春風の香

梅川 ノン

文字の大きさ
24 / 54
8章 留学

しおりを挟む
 その後、彰久は留学に向けて勉強に打ち込んだ。元来首席の彰久だから、その学力はアメリカでも十分に通用する水準にまで上がった。英語力も上がり、アメリカ人と対等に学べるほどになっていた。
 留学経験のある高久から見ても大丈夫だと思われた。高久は、自分の経験からも、これがアルファの底力だと思えた。
 運命のオメガに出会ったアルファは強い。運命のオメガを自分の者にするため、全力を上げるからだ。決して逃さないと思うと、人は強くなる。
 やはり、彰久の運命は蒼なのだろう。彰久が帰国するまでの八年、己が蒼を守ってやらねばならない。雪哉も無論、その気持ちだが、いざという時は、やはりアルファの力がものを言う。
 これは、息子に対する親心だなと高久は、少々苦笑するような思いを持った。彰久は初めて授かった我が子だ。可愛くないはずはなかった。

「母さん、僕の出発する日のこと、あお君に伝えた?」
「ああ、時間もちゃんと伝えた」
「来てくれるって?」
「それはどうかな、はっきり来るとは言わなかった」
 留学することを伝えてから一度も会っていない。もう半年近く経つ。彰久は会いたい思いを抑えて、勉強に打ち込んできた。しかし、日本を出発する時は会いたい。最後にもう一度『行ってきます。待ってて』と伝えたい。
 蒼は来てくれるだろうか……来てくれることを信じよう、彰久はそう思った。

 蒼は、雪哉から彰久の出発時刻を聞かされた時、来るべき時がきたとの思いだった。同じ日本の東京にいてもめったに会わない。しかし、アメリカになると、その距離は絶望的に遠い。同じ大地に立ってもいない。空気も違う。体を、心を引き裂かれるような気持ちになる。
 気持ちよく送り出してあげないとならない。それが、自分の務め。彰久にとって留学は益になる。それは、高久を見ても明らか。
 彰久は、待っててと言ってくれた。その気持ちだけで十分だ。自分は待っている。他の人を求める気持ちはない。彰久が帰国するまで一人でいる。否、それ以降も自分は一人。
 帰国した時彰久は、二十六歳、花の盛りだ。その時、自分は三十八歳。とても釣り合うとは思えない。きっと彰久には年相応の相応しい人が現れる。それが彰久にとっての最善、幸せ。それを、自分が邪魔をしてはいけない。
 大恩ある方のお子様というだけでなく、彰久は自分の最愛の人。自分の幸せより、彰久の幸せ。
 有り難いことに、雪哉はじめ北畠家の人達は自分を家族のように接してくれる。その行為に甘えて、兄のような立ち位置で彰久の幸せを見守っていければいい。それで満足するべきなんだ。
 庶子の生まれで親兄弟から見放された自分を、兄のように思ってもらえるだけでもありがたいことなんだ。

 蒼は悩んだ。当日の朝になっても決めかねていた。彰久の出発の見送り行くかどうかを……。八年何があっても会えないことを思えば、行きたいのが本音。しかし、冷静に見送ることが出来るか自信がない。そうなれば、他の家族の迷惑にもなる。北畠家の人達にとって、彰久は愛する子供であり、慕う兄なのだ。その彰久との別れは家族にとっても淋しいもの。それを自分が邪魔をしてはいけない。
 結局蒼は、直接の見送りはしないと決めた。断腸の思いの中での決断ではあった。

「母さん、あお君来てくれないのかな」
「ああ、忙しいんだよ」
「って、いつも母さんそればっかりだけど、母さんがこき使うからだろ! ブラック病院だよ!」
「人聞きの悪いことを言うな。彼が忙しいのは、医師や看護師には頼りにされて、患者からは慕われているからだ。つまり、優秀な医者だからだ」
「お兄ちゃん、あお君のことばっかり」
「当たり前だ。あお君は僕の一番大切な人だからな」
「でも、あお君はみんなのものだよ。ねえママ」
「そうだな、みんなの大切な家族だ」
 違う! 僕だけの大切な人だと言いたかったが、今はまだ自分だけのものではない、悔しいけれど。だが、八年頑張って必ず自分だけの人にする。
「彰久、そろそろ搭乗手続きだ。ボストンではハワード博士が迎えに来て下さるからな。博士は世話好きな人柄だから、心配いらない。私からもよろしくと伝えてくれ」
「うん、分かったよ。父さんのおかげで色々心強い、ありがとう」
「ああ、お前も慣れない土地で大変だろうが、頑張るんだよ」
「彰久、体にはくれぐれも気を付けるんだよ。母さん心配だから、たまには近況を知らせなさい」
「兄さん元気で頑張れよ」
「お兄ちゃん元気で頑張ってね」
 皆がそれぞれ、彰久に声を掛ける。すると、彰久がぴくっと反応したかと思うと、そのまま脱兎のごとく走り出す。
「あっ! あっ、彰久~」
 彰久は走った! 間違いない! この香りは!
「あっ、あお君!」
「あっ、あき君……」
「あお君来てくれたんだ! 良かった! 嬉しいよ、これでアメリカに行ける」
 彰久は、蒼の手を握る。その手は温かく、彰久の気持ちも伝わってくるようだ。
 蒼は、密やかに見送ろうと空港まで来た。姿は見なくても、彰久の乗った飛行機が飛び立つのを見送りたかった。それを、区切りに明日から生きていこう、そう思ったのだ。まさか、見つかるとは思わなかった。
「あき君ごめんね、先生たちとお別れしてたんだろ」
「うん、大丈夫。皆とはさっきちゃんと別れの挨拶はしたから。だから、あお君ともちゃんと言葉を交わしたかった。良かったよ会えて。八年だけど、待ってて。必ず八年で帰ってくるから、待っててね」
 蒼は頷いた。その瞳には涙が溢れそうになっている。彰久は、抱きしめて涙を吸い取ってやりたい衝動に駆られる。
「彰久! 搭乗手続きだ!」
 高久と尚久が駆けてきた。後から、雪哉と結惟も付いてきた。皆息を切らしている。
「もう……はあっ、いきなり走り出すから、はあっ……」
「急ぎなさい、間に合わなくなる」
 彰久は搭乗口に向かって走り出す。後をまた皆が付いて行く。雪哉は蒼の背に手をやり、一緒に付いて行く。搭乗口の前で彰久は止まり振り返った。皆を認めると、大きく頷いた。そして大きく手を振った。
「じゃあ行ってくる。みんな元気で!」
 中へ入っていく彰久を、皆で手を振って見送った。
「お兄ちゃんの飛行機見送りたい」
「ああ、そうしよう」
 皆で展望デッキへ行き、彰久の乗る飛行機が飛び立つまで見送った。高久、雪哉、尚久は黙って手を振った。結惟だけは「お兄ちゃん、バイバイ~」と言いながら手を振った。
 蒼は、涙を堪えるのが精一杯だった。空に吸い込まれるように、彰久の乗った飛行機は飛び立っていく。三月、風は冷たくとも、春の気配を漸く感じられる時だった。

「蒼君、来てくれてありがとう。彰久も嬉しかったと思う。安心して行けたと思うよ」
「すみません、ご家族でのお別れを邪魔してしまったようで」
「何言ってるんだよ、君は家族も同然っていつも言ってるだろ」
 雪哉が蒼の肩を抱き寄せた。蒼は、もう駄目だった。堪えていた涙が溢れだす。そんな蒼の肩を、雪哉は包み込むように抱きしめた。
「す……すみません……」
 いいんだよ、分かってるよと言うように、蒼の背をあやすように撫でる。蒼の華奢な体は、暫くの間、泣きながら震えた。
 高久、尚久と結惟も蒼を優しく見守った。この場にいる全てが、結惟までもが、蒼を守ってやらねばと思った。声を抑えて静かに泣くこの人を守らねばと思った。
「蒼君、家まで一緒においで」
「いや、僕はこれで……ほんとに今日はすみませんでした」
「いいからおいで、花桃がきれいに咲いている。君が好きな花だったよな、見においで。車で来たんだろう、僕が一緒に乗っていく」
 すると結惟が「じゃあ結惟もあお君の車に乗る」と言い、尚久もそれに続いた。
「やれやれ、結局私一人か、蒼君は相変わらず我が家で一番の人気者だな」
「うん、みんなのあお君だからね」
 結惟は駐車場まで蒼の手を握って歩いて行く。反対側を雪哉が歩く。皆で蒼を守って行くように進む。
 蒼は進みながら、北畠家の人達の温かさに感謝した。一人あの場で飛行機を見送ったら、あの場で崩れ落ちて立てなかったかもしれない。雪哉は多分そんな蒼を察して、誘ってくれたのだろう。その優しが身に沁みる。

 家に着くと、中へ入る前に雪哉は蒼を庭に誘った。庭には花桃が、可憐な花を咲かせていた。
「今年もきれいに咲いているな。彰久も嬉しそうにしてた。君が出て行ってからは彰久が世話してたからな。帰ってくるまで、毎年咲かせてやらないとな」
「そうですね……」
「この花が咲くと春を感じる。春は出会いの季節でもあるけど、別れの季節でもある。今年は、別れの季節になったな。でも、帰ってくる時は出会いの、再会の季節になるな。それまで保ってやらないとな、向こうで一人頑張る息子のためにね」
「そうですね、あき君が帰ってきた時咲いていたら嬉しいでしょうから」
「ああ、君も一緒に眺めて欲しいね」
 僕も一緒に……そうだ、兄としてだ。兄として彰久が帰って来た時、この花を眺められたらいい。

しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

カミサンオメガは番運がなさすぎる

ミミナガ
BL
 医療の進歩により番関係を解消できるようになってから番解消回数により「噛み1(カミイチ)」「噛み2(カミニ)」と言われるようになった。  「噛み3(カミサン)」の経歴を持つオメガの満(みつる)は人生に疲れていた。  ある日、ふらりと迷い込んだ古びた神社で不思議な体験をすることとなった。 ※オメガバースの基本設定の説明は特に入れていません。

僕を惑わせるのは素直な君

秋元智也
BL
父と妹、そして兄の家族3人で暮らして来た。 なんの不自由もない。 5年前に病気で母親を亡くしてから家事一切は兄の歩夢が 全てやって居た。 そこへいきなり父親からも唐突なカミングアウト。 「俺、再婚しようと思うんだけど……」 この言葉に驚きと迷い、そして一縷の不安が過ぎる。 だが、好きになってしまったになら仕方がない。 反対する事なく母親になる人と会う事に……。 そこには兄になる青年がついていて…。 いきなりの兄の存在に戸惑いながらも興味もあった。 だが、兄の心の声がどうにもおかしくて。 自然と聞こえて来てしまう本音に戸惑うながら惹かれて いってしまうが……。 それは兄弟で、そして家族で……同性な訳で……。 何もかも不幸にする恋愛などお互い苦しみしかなく……。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

婚約破棄を望みます

みけねこ
BL
幼い頃出会った彼の『婚約者』には姉上がなるはずだったのに。もう諸々と隠せません。

愛させてよΩ様

ななな
BL
帝国の王子[α]×公爵家の長男[Ω] この国の貴族は大体がαかΩ。 商人上がりの貴族はβもいるけど。 でも、αばかりじゃ優秀なαが産まれることはない。 だから、Ωだけの一族が一定数いる。 僕はαの両親の元に生まれ、αだと信じてやまなかったのにΩだった。 長男なのに家を継げないから婿入りしないといけないんだけど、公爵家にΩが生まれること自体滅多にない。 しかも、僕の一家はこの国の三大公爵家。 王族は現在αしかいないため、身分が一番高いΩは僕ということになる。 つまり、自動的に王族の王太子殿下の婚約者になってしまうのだ...。

【完結】言えない言葉

未希かずは(Miki)
BL
 双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。  同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。  ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。  兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。  すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。 第1回青春BLカップ参加作品です。 1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。 2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)

【完結】浮薄な文官は嘘をつく

七咲陸
BL
『薄幸文官志望は嘘をつく』 続編。 イヴ=スタームは王立騎士団の経理部の文官であった。 父に「スターム家再興のため、カシミール=グランティーノに近づき、篭絡し、金を引き出せ」と命令を受ける。 イヴはスターム家特有の治癒の力を使って、頭痛に悩んでいたカシミールに近づくことに成功してしまう。 カシミールに、「どうして俺の治癒をするのか教えてくれ」と言われ、焦ったイヴは『カシミールを好きだから』と嘘をついてしまった。 そう、これは─── 浮薄で、浅はかな文官が、嘘をついたせいで全てを失った物語。 □『薄幸文官志望は嘘をつく』を読まなくても出来る限り大丈夫なようにしています。 □全17話

ジャスミン茶は、君のかおり

霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。 大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。 裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。 困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。 その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。

処理中です...