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Lesson 9 この距離、なくしてもいい?
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「集中力ないな」
葵の授業が始まって1時間が経過したころ、突然解きかけの問題集を葵に閉じられた。
「ちょ……まだ途中だし!」
「むだでしょ?」
と葵は大きくため息をついて、ふんぞり返るように座りなおした。
「ムダって……人が一生懸命やってんのに!」
「ムダだよ。いくらやっても今のヒナじゃそれ、解けないよ」
目だけは睨むみたいにこっちを向けた葵が冷めたコーヒーを口にした。
「こりゃ、あれだな。『ご褒美がないとがんばれない』ってパターンだな」
コーヒーをコトンと机の上に置くと、葵は考え込むように腕組みをした。
――『ご褒美がないとがんばれない』って私は馬かなにかなの?
唇を噛んで、閉じられた問題集を睨みつける。
難しい問題じゃないことはわかる。
でも、真っすぐに一つひとつの問題に向き合えない。
葵といるとどうしてもしぐさや姿に意識がとられてしまう。
バカげているってわかっていても、どうにもならないのだ。
頭のどこかで私は期待しているのだ。
ふたりっきりの空間、時間。
その状況が私の意識を狂わせる。
ふうっと葵の大きなため息が聞こえた直後だった。
不意に腕を掴まれて引っ張られる。
椅子から立ち上がった葵が私の腕を持ちながら、見下ろしていた。
怖い顔。
怒っているみたいで直視できない。
たかが勉強なんだから、学校の成績が多少悪くたって別にいいじゃない。
全部私に降りかかってくることで葵には関係ないことだもの。
しっかり教えてくれたけど、私が単にできなかったんだと説明すれば片付くはずなのに、なんでこんなテストごときにこだわるんだろう?
勉強ってそんなにやらなくちゃいけないこと?
勉強ってそんなにがんばらなくちゃいけないこと?
「ちょっと出よう」
肩を落とした葵はそう言って私の腕から手を離した。
見上げた顔は穏やかなものへ変わっていた。
「ね?」
念を押すみたいに笑う。
怒っているみたいだったのに、どうしてすぐに変われるんだろう?
それは葵が私と違うから。
私みたいに子供じゃないから。
大人な葵と子供な私。
立場の違いに歯がゆさだけが増す気がした。
「行こう」
差し伸べられる手に、その誘いに、うなずも拒否もできなかった。
葵は石みたいに固まったままの私の手を取って、そのまま部屋を出て行く。
やんわりとしたぬくもりに満ちた手に引かれて、黙ったまま階段を下りる。
どこに行くのかも、なにをしに出掛けるのかも葵は言わない。
だから私も聞けなかった。
でも握ったその手は優しくて、黙ったままの葵の背中を見つめた。
靴を履くときも。鍵を閉めるときも、葵はただ私の隣に立って見ているだけだった。
繋いだ手は離されることなく、私はまるで小さな子供みたいに葵に手を引かれ、彼の足の向くままに歩いていた。
「不安?」
不意にそんな言葉を投げられて、私は思わず頭を上げた。
見つめる先で葵の視線とぶつかる。
瞬間、首を左右に振っていた。
「すなおじゃないねえ、ヒナは」
そう言って葵は立ちどまる。
「目的地到着~!」
「え?」
葵の言う目的地に私は目を丸くする。
どこへ向かっていたかと思ったら……近所の公園だった。
土曜の公園ということもあって、公園内は子供と保護者だらけだ。
子供たちを自由に遊ばせながら、ベンチに座って話に花を咲かせている。
「なにするの?」
「昼間の公園ですることなんて一つしかないでしょ?」
昼間の公園ですることがまったく思い浮かばなくて質問する私ににやりと葵は笑ってみせた。
それから私の手を力強く引っ張って走り出す。
「ちょ……葵!」
ひとつしかないことってなに?
昼間の公園ですることってなに?
「ヒナ、しっかり走らないとブランコ乗れなくなる!」
ひとつだけ空いているブランコを指差して葵が笑った。
待って。
ブランコ?
もしかして、やることってブランコ?
6つあるうちの5つは小学生の女の子たちが立ちこぎしたり、靴投げしたりして遊んでいる。
その横に乗って一緒に遊ぶ気……なのだろうか?
――ちょっと待って! 私は高2だし。葵は……大人だし。小学生に混ざってブランコって頭おかしいって思われちゃうよ!
だけど葵はそんな輪に入ることに対してなんの抵抗もないらしく、驚いたように視線を向ける小学女子たちに向かってにっこりほほ笑みながら「借りるね」なんて、軽く言ってみせたのだ。
葵の笑みに小学生たちはクスッと小さく笑いながら「どうぞー」と返す。
「はい、座って」
「私が座るの?」
「そう、『私』が『座る』の」
にっこりと悪魔はほほ笑む。
この目に、この顔に、この笑顔にどうやっても、どうあっても、どうがんばっても逆らえない自分がいる。
大きなため息とともにしぶしぶ座る。
隣からはクスクスと笑う声さえ聞こえる。
私の背のほうに葵は立って、ブランコを大きく後ろに持ち上げた。
「ちゃんと捕まってろよ!」
そう言って葵の手がブランコのチェーンから離れると、私の体が前へと揺れる。
「それっ!」
戻る私の背を葵の大きな手が押し出す。
「しっかり漕げっ!」
声大きいし、恥ずかしいし。
「いいからやってみろ。『俺を信じて』」
最後の一言は私の心の声まで一瞬で黙らせて操ってしまう『魔法の言葉』。
そんなことを言われたらやるしかなくなって、葵の押しだすリズムとブランコの揺れ具合に合わせながら足を前へ後ろへと漕いでみる。
「いい調子!」
――ブランコで褒められる高2ってどうよ?
葵の勢いを貰ってさらに勢いづくブランコにいつの間にか私は夢中になっていた。
漕ぐ足がまっすぐ前に向けば空が近くなり、後ろに足を引っ込めれば、そこには優しくほほ笑む葵がいて。
なんだかそれが妙に嬉しくて、楽しくて――周りの目も、勉強も、葵の態度もなにもかもがなんかどうでもよくなっていた。
ただ撫でる風に、澄みきった青い空に、揺れるブランコに身をゆだねて笑い声をあげる私。
こんなに笑ってるのはいつぶりなんだろう?
最近はため息ばっかりだった。
悩んで、悩んで、悩んで、イライラばかりしていた。
いつも頭の中をいろんなことがグルグルしていて、すっきりなんてしなかった。
なのに……今はこんなにも楽しくて、清々しい。
どれくらい乗っていたのか。
ブランコを充分楽しんだ私は漕ぐのをやめた。
ゆっくりとブランコから勢いがなくなっていく。
遠くなる空。
近くなる葵。
足をつき、ブランコをとめる私の手にそっと大きな手が重なった。
見上げた空と私の顔の間に葵の顔がある。
長いまつ毛だなっていつも思う。
「お帰り」
にっこりとほほ笑んで葵は言った。
――なんで『お帰り』なの?
なんか『迎えに来た』お兄ちゃんみたい。
でも懐かしいかんじだ。
そういえば私がまだ小さいころ、こうやってここの公園で遊んでもらった気がする。
ブランコに乗って、まだ上手く漕げない私の背中を葵がさっきみたいに押してくれた。
遠い記憶。
あのころとなにひとつ変わらない笑顔がそこにある。
安心する。
――変わったのは誰なんだろう?
変わったのは私だけ……なんだろうか?
「あの……ブランコいいですか?」
遠慮がちにそう言われ、私も葵も声の掛けられたほうに顔を向けた。
幼稚園くらいかなと思える女の子が、お母さんの影に隠れるように恥ずかしそうにこちらを見ていた。
「どうぞ」
そうにっこりと笑った葵は私の手を引いてブランコを離れ、空いているベンチへ誘った。
先に葵が座り、『ここどうぞ』と言わんばかりにトントンと空いている隣を指定される。
周りをキョロキョロ見まわした後、私は葵の隣に間隔をあけて座る。
「誰かに見られたらまずい?」
そんなふうに声を掛けられて葵を見る。
淋しそうに笑う葵に、いつもと違う意味でドキドキする。
見られたらまずい相手がいるかと言えば……いるけれど。
「この間の子かなあ?」
クスッと笑う葵に、私は答えられなかった。
松永に見られて、どう思われても別に構わないけど。
でも……葵とふたりでいるこの時間を他の誰かに見つかりたくなかった。
ふたりだけの時間でいたい。
共有していたい。
なんとなくだけど。
「30cm」
「え?」
「だから30cm。ヒナと俺の今の距離」
そう言って葵は私たちの間にある空間を指した。
「ねえ、陽菜子」
弾かれたように顔を上げる私の顔のすぐ傍に葵の顔がある。
「この距離……なくしてもいい?」
ゆっくり近づいてくる葵にまた私は惹きつけられる。
長いまつ毛だと思って見てしまった。
そんな私の頬に形のいい爪を乗せた長い指が触れて、そっと包み込む。
甘いけれど、強い強い香り。
それから逃れられない私は『蝶』。
引き寄せる強烈な香りを放つ葵は『花』。
ゆっくりと落ちてくる葵の唇が私の唇をやんわりと塞ぐ。
昼間の公園のベンチで人の視線すら忘れてしまう甘いキスに、私はもう拒む言葉も力も失っていた。
葵の授業が始まって1時間が経過したころ、突然解きかけの問題集を葵に閉じられた。
「ちょ……まだ途中だし!」
「むだでしょ?」
と葵は大きくため息をついて、ふんぞり返るように座りなおした。
「ムダって……人が一生懸命やってんのに!」
「ムダだよ。いくらやっても今のヒナじゃそれ、解けないよ」
目だけは睨むみたいにこっちを向けた葵が冷めたコーヒーを口にした。
「こりゃ、あれだな。『ご褒美がないとがんばれない』ってパターンだな」
コーヒーをコトンと机の上に置くと、葵は考え込むように腕組みをした。
――『ご褒美がないとがんばれない』って私は馬かなにかなの?
唇を噛んで、閉じられた問題集を睨みつける。
難しい問題じゃないことはわかる。
でも、真っすぐに一つひとつの問題に向き合えない。
葵といるとどうしてもしぐさや姿に意識がとられてしまう。
バカげているってわかっていても、どうにもならないのだ。
頭のどこかで私は期待しているのだ。
ふたりっきりの空間、時間。
その状況が私の意識を狂わせる。
ふうっと葵の大きなため息が聞こえた直後だった。
不意に腕を掴まれて引っ張られる。
椅子から立ち上がった葵が私の腕を持ちながら、見下ろしていた。
怖い顔。
怒っているみたいで直視できない。
たかが勉強なんだから、学校の成績が多少悪くたって別にいいじゃない。
全部私に降りかかってくることで葵には関係ないことだもの。
しっかり教えてくれたけど、私が単にできなかったんだと説明すれば片付くはずなのに、なんでこんなテストごときにこだわるんだろう?
勉強ってそんなにやらなくちゃいけないこと?
勉強ってそんなにがんばらなくちゃいけないこと?
「ちょっと出よう」
肩を落とした葵はそう言って私の腕から手を離した。
見上げた顔は穏やかなものへ変わっていた。
「ね?」
念を押すみたいに笑う。
怒っているみたいだったのに、どうしてすぐに変われるんだろう?
それは葵が私と違うから。
私みたいに子供じゃないから。
大人な葵と子供な私。
立場の違いに歯がゆさだけが増す気がした。
「行こう」
差し伸べられる手に、その誘いに、うなずも拒否もできなかった。
葵は石みたいに固まったままの私の手を取って、そのまま部屋を出て行く。
やんわりとしたぬくもりに満ちた手に引かれて、黙ったまま階段を下りる。
どこに行くのかも、なにをしに出掛けるのかも葵は言わない。
だから私も聞けなかった。
でも握ったその手は優しくて、黙ったままの葵の背中を見つめた。
靴を履くときも。鍵を閉めるときも、葵はただ私の隣に立って見ているだけだった。
繋いだ手は離されることなく、私はまるで小さな子供みたいに葵に手を引かれ、彼の足の向くままに歩いていた。
「不安?」
不意にそんな言葉を投げられて、私は思わず頭を上げた。
見つめる先で葵の視線とぶつかる。
瞬間、首を左右に振っていた。
「すなおじゃないねえ、ヒナは」
そう言って葵は立ちどまる。
「目的地到着~!」
「え?」
葵の言う目的地に私は目を丸くする。
どこへ向かっていたかと思ったら……近所の公園だった。
土曜の公園ということもあって、公園内は子供と保護者だらけだ。
子供たちを自由に遊ばせながら、ベンチに座って話に花を咲かせている。
「なにするの?」
「昼間の公園ですることなんて一つしかないでしょ?」
昼間の公園ですることがまったく思い浮かばなくて質問する私ににやりと葵は笑ってみせた。
それから私の手を力強く引っ張って走り出す。
「ちょ……葵!」
ひとつしかないことってなに?
昼間の公園ですることってなに?
「ヒナ、しっかり走らないとブランコ乗れなくなる!」
ひとつだけ空いているブランコを指差して葵が笑った。
待って。
ブランコ?
もしかして、やることってブランコ?
6つあるうちの5つは小学生の女の子たちが立ちこぎしたり、靴投げしたりして遊んでいる。
その横に乗って一緒に遊ぶ気……なのだろうか?
――ちょっと待って! 私は高2だし。葵は……大人だし。小学生に混ざってブランコって頭おかしいって思われちゃうよ!
だけど葵はそんな輪に入ることに対してなんの抵抗もないらしく、驚いたように視線を向ける小学女子たちに向かってにっこりほほ笑みながら「借りるね」なんて、軽く言ってみせたのだ。
葵の笑みに小学生たちはクスッと小さく笑いながら「どうぞー」と返す。
「はい、座って」
「私が座るの?」
「そう、『私』が『座る』の」
にっこりと悪魔はほほ笑む。
この目に、この顔に、この笑顔にどうやっても、どうあっても、どうがんばっても逆らえない自分がいる。
大きなため息とともにしぶしぶ座る。
隣からはクスクスと笑う声さえ聞こえる。
私の背のほうに葵は立って、ブランコを大きく後ろに持ち上げた。
「ちゃんと捕まってろよ!」
そう言って葵の手がブランコのチェーンから離れると、私の体が前へと揺れる。
「それっ!」
戻る私の背を葵の大きな手が押し出す。
「しっかり漕げっ!」
声大きいし、恥ずかしいし。
「いいからやってみろ。『俺を信じて』」
最後の一言は私の心の声まで一瞬で黙らせて操ってしまう『魔法の言葉』。
そんなことを言われたらやるしかなくなって、葵の押しだすリズムとブランコの揺れ具合に合わせながら足を前へ後ろへと漕いでみる。
「いい調子!」
――ブランコで褒められる高2ってどうよ?
葵の勢いを貰ってさらに勢いづくブランコにいつの間にか私は夢中になっていた。
漕ぐ足がまっすぐ前に向けば空が近くなり、後ろに足を引っ込めれば、そこには優しくほほ笑む葵がいて。
なんだかそれが妙に嬉しくて、楽しくて――周りの目も、勉強も、葵の態度もなにもかもがなんかどうでもよくなっていた。
ただ撫でる風に、澄みきった青い空に、揺れるブランコに身をゆだねて笑い声をあげる私。
こんなに笑ってるのはいつぶりなんだろう?
最近はため息ばっかりだった。
悩んで、悩んで、悩んで、イライラばかりしていた。
いつも頭の中をいろんなことがグルグルしていて、すっきりなんてしなかった。
なのに……今はこんなにも楽しくて、清々しい。
どれくらい乗っていたのか。
ブランコを充分楽しんだ私は漕ぐのをやめた。
ゆっくりとブランコから勢いがなくなっていく。
遠くなる空。
近くなる葵。
足をつき、ブランコをとめる私の手にそっと大きな手が重なった。
見上げた空と私の顔の間に葵の顔がある。
長いまつ毛だなっていつも思う。
「お帰り」
にっこりとほほ笑んで葵は言った。
――なんで『お帰り』なの?
なんか『迎えに来た』お兄ちゃんみたい。
でも懐かしいかんじだ。
そういえば私がまだ小さいころ、こうやってここの公園で遊んでもらった気がする。
ブランコに乗って、まだ上手く漕げない私の背中を葵がさっきみたいに押してくれた。
遠い記憶。
あのころとなにひとつ変わらない笑顔がそこにある。
安心する。
――変わったのは誰なんだろう?
変わったのは私だけ……なんだろうか?
「あの……ブランコいいですか?」
遠慮がちにそう言われ、私も葵も声の掛けられたほうに顔を向けた。
幼稚園くらいかなと思える女の子が、お母さんの影に隠れるように恥ずかしそうにこちらを見ていた。
「どうぞ」
そうにっこりと笑った葵は私の手を引いてブランコを離れ、空いているベンチへ誘った。
先に葵が座り、『ここどうぞ』と言わんばかりにトントンと空いている隣を指定される。
周りをキョロキョロ見まわした後、私は葵の隣に間隔をあけて座る。
「誰かに見られたらまずい?」
そんなふうに声を掛けられて葵を見る。
淋しそうに笑う葵に、いつもと違う意味でドキドキする。
見られたらまずい相手がいるかと言えば……いるけれど。
「この間の子かなあ?」
クスッと笑う葵に、私は答えられなかった。
松永に見られて、どう思われても別に構わないけど。
でも……葵とふたりでいるこの時間を他の誰かに見つかりたくなかった。
ふたりだけの時間でいたい。
共有していたい。
なんとなくだけど。
「30cm」
「え?」
「だから30cm。ヒナと俺の今の距離」
そう言って葵は私たちの間にある空間を指した。
「ねえ、陽菜子」
弾かれたように顔を上げる私の顔のすぐ傍に葵の顔がある。
「この距離……なくしてもいい?」
ゆっくり近づいてくる葵にまた私は惹きつけられる。
長いまつ毛だと思って見てしまった。
そんな私の頬に形のいい爪を乗せた長い指が触れて、そっと包み込む。
甘いけれど、強い強い香り。
それから逃れられない私は『蝶』。
引き寄せる強烈な香りを放つ葵は『花』。
ゆっくりと落ちてくる葵の唇が私の唇をやんわりと塞ぐ。
昼間の公園のベンチで人の視線すら忘れてしまう甘いキスに、私はもう拒む言葉も力も失っていた。
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