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第29話 幸せの指輪と家族の願い
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王都の春は、例年よりもやわらかく訪れた。
長く続いた冬の雪解けがようやく終わり、石畳の隙間からは新しい命の芽が覗いている。
街人たちは新しい王政のもとで安堵の息をつき、子どもたちは笑顔で花を投げ合っていた。
空気が澄んでいる。
それはただ季節が変わったからではなく、人々の心の氷がようやく溶けはじめたからだった。
ルミナス公爵邸もまた、春の装いを迎えていた。
屋敷の庭は白薔薇だけでなく、レティシアの提案で色とりどりの花々が植えられ、まるで小さな楽園のようだった。
金色の陽光を受けて色づく草花の間を、マリーが軽やかに歩く。
「お嬢様……いえ、奥様。今日もお庭に出られますか?」
「ふふ、まだ“奥様”って言われると照れてしまうわ。」
「慣れていただかないと。もう王都じゅうが祝福しているんですから。」
「そうね……でも、本当に夢みたいなの。私があの氷の公爵の隣で、こんな穏やかな時間を過ごしているなんて。」
レティシアはそっと胸元の指輪に触れた。白い小石が陽光を受け、虹のような反射を作り出す。
それは、二人の未来を象徴する光そのものだった。
そのとき、屋敷の門の方で人だかりが起きた。
マリーが不思議そうに眉を上げる。
「誰かいらしたみたいですね……あら? 馬車?」
レティシアも顔を上げた。見慣れぬ紋章の馬車がゆっくりと中庭に入ってくる。扉が開き、中から現れたのは年老いた貴族――見覚えのある顔だった。
「……父上。」
レティシアの声が震える。
エドモンド・グランベル。
かつて娘を王太子の婚約破棄の責任者として追放し、その後の騒動にも関与した張本人。彼が王都を出たあと、消息は途絶えたままだった。
アランが屋敷の奥から現れ、その姿を認めると立ち止まった。
「ルミナス公爵殿……娘の縁で、まことに厚かましくもお邪魔した。」
「今日は父として来たんですか、それとも、まだ貴族として名誉を求めに?」
アランの言葉は冷たいが、怒りではない。慎重に相手を測る声だった。
エドモンドは頭を下げた。
「名誉など、とうに失った。償いを求めるために来たのだ。……レティシア。」
娘の名を口にした瞬間、わずかに声が詰まる。
「私は、お前に謝る資格などないとわかっている。それでも言わなければならなかった。あの夜……私は父ではなかった。」
レティシアは答えなかった。
風が吹き、庭の花弁が宙を舞う。彼女はその光景を見つめながら、静かに言った。
「父上、王家に仕えることがすべてだったあなたが、どうして今ここに?」
「……ルミナス公爵殿がすべてを救ってくれた。国の真実を暴き、血の呪いを終わらせ、王を支えた。その姿を見て、気づいたのだ。」
老人の瞳に涙が浮かぶ。
「私は“忠誠”の意味を履き違えていたと。家のため、名誉のため、誰かを犠牲にしてきた。だが、本当の忠誠とは、守りたい者の幸せを願うことなのだと……お前を失ってようやく気づいた。」
レティシアはしばらく沈黙した。
かつてあの声が罵倒に聞こえた日々が遠い記憶のように思えた。
彼女は深く息をつき、言葉を選ぶように問いかけた。
「……後悔されているのですね。」
「後悔だけで足りるものか。しかし、その言葉を聞けただけでも救われる。」
アランがそっとレティシアに目を向けた。
「許すかどうかは、お前が決めることだ。」
レティシアはゆっくりと父に歩み寄った。
「わたくし、かつては父のことが憎くて仕方ありませんでした。母を救えなかったあなたを、そして私を捨てたあなたを。けれど今は――」
エドモンドが顔を上げる。
「今は?」
「今は、あなたを哀れだと思うのです。人は誰しも、正しいと思い込んだ道を歩きたい。けど、その信念が誰かを泣かせてしまうかもしれない。私も、あの時までは気づけませんでした。」
「レティシア……」
彼女は微笑んだ。
「だから、私はもうあなたを憎みません。父上の罪は、国と同じように、時間が赦していくでしょう。」
エドモンドの目から涙がこぼれた。震える手を伸ばし、しかし触れようとした指が途中で止まる。
「触れてはいけぬだろう。そんな資格など……」
けれどレティシアはそっとその手に自分の手を重ねた。
「私はもう子どもではありません。父に触れられたくないなんて思わないわ。」
その言葉に、エドモンドは胸を掴んで泣いた。
アランは二人の背中を見つめ、言葉も挟まずにいた。
しばらくの沈黙ののち、エドモンドが顔を上げる。
「ルミナス公爵。貴方に、ひとつお願いがある。」
「聞こう。」
「娘を幸せにしてやってほしい。私は守れなかったが、貴方ならできる。あの子は、誰よりも愛を知る娘だ。」
アランは頷いた。
「約束しよう。彼女を何より大切にする。それが俺の生きる意味だ。」
遠くで鐘が鳴った。昼を告げる柔らかな音。
エドモンドは深く頭を下げたあと、背を向けた。
「ありがとう。もう十分だ。」
レティシアが呼び止めようとしたが、アランが制した。
「行かせてやれ。これが彼にできる最後の贖罪だ。」
レティシアは頷き、去っていく父の背を静かに見送った。
彼の姿が石垣の向こうに消える頃、彼女の頬にはひとすじの涙が伝っていた。
アランが彼女の肩にそっと手を置く。
「後悔していないか。」
「いいえ。私は今、ようやく“家族”という言葉の意味がわかった気がします。失っても、憎んでも、それでも心の奥で繋がっていた。」
「強くなったな。」
「いいえ。あなたがいてくれたから、強くなれたの。」
二人は庭に戻り、咲き誇る薔薇の中を歩いた。
静かな風。淡い陽射し。
目を閉じれば、かつて氷の冷気に包まれていたこの場所が、いまでは愛と赦しで満たされているのがわかる。
レティシアは立ち止まり、そっとアランの腕に手を添えた。
「アラン様、お願いがあります。」
「なんだ。」
「この庭を、開かれた庭にしたいのです。誰でも見られるように。民の人たちにも、この花を。」
アランは微笑んだ。
「この庭を?」
「はい。わたくしたちが築いた平和を、形にして残したいんです。」
「……いい考えだ。」
「本当?」
「ああ。なら、今日から“ルミナス庭園”と名付けよう。いずれ子どもたちに読み聞かせる時が来たら、伝えるんだ。“ここに、愛があった”とな。」
レティシアの頬に笑みが広がる。
「ありがとう……アラン様。」
「礼などいらん。お前が笑えば、それで十分だ。」
その言葉を聞いて、レティシアは小さな声で囁いた。
「……あなたって、本当にずるい人だわ。」
「そうか?」
「ええ。ずっと私の心を掴んで離さないんですもの。」
アランは苦笑しながら彼女を抱き寄せた。
風が花を揺らし、二人の影を草に落とす。
その瞬間、レティシアの指輪が光を受け、周囲の白薔薇が一斉に開いた。
まるで新しい世代の祝福を告げるように、花は風に舞い上がる。
アランが言った。
「これが、お前の望んだ“幸せ”だ。」
「いいえ、これは“私たち”の望んだ幸せです。」
二人は目を合わせ、微笑み合う。
もう、言葉はいらなかった。世界が彼らの誓いを知っていた。
こうして、氷の公爵と白薔薇の令嬢に新しい章が始まる。
過去の痛みも、涙も、赦しと愛に変わってゆく。
彼と彼女が見上げた空に、春の雲がゆっくりと流れていた。
続く
長く続いた冬の雪解けがようやく終わり、石畳の隙間からは新しい命の芽が覗いている。
街人たちは新しい王政のもとで安堵の息をつき、子どもたちは笑顔で花を投げ合っていた。
空気が澄んでいる。
それはただ季節が変わったからではなく、人々の心の氷がようやく溶けはじめたからだった。
ルミナス公爵邸もまた、春の装いを迎えていた。
屋敷の庭は白薔薇だけでなく、レティシアの提案で色とりどりの花々が植えられ、まるで小さな楽園のようだった。
金色の陽光を受けて色づく草花の間を、マリーが軽やかに歩く。
「お嬢様……いえ、奥様。今日もお庭に出られますか?」
「ふふ、まだ“奥様”って言われると照れてしまうわ。」
「慣れていただかないと。もう王都じゅうが祝福しているんですから。」
「そうね……でも、本当に夢みたいなの。私があの氷の公爵の隣で、こんな穏やかな時間を過ごしているなんて。」
レティシアはそっと胸元の指輪に触れた。白い小石が陽光を受け、虹のような反射を作り出す。
それは、二人の未来を象徴する光そのものだった。
そのとき、屋敷の門の方で人だかりが起きた。
マリーが不思議そうに眉を上げる。
「誰かいらしたみたいですね……あら? 馬車?」
レティシアも顔を上げた。見慣れぬ紋章の馬車がゆっくりと中庭に入ってくる。扉が開き、中から現れたのは年老いた貴族――見覚えのある顔だった。
「……父上。」
レティシアの声が震える。
エドモンド・グランベル。
かつて娘を王太子の婚約破棄の責任者として追放し、その後の騒動にも関与した張本人。彼が王都を出たあと、消息は途絶えたままだった。
アランが屋敷の奥から現れ、その姿を認めると立ち止まった。
「ルミナス公爵殿……娘の縁で、まことに厚かましくもお邪魔した。」
「今日は父として来たんですか、それとも、まだ貴族として名誉を求めに?」
アランの言葉は冷たいが、怒りではない。慎重に相手を測る声だった。
エドモンドは頭を下げた。
「名誉など、とうに失った。償いを求めるために来たのだ。……レティシア。」
娘の名を口にした瞬間、わずかに声が詰まる。
「私は、お前に謝る資格などないとわかっている。それでも言わなければならなかった。あの夜……私は父ではなかった。」
レティシアは答えなかった。
風が吹き、庭の花弁が宙を舞う。彼女はその光景を見つめながら、静かに言った。
「父上、王家に仕えることがすべてだったあなたが、どうして今ここに?」
「……ルミナス公爵殿がすべてを救ってくれた。国の真実を暴き、血の呪いを終わらせ、王を支えた。その姿を見て、気づいたのだ。」
老人の瞳に涙が浮かぶ。
「私は“忠誠”の意味を履き違えていたと。家のため、名誉のため、誰かを犠牲にしてきた。だが、本当の忠誠とは、守りたい者の幸せを願うことなのだと……お前を失ってようやく気づいた。」
レティシアはしばらく沈黙した。
かつてあの声が罵倒に聞こえた日々が遠い記憶のように思えた。
彼女は深く息をつき、言葉を選ぶように問いかけた。
「……後悔されているのですね。」
「後悔だけで足りるものか。しかし、その言葉を聞けただけでも救われる。」
アランがそっとレティシアに目を向けた。
「許すかどうかは、お前が決めることだ。」
レティシアはゆっくりと父に歩み寄った。
「わたくし、かつては父のことが憎くて仕方ありませんでした。母を救えなかったあなたを、そして私を捨てたあなたを。けれど今は――」
エドモンドが顔を上げる。
「今は?」
「今は、あなたを哀れだと思うのです。人は誰しも、正しいと思い込んだ道を歩きたい。けど、その信念が誰かを泣かせてしまうかもしれない。私も、あの時までは気づけませんでした。」
「レティシア……」
彼女は微笑んだ。
「だから、私はもうあなたを憎みません。父上の罪は、国と同じように、時間が赦していくでしょう。」
エドモンドの目から涙がこぼれた。震える手を伸ばし、しかし触れようとした指が途中で止まる。
「触れてはいけぬだろう。そんな資格など……」
けれどレティシアはそっとその手に自分の手を重ねた。
「私はもう子どもではありません。父に触れられたくないなんて思わないわ。」
その言葉に、エドモンドは胸を掴んで泣いた。
アランは二人の背中を見つめ、言葉も挟まずにいた。
しばらくの沈黙ののち、エドモンドが顔を上げる。
「ルミナス公爵。貴方に、ひとつお願いがある。」
「聞こう。」
「娘を幸せにしてやってほしい。私は守れなかったが、貴方ならできる。あの子は、誰よりも愛を知る娘だ。」
アランは頷いた。
「約束しよう。彼女を何より大切にする。それが俺の生きる意味だ。」
遠くで鐘が鳴った。昼を告げる柔らかな音。
エドモンドは深く頭を下げたあと、背を向けた。
「ありがとう。もう十分だ。」
レティシアが呼び止めようとしたが、アランが制した。
「行かせてやれ。これが彼にできる最後の贖罪だ。」
レティシアは頷き、去っていく父の背を静かに見送った。
彼の姿が石垣の向こうに消える頃、彼女の頬にはひとすじの涙が伝っていた。
アランが彼女の肩にそっと手を置く。
「後悔していないか。」
「いいえ。私は今、ようやく“家族”という言葉の意味がわかった気がします。失っても、憎んでも、それでも心の奥で繋がっていた。」
「強くなったな。」
「いいえ。あなたがいてくれたから、強くなれたの。」
二人は庭に戻り、咲き誇る薔薇の中を歩いた。
静かな風。淡い陽射し。
目を閉じれば、かつて氷の冷気に包まれていたこの場所が、いまでは愛と赦しで満たされているのがわかる。
レティシアは立ち止まり、そっとアランの腕に手を添えた。
「アラン様、お願いがあります。」
「なんだ。」
「この庭を、開かれた庭にしたいのです。誰でも見られるように。民の人たちにも、この花を。」
アランは微笑んだ。
「この庭を?」
「はい。わたくしたちが築いた平和を、形にして残したいんです。」
「……いい考えだ。」
「本当?」
「ああ。なら、今日から“ルミナス庭園”と名付けよう。いずれ子どもたちに読み聞かせる時が来たら、伝えるんだ。“ここに、愛があった”とな。」
レティシアの頬に笑みが広がる。
「ありがとう……アラン様。」
「礼などいらん。お前が笑えば、それで十分だ。」
その言葉を聞いて、レティシアは小さな声で囁いた。
「……あなたって、本当にずるい人だわ。」
「そうか?」
「ええ。ずっと私の心を掴んで離さないんですもの。」
アランは苦笑しながら彼女を抱き寄せた。
風が花を揺らし、二人の影を草に落とす。
その瞬間、レティシアの指輪が光を受け、周囲の白薔薇が一斉に開いた。
まるで新しい世代の祝福を告げるように、花は風に舞い上がる。
アランが言った。
「これが、お前の望んだ“幸せ”だ。」
「いいえ、これは“私たち”の望んだ幸せです。」
二人は目を合わせ、微笑み合う。
もう、言葉はいらなかった。世界が彼らの誓いを知っていた。
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