愛するということ

緒方宗谷

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51.時空

3.喪失

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 「聞いた? 上条先輩、記憶喪失だったんだって」
 教室の席に座るなり振り向いたひかるが、後ろの席の知恵に言った。
「うん聞いた。記憶戻ったって」
 10月に入ってようやく陸が登校したって聞いた知恵は、真っ先に3年の教室に行った。陸に「退院おめでとう」と言って抱き付くつもりで走って行ったのに、出来なかった。廊下から見た教室の陸は、何か遠くの存在になったかのようだった。
 前と同じだ。前と同じように、有紀子と加奈子のオーラが陸を取り巻いていて、陸に想いを寄せる女子は近寄り難くなっていた。
 結局知恵は、チャイムが鳴るまで廊下の外で陸の元気な姿を見つめて帰っていった。
 陸を知る生徒達の間に、交通事故のことや有紀子と幼馴染みであったこと、子供ながらに婚約していたことなどの情報が洪水のように押し寄せ溢れかえっていた。
 人知れず陸の記憶を取り戻そうとしていた有紀子と加奈子は、なぜか英雄視されている。知恵は物悲しくその話を聞いていた。
(バカじゃないのみんな。思い出したってことは、みんなのこと忘れたってことじゃん)
 記憶の有無を確認したわけではないが、陸が自分のところにやってこない現実が、記憶を失った何よりの証拠だと知恵は思った。
(あいつらが、私のこと知らせないようにしてるんだ。私のことを忘れたのをいいことに、このままなかったことにしようっていうんでしょ!)
 苦虫を噛み潰したかのような顔で、前の席に座るひかるの背中を睨みつける。
(何が「記憶が戻ってよかったね」だよ、3年のやつら。10歳だよ? 記憶喪失になったの。8年分失ってんじゃん。そもそも0歳から10歳までの記憶ってどんだけあんの? あっても5、6歳からだろうし、内容だって大したものじゃないでしょ? どんだけ価値があるっていうのよ)
 噂は2年や1年の教室まで広がり、女子達は色めき立っていた。もともと陸も加奈子も後輩に人気がある(特に加奈子)。流されやすいお年頃の女子達は、自分達が醸し出す雰囲気に自ら中てられて、2人に憧れをいだく子達が続出した。
 なんせ、10年もの間一途に想いを寄せるお姫様(有紀子)とその騎士(加奈子)が、記憶を失った王子様(陸)の記憶を甦らせよう、と人知れず努力していたのだ。記憶がないままにも関わらず、襲われた姫を助けるために王子様は命がけで戦って、勇者様となったのだ。そして、傷つき倒れた王子様(陸)のために、お姫様(有紀子)とその騎士(加奈子)が懸命にお世話をしたのだ。
 何てロマンチックなのだろう。みんな映画の様なラブロマンスを想像しないではいられなかった。
 知恵は、今の状況を心臓が握りつぶされる思いで見ていた。眉間にしわを寄せて閉じた唇の、右端を突っ張らせて、人知れず歯噛みしていた。自分のことよりも陸のことが可哀想でならない。沸々と湧く有紀子への怒りと共に、消えた陸のために激しく慟哭した。毎晩のように。
(陸君が、陸君が死んじゃった……、死んじゃったよう……)
 愛する人を失った悲しみから、知恵は絶望のどん底へと落ちていった。今正に別人の陸が作られている。恋人同士だった2人の思い出を完全に抹殺して。
 里美は知恵を憐れんでいたし、有紀子も知恵に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だが、2人が想像していたよりもはるかに知恵は傷ついていた。
 知恵は陸を取り巻く環境を見るのが嫌で、しばらくの間学校を休んだ。

    
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