愛するということ

緒方宗谷

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50.病院

5.思い出のビーフシチュー

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 自然の音だけが聞こえる。人工的な喧騒から切り離された病室で、有紀子は眠りから目覚めない陸を見つめていた。
 貝のように固く閉ざされて、もう2度と開くことのないかのように見えていたまぶたは、心なしか今にも開いて自分を見つめ返してくれる、と思えるようになった。薄らとではあるものの頬にも赤みがある。もともとあったはずだが、有紀子はようやく気が付くことが出来た。
 微かに陸の顎が上がる。有紀子はびっくりしてベッドにイスを引き寄せて座り直す。目を瞪った。陸の手をしっかりと握りしめて囁くように、「陸君、陸君」と声をかけた。
 ゆっくりと長いまつ毛の奥に黒真珠のような黒目が見えてきた。
 有紀子は息をするのも忘れて、瞬きもせずにその様子を見つめ続けた。何も分からない様子の陸は、宙を見やってまた瞳を閉じた。そしてまた瞳を開けて、ゆっくりと有紀子を見た。
 有紀子は生まれたばかりの我が子を慈しむように微笑みかけた。じんわりと涙が溢れる。そして、名残惜しみながら握っていた手を緩め、ナースコールを押そうとゆっくりと手を伸ばす。
 その手を優しくふんわりと取って、陸が静かに言った。
「有紀……ちゃん?」
「!⁉ 記憶が戻ったの?」
「イテテテテ、僕どうしたんだっけ?」
 陸は、全く別人の姿となった有紀子を見る。それでもなお即座に有紀子だと分かった。面影があるとはいえ、7歳の姿しか知らないのに。
「有紀ちゃん、おはよう」
 にっこりと陸が笑った。
 有紀子の瞳に止めどなく涙が溢れる。一滴の涙が頬を伝うというレベルではない。滝の様に涙が頬を流れ落ちる。目がジンジンして瞼を開けていられない。
「どうしたの、有紀ちゃん? あはは、そんなに泣いて可笑しいよ」
 陸は起き上がって、病室をキョロキョロ見渡した。
「ここどこだろう? でもいいや、有紀ちゃん遊びに行こうよ」
 有紀子の目の前には、ライムを搾ったサイダーの炭酸の泡の様に、弾けて飛んでいってしまいそうな子供がいた。
 お姉ちゃんみたいな気分で有紀子は笑う。
「そうだね、でも、もう少し静かにしていて。もうすぐお母さんが来るから」
 7歳の有紀子の姿しか知らない陸であったが、18歳の有紀子を目の当たりにしても特別疑問を持たなかった。自分の体が大きいことにもだ。有紀子に促されて横になった陸は、笑って言った。
「お腹すいた」
「うん、そうだね、今日は陸君の好きなものなんでも作ってあげるよ」
「本当? じゃあ、ビーフシチューがいいな」
 陸は有紀子の指を強く握りしめて、そう言った。

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