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【10.城壁にて】
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独立後の後ろ盾を得る為に、トゥーラの国王ロイズは、グレン将軍と尚書のラッセルを供にして、東側にあるリャザン公国へと同盟締結を為すべく出立をした――
留守を預かる事となった若き美将軍ライエルは、トゥーラを囲う都市城壁の補強と、新たなる防御壁の構築を国王より任されて、当初は不安を灯しながらも、数時間後には確かな達成感を宿していた――
「この石ですが、ここへ置いても良いですか?」
背筋を伸ばし、自らも荷車を牽いた上半身裸のライエルが、城壁作りに黙々と石を重ねる一人の民へと声を渡した。
「ああ、それなら、あっちがいいな」
「はい」
「え? ライエル様?」
簡素な麻の衣服を纏った中年の男が、声の主に驚いて両手を止めると、周りで作業をしていた者たちも、耳へと届いた将軍の名前に思わず動きが止まった。
「おかしいですか?」
肉体美を覗かせるライエルが、無垢に訊く。
「いえ、その…将軍様が石運びとは…」
恐縮を表しながら、中年の男が答えた。
「みんな働いているのに、言い出しっぺが動かない訳にはいかないでしょう」
「……」
やれ視察だなんだと足を運んでは、作業の停滞を生み出す役人ばかりを見てきた住人たちは、誠実な青年の姿に一層の信頼を重ねるのだった――
「おや、ライエル様。ご苦労だね」
「やあ、ウォレン」
日々の農作業に参加して、周知の間柄となった者も少なくない。
気軽に声を掛けてきた、ウォレンという青年もその一人だ。
美将軍より5つほど年上の、短い金髪に浅黒い肌をした、気さくな男であった――
「パン、どうだ?」
ウォレンは右手に持った手のひらサイズの丸パンを齧りながら、左手でもう一個を差し出した。
「ありがとうございます。駆り出してしまって、申し訳ありません」
「そんなのいいさ。普段ならこの時期は、ずっと畑仕事だ」
衛兵まで狩り出して行われた国策の農作業は、住民所有の畑から実施した。
先に恩を売り、後で返してもらうという意図ではあったが、小さな王妃が描く協力の連鎖は、良い塩梅に繋がっていた――
「しかし、なんだな…」
「なにか?」
一息を入れようと、日の当たる南側の都市城壁にぴたりと背中を預けてパンを齧ったライエルの隣で、腰を下ろしたウォレンが呟くと、若い将軍が反応を示した。
「お前さんと居ると、女どもの視線が凄いな…」
顔を上げると、防御壁造りに勤しむ住人の姿や表情が、視界に入ってくる。
そんな中、明らかに女性の視線がチラチラと、こちらの方、正確にはライエルに向けられているのが分かるのだ。
「そうですね…能率が悪くなるので、さっさと食べて、石でも拾ってきます」
「おいおい、寂しい事言うなよ。お前さんが居ると、普段俺たちが見ない女の表情が見れて、それはそれで嬉しいんだからよ」
整った顔立ちから放たれた不満の声に、なんとも悲しいセリフでウォレンが蓋をした。
ライエルの年齢は17歳。
将軍という身分でありながら、未だ成長途上の、鍛え上げた鋼のような肉体と整った顔立ちは、当然のように女性達の視線を浴びた。
その一方で、姿勢は正しく、カツカツと歩む姿には威風すら漂って、近寄りがたいと感じる者も多かった。
加えて将軍という立場となって日が浅く、国を想えば色恋にうつつを抜かしている暇などない。
必死で背伸びをする彼の立場を理解する故に、多くの女性たちにとっては応援の対象であり、高嶺の花、心を癒す象徴的な存在となっていたのだ――
「はあ…」
しかしながら、本人には全く自覚が無い。
制したウォレンに対しても、そうですかと気の抜けたような返事を返すのだった――
「あ、そういや聞いたぜ。この間、女を泣かしたそうじゃねえか」
「え?」
ライエルが腰を下ろすと、ウォレンが唐突に質問を飛ばした。
しかしながら、身に覚えは無いらしい。
「違うの?」
「いや…記憶に無いです…」
それは、数日前の昼下がり。
朝から続けていた農作業を一休み。日陰を求めた東側の城壁に、今と同じように真っ直ぐに背中を預けて時を過ごすライエルの姿があった――
疲れの上に眠さも降りてきて、さしもの若い身体も瞼が重くなっていた――
「あ、あの…ライエル様?」
そんなところへ、二十歳くらいであろうか、真新しいカーキ色の衣服で着飾った女性が近付いてきて、尋ねるような声を発した。
「ん…なんでしょう?」
不意に掛けられた女性の声に、重くなった瞼を開けて視線を上げると、ライエルが寝起きの声を返した。
「あ、あの…お疲れ様です。それでこれ…宜しかったら、召し上がって下さい」
薫風に波打つ金色の髪に大きな麦わら帽子を載せた女性は、頬を赤らめて視線を下げると、持ち手を強く両手で握って、小さな白い花弁が添えられた網籠をライエルへと差し出した。
籠の中からは、切り揃えられた白いパンやチーズがいくつか覗いている――
肩甲骨が隠れるまでに伸ばされた金髪の背後には、幾多の女性の好奇な視線が注がれていた――
「いや…すみません」
瞳に光を宿したライエルは、遠くからの視線を気にすることもなく、いや、そんな視線には気付くこともなく、静かに口を開いた。
「私だけが、そういった物を受け取る訳にはいかないのです。私は、他の方と同じように、従事しているだけですので…」
ハッキリと迷惑ですとは言わずとも、彼は冷めた空気を戻した。
あなたよりも若年の私に、小言を言わせるなと言いたげに――
「あ…」
「……」
「そうですよね…」
固辞される事態は想定しても、嫌悪に及ぶとは思わなかった。
耳に届いた理由は真っ当で、女性は顔を真っ赤にして俯いた。
「綺麗な手ですね…」
続いてライエルは、籠の持ち手を握る両手に気を取られると、思ったままを口にした。
「あ、はい…」
乳白色の華奢な両の手は、大事に育てられてきた証である。
気恥ずかしくなった金髪の女性は網籠の持ち手から右手を離すと、そっと左手の甲を隠すようにした。
「お手を汚してしまいますが…今は、皆と一緒に働いて欲しいです…」
「あ…」
真っ直ぐに訴えたライエルの言葉に対して、金髪の女性は短い声を出したきり、いたたまれなくなってその場から走り去っていった――
「…私が、悪いのですか?」
悪気はない。
彼にしてみれば、思ったままを発しただけである――
加えるなら、発した内容は概ね正しい。
「いや、悪くないけどよ。なんつーか、言い方ってのがあるだろ?」
ライエルの発言に、ウォレンが呆れたように返した。
「…どう言えば、良かったのでしょうか?」
皆目見当がつかないといった趣で、ライエルが真面目な表情になって教えを請うた。
「いや…相手も公衆の面前で、勇気を持って来てくれた訳だろ? 『ありがとうございます。ありがたく頂きます。美味しそうですね。私だけ食べるのも悪いので、他の方にも御裾分けして宜しいでしょうか?』 くらいは言ってやれよ」
背筋をピッと伸ばして、ウォレンはライエルの仕草、物言いを真似てみた。
「…似てませんね」
「似てるよ!」
ウォレンにしてみれば会心の演技である。真顔で否定されたので、し返した。
「しっかしまあ…それが却って、お前さんの株を上げるんだからなあ…」
「はあ…」
当人には全く自覚が無い。
独身女性のみならず、既婚者であっても旦那とは別の枠。
そんな好感度一位の男が、抜け駆けしようとした女を一蹴した武勇伝は、女性の間であっという間に拡がって、更に好感度を上げたのだ。
「次は、ウォレンさんの意見を参考にします…」
「次が、あればな」
自らハードルを上げた現在の状況で、言い寄って来る女が居るだろうか。
ライエルの発言に、ウォレンは心底呆れた声を吐き出した――
「で? 実際はどうなの?」
「は?」
「良い娘はいるの?」
「いや、居ませんよ…」
ウォレンが深入りして尋ねるも、浮いた話は出なかった。
心なしか、周囲の女性達の表情が明るくなった気がした――
「そうかぁ。勿体ないな」
「そうですかね…」
羨んだ発言にも、反応は薄かった。
「まあ、釣り合いってのもあるからな。仮にも将軍の相手ともなれば、そこらの女じゃ務まらんだろ」
「釣り合い…ですか?」
条件なんてものは特に無いけども、誰でも良いというわけではない。
近しい存在の異性がいても良いとは思うが、求めている訳ではない――
「理想とか、気になるとか、そんな人、ほんとにいないの?」
正面だけでなく、いつの間にか城壁の裏側で聞き耳を立てている女性達からも、もっと訊けという無言の圧力が掛かっていた。
早々に話を打ち切ったなら、今後の生活に影響が出るに違いない――
仕方なく、ウォレンは重ねて質問を投げ掛けた。
「気になる……」
「ん? 誰かいるの?」
遠い目をしたライエルを察知して、安堵を含んだウォレンが詰め寄ると、同時に周囲の雑音も消え失せた。
「王妃様ですかね。お会いしたことが無いので…」
「おいおい…そういう事じゃねえよ」
周囲に注ぐ落胆の空気と一緒になって、ウォレンはガクッと肩を落として、心底あきれた声を吐き出した。
「気になりませんか? 国王様が選んだお方ですよ?」
今度はライエルが、無邪気なままに問い掛けた。
「いや…そりゃあ気にはなるけどさ…気にしたってしょうがないだろう?」
「まあ…そうですよね」
ウォレンの発言に、ライエルは少し陰った表情を浮かべた。
将軍という身分でありながら、彼は若年であるが故、政治的な場面に顔を出す機会が殆どなかったのだ。
「俺らはまだしも、お前さんは城内で会う事もあるんじゃないのか?」
心を沈めたライエルに、ウォレンは励ますように口を開いた。
「そうですね…」
単純に、会ってみたいというだけの話である。
今まで気にしたことは無かったが、彼の心中で、この日を境に王妃という存在が意識された事だけは確かであった――
「昼前に、もう一往復してきます」
十分に休んだ。
ライエルは臀部に付着した砂を払いながら立ち上がると、パンの最後の一片を口に咥えて、マメだらけの大きな手のひらで荷車の取っ手を掴んだ。
「なあ…」
「はい?」
青い空を背景に、荷車を手にしたライエルの真っ直ぐな背中に向かってウォレンが声を発した。
「おまえ、無理してないか?」
「……」
少年の面影が残る顔立ちと、大人びた言動や立ち振る舞いは歪に映る――
「そうですね…」
ウォレンの発言に、ライエルは少し遠くを見やるような瞳となって、呟いた。
「カッコよくあれ」
「……」
「父から、教わった言葉ですので」
「……」
それだけを伝えると、真っ直ぐな背中のままでライエルは一歩を進めた――
「なあ、教えて欲しいんだけど…」
「はい?」
立ち上がったウォレンはレンガ造りに励む、先ほど興味津々といった感じでライエルの発言に耳を立てていた、一人の女性に疑問をぶつけた。
「ライエルは、将軍だろ? 親父さんは、リャザンに居るのか?」
「……」
届いた質問に、手を止めた女性は呆れて言葉を返した。
「何言ってるんですか! ライエル様のお父様は、リャザンの将軍だったんですよ!」
「へえ…」
「ライエルさんが生まれる前に、亡くなったそうですけど…」
「……」
か細くなった女性の声を耳にして、ウォレンの瞳は遠くに映る、大きくあろうとする少年の背中を捉えるのだった――
「ご苦労様です! 王妃様から、パンの配給です!」
太陽が頂を過ぎた頃、トゥーラで唯一の都市城門を潜って数台の荷車がやってきた。
届けたのは近衛兵。声を出したのは、城内で働く数少ない女中たちである。
「ありがてえ」
「王妃様からだってよ!」
「美味しそう!」
「パン、中が白いよ?」
わぁっと歓声が上がると、人々が手を休めて群がった。
王妃が望まなくとも小麦が均質だったり焼き窯の性能には差があって、焼き上がったパンは上質なものとなる。
「並んで下さいね!」
「未だ、届く予定です。余ったら、持ち帰っても良いですよ!」
麻の頭巾を被った女中たちが、両手をメガホン代わりに、張り切って声を出す。
「あれ? 僕のパン、お星のマークがあるよ?」
突然に、一人の男の子が高い声を発した。
「あ、おめでとう。それ当たり。王妃様が作ったものよ」
「本当!?」
「当たりはお星さま。大当たりは、ハートみたいですよ」
リアの遊び心を女官が伝えると、皆がパンの底を見る。そしてまた、ところどころで歓声が上がった――
「王妃様って、どんな方なんです?」
石を積んで戻ってきたライエルに、民の一人が興味深そうに尋ねた。
「実は、お会いした事が無いのです。ただ…可愛らしい方だとは聞いていますよ」
「へえ、会ってみたいねえ…」
「そういえば、お忍びで城下へ出られるって話も聞いたことがあります。本当かどうかは、知りませんけど…」
「そうなのか? 放浪癖のある妃様じゃあ、ロイズ様も大変だな」
「くしゅん」
城内で小麦粉を丸めるリアがくしゃみをしたのは、そんな会話が交わされた頃だった――
一方で、一人の女官がライエルに届けたパンの底には、ハートの焼き印が施されていた――
留守を預かる事となった若き美将軍ライエルは、トゥーラを囲う都市城壁の補強と、新たなる防御壁の構築を国王より任されて、当初は不安を灯しながらも、数時間後には確かな達成感を宿していた――
「この石ですが、ここへ置いても良いですか?」
背筋を伸ばし、自らも荷車を牽いた上半身裸のライエルが、城壁作りに黙々と石を重ねる一人の民へと声を渡した。
「ああ、それなら、あっちがいいな」
「はい」
「え? ライエル様?」
簡素な麻の衣服を纏った中年の男が、声の主に驚いて両手を止めると、周りで作業をしていた者たちも、耳へと届いた将軍の名前に思わず動きが止まった。
「おかしいですか?」
肉体美を覗かせるライエルが、無垢に訊く。
「いえ、その…将軍様が石運びとは…」
恐縮を表しながら、中年の男が答えた。
「みんな働いているのに、言い出しっぺが動かない訳にはいかないでしょう」
「……」
やれ視察だなんだと足を運んでは、作業の停滞を生み出す役人ばかりを見てきた住人たちは、誠実な青年の姿に一層の信頼を重ねるのだった――
「おや、ライエル様。ご苦労だね」
「やあ、ウォレン」
日々の農作業に参加して、周知の間柄となった者も少なくない。
気軽に声を掛けてきた、ウォレンという青年もその一人だ。
美将軍より5つほど年上の、短い金髪に浅黒い肌をした、気さくな男であった――
「パン、どうだ?」
ウォレンは右手に持った手のひらサイズの丸パンを齧りながら、左手でもう一個を差し出した。
「ありがとうございます。駆り出してしまって、申し訳ありません」
「そんなのいいさ。普段ならこの時期は、ずっと畑仕事だ」
衛兵まで狩り出して行われた国策の農作業は、住民所有の畑から実施した。
先に恩を売り、後で返してもらうという意図ではあったが、小さな王妃が描く協力の連鎖は、良い塩梅に繋がっていた――
「しかし、なんだな…」
「なにか?」
一息を入れようと、日の当たる南側の都市城壁にぴたりと背中を預けてパンを齧ったライエルの隣で、腰を下ろしたウォレンが呟くと、若い将軍が反応を示した。
「お前さんと居ると、女どもの視線が凄いな…」
顔を上げると、防御壁造りに勤しむ住人の姿や表情が、視界に入ってくる。
そんな中、明らかに女性の視線がチラチラと、こちらの方、正確にはライエルに向けられているのが分かるのだ。
「そうですね…能率が悪くなるので、さっさと食べて、石でも拾ってきます」
「おいおい、寂しい事言うなよ。お前さんが居ると、普段俺たちが見ない女の表情が見れて、それはそれで嬉しいんだからよ」
整った顔立ちから放たれた不満の声に、なんとも悲しいセリフでウォレンが蓋をした。
ライエルの年齢は17歳。
将軍という身分でありながら、未だ成長途上の、鍛え上げた鋼のような肉体と整った顔立ちは、当然のように女性達の視線を浴びた。
その一方で、姿勢は正しく、カツカツと歩む姿には威風すら漂って、近寄りがたいと感じる者も多かった。
加えて将軍という立場となって日が浅く、国を想えば色恋にうつつを抜かしている暇などない。
必死で背伸びをする彼の立場を理解する故に、多くの女性たちにとっては応援の対象であり、高嶺の花、心を癒す象徴的な存在となっていたのだ――
「はあ…」
しかしながら、本人には全く自覚が無い。
制したウォレンに対しても、そうですかと気の抜けたような返事を返すのだった――
「あ、そういや聞いたぜ。この間、女を泣かしたそうじゃねえか」
「え?」
ライエルが腰を下ろすと、ウォレンが唐突に質問を飛ばした。
しかしながら、身に覚えは無いらしい。
「違うの?」
「いや…記憶に無いです…」
それは、数日前の昼下がり。
朝から続けていた農作業を一休み。日陰を求めた東側の城壁に、今と同じように真っ直ぐに背中を預けて時を過ごすライエルの姿があった――
疲れの上に眠さも降りてきて、さしもの若い身体も瞼が重くなっていた――
「あ、あの…ライエル様?」
そんなところへ、二十歳くらいであろうか、真新しいカーキ色の衣服で着飾った女性が近付いてきて、尋ねるような声を発した。
「ん…なんでしょう?」
不意に掛けられた女性の声に、重くなった瞼を開けて視線を上げると、ライエルが寝起きの声を返した。
「あ、あの…お疲れ様です。それでこれ…宜しかったら、召し上がって下さい」
薫風に波打つ金色の髪に大きな麦わら帽子を載せた女性は、頬を赤らめて視線を下げると、持ち手を強く両手で握って、小さな白い花弁が添えられた網籠をライエルへと差し出した。
籠の中からは、切り揃えられた白いパンやチーズがいくつか覗いている――
肩甲骨が隠れるまでに伸ばされた金髪の背後には、幾多の女性の好奇な視線が注がれていた――
「いや…すみません」
瞳に光を宿したライエルは、遠くからの視線を気にすることもなく、いや、そんな視線には気付くこともなく、静かに口を開いた。
「私だけが、そういった物を受け取る訳にはいかないのです。私は、他の方と同じように、従事しているだけですので…」
ハッキリと迷惑ですとは言わずとも、彼は冷めた空気を戻した。
あなたよりも若年の私に、小言を言わせるなと言いたげに――
「あ…」
「……」
「そうですよね…」
固辞される事態は想定しても、嫌悪に及ぶとは思わなかった。
耳に届いた理由は真っ当で、女性は顔を真っ赤にして俯いた。
「綺麗な手ですね…」
続いてライエルは、籠の持ち手を握る両手に気を取られると、思ったままを口にした。
「あ、はい…」
乳白色の華奢な両の手は、大事に育てられてきた証である。
気恥ずかしくなった金髪の女性は網籠の持ち手から右手を離すと、そっと左手の甲を隠すようにした。
「お手を汚してしまいますが…今は、皆と一緒に働いて欲しいです…」
「あ…」
真っ直ぐに訴えたライエルの言葉に対して、金髪の女性は短い声を出したきり、いたたまれなくなってその場から走り去っていった――
「…私が、悪いのですか?」
悪気はない。
彼にしてみれば、思ったままを発しただけである――
加えるなら、発した内容は概ね正しい。
「いや、悪くないけどよ。なんつーか、言い方ってのがあるだろ?」
ライエルの発言に、ウォレンが呆れたように返した。
「…どう言えば、良かったのでしょうか?」
皆目見当がつかないといった趣で、ライエルが真面目な表情になって教えを請うた。
「いや…相手も公衆の面前で、勇気を持って来てくれた訳だろ? 『ありがとうございます。ありがたく頂きます。美味しそうですね。私だけ食べるのも悪いので、他の方にも御裾分けして宜しいでしょうか?』 くらいは言ってやれよ」
背筋をピッと伸ばして、ウォレンはライエルの仕草、物言いを真似てみた。
「…似てませんね」
「似てるよ!」
ウォレンにしてみれば会心の演技である。真顔で否定されたので、し返した。
「しっかしまあ…それが却って、お前さんの株を上げるんだからなあ…」
「はあ…」
当人には全く自覚が無い。
独身女性のみならず、既婚者であっても旦那とは別の枠。
そんな好感度一位の男が、抜け駆けしようとした女を一蹴した武勇伝は、女性の間であっという間に拡がって、更に好感度を上げたのだ。
「次は、ウォレンさんの意見を参考にします…」
「次が、あればな」
自らハードルを上げた現在の状況で、言い寄って来る女が居るだろうか。
ライエルの発言に、ウォレンは心底呆れた声を吐き出した――
「で? 実際はどうなの?」
「は?」
「良い娘はいるの?」
「いや、居ませんよ…」
ウォレンが深入りして尋ねるも、浮いた話は出なかった。
心なしか、周囲の女性達の表情が明るくなった気がした――
「そうかぁ。勿体ないな」
「そうですかね…」
羨んだ発言にも、反応は薄かった。
「まあ、釣り合いってのもあるからな。仮にも将軍の相手ともなれば、そこらの女じゃ務まらんだろ」
「釣り合い…ですか?」
条件なんてものは特に無いけども、誰でも良いというわけではない。
近しい存在の異性がいても良いとは思うが、求めている訳ではない――
「理想とか、気になるとか、そんな人、ほんとにいないの?」
正面だけでなく、いつの間にか城壁の裏側で聞き耳を立てている女性達からも、もっと訊けという無言の圧力が掛かっていた。
早々に話を打ち切ったなら、今後の生活に影響が出るに違いない――
仕方なく、ウォレンは重ねて質問を投げ掛けた。
「気になる……」
「ん? 誰かいるの?」
遠い目をしたライエルを察知して、安堵を含んだウォレンが詰め寄ると、同時に周囲の雑音も消え失せた。
「王妃様ですかね。お会いしたことが無いので…」
「おいおい…そういう事じゃねえよ」
周囲に注ぐ落胆の空気と一緒になって、ウォレンはガクッと肩を落として、心底あきれた声を吐き出した。
「気になりませんか? 国王様が選んだお方ですよ?」
今度はライエルが、無邪気なままに問い掛けた。
「いや…そりゃあ気にはなるけどさ…気にしたってしょうがないだろう?」
「まあ…そうですよね」
ウォレンの発言に、ライエルは少し陰った表情を浮かべた。
将軍という身分でありながら、彼は若年であるが故、政治的な場面に顔を出す機会が殆どなかったのだ。
「俺らはまだしも、お前さんは城内で会う事もあるんじゃないのか?」
心を沈めたライエルに、ウォレンは励ますように口を開いた。
「そうですね…」
単純に、会ってみたいというだけの話である。
今まで気にしたことは無かったが、彼の心中で、この日を境に王妃という存在が意識された事だけは確かであった――
「昼前に、もう一往復してきます」
十分に休んだ。
ライエルは臀部に付着した砂を払いながら立ち上がると、パンの最後の一片を口に咥えて、マメだらけの大きな手のひらで荷車の取っ手を掴んだ。
「なあ…」
「はい?」
青い空を背景に、荷車を手にしたライエルの真っ直ぐな背中に向かってウォレンが声を発した。
「おまえ、無理してないか?」
「……」
少年の面影が残る顔立ちと、大人びた言動や立ち振る舞いは歪に映る――
「そうですね…」
ウォレンの発言に、ライエルは少し遠くを見やるような瞳となって、呟いた。
「カッコよくあれ」
「……」
「父から、教わった言葉ですので」
「……」
それだけを伝えると、真っ直ぐな背中のままでライエルは一歩を進めた――
「なあ、教えて欲しいんだけど…」
「はい?」
立ち上がったウォレンはレンガ造りに励む、先ほど興味津々といった感じでライエルの発言に耳を立てていた、一人の女性に疑問をぶつけた。
「ライエルは、将軍だろ? 親父さんは、リャザンに居るのか?」
「……」
届いた質問に、手を止めた女性は呆れて言葉を返した。
「何言ってるんですか! ライエル様のお父様は、リャザンの将軍だったんですよ!」
「へえ…」
「ライエルさんが生まれる前に、亡くなったそうですけど…」
「……」
か細くなった女性の声を耳にして、ウォレンの瞳は遠くに映る、大きくあろうとする少年の背中を捉えるのだった――
「ご苦労様です! 王妃様から、パンの配給です!」
太陽が頂を過ぎた頃、トゥーラで唯一の都市城門を潜って数台の荷車がやってきた。
届けたのは近衛兵。声を出したのは、城内で働く数少ない女中たちである。
「ありがてえ」
「王妃様からだってよ!」
「美味しそう!」
「パン、中が白いよ?」
わぁっと歓声が上がると、人々が手を休めて群がった。
王妃が望まなくとも小麦が均質だったり焼き窯の性能には差があって、焼き上がったパンは上質なものとなる。
「並んで下さいね!」
「未だ、届く予定です。余ったら、持ち帰っても良いですよ!」
麻の頭巾を被った女中たちが、両手をメガホン代わりに、張り切って声を出す。
「あれ? 僕のパン、お星のマークがあるよ?」
突然に、一人の男の子が高い声を発した。
「あ、おめでとう。それ当たり。王妃様が作ったものよ」
「本当!?」
「当たりはお星さま。大当たりは、ハートみたいですよ」
リアの遊び心を女官が伝えると、皆がパンの底を見る。そしてまた、ところどころで歓声が上がった――
「王妃様って、どんな方なんです?」
石を積んで戻ってきたライエルに、民の一人が興味深そうに尋ねた。
「実は、お会いした事が無いのです。ただ…可愛らしい方だとは聞いていますよ」
「へえ、会ってみたいねえ…」
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「そうなのか? 放浪癖のある妃様じゃあ、ロイズ様も大変だな」
「くしゅん」
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一方で、一人の女官がライエルに届けたパンの底には、ハートの焼き印が施されていた――
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bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
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