいか、エドモンド。お前の次の言葉次第で、エルヴェール家そのものを潰す」
「父上!」
「反逆者として捕らえろと命を出せば、それで終わりだ。あとは場を作り、罪状を書くだけでよい。証拠など誰も信じはせん」
その一言に、エドモンドの胸に冷たいものが走る。
権力の重さ。
それがどれほどの命を簡単に潰してしまうのか、初めて知った。
会議室を後にし、エドモンドは一人、長い廊下を歩いた。
窓の外では早春の雨が降っている。
彼は拳を握り、唇を噛んだ。
「リリアーナ……君を傷つけたのも、失ったのも俺だ。ならば、俺がすべてを償わなければならない」
***
同じ頃、リリアーナの元には正式な召喚状が届いていた。
送り主はレインフォード公爵家。
名目は“婚約の再確認および弁明の場”。
文面は穏やかに見えるが、実際は罠に他ならない。
「やはり……来たわね」
手紙を見下ろし、リリアーナは静かに微笑んだ。
「どうなさるおつもりですか?」
ミリアが怯えた声を出す。
「出席します。行かなければ、逃げたことになるもの」
「でも危険です!きっと罠です!」
「分かっているわ。でも、もう逃げない。これは運命の再試験だから」
ミリアは泣きそうな声で頷き、その場を離れた。
アランが現れ、短く言う。
「もう決心は変わらないようだな」
「ええ。あなたには隠れていてほしい。巻き込みたくないの」
「君が俺を信じてくれるなら、一緒に行く」
「アラン……」
彼の瞳はまっすぐに彼女を見つめている。
不意に、胸の奥が熱くなった。
恐怖でも怒りでもない、不思議な感情がそこにあった。
まるで、これまで凍っていた心が少しだけ解けたような。
「ありがとう。……でも最後は、私が決める」
リリアーナはそう告げると、召喚状を懐にしまった。
***
翌日、レインフォード公爵家の広間。
天蓋の輝きが差し込む中、リリアーナは一人でそこに立っていた。
対面には公爵と、その隣に立つエドモンド。
重苦しい沈黙の後、公爵が口を開く。
「リリアーナ・エルヴェール。貴殿が王城財務局に不正の噂を流したという報告を受けた」
「そのような事実はございません」
「ならば、何故我が家の帳簿が王都の闇市に流れたのだ。貴女の手から漏れたのではないのか?」
リリアーナは目を細めた。
「問われるべきは、誰がその帳簿を闇市に持っていたかではなく、何故“闇市にあったのか”でしょう」
「なんだと?」
「その帳簿が存在するということは、公爵家が不正を隠していた証なのですから」
場がざわめく。
公爵の顔が赤黒く染まり、椅子から立ち上がった。
「この娘、何を言っているか分かっているのか!」
「分かっています。あなたの帝王のような権力が、どれほどこの国を腐らせたか。それを世に知らしめるために、私はここにいるのです」
エドモンドが立ち上がる。
「父上、もうおやめください」
「黙れ、愚か者!」
「いいえ、黙りません。あなたが罪を伸ばせば伸ばすほど、人はもう戻れなくなる!」
父子の激しい口論。
リリアーナは静かに一礼した。
「これで十分です。記録をすべて聞かせていただきました」
「なに?」
「王城の使者がこの発言を聞けば、もう誰も逃げられません」
公爵の顔に恐怖が広がる。
その瞬間、外の扉が開き、複数の兵士たちが入ってきた。
「王国検察局の命により、レインフォード公爵殿、およびその関係者を拘束いたします」
怒号が響いた。
公爵の視線がリリアーナを射抜く。
「貴様……裏で何をした……!」
「過去を正しただけです」
公爵が連行される中、エドモンドはただその場に立ち尽くしていた。
彼の手が震えている。
「リリアーナ……俺は君を守れなくて……」
「守る必要なんてありませんわ。あなたにはあなたの道がある」
「だが、俺は君を――」
「その言葉は要りませんの」
やさしく微笑んで、彼女は背を向けた。
広間を出ると、光が差し込み、冷たい風が頬を撫でた。
“焦燥”と呼ぶには、あまりにも遅すぎた。
けれど、それでも彼の心が動いた瞬間を、リリアーナは確かに見た。
愛という名の鎖が、ようやく解けた瞬間だった。
(続く)
リリアーナはエルヴェール伯爵家の離れに身を潜め、アランとともに証拠の確認を行っていた。
火の粉のように散った王城の帳簿。その中から救い出した数枚の契約書が、確かにレインフォード公爵家の罪を示していた。
それは密貿易、横領、そして贈賄。
王国を動かす要人たちの印章が並んでいる。
もはや一族の罪は明らかだった。
「これを公表すれば、公爵家は終わりね」
リリアーナの声には震えがなかった。
しかし、彼女の隣で地図を見つめていたアランの眉がわずかに動く。
「終わるのは公爵家だけじゃない。君の婚約も正式に破棄される。名誉も立場も、すべてを敵に回す覚悟が必要だ」
「ええ。覚悟なら、あの日の涙とともに済ませました」
彼女の声は冷たく澄み切っていて、それが逆に悲しみを帯びて聞こえる。
アランは小さくため息をついた。
「君は、優しすぎる。すべてを切り捨てる覚悟を持ちながら、人を恨みきれない」
「恨むのは、疲れるだけですもの。私はただ、過ちを元に戻したいだけ」
リリアーナの言葉に、アランが目を伏せる。
“元に戻したい”――それは、彼女が転生者である証だった。
彼だけがその秘密を知っている。そして、守ると誓った。
だが同時に、その力が彼女を孤独にしていることも痛いほどわかっていた。
「リリアーナ、今夜は休め。朝になったら対策を立てよう」
「休む時間はないの。今、私の代わりに王城では“処理”が始まっているはずよ」
「処理?」
「罪を着せるための工作。侯爵家も公爵家も、自分の立場を守るためなら平気で誰かを犠牲にする」
「つまり、君を」
「ええ。三年前と同じように」
***
リリアーナの予感は的中していた。
その頃、レインフォード公爵家の会議室では怒号が響き渡っていた。
エドモンドは父の前に立ち尽くし、その拳を握りしめている。
「父上、もう隠し通すことは不可能です!帳簿が奪われた以上、必ず外に漏れます」
「黙れ!何を知っている。貴様が余計なことをしたせいで王城の監査が入ったんだ!」
「違う、俺は――」
「リリアーナ・エルヴェール。あの女が全ての元凶だ。お前があの娘を庇ったから、公爵家が危うくなったのだ!」
父の怒声が、重厚な部屋に響き渡る。
エドモンドは苦しそうに目を閉じた。
あの夜、炎の倉庫で見た彼女の目――あれは嘘じゃなかった。
あの冷たくも凛とした瞳の中に、“真実”の光があった。
それを否定することなどできなかった。
「リリアーナは無実です」
その一言に父の顔色が変わる。
「身内に情をかけるなと言っている!貴族は誇りと権力を守るものだ。女ひとりに惑わされるな!」
「女ひとりではない。彼女は、過去の誰より強い」
「黙れッ!」
机を叩く音が響いた。
父公爵は顔を紅潮させ、手元の酒を荒々しく飲み下す。
「いいか、エドモンド。お前の次の言葉次第で、エルヴェール家そのものを潰す」
「父上!」
「反逆者として捕らえろと命を出せば、それで終わりだ。あとは場を作り、罪状を書くだけでよい。証拠など誰も信じはせん」
その一言に、エドモンドの胸に冷たいものが走る。
権力の重さ。
それがどれほどの命を簡単に潰してしまうのか、初めて知った。
会議室を後にし、エドモンドは一人、長い廊下を歩いた。
窓の外では早春の雨が降っている。
彼は拳を握り、唇を噛んだ。
「リリアーナ……君を傷つけたのも、失ったのも俺だ。ならば、俺がすべてを償わなければならない」
***
同じ頃、リリアーナの元には正式な召喚状が届いていた。
送り主はレインフォード公爵家。
名目は“婚約の再確認および弁明の場”。
文面は穏やかに見えるが、実際は罠に他ならない。
「やはり……来たわね」
手紙を見下ろし、リリアーナは静かに微笑んだ。
「どうなさるおつもりですか?」
ミリアが怯えた声を出す。
「出席します。行かなければ、逃げたことになるもの」
「でも危険です!きっと罠です!」
「分かっているわ。でも、もう逃げない。これは運命の再試験だから」
ミリアは泣きそうな声で頷き、その場を離れた。
アランが現れ、短く言う。
「もう決心は変わらないようだな」
「ええ。あなたには隠れていてほしい。巻き込みたくないの」
「君が俺を信じてくれるなら、一緒に行く」
「アラン……」
彼の瞳はまっすぐに彼女を見つめている。
不意に、胸の奥が熱くなった。
恐怖でも怒りでもない、不思議な感情がそこにあった。
まるで、これまで凍っていた心が少しだけ解けたような。
「ありがとう。……でも最後は、私が決める」
リリアーナはそう告げると、召喚状を懐にしまった。
***
翌日、レインフォード公爵家の広間。
天蓋の輝きが差し込む中、リリアーナは一人でそこに立っていた。
対面には公爵と、その隣に立つエドモンド。
重苦しい沈黙の後、公爵が口を開く。
「リリアーナ・エルヴェール。貴殿が王城財務局に不正の噂を流したという報告を受けた」
「そのような事実はございません」
「ならば、何故我が家の帳簿が王都の闇市に流れたのだ。貴女の手から漏れたのではないのか?」
リリアーナは目を細めた。
「問われるべきは、誰がその帳簿を闇市に持っていたかではなく、何故“闇市にあったのか”でしょう」
「なんだと?」
「その帳簿が存在するということは、公爵家が不正を隠していた証なのですから」
場がざわめく。
公爵の顔が赤黒く染まり、椅子から立ち上がった。
「この娘、何を言っているか分かっているのか!」
「分かっています。あなたの帝王のような権力が、どれほどこの国を腐らせたか。それを世に知らしめるために、私はここにいるのです」
エドモンドが立ち上がる。
「父上、もうおやめください」
「黙れ、愚か者!」
「いいえ、黙りません。あなたが罪を伸ばせば伸ばすほど、人はもう戻れなくなる!」
父子の激しい口論。
リリアーナは静かに一礼した。
「これで十分です。記録をすべて聞かせていただきました」
「なに?」
「王城の使者がこの発言を聞けば、もう誰も逃げられません」
公爵の顔に恐怖が広がる。
その瞬間、外の扉が開き、複数の兵士たちが入ってきた。
「王国検察局の命により、レインフォード公爵殿、およびその関係者を拘束いたします」
怒号が響いた。
公爵の視線がリリアーナを射抜く。
「貴様……裏で何をした……!」
「過去を正しただけです」
公爵が連行される中、エドモンドはただその場に立ち尽くしていた。
彼の手が震えている。
「リリアーナ……俺は君を守れなくて……」
「守る必要なんてありませんわ。あなたにはあなたの道がある」
「だが、俺は君を――」
「その言葉は要りませんの」
やさしく微笑んで、彼女は背を向けた。
広間を出ると、光が差し込み、冷たい風が頬を撫でた。
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