近江の轍

藤瀬 慶久

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十二代 甚五郎の章

第96話 世界恐慌

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 1917年(大正六年) 一月  神奈川県 伊豆長岡 犬養毅別荘



「やあやあ、よく来て下さった」
「お招きにより参上しました。伊豆は良い所ですな」
 西川甚五郎は犬養毅に招かれ、伊豆長岡の別荘に訪問していた。
 甚五郎は別荘から見える景色に見とれていた。山から見下ろす海辺の景色は、どことなく故郷の滋賀県の光景を思い起こさせる。
 何とも心安らぐ景観だった。


 十二代目を継いだ甚五郎は、西川商店の各支店や銀行・八幡製糸工場などの経営を重役たちに任せ、自身は政治家としての活動を本格的に開始していた。
 父親の十一代目重威も既に亡くなっており、地元の後援を受ける形で父親の地盤を受け継いでいた。
 もっとも、重威が衆議院議員を務めたのに対し、甚五郎は貴族院議員として大正元年に選出され、本業はあくまでも商店主として政治活動だけに没頭する事はしなかった。


 応接室に通されてソファに腰かけた甚五郎は、出されたコーヒーを一口すすると「ほぉっ」と一息ついた。

「さて、かねてから申し上げていた通り、いよいよ内閣不信任案を出す事になった。
 次の総選挙は四月に実施される事になると思う。我ら国民党としても議席を増やす工夫をしなければならんところですが…」
「滋賀県については、三人の候補に声を掛けております。地方自治の為には犬養さん達に頑張ってもらわねばなりませんからな」
「ありがたい。様々な産業を抱える滋賀県が国民党の地盤となれば、産業界にも強力な楔を打ち込む事となりますからな」

 甚五郎は、貴族院では反政友会系の同成会に所属し、既存の藩閥政治に風穴を開けようとする犬養毅や江木翼とも深く親交を持った。
 第十三回衆議院総選挙では、滋賀県からは犬養毅の立憲国民党から三人の議員を送り込むべく、票固めに協力していた。

「その代わり、くれぐれも普通選挙制の導入。それと雇用環境の改善をよろしくお願いしますよ」
「それはお任せください。国民の格差を是正するのは我ら政治家の役目です。必ずやご期待に応えてみせましょう」

 犬養は深く頷くと、甚五郎と固く握手を交わした。


 大正時代初年の世界は第一次世界大戦の最中にあり、日本は日英同盟に基づいてアジア地域でイギリスの援護活動を行っていた。
 この年の十一月には連合国からの要請を受けて本格的にインド洋まで艦隊を派遣し、またアメリカと共に共産主義政権の樹立したソビエトを叩くためにシベリア出兵を行う。
 一方で戦争による軍拡費用を調達する為、世界各国は金本位制を離脱して正貨である金保有高以上に自国通貨を発行していた。
 日本が明治維新と西南戦争で行った『名目上は兌換紙幣でありながら実体では不換紙幣』という通貨が大量に市場に放出されることになった。

 明治初年の日本と同様、世界は時ならぬ好景気に沸いた。
 既に世界の富は世界が産出した金の総量を上回っており、金本位制下では通貨供給量が不足する事態となっていた。
 経済の血液であるカネが不足していたものが、戦争によってカネが大量に供給されて各産業が一気に息を吹き返した。
 戦争という多大な無駄遣いによる消費が、それらの産業の製品供給力を吸収し、企業はこの時代に大きな収益を得る。

 しかし、一方で資本主義の進展はその宿病とでも言うべき格差を拡大させる。
 好景気の波に乗れた者と乗れなかった者とを残酷なまでに分断し、景気の波に乗れない地主や小規模農家達を次々に没落させ、労働者階級へと変えていった。

 甚五郎は、これらの格差を是正しなければ真に豊かな日本にはならぬと考え、犬養毅に協力して普通選挙制の導入と労働者の雇用環境の改善を推進していった。
 三井においても、益田の後を継いだ団琢磨は現在の経団連の前身である日本工業倶楽部を設立し、初代理事長として日本の経済問題と雇用問題について政府に建議を度々行った。

 楽市楽座の商人達が目指した『皆が豊かに暮らせる世』は、資本主義の発展と格差の是正という相反する課題を今もなお抱え続け、時代ごとに形を変えながらも答えに近付く努力を続けていた。



 1920年(大正九年) 一月  東京府日本橋町 西川商店日本橋店



「兄さん…いえ、店主。本当にモスリンを半値で売り捌くのですか?仕入れ値を割ってしまいますが…」
「ああ、この不況は一筋縄ではいかない。幸い我が西川商店は蚊帳と畳表をほぼ独占している。だが、モスリンはまだまだ新しい商売だ。
 今のうちに損切りしてしまわなければ大きな損失を生むことになるぞ」

 西川商店では甚五郎と弟の西川謙三が、帳簿を前に難しい顔をしていた。
 西川謙三は十二代甚五郎の弟で、忙しい兄に変わって西川商店の東京支配人として事実上東京の西川を統括していた。

「しかし、今の所まだ西川商店は赤字を出していない。モスリンを損切りしてわざわざ赤字を出す事もないんじゃないですか?」
「いや、今やらねば取り返しがつかなくなるかもしれん。父上が言っていた松方さんの財政政策の頃とそっくりだ。この不況は長引くぞ」
「………わかりました。店主がそこまで仰るなら、従いましょう」

 謙三は不承不承だったが承知した。兄の店主に逆らう事は出来ない。


 第一次世界大戦が終結し、世界は金本位制に復帰するべく不換紙幣の回収に乗り出した。
 松方正義の行った『松方デフレ』の再現だ。

 益田孝は松方デフレ下で胃の中の物を吐き出す程に追い詰められたが、今度は世界の資本家がその重圧を味わう事となった。
 好景気から一転してデフレ不況へと転げ落ちた世界は恐慌を起こし、日本でも繊維業界を中心に大きな被害を出した。
 この大正九年の三~七月の五か月間での日本の破産件数二百八十五件のうち、約50%が繊維業界の破産だった。

 西川甚五郎は恐慌の発生を予見し、新たに取り扱いを始めていたモスリン生地を半値で売り捌くという英断を行った。
 西川商店ではこれを新聞で大々的に告知し、大安売りの当日には多数の客が日本橋店に詰めかけた。
 一日に数度シャッターを閉めたり、売台も壊されるほどの盛況ぶりを見せて西川のモスリン在庫は全て掃けた。
 次に仕入れるのは恐慌下の仕入れ値である為に半値以下で仕入れる事が出来、結果として西川商店には世界恐慌の影響はほとんどなかった。

 それどころかこの世界恐慌以来、西川のモスリンは柄が良くて安いという評判を取り、日本橋店のモスリン取扱高は東京一の額に上るようになる。
 恐慌を逆に商機へと変えた甚五郎の機転のすばらしさに、謙三を始めとした従業員もただただ驚くばかりだった。



 1923年(大正十二年) 九月五日  滋賀県蒲生郡八幡町 西川商店本店



 西川商店の本店には井狩勘三が駆け込んでいた。
 井狩は西川商店の東京京橋店に勤務する重役だったが、この九月一日に発生した関東大震災の中を本店まで報告の為に滋賀県に下っていた。

「井狩君、よく無事で戻って来た。東京はどんな状態だ?」
「東京・神奈川は壊滅的です。私はなんとか船に乗って静岡まで出て、そこから汽車で滋賀県まで戻れましたが、今も東京では地震により焼け出された人が多数残っています」
「そうか…」

 甚五郎は新聞で関東大震災の事は知っていたが、東京の新聞社が被災したために情報には当てにならない流言が多く、確かな情報を心待ちにしていた。

「東京の店員たちはどうなった?皆無事か?」
「…行方の分からない者も多く、また私が出てから火災が起こったと言う風聞も聞きました。正確な所は不明です」
「なんにせよ、よく戻って来た。疲れただろう。少し休むと良い」

 そう言って甚五郎は戻って来た井狩を風呂に入れ、暖かい食事を取らせて休ませた。
 甚五郎は井狩を下がらせた後すぐさま行動を開始した。

 京都・大阪・尾道・臼杵の各支店に連絡し、店の在庫品を全て東京に回させた。
 これから秋冬に向かう季節の中で、被災者には衣類や布団が不足することは目に見えていた。そのため、関西の各支店の在庫を徹底的に抜き取り、東京へと回させた。
 折しも西川貞二郎によって開発されていた缶詰事業は八幡町でも生産を続けており、食料品として缶詰も大量に船に乗せて出荷した。

 東京の西川商店ではいち早く店を再開し、関西から持ち下った商品を受け取るとすぐに販売を開始した。西川商店の店員は罹災から三カ月間、寸暇も置かずに働き続け、次々と到着した商品は瞬く間に売り切れた。

 江戸時代以来、大火に震災にと様々な災害に罹災してきた近江商人にとっては、災害時の行動も全て家伝に記載されて伝承されている。
 こういった行動は西川商店にとっては当然と言えた。
 甚五郎は大震災直後に全店員に布告を発した。
『震災は不可抗力にして人事の如何ともすべからずは言うに及ばず。一日も早く開店し、顧客に対しては罹災後の利便を図り、それを持って我が商店の信用力と実力を示すべし』

 被災した店員に対しては全国から寄せられたお見舞い品を金に換えて分配し、震災後の生活再建に充てさせた。


 この関東大震災は戦後恐慌からの立ち直りに苦慮していた日本をさらに追い詰めた。
 震災復興の財源には外債の発行を行うしかなかったが、この外債募集が難航した。
 モルガン商会やロスチャイルドによる外債引き受けでなんとか十億円の財源を確保したが、それらの金利を支払う為に日本はたちまちに金不足に陥ることになる。

 やがて昭和二年には金融恐慌からモラトリアムの発令に至り、銀行では取り付け騒ぎが頻発する。
 金融機関にカネが無くなれば、各種産業もカネの供給を受ける事ができずに倒産に追い込まれる。
 十五銀行や台湾銀行の破綻、それに伴う鈴木商会・高田商会の大型破産など、金不足によるデフレは日本の産業を徐々に圧迫していった。


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